地球圏最大の人口と経済力を誇り、大企業ジオ・マトリクスが本社を構える都市、アイザック・シティ。世界の中心と呼ばれるに相応しい繁栄を見せるこの地にて、自由の象徴と管理の執行者という、その存在意義からして相容れないアイラとナインボールの戦闘は、いつ果てるとも知れず続いていた。
心を持たない機械であるが故に混乱を持ち合わせないナインボールは、奇襲と心理的誘導を武器とするアイラにとって天敵と言える相手である。彼女がいかなる奇策を弄しようと、赤いACは微塵も動揺せずにいなしてしまう。
また、五体を駆使して理外の挙動を実現するアイラは、記録にない現象を処理出来ないナインボールにとって天敵と言える相手である。常識的な操縦法ならば回避不能な状況に追い詰めても、蒼いACは新型の機能を組み合わせて奇抜な操作を編み出し切り抜けてしまう。
両者の特性が互いの長所を相殺する以上、その活かし合い潰し合いである戦術は意味を成さず、勝敗の行方は純粋な力比べに委ねられる。それも最新技術の結晶たるシルフィと旧世代のACであるナインボールの性能差を、一対三という数的差異が打ち消すことで均衡し、戦況は完全な膠着状態に陥っていた。
こうなると不利はアイラにある。いかに彼女が強靭な持久力を誇ろうとも、人間である限り疲労は避けられず、半永久的な活動時間を持つナインボールより先に限界は訪れる。まして彼女が三倍の敵と五分に渡り合えているのは極度の集中を保っているためで、緊張の糸が途切れるまでの時間は長く見積もって三十分程度だろう。
詰まるところ、この二十分から三十分の猶予期間に状況を覆さない限り、アイラに明日はないのである。
「相変わらず無茶言ってくれるよね」
アイラはシルフィを操作する手、いや四肢を片時も休めないままに、この状況を生み出した黒幕に向けてそう毒づいた。彼女を仕留めるべく策を練ったリベンジャーでさえ用意した手駒はAC二機だと言うのに、三機、それもかつて最強の名を冠したナインボールを並べるとは、この計画を立てた人間はずいぶんと徹底した完全主義者のようだ。
互いの隙を補完しあう、機械的な連携をかわしながら彼女は打開策を練る。常識的に考えれば三機のACを前に太刀打ちできる者などいるはずもないが、逆転の目が全くないわけでもなかった。OBや補助ブースターと言った相手に無い機能を突破口にすればムーンライトの射程まで近づくことは可能だろう。相手は旧式のACなのだから当たりさえすれば一撃で屠ることが出来る。
だが、現実的な問題として高速展開するACを相手にブレードを命中させるなど至難の業である。加えて、先述の通りナインボールはそもそも動揺という概念そのものを知らないので駆け引きが通用しない。二重三重に布石を重ねて敵の行動を縛る、アイラの十八番が使えないのだ。博打は重圧に負けた賭け手に判断のミスが生じるからこそ確率を覆す逆転劇が起こるのであって、失敗しない相手に勝算の薄い攻撃を仕掛けたところで自殺行為と変わりない。
これまで記してきた戦闘が示す通りアイラは意図的に無謀な行動を選ぶことも多いが、それも失敗しても取り返すことの出来るマージンを残した上での選択である。今回のように、外せば死に直結する状況下において確率の低い方法を敢えて選ぶほど、彼女は軽はずみでもなければ死にたがりでもなかった。
「方法はある」
アイラは言い聞かせるように、一人呟く。考えるほどに絶望的な状況ではあるが、彼女は諦めていなかった。
この事態を招いた元凶には見当がついている。彼が何を企んでいるのかまでは頭を回す余裕がないが、その顔面を一発殴ってやるまでは死ぬことなど許されない。
決意を新たにしたところ、彼女は気付いた。本当に向き合うべき相手は目の前のナインボールなどではなく、その奥でこの戦いを眺めている何者かであることに。
アイラの全身に稲妻が走る。敵がナインボールでないならば、機械でなく人と人の戦いであるならば、そこは彼女の独壇場だ。
「だったら、やってやろうじゃない」
これで道は拓けた。あとは覚悟を決めるのみ。
三機のナインボールはシルフィを中心に据えて円を描く形でこれを包囲した。
AC同士の射撃戦では、一部の特殊な兵装を除いてFCSの働きにより弾道は真っ直ぐに自機と敵機を結ぶため、運動方向が敵機に向かって直角に近いほど回避は容易となる。被弾を避けるために要する角度は弾速や機体の機動性によってまちまちであるが、均等に並んだ三機のACによって回避方向の制限されたシルフィは、アイラほど精密な感覚を持ってせずとも明らかに不可避の状況にあると見て取れた。
だからナインボールが同時にパルスライフルを放つと、アイラは上方に逃れた。それ以外にかわす方法はなく、当然ナインボールも予測していた展開で、三機が寸分違わぬ動作でシルフィを撃ち落とすべくグレネードの砲身を頭上に向け、全くの同時に発射した。
レイヴンズ・ネストの尖兵たるナインボールにはACのあらゆる挙動が記憶されている。ナインボールの計算では、この条件下で三発のグレネード弾をかわすことの出来る機体は存在しないはずだった。
しかしナインボールのメモリに記録されているのはネストが管理していたAC、大深度戦争期に存在した機体に限られる。よって当時に存在しなかった機能は予測することが出来ない。
ナインボールは絶対に計算を外さない。だが前提条件が不十分である以上、全ての計算は意味を失くすことになる。
三発のグレネード弾は空中で衝突し爆発したが、爆心地にターゲットであるシルフィの姿はない。アイラは宙に舞い上がると、グレネード弾の放たれた音を合図に両肩の補助ブースターを作動。急降下を果たし、敵の収束砲火を掻い潜った。
ナインボールたちはグレネード砲の反動を受け流すために一時的な機能停止状態に陥る。脚部にかかる衝撃という点では、OBに匹敵する高速で着地したシルフィも同様であるが、同程度の負担であれば緩衝性能に勝る新型の方が早く立ち直るが道理であった。
アイラは間髪入れずにブーストを点火させ、未だ体勢の整わないナインボールに接近する。急上昇に急降下、再ブーストと立て続けに入力された命令は、市販のパーツならば空中分解するほどの負担を機体に強いるが、接合部の溶接を初めチームのスタッフたちの手で入念なカスタマイズを施されたシルフィはそれに耐えて見せた。
高速で突進をかけながらムーンライトの刃を展開する。ACの装甲ですら易々と切り裂く兵器が高速で迫って来るのだから、その精神的圧力は尋常なものではないだろう。相応の経験を積んだレイヴンですら対応を間違えてもおかしくはない。
しかしナインボールは決してミスを犯さない。もし圧力に負けて安全を確保しようと距離を取ろうとすれば、自機をはるかに凌ぐスピードで接近してくる敵は一気に詰め寄り、その一閃をもらうことになる。が、ナインボールは身を引こうとも逸らそうともせず、その場に足を止めたまま、グレネード砲の反動で硬直した機能が回復するのを待った。
第二弾を放つべく砲身を目の前に迫り来る蒼い機体に向けた時には、両者の間合いは10mも置かない距離まで接近しており、今まさにシルフィが刃を振るえばナインボールを両断することが位置にあった。それはFCSがターゲットを認識せずとも真っ直ぐに砲撃を見舞うだけで確実に命中する位置でもあった。
刹那のタイミングが命運を分けるこの攻防で、勝利を掴んだのはどちらの機体か。その答えは永久に出ないだろう。何故なら否応なく露となるはずの結果は、他でもないアイラの手によって回避されてしまったのだから。
交錯する寸前、シルフィはムーンライトを伏せて宙へ舞った。ブースターを用いた上昇ではなく、地面を蹴った反動と膝の屈伸運動で跳ね上がる跳躍であった。
ナインボールの左肩ではグレネード弾が既に砲身を滑り出しており、中断は効かなかった。いや、例え止めることが出来たとしても、そのような選択を彼が取るはずもない。脚部の運動を推進力に用いた跳躍はブースターのそれよりも速い上昇速度を生むが、それも額がぶつかるほどの密着した距離で発射態勢に入っていた火器から逃れるには足りない。ただ被弾する箇所が頭部から腹部もしくは脚部の下半身へと移っただけだった。
グレネード弾は正面にあった蒼く輝く両足に命中し、観る者の視界を奪う光と炎を撒き散らしながら炸裂した。粉塵の混じった黒い煙が濛々と立ちこめ、それが薄れていくと、中から現れたのはグレネード砲の反動と爆発の衝撃に押されて転倒しているナインボールと、両足を失い両断された腹部から火花を上げながら崩れ落ちるブルーバード・シルフィの姿だった。
彼らの対応は迅速だった。
シルフィの戦闘不能が確認されると、東西南北に位置する扉が一斉に開き、十機を越えるACが雪崩れ込んできた。白塗りのACは皆一様に同じ武装を取る逆関節型の機体で、第二世代ならではの安定性を持った挙動で左右に体を揺らしながら三手に分かれると、それぞれがナインボールを取り囲み一斉に襲い掛かった。
数的優位がどれほどの有利を生むか、アイラとナインボールの戦闘を省みれば説明するまでもないだろう。しかも彼らは一人一人が現役のレイヴンに匹敵する手練で、ACの性能も高水準で安定していた。
数分の戦闘が繰り広げられた後にナインボールは捻じ伏せられ、その間に白いAC側の受けた被害はわずか二機であった。
退却という選択肢を知らないナインボールはなおも抵抗しようと体を揺らしたりブーストをふかして逃れようとするが、馬力の差は如何とも覆しようがなく、四肢を押さえ込まれ身動きを封じられる。
一見不規則な、しかしその実統率の取れた編隊を指揮していたのは、北門より遅れて現れた二脚型のACである。他の機体がジオ・マトリクスの製品に見られる滑らかで有機的なフォルムを持っているのに対し、それは市販のどの製品とも一致しないパーツで構成され、さらには首や肘と言ったACの急所である結合部を鋭利な突起物で覆う、甲殻類を連想させる異質な外観を取っていた。白に銀を混ぜたカラーリングは純白の機体に囲まれると存在感を強調し、一目で指揮官機と見て取れる。そして肩部には所属を示すエムブレムの代わりに、現存するあらゆる書体とも異なる文字列が、エメラルドグリーンに光る塗料で描かれていた。
その右手には本体の半分ほどもあるレーザーライフルが握られており、彼がトリガーを引くと熱量の集約された青白い一閃がナインボールの胸板に穴を空けた。一機、また一機と、音も無く淡々と死に至らしめるその姿は、グレネード砲のように爆音を響かせる派手さこそないものの、観る者に有無を言わせぬ冷たい迫力を備えていた。
三機のナインボールが沈黙すると、白い雑兵たちは指揮官機の指示に従い敗北した者たち、すなわちリベンジャー、ヴァッハフント、そしてアイラの安否を確認すべく鉄の屍の元へと散って行った。一方、白銀のリーダーは舞台の中央、観客たちの視線が最も集まる地点に移動すると、彼を目にする全ての者に向けて声をあげた。
「国家、企業、そしてレイヴン、数多の戦火に携わる者たちよ、私の言葉を聞いてほしい。いや、聞かざるを得ないはずだ。たった今、自由の元に戦場を駆け抜ける若き英雄を蹂躙した、悪魔の復活を目にした者ならば!」
彼の言葉は外部スピーカーを通してアリーナの観客たち全員の耳に届いた。観客は知らないが、それは会場だけでなくこの戦いを放送していた先にも乗るよう処理されている。つまり彼は運営側と協力もしくは指示している人間であると受け取れた。
「人々よ、私の言葉を聞き、そして認めよ! 我々は再び戦う時が来たことを!!」
その口調はどこか古めかしく、演技がかっていた。少年を思わせる薄く若々しい声に乗せられたそれは、平坦で無機質な情報の伝達のみを目的とする現代の言葉が持つ意義とは対照的に、ひどく感情的で抑揚が激しく、今や廃れた物語の語り部のように、聞く者の理解よりも共感を煽っていたのである。
「私はかつて反ネストを掲げ、あのセッツ・ルークスカイと共にレイヴンズ・ネストの支配と戦ったレイヴン、名をアリス・シュルフと言う! 」
なお煙をあげるブルーバード・シルフィと、眠るように機能を停止させたナインボールたちを背景に、アリスの演説は世界に向けて発信された。
アリスの語る内容は、レイヴンに関わる裏の歴史を知らない者にとってはセンセーショナルな刺激に満ちていた。
秩序の管理と人類の再生を目的とするレイヴンズ・ネストやその執行者であるナインボールの正体を明かすことを皮切りに、軍事力の調整を目的にACを代表とする多くの技術提供が存在し、ムラクモ・ミレニアムのように現存する大企業の多くは管理者と癒着してそれらの恩恵を独占することで発展した企業であることや、その後継者であるジオ・マトリクスでは今なお禁じられた研究が続けられていることまでも暴露し、その証拠を確保しているとまで言ってのけた。
初めこそショービジネスにありがちな演出の一環として、どこか遠くの世界で起こっている出来事のように暢気に構えていた者たちも、現代随一の企業名が話にあがり、あまつさえその違法性を指摘する展開になると腰を上げて食いつくようになった。AC産業に携わる事業主は話の矛先によっては経営方針を大きく変える必要が出てくるし、経済市場では気の早い投資家たちが演説の落としどころを予測して売り買いを始めたために地震のような揺れが生じていた。
もちろんこうした混乱はアリスの意図した結果である。歴史から姿を消し、既に物語上の存在になりつつあるナインボールを話にあげたところで馬耳東風に聞き流される可能性が高かったため、ジオ・マトリクスという現代に生きる者が避けては通れない名前を使うことで、地球上、いや火星も含めた全人類を同じ舞台に立たせたのだ。
ジオ・マトリクスに激震が走るとなれば、我が身にも何らかの影響が及ぶことは間違いない。人々は身の振り方を定めなければならないが、確かな情報は今のところアリスの演説の他にはなく、故に突如として現れたこの語り部の言葉は確かな影響力を持って聞き入れられることになった。
「確かにネストは死んだ。しかしそれと同様の管理システムは地球上の各地に現存しており、かつてのムラクモのようにその恩恵に与ろうとする者が現れこれを目覚めさせれば、無数のナインボールと共にネストは蘇る。そうなれば世界は二十五年前の状態に戻されるだろう」
アリスは自らの声が全世界に浸透していくのを実感していた。今、時代は音を立てて動き出そうとしている。二十五年もの間、命を賭して積み重ねてきた努力の集大成がここに成立しようとしているのだ。
「この地、アイザック・シティにて結ばれた条約によって取り戻した秩序が再び乱れることを恐れ、地球政府は反ネスト派の最たる企業であったプログテックに監視役の提供を依頼した。それが我々だ」
また、彼らが強化人間を初め禁じられたネストの技術を用いる企業への制裁も担当していることを告げ、巷で『旧世代の亡霊』と呼ばれている組織と同一であることを打ち明けると、これを正式な名称とすることを宣言した。
「我々『旧世代の亡霊』は火星開拓に活気付く人々の裏で、ネストの残党を狩り続けた。設立から数えれば、制裁を加えた対象は軽く三桁を超えるだろう。しかし!」
アリスは声を荒げ、背後に眠る赤い残骸に右肩に積んだミサイルランチャーを向けると、12門の砲身を一斉に開放する。銀色に光る砲台…セッツより譲り受けた彼の宝物から解き放たれた弾丸が描く十二条の軌道は、既に物言わぬ死体と化したナインボールに集結すると断続的な爆発を引き起こし、機体を黒い塵に変えた。
「奴らはこうして現れた!!」
憎しみを込めた恫喝には、その戦闘スタイルと同じように有無を言わせぬ迫力があった。いや、そのように演じていた。スカイウォーカーに記されている通り、彼は一度廃れた精神を虚飾で支えているが故に、己を飾ることに天才的だったのである。
そして、彼は決定的な一言を口にする。
「我々の目を掻い潜り、ネストを蘇らせたのが何者の仕業かはわからない。だが、『旧世代の亡霊』は必ず正体を突き止め、ネスト共々葬って見せる! そのために表舞台に姿を現したのだ!!」
それは言葉を額面通りに受け取れば宣戦布告であった。しかし、この宣言には重大な要素が抜けている。布告する相手の存在である。
アリスはネストと共に、ネストを目覚めさせた何者かをも葬ると言い切った。だが、その正体は不明であり容疑者は無数。そして彼らは政府の定める法から外れた破壊活動を許された、言ってみれば公的なテロリストである。
不特定多数の全存在に対する開戦とは、これまでネストに関わる者に制限されていた無法な調査と破壊を、全容疑者、すなわち全世界に向けることを意味する。地球政府の公認の下、制限のない武力行使を許された武装集団が台頭することになるわけだ。
もし人類が彼らの活動を許し、その意図に基づく武力介入を認めるならば、それはネストとナインボールに取って代わる新たな支配階級が誕生することに他ならない。
無論のこと、地球上には彼らの十倍を越えるレイヴンが存在しており、『旧世代の亡霊』がいかなる戦力を保有していようとも世界を相手に戦える道理などない。しかし彼らには政府という最大の後任者がついており、反ネストという大義の下、あらゆる企業、あらゆる人間に協力を求めることが出来る立場にある。
活動が拡大し、彼らの権限が高まればいずれは自らの首を絞めることになりかねないので、全ての戦力保有者が政府の要請に応えるわけではないだろうが、ネストに取り入ったムラクモのように巨大組織のお零れに与ろうとする者は少なくないだろう。
そうなれば世界は協力者と非協力者に二分され、新たな対立構造へと発展する。地球政府の打ち出したこの新構造を、アリスは宣言したわけだ。これは事実上ネストと反ネスト派に分裂した二十五年前の状態と何ら変わることはないが、実のところそれこそが『旧世代の亡霊』の目指す終着点なのである。
アリスは布告を終えると、最後に協力を根回ししておいた数社の有力企業の名を挙げて結びとした。通信を切って息を吐く。既に政府やプログテックを初めとする協力者は、戦力をかき集めるために動き始めているだろう。他の企業も自分の言葉が届き次第、身の振り方を定めるはずだ。
賽は投げられた、もう後戻りは出来ない。
この瞬間を生み出すために重ねてきた年月は彼をしても軽い物ではなく、重荷を下ろした解放感に、思わず緊張の糸を解いてしまった。アリーナの運営は事前に味方へと取り込んでいる。この場に敵など現れるはずもなく、多少気を緩めようともそれが致命傷になるなどありえないだろう。
だが彼は忘れていた。そんなはずがない、ありえない、当然の憶測を逆手に取り希望と絶望を逆転させる専門家が、この場にただ一人残されていたことに。
「隊長!」
部下の声がアリスを現実に引き戻した。脳内の神経に一瞬にして電流が走り、五感の受信する情報を認識させる。異変が起きていたのは視覚、聴覚、触覚の三つだった。
モニターには眼前まで迫った蒼いACの姿があり、
「アリス!!」
地獄の釜から汲み上げたような憤怒の色に彩られながらもなお美しさを保つ声が届き、
「アイラ!?」
OBの圧倒的な出力を持ってアリーナの壁面に押し込まれ、白銀のACが軋みをあげる感触が、肌を通して伝わってきた。
アイラ・ルークスカイは健在だった。ミッションが終了し、戦闘モードを切る瞬間はどんなレイヴンでも無意識に息を抜いてしまう。元レイヴンのアリスも例外ではなく、その一瞬を狙いすまして、彼女は雑兵を振り切り特攻を仕掛けたのである。
策はナインボールに対し敗北を選んだことから始まっていた。元々勝ち目の薄い戦いだ。黒幕がアリスならば、アイラを重宝している彼がここまで育て上げた英雄を見殺しにするなど考えられず、勝敗がつけば即座に救援が入ると彼女は踏んだ。ならば無理に勝ちを拾おうとするよりも、重傷を負わない程度にやられて見せ、戦力を引きずり出すことを選んだのである。
しかし、とアイラは思う。よりによって自分の敗北を出汁に反ネストの旗を掲げるとは馬鹿げた話だ。確かにナインブレイカーの娘が無残にやられればナインボール復活のアピールにはなるだろう。だが、急展開を見せる事態に流されて多くの者が見過ごしているだろうが、そもそもアリーナにナインボールを呼びつけたのは誰なのか? わざわざ対ネスト用の戦力まで用意して演説の準備を進めているのだから、偶然で済ませられるはずもない。ナインボールを呼べるのはナインボールの所在を知っている者だけ、つまりは地球政府と『旧世代の亡霊』引いてはプログテックの自作自演と考えて間違いなかった。
こんな単純な図式を隠し通せるはずもないだろうが、おそらくは本人も、そして第三者たちもそんなことはどうでも良いのだろう。企業は自社の利益を求めて動き、そのために強大な権力の下につく。いかに下らない茶番であろうと、世界中の注目が集まる中で力を誇示さえ出来れば、あとは正しい合理性に従い事は進むのだ。
シルフィに押し込まれ白銀のACは身動きを封じられていたが、コアをぶつけて正面から押されているだけなので両腕は自由が利く。ブレードでシルフィを切って落とせばそれで仕舞いだろう。しかし、それをやっては以後アイラを完全に敵に回すことになる。彼女とチーム・ルークスカイにはまだやってもらわなければならない役割が残っており、こんなところで手を切るわけにはいかなかった。
「説得するしかないか」
目的のために彼女の命を危険に晒したのは確かだが、見捨てるつもりはなかったし現にこうして救って見せた。こちらに敵対する意志はないのだから、正しい損得勘定を弾き出せる相手ならば和解の可能性は十分に残されているはずだ。
そして、アイラは間違いなくそれを出来る人間だった。
「アイラ、聞いてくれ」
アリスは通信を開いて呼びかける。だが、
「うるさい」
アイラはそれを一蹴した。まさかの拒絶にアリスは絶句するが、彼女は全く意に介さずにOBを続行させたままコックピットの扉を開け、操縦席から姿を出した。シルフィのコアの一部が前方に倒れる形で開くと、躊躇うことなく白銀のACに飛び移る。地上数m、落ちれば軽症では済まない高さで、いつ動き出すとも知れない敵機に片手で掴まってそちらのコックピットも開けようとする。
アリスはそれを呆然と眺めていることしか出来なかった。これまで彼女の無謀を目にしてきた者のように、想定外の行動に驚いて反応する術を失ったわけではない。彼は知っていたのだ。殺意を剥き出しに襲い掛かってくる敵を前に、抵抗を放棄して自ら砲火に身を晒す者を。そしてAC同士の体をぶつけ、直接敵機へと飛び移る荒業をやってのける狂人の名を知っていた。
彼女は確かに彼を継いでいた。間違いなく、アイラ・ルークスカイはセッツ・ルークスカイの後継者だった。この奇跡を目の当たりにして、アリスが目を離せるはずもない。
やがてアイラはスイッチを発見して、白銀のACに乗り込んでくる。
アリスが自ら扉を開けてそれを迎え入れた。そこにはOBの熱風を受けて長い黒髪をたなびかせる女の姿があった。ACに乗り込んでいたというのに相変わらずの薄着で、肌の露出した部分にはベルトを外して操縦した際にぶつけたのか痣がいくつも出来ていたし、ブースターから吐き出された煤で汚れていたが、青白い炎を後光として纏い、頬に流れる汗の玉を輝かせる姿は、この上なく美しかった。
「アンタも色々あるんだろうけどさ」
彼女は左手で髪を払いながらアリスの被ったヘルメットを外した。そうして露になった彼の顔をじっと覗き込んで、
「一発殴るって決めちゃったから」
と、言うとにっと笑って見せた。
「ああ、そうか」
一片の悪意も感じられないその表情を見て、アリスは思い出した。アイラとは、こういう人間だったと。
彼女は今回の事件の真相を理解している。地球政府と『旧世代の亡霊』の目的も大方は勘付いているだろう。全てを把握しながら、何事もなかったように掃き捨てるのだ。
アイラにとって重要なのは自分の下した決定のみ。ヴァッハフントと戦うと決めたからアリーナにやって来て、邪魔なナインボールから守ってやることにした。それが果たせなかったからせめてナインボールをけしかけた黒幕を探し出して殴ってやることにした。その結果がどうなろうと、ましてやその理由など、最初から興味がないのだ。
「仕方ないな」
アリスが答えるとアイラは掌テイを彼の顎に見舞った。そして頭を揺さぶる一撃にアリスが悶絶し、痛みを堪える表情を見て満足気にうなずくと、
「じゃ、また後で」
と言って返事も待たずに再びACから飛び出し、シルフィへ戻って行った。
アリスは彼女の淡白な態度にすがすがしさすら覚えながら、その後姿を見送った。
地球暦224年9月23日。この日は後に世界の分岐点として歴史に刻まれることになるが、アイラがアイラであるが故に振るった一発の拳が記録されることはない。