~第二十五章~
~第二十五章~ 眼帯を外しさえすれば、全てが判る。この娘が、幼い頃に生き別れになった姉なのか、どうか。薔薇水晶は幾度も唾を呑み込みながら、震える指を雪華綺晶の眼帯に伸ばした。けれど、巧く掴めない。ここまで来て、何をやっているんだろう。ああ、もどかしい。つい、乱雑に剥ぎ取ろうとして、思わず雪華綺晶の額を引っ掻いてしまった。途端、カッ! と、雪華綺晶の左眼が見開かれる。彼女は鋭い眼差しで、薔薇水晶をジロリと睨み付けた。 「ひゃぁっ!」あまりの気迫に圧されて、薔薇水晶は尻餅を付いて、後ずさった。何の騒ぎだという風に、みんなの視線が彼女に注がれる。そして、彼女の隣で目を覚ましている雪華綺晶を目の当たりにして、全員に戦慄が走った。 「これは、なんの真似ですの? 捕虜にしたつもりなのでしょうか?」手足を縛られた雪華綺晶は、直立姿勢のまま、見えない糸に吊り上げられる様に起き上がった。得物を手に立ち上がった犬士たちを眺め回し、最後に薔薇水晶で視線を止める。当の薔薇水晶は、さながら蛇に睨まれた蛙のごとく、身を強張らせていた。 「貴女…………薔薇水晶……ですね?」 「あぅ……う……うん」 「皮肉な運命ですわ。貴女が犬士になっていたなんて」溜息混じりに呟いた雪華綺晶の表情は、しかし、妖しい笑みを湛えていた。金色の左眼が、狂気の輝きを増していく。 「でも、モノは考え様ですわね。どんな形であれ、再会できたのですから、 私の手で穢れを植え付けて上げましょう。 そうすれば、また……仲良く暮らせますわ。昔みたいに」雪華綺晶の髪が、すきま風が吹いた訳でもないのに、ざわざわと逆立った。彼女の背後から、真っ黒な双頭の魔犬が姿を現す。と同時に、雪華綺晶の縛めが、ぶちぶちと千切れ飛んだ。 「どうせですから、全員まとめて、相手して差し上げましょうか」 「随分と自信たっぷりだね。独りで、ボクたちに勝てると思っているのかい?」 「召還精霊だけで、私たちに勝負を挑むなんて、考え甘いわよぉ」召還精霊は、剣同体型精霊や防御装甲精霊と異なり、本人と同体化している。故に、雪華綺晶が気絶していたにも拘わらず、奪っておけなかったのだ。それに、もし召還されても水銀燈、蒼星石、翠星石、金糸雀の攻撃系精霊を駆使すれば、楽に撃退できると安易に考えていた節もあった。流石に、分の悪いことは、雪華綺晶とて承知している。獄狗に古刹の壁をブチ破らせると、ひらりと外に躍り出て、右手を天に翳した。彼女の右手に、黒い靄が何処からか集まってきて、棒状に凝結し始める。全員が注目する中で、それは鬼気迫る気配を宿した槍として具現化した。 「狭い室内ならともかく、機動力を活かせる森の中に出てしまえば、 私の方が有利ですわよ」 言って、雪華綺晶は、身軽な動作で獄狗の背に跨った。彼女を追って古刹から出てきた犬士たちに、槍の切っ先を向け、嘲笑する。 「この鬼槍『天骸』は、邪鬼の骸を元に鍛え上げられた、穢れの塊。 独り残らず、穢れた骸にしてあげましょう」 「それは勇ましいわね。けれど、貴女の場合は蛮勇に過ぎないわ」 「蛮勇かどうかは、実際に手合わせすれば判ること」俊敏な獄狗を駆った雪華綺晶の突撃は、かつて体験した事が無いほど強烈で、破壊の衝動に満ち溢れていた。雪華綺晶の槍を、辛うじて弾き返した水銀燈に、獄狗の牙が襲いかかる。 「くっ! 間に合わ……」重い突きを跳ね返す為に両脚を踏ん張っていたので、咄嗟には躱しきれない。だが、牙が彼女に届く寸前、蒼星石の斬撃と金糸雀の氷鹿蹟が、妨害に入った。氷鹿蹟の角は、思いの外、効果が見られる。それに比べて、蒼星石の煉飛火は威力不足だった。相性が悪い様だ。 「た、助かったわ。ありがとぉ、二人とも」 「お礼には及ばないかしら。それより、煉飛火が――」 「うん。あの精霊には……煉獄の炎は効果が薄いみたいだね」忌々しそうに、小さく舌打ちする蒼星石。真紅は、そんな彼女に変わって、前衛に出た。 「ならば、私の神剣で、斬り捨てるのみよ」 「何にしても、あいつの動きを止めないとダメねぇ」 「将を射んとせば、まず馬を射よ。兵法の基本かしら」 「それじゃあ、ボクと水銀燈が右の頚。金糸雀は左を頼んだよ」 「私と薔薇水晶は、正面から仕掛けるのだわ」手短に打ち合わせて、素早く陣形を整える。今まで一緒に戦ってきただけに、流石に息が合ったものだ。雪華綺晶を乗せた獄狗が、猛然と突撃してくる。水銀燈と蒼星石、金糸雀が、絶妙の呼吸で両側から挟撃した。けれど、雪華綺晶とて伊達や酔狂で四天王の看板を背負っている訳ではない。獄狗を跳躍させて、両翼からの挟撃を、易々と回避した。更に、正面に陣取った薔薇水晶たちの頭上を飛び越し、真紅の背後に着地する。――狙いは最初から、真紅ただ一人。 「貴女もしぶとい娘ですわね、真紅。ムカデの毒で、死ねば良かったのに」 「お生憎さま。そう簡単には殺されてあげないわ」 「……ならば、試してみましょうか」雪華綺晶の槍が、無防備に晒された真紅の背中を狙って突き出された。予測を遙かに上回る速さ。法理衣の起動が間に合わない。 「ダメだよ、お姉ちゃんっ!!」穂先が真紅を貫くより僅かに早く、薔薇水晶は二人の間に割り込んでいた。圧鎧を起動していたお陰で、槍は彼女の脇腹を痛打しただけで済んだ。しかし、それだって並大抵の衝撃ではない。薔薇水晶は息を詰まらせ、脇腹を手で押さえながら、吐き気を堪えていた。反撃に移る気力を、どれだけ振り絞ろうとも、身体が言う事を聞いてくれない。 「よくも邪魔してくれましたわねっ! このっ!」 「あうっ!」槍の柄で力任せに左頬を殴り飛ばされ、薔薇水晶はもんどり打って倒れた。その拍子に外れたのだろう。彼女の洒落た眼帯が、宙に舞った。苦痛に呻きながら、薔薇水晶は顔を上げ、雪華綺晶を睨め付けた。今まで眼帯で隠し続けてきた彼女の左眼は、真っ赤な色をしていた。けれど、翠星石や蒼星石みたいな、美しく澄んだ緋色ではない。血液を彷彿させる、濁った赤。しかも、結膜炎なんて生易しいものではない。まるで、ウサギの瞳の様な……赤色だった。 「薔薇水晶! 貴女、その眼は狗神の――」真紅の声に、薔薇水晶は答えようとしない。ただ黙って眼帯を掴むと、素早く左眼を覆い隠して小太刀を引き抜いた。彼女の右眼に宿るのは、僅かな悲しみと、静かな怒りの炎。この人は、自分の知っている姉ではない。きっと、心まで穢れきってしまったのだ。ならば、もう迷わない。みんなを護るため、そして姉の魂を救うために……私が、この手で斬る! 「……本気で行くよ」突進する薔薇水晶を目がけて、獄狗の牙と、前足が襲う。牙は言うに及ばず、前足の鉤爪も、強烈な殺傷能力を秘めている。装甲精霊に護られているとはいえ、油断は禁物だった。他の犬士も加勢して、雪華綺晶の攻撃を分散させる。これだけの混戦になると、冥鳴や氷鹿蹟のような攻撃精霊は、使いにくい。同士討ちの危険が有るからだ。けれど、そうなると今度は、決定力が足りなかった。こうなれば、不意を衝いて獄狗の脚を止めるしかない。それには、彼女の協力が必要不可欠となる。翠星石は隙を見て古刹に駆け込み、部屋の片隅で怯えている雛苺の肩を掴んだ。 「しっかりするです、雛苺っ!」 「で、でもっ……ヒナ、こ、怖いのぉっ!」 「誰だって、怖いですっ! 私だって、今すぐにでも逃げ出してぇですよ! でも、みんな恐怖に堪えて、必死に戦っているですっ」 「…………」 「蒼星石や真紅、銀ちゃんは、敵と肉迫して斬り合っているですよ。 斬られたら痛いのに……死ぬかも知れないのにです。なぜか解るですか?」 「うゅ……そ、それは?」 「みんなを護るためですっ! 結菱の爺さんや、雛苺を護るためですっ! お前は、護られているだけで良いですか? 自分の力で、みんなを護りたいとは思わねぇですかっ?」翠星石は、そこまで言うと、口を閉ざして雛苺の目を見つめた。いつになく真剣な彼女の眼差しに、雛苺は震える唇を引き結んで、頷く。そして、決然と言い放った。 「……思うの。ヒナも、みんなを……護りたいのっ!」力を宿した瞳を見て、翠星石は口元を僅かに綻ばせ、雛苺の頭をポンと叩いた。 「それでこそ、私の妹です。感心感心、ですぅ」 「うぃ? でもでも、ヒナがお姉さんかも知れないのー」 「そ・れ・は・絶対に、ねぇですっ!」 「うゅぅ~」 「くだらねぇ話は、これくらいにするです。いいですか、雛苺。 これから教える作戦を、確実に、そのカラッポ頭に叩き込んどけです!」さりげなく酷いことを言いつつ、翠星石は雛苺に攻撃の手順を教え始めた。 古刹の外では、相変わらず、真紅たちが苦戦を強いられている。ただでさえ俊敏な獄狗に、木々の間を跳梁跋扈されては捕捉しきれない。なんとか黒い旋風に打撃を加えようとするも、水銀燈や蒼星石の剣撃ですら、すんなりと躱されてしまう。しかし、森の中という状況で有利になるのは、雪華綺晶だけではなかった。 「始めるですよ、雛苺」 「うぃ。準備は出来てるのっ」 「じゃあ、行くですっ!」翠星石が、黒い旋風めがけて走り出す。その背後で、雛苺は発動型浄化精霊を起動した。 「お願いなの…………縁辺流ぅ!」雛苺も精霊の制御に慣れてきたらしく、縁辺流は迅速に目的の場所に移動した。周囲一帯に、清浄なる白い光が振り撒かれる。遮る物の無い空中で、光の直撃を浴びて、雪華綺晶と獄狗は苦しげに呻いた。目が眩んだのか、地面に降り立ち、束の間、動きを止める。その瞬間を狙い澄まし、翠星石が特殊攻撃精霊を起動した。 「睡鳥夢っ! さあ、真紅っ! 今の内に、ヤツを斬るですっ!」 「っ! く……小賢しい真似を――」睡鳥夢によって成長を促進された木々の枝が、雪華綺晶と獄狗を拘束した。蜘蛛の巣状に伸びた木々の枝を潜り、または飛び越えて、真紅は突き進んだ。雪華綺晶と、その精霊が身動き取れなくなっているのは、僅かの間だけだろう。雛苺と翠星石が作り出してくれた、この好機。みすみす見逃すつもりは無い。この一撃で終わらせるつもりで、真紅は斬りかかった。 「穢れに染まりきった哀れな存在よ。滅びなさいっ!」 「こんな……ところで……」頭上に振りかぶった神剣を、真紅は、躊躇なく振り下ろす。雪華綺晶は、両腕を絡め取った樹木の枝を、渾身の力で引き千切った。そして、繰り出された真紅の斬撃を、鬼槍『天骸』の柄で受け止める。 「負けませんわっ!」 「往生際が悪いわねっ!」力と力が、ぶつかり合い、鬩ぎ合う。鬼槍『天骸』の柄が、嫌な音を立てた。今にも砕けそうに軋んでいる。このままでは折れそうだが、と言って、退く事も出来ない。雪華綺晶の額に、じわり……と、脂汗が滲み始めた。めきっ!ついに、天骸の柄が爆ぜた。拙い、折れる!雪華綺晶は咄嗟に、両腕で槍を押し戻した。火事場の馬鹿力、というヤツだろうか。力任せに圧されて、真紅は足場にしていた睡鳥夢の枝から、放り出された。けれど、その一押しで鬼槍『天骸』の耐久力も限界を超えてしまった。槍の柄が砕けただけだと言うのに、雷鳴の如き凄まじい轟音が鳴り響いた。耳をつんざく爆音に、誰もが行動不能に陥る。その影響は、当然の帰結ながら、槍を手にしていた雪華綺晶が最も強く受ける事となった。最初に動いたのは、真紅と、薔薇水晶。防御精霊に護られていた分、他の者より衝撃が軽かったのだろう。 「……退いて、真紅」薔薇水晶は、併走する真紅に声をかけて、彼女を脇へ突き飛ばした。突然の事に不意を衝かれ、真紅は足を縺れさせて、小さな悲鳴と共に転倒した。そのまま走り去る薔薇水晶の背中を、真紅の声が追いかける。 「薔薇水晶、何のつもりっ!」 「決着は……私の手で付ける。誰にも…………邪魔は、させない!」獄狗の前で跳躍する薔薇水晶。右手に握り締めた小太刀『焔』を、躊躇なく振り下ろした。狙いは、雪華綺晶の首筋――けれど、薔薇水晶の刃は、眼前の敵に届かなかった。雪華綺晶が、真っ二つに折れた槍の片方で、小太刀を受け止めていたのだ。 「うふふっ……その程度の実力で、私の頸を狙うなど、笑止千万ですわ」薔薇水晶は即座に左手の『樹』を振ったが、それも易々と止められてしまう。得物を折られたことが勿怪の幸いになるとは、なんという皮肉だろうか。雪華綺晶は、薔薇水晶に向けて、小馬鹿にするような薄ら笑いを浮かべた。実際、侮辱しているのだろう。その態度にカチン! ときた薔薇水晶は―― 「……まだ、だよ」左足を振り抜き、雪華綺晶の横っ面を思いっ切り蹴り飛ばした。薔薇水晶の爪先が、彼女の右頬に食い込む。その拍子に――意図していなかったが――雪華綺晶の眼帯をもぎ取っていた。 「さっきのお返し。……ざまみろ」 「くっ! 小癪な真似をっ!」雪華綺晶は、即座に向き直って、薔薇水晶を睨み付けた。その右眼は……。 「なっ!? なんなの、それ?!」 薔薇水晶は愕然としつつも、慌てて飛び退き、着地した。その周りに、先程の衝撃から回復した犬士たちと、結菱老人が集う。そして、雪華綺晶の右眼を見た誰もが、驚愕と当惑の声を上げた。 「あれは…………穢れの……」 「間違いない。あれは怨嗟の血が染み込み、穢れた地に咲く寄生植物だ」雪華綺晶の右眼からは、鮮血の様に赤い、一本の薔薇が伸びていた。花の中央に在るのは、雄しべや雌しべではなく、鋭い牙の生え揃った小さな口。それは蛇の様に細い茎をうねらせ、歯を鳴らして、真紅たちを威嚇していた。 =第二十六章につづく=
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