第15話「凪の日、そして」


 ――五日目 AM4:20――

早朝。
沿岸の朝霧が消えきらない時刻。
コンクリートで護岸された波打ち際を、ティアナは一人走り続けていた。
シャツの襟元は汗でじっとりと湿り、荒い呼吸が無人の沿岸にこだまする。
今日は不思議と早く目が覚めてしまった。
二度寝するには遅過ぎるが、起きているには早過ぎる。
そんな中途半端な時間を、ティアナは自主的な訓練に充てることにしたのだった。
埠頭の先端までたどり着き、そこでUターン。
進んできたルートを逆向きに走っていく。
特別なことなど何もない、単純な走り込みである。

「強く、ならなきゃ……」

ティアナは波の砕ける音を右手に聞きながら、地を蹴る力を強めた。
本当は自分でも分かっている。
こんなに早く目を覚ましてしまった理由も。
人目につかない場所を選んでまで、計画外の訓練に手をつけた理由も。
一朝一夕では成果の出ない基礎トレーニングに必死になっている理由も。

「はぁ……はぁ……」

廃棄都市区画での戦闘。
一矢報いることすら叶わず、次元違いの力を見せ付けられただけであった。

「……はぁ……」

空港での戦闘。
仲間と共に取り囲んでおきながら、あっさりと逃げ出されてしまった。
しかもレリックの片方を持っていかれるという有様だ。

「……」

ホテルでの戦闘。
もはや完敗と言っても過言ではない。
一方的に目的を果たされ、阻止どころか妨害すらできなかった。

「…………」

ティアナはゆっくりと速度を落とし、立ち止まった。
頬を伝う汗を手首で拭い落とす。
わずか数日の間に重ねた戦い。
それらの中で、自分はどれほど役に立てたのだろうか。

強くなりたい――

想いだけが膨らんでいく一方で、結果がついてこないという現実。
鍛えてもすぐに強くなれるわけではないと、頭では理解できている。
一夜にして力が手に入る機会なんて都合よく転がり込んでくるわけがない。
そんなもの一生に一度巡り合えることすら奇跡だろう。
けれど、感情は収まらない。
癇癪。苛立ち。不平不満。
突き上げてくる焦燥と伸び悩む成果とのギャップが、ティアナの心を責め立てていた。
こんな状態で戦闘になったら、間違いなく焦りに負けて無謀を冒す――ティアナはそう確信していた。

「これじゃスバルのこと怒れないな」

ティアナは自嘲気味に呟き、視線を落とした。
朝霧の中、響き渡る潮騒。
規則正しく寄せては返す音色を割って、硬い靴音が近づいてくる。
単なる通りすがりかと思ったが、どうやらそうではないようだ。

「おや、こんな時間に珍しい」
「……セイバーさん」

足音の主――セイバーはティアナの少し手前で足を止めていた。
機動六課の女性隊員用の制服を着てはいるが、どうにも似合っていない。
地味なデザインが、彼女の放つ雰囲気に負けてしまっているのだ。
シニヨンを結って纏めた金髪に、凛とした碧眼の取り合わせが出来過ぎなくらいに整っている。

「鍛錬ですか。感心なことです」
「ええ、まぁ……セイバーさんは何を?」

ティアナはそれとなく話を逸らした。
こんな時間に訓練をしていた理由を尋ねられるのは気恥ずかしかった。
昔馴染みの仲間ならまだしも、新規編入のセイバーとは出会って日が浅い。
弱いところは見せたくなかった。

「件の大孔の調査に参加していました。それで付近を通りかかったので」

セイバーの答えを聞き、ティアナは息を呑んだ。
四日前の未明、この近辺で倉庫街が破壊される事件が起きていた。
管轄が違うことと、まだ調査中であるということから、その事件についてティアナは詳しくない。
夜空を引き裂いた黄金の光――あの光が『それ』だったのでは、と直感しているだけだ。
奇怪でこそあれ、無縁であったはずの事件。
セイバーがその事件の調査に関わっているということは、即ち――

「……あの大孔って、私達が戦ってる相手と何か関係があるんですか?」

セイバーは答えない。
澄んだ瞳でまっすぐにティアナを見据えているだけだ。

「私達、何も聞かされていないんです。
 あの狂戦士は……黒尽くめの髑髏は……何者なんですか?」

やはり答えは返ってこない。
ティアナは睨むように、セイバーと視線を重ねる。
全てを話して貰えるとは、最初から期待していない。
ただ――信じられなくなるだけだ。
ティアナは静かに足を踏み出し、セイバーへ近づいていく。
それでもセイバーは表情を変えようとすらしなかった。
ティアナは言葉を選び、最後の問いを口にした。

「あなた達は……何者なんですか」
「……」

初めてセイバーが目を伏せた。
問いかけに込められた不信の色を、聡くも感じ取ったのだろう。
一呼吸置き、改めてティアナと向かい合う。

「私達の世界から持ち出された、災厄の元凶――それを破壊するため、私達はこの世界へ赴きました」

ティアナはセイバーの言葉に、静かに耳を傾けていた。
厳重に情報統制されているトップシークレット。
それを自分のような末端隊員に語っているのだから、問題でないはずがない。
普段のティアナならこれ以上は喋らないように止めているところだ。
けれど、それができない。

「標的の破壊は四日前に成し遂げましたが、一歩遅かった。
 彼らは首尾よくサーヴァントを召喚し、何らかの手段で現世に繋ぎ止め続けている……」
「その……『サーヴァント』っていう召喚獣を倒すのが、セイバーさん達の今の目的なんですか?」

セイバーが小さく頷く。
罪悪感の影でティアナは焦燥にも似た高揚感を覚えていた。
繋がっていく。
バラバラで共通点のなかった出来事が、一本の線に収束していく。

「召喚獣というよりも使い魔に近いものです。空港とホテルに現れたのはアサシン……
 貴女とシロウが市街地で戦ったという相手は、恐らくバーサーカーでしょう」
「アサシン……バーサーカー……」

セイバーが語る『敵』の名を、ティアナは深く心に刻み付けた。
彼らとの戦闘は偶然ではなかった。
ならばそう遠くないうちに、軌道六課は再び彼らと戦うことになるのだろう。
果たしてそのとき、ティアナ・ランスターは役割を果たせるのか――

「……私でも、サーヴァントに勝てるようになりますか?」

ティアナは小さく呟いてから、しまった、と顔を伏せた。
こんなところで本音を零してしまうなんて。
顔が赤くなっていくのが分かる。
走り回っていたせいだと自分に言い訳をしてみても、漏らした言葉は取り返せない。
どうか聞き逃していて欲しい――内心で祈りながら顔を上げる。
セイバーは困ったような表情で微笑んでいた。

「不可能と言い切りたいところですが、シロウはそれを成し遂げてしまった。ですから、否定することは出来ません」

セイバーの答えは、ティアナにとって望ましいものであるはずだった。
しかし、ティアナは曖昧な表情を浮かべて言葉を濁す。
あの怪物達を倒せる可能性。
それは確かに喜ばしいことだ。
けれどどうして――

「……エミヤ三尉、ですか」


どうしてまた、あの人の名前が出てくるんだろう。


ティアナは知らず唇を噛んでいた。
胸を突く、正体の分からない感情に喉が詰まる。
ここから逃げ出したくなる衝動を堪えながら、ティアナはセイバーに一礼した。

「なんか大変なこと聞いちゃったみたいです……ごめんなさい」
「気に病まないでください、ティアナ。
 大切なことを伝えずに轡を並べるのは、私としても本意ではありません」

違う、そんな気の利いた理由なんかじゃない。
言葉は喉まで競り上がり、無理矢理に飲み込まれて消え失せる。

「それに、サーヴァントの召喚が阻止できなかった以上、いつかは明かさなければならないことですから」

ティアナはセイバーと視線を合わせることができずにいた。
自身のちっぽけな自尊心を護りたいがための一言に、あの少女は本気で応じてくれている。
掛け値なしに向けられる好意的な素振りは、まるで光のよう。
眩しければ眩しいほどに、後ろめたさがティアナの心に濃厚な影を残していく。
不可能を果たし遂せたという彼に対しての想い。
彼女自身も気付いていない、昏い感情。



 ――五日目 PM13:20――

「……大体の事情は分かったけど」

会議室の椅子の背もたれに、ヴィータがぎしりと体重をかける。
これ見よがしに組んだ腕は不機嫌さの表れか。
気難しげに眉をひそめ、向かいに座る赤コートの女をじろりと睨む。

「やっぱ納得いかねー……何であたし達まで蚊帳の外だったんだ」
「そういう協定だったんだから仕方がないでしょう?」

赤コートの女――遠坂凛はヴィータの不満を軽く受け流す。
服飾の尽くが赤と黒で統一され、胸には大粒の赤い宝石のペンダント。
背中に流した黒髪を今日は襟元で一つに括っている。

「ふん……。地球の魔法組織なんて胡散臭いにも程があるっての」

ヴィータはとわざとらしく視線を外した。
ここで目の前の相手に不服を告げたところで、返ってくる答えは決まっている。
遠坂凛の返答はまさにその通りで、これ以上は望めない。
今回の事件に関して管理局と魔術協会との間に敷かれた協定は、強固な情報統制を必須としているのだから。

それにしても、とヴィータは思考する。

地球は魔法が発達していない世界だというのが彼女の認識であった。
ヴィータのみならず、この場に同席しているシグナムやフェイトもそうだろう。
高町なのはや八神はやてという、例外的な才能の持ち主は、確かに存在している。
だが地球で平凡に暮らす限り、その才を開花させる機会は永遠に訪れない――はずなのだ。
しかし今、生きた反証が目の前にいる。
地球に生まれ地球に育ち、管理世界の干渉を一切受けぬまま業を修めた魔導師。
そして彼女らが属する管理組織、魔術協会。
魔法ではなく魔術という呼称だが、四桁の年月を重ねてきた古い技術であるという。
そんな代物が殆ど知られていなかった背景には、かの組織の徹底した秘密主義がある。
こうして列挙した情報も、ごく一部の管理局局員にしか開示が許されていない。
副隊長であるヴィータですら、つい先ほど伝えられたばかりなのだから。

「シグナムも何か言ったらどうだ」
「……正直、驚いてはいる」

ヴィータは隣席のシグナムに話を振った。
シグナムもヴィータと同様、仔細な情報を聞かされたばかりだ。
"聖杯"の破壊任務に就いた時ですら、それが地球に由来するものだとは知らされていなかった。
ましてや廃棄都市区画と空港に現れた怪物との関連など。
後でエミヤシロウを締め上げてやろう――ヴィータは本気でそう考えていた。
シグナムはヴィータの危険な計画など気にも留めず、淡々と発言を続けていく。

「だが先方が秘密を護りたいというなら尊重すべきだろう。
 いくら"聖杯"が絡むとはいえ、犯罪の解決は我々の責務であって、彼らは大切な協力者なのだからな」

非の打ち所の無い正論に、ヴィータは押し黙った。
状況の詳細が伏せられた任務など珍しくもない。
時には政治的な、時には道義的な理由によるもので、今回もその一例に過ぎないのだ。
事実、"聖杯"の破壊作戦に携わったときは、秘密の多い作戦であることに疑問を差し挟んだりはしなかった。
不審を募らせるようになったのは、その後の顛末に違和感を感じ始めてからのこと。
要するに個人的な感情だ。
ヴィータは、反対側の席に座るなのはに、さりげなく視線を向けた。
なのはは拗ねたような表情のフェイトをなだめようと、あの手この手で頑張っているようだ。

「でもやっぱり、危険なことに巻き込まれてたなら、後からでもいいから教えて欲しかったなぁ。
 半年も知らなかったなんて、少しショックかも……」
「ごめんね、フェイトちゃん! そういう約束だったから……」

二人が話しているのは、半年前に勃発したという"第五次聖杯戦争"のことだろう。
聞くところによると、なのはは地球に帰省していたときに偶然巻き込まれ、そこで彼らと知り合ったらしい。
今回の事件は、聖杯戦争中に破壊された"聖杯"の残骸の一部が、この世界に持ち込まれたことから始まったのだ。
ロストロギアの定義から外れる"聖杯"に、機動六課で対処しようと主張したのは他ならぬなのは自身だという。
その理由もよく分かるというものだ。

「もうそんな無茶したら駄目だからね」
「うん、絶対しないから」

フェイトが詳細を知らされたのはヴィータより数日早いはずだ。
知らないところでなのはが危険に晒されていたことに、よほどのショックを受けたのだろう。
もう無茶はするなと何度も念入りに釘を刺している。
そんなフェイトの姿から、ヴィータはなかなか目を放せずにいた。

「さて……」

遠坂凛はテーブルに両肘を突き、顔の前で指を絡めた。
シグナムに目線を送り、発言を促す。

「これからはサーヴァントとの戦闘も視野に入れるわけだけど、戦力の配分はどうするつもり?」
「当初の予定通り、編成はスターズとライトニングの二分隊制を維持する。
 私も他部署での任務は切り上げ、こちらに専念するつもりだ」

二分隊制の維持。
つまり、スターズとライトニングの員数を五人に引き上げるということ。
単純なように聞こえるが、実際に行うとなると、そうはいかない。
今までの連係は殆ど使えず、指揮官の負担も単純計算で三割ほど上昇してしまう。
本来なら、新体制での訓練期間を充分に取る必要がある大仕事なのだ。
だが、現実はそんな猶予を与えてはくれない。
明日にでも、或いは今日のうちに状況が動き出す危険すらある。
と、フェイトが小さく手を上げた。

「分隊をもう一つ増設するのは、どうかな」
「それはちょっと難しいです」

フェイトの提案に答えたのはリィンフォースだった。
会議室のテーブルの上に立ったまま、同席する面々をくるりと見渡す。

「各分隊にサーヴァントとの戦闘経験がある人を配置したいんです。
 シロウさんとセイバーさんが独立しちゃうと、ライトニングが経験ゼロになっちゃいます」
「そっか……」

ライトニングの隊員がサーヴァントと交戦したのは、空港周辺での小規模な戦闘のみ。
とてもではないが、充実した戦闘経験とは言いがたい。
それはフェイト自身が一番よく分かっていた。

「で、いつまであいつらを騙しておくんだ」

ヴィータが身を乗り出し、凛を睨むように見据える。
非難の色を隠そうともしていない。
真っ直ぐに、想うままの言葉をぶつけていく。

「自分達が何と戦ってるのかも教えずに、命だけ賭けさせるつもりなのか?」

現状の情報開示レベルでは、副隊長未満の隊員には碌な情報が与えられていない。
"聖杯"の存在自体を知らされず、正体不明の怪人との戦闘を強要されるのだ。
スバルとティアナに至っては、既に一度命を落としかけているというのに。
これではまるで捨て駒ではないか。

「大丈夫よ。要は魔術との関わりを教えなければいいんだから」

ヴィータの憤りを凛は真っ向から受け止めた。
横に座るなのはへ目配せし、発言の続きを譲る。

「もちろん、みんなへの説明はちゃんとするよ。
 地球との関係は全部伏せるけど、事件の経緯も、サーヴァントの強さも、できる限り説明する」
「……それならいいんだけど」

なのはに直接諭されて、ヴィータはようやく矛を収めた。
納得のいかないことはまだまだあるが、今この場で捲くし立てるようなことではない。
議題から外れた事柄に拘るのは、単なる妨害だ。

「それじゃあ、もうええかな」

議論の動向を見守っていたはやてが口を開く。
ひとりひとりに視線を送り、反応を窺ってからポンと手を打つ。

「話も纏まったことやし――」

事の発端から早五日。
煩わしい事務的処理の殆どが、機動六課のトップであるはやてに集積している。
故にまともな睡眠など取れていないのだろう。
浮かべた笑顔の陰には、隠しきれない疲労の色が滲んでいた。



 ――五日目 PM13:30――

調理室に食欲をそそる匂いが立ち込めていた。
材料が焼け、水気の弾ける音が、芳香を周囲に飛び散らせる。
それらの中央で、士郎が慣れた手付きで調理器具を振るっている。

「よっと……ほら、出来たぞ」

厨房内のテーブルに熱々の料理を乗せた皿が送られる。
見栄えよく、それでいて食べやすく工夫された形。
空腹感を刺激する香り。
味を確かめずとも絶品と分かる品々である。

「いただきまーす!」

真っ先に箸を伸ばしたのはスバルだった。
香ばしい風味の肉を頬張り、幸せそうに表情を綻ばせる。

「凄い、プロみたいだ……」

エリオは料理の味に感嘆しつつ、スバルに負けない勢いで皿を空けていく。
その横顔をちらりと盗み見ながら、キャロも遠慮気味に口をつける。
簡素なテーブルに並んだ四人の食事風景を背に、士郎は次の料理を作り始めていた。
スバルとエリオの食べっぷりは、食べ盛りというのを差し引いても相当なものである。
油断しているとあっという間に完食されてしまいそうだ。
フライパンに食材を躍らせながら、さりげなく後ろに目を向ける。
キャロの皿の上で、ニンジンとそれ以外とが綺麗に選り分けられていた。
飾りつけのパセリまで無くなっている隣人の皿とは大違いだ。
しかし、キャロの好き嫌いよりも気になることが一つ。
テーブルの端に座ったティアナの料理が殆ど減っていなかった。

「会食ですか。私を除け者とは感心しませんね」
「げ、セイバー……」

調理室に入ってきたセイバーは、そう言うなり四人の隣に腰を下ろした。
食欲の権化を見たかのような反応は完全に黙殺されている。

「ティアナ、体の具合でも悪いのですか」

席に着くなり、他の者には聞こえないような小声で、すぐ隣のティアナに囁く。
年少のキャロよりも明らかに食が細いのだ。
不思議に思わないほうが難しい。

「え、あの……ちょっと考え事してたんです」

誤魔化すように、ティアナは一気に料理をかき込んだ。
そして当然のように喉を詰まらせ、キャロから渡された水で飲み下す。
普段ならありえない慌てように、エリオとキャロが顔を見合わせる。
何かあったとしか思えないが、何があったのか訊ねられる雰囲気ではない。
フォローを求めてスバルの方を見やる。

「わぁ、これも美味しそう」

しかし当のスバルは、いつの間にやら席を立っていて、調理台の傍で歓声を上げていた。
テーブルに背を向けていて、親友の異変に気付いているのかどうかも分からない。
キャロは何か言おうとして視線を泳がせ、口をつぐんだ。



不意にスバルが士郎に身を寄せる。
肩が触れ合う感触に、士郎は思わず調理の手を止めた。

「おい……」

スバルは陰の差した表情で、飛沫をあげる流し台を見下ろしていた。
蛇口から吐き出される流水は、さながら小さな滝のよう。
金属のボウルがあっという間に冷水で満たされる。
溜めきれなくなった水はオーバーフローを起こして溢れ出し、周囲を水浸しにしてしまう。

「最近、ティアの様子がおかしいんです。
 思い詰めてるっていうか、一人で抱え込んでるっていうか……」

ぽつりぽつりと、スバルは話し出す。
後ろの皆には聞こえないように。
士郎はさりげなく調理を再開しながら、小さな声で囁き返す。

「……俺は普段のアイツを知らない」

最初の日から、たった数日。
それが全て。
それ以前は何も知らない。
だから何も言えない。
気の利いた慰めも、知った風な助言も。
士郎は蛇口を捻り、水を止めた。

「けど、力になれることがあるなら言ってくれ」
「……はい」

突き放すような、それでいて親身であるような返答。
きっとこれが衛宮士郎の距離感なのだろう。
スバルはカップを手に取ると、溢れんばかりの水を湛えたボウルに沈めた。
ざぷりと幾らかの水がこぼれる。
カップを引き上げると、その分だけボウルの水が減っていた。

そう、こんなふうに。
溢れそうな――も、減らしてあげられるはずなのだ。

スバルはフライパンから熱々のエビを摘み、口に放り込んだ。
そうして笑顔を作り、食卓の仲間達のところへと戻っていった。




 ――五日目 -- --:--――


暗闇に淡い光が浮かんでいる。

蛍火のように儚い色彩。

摘めば枯れ、砕けば潰える生命の色。


円筒形の生体ポッドに浮かぶ幼い少女。
金糸の髪を揺らし、未発達の四肢を力なく伸ばしている。
肌はシルクのように白く細やかで、一片の瑕もない。


ただ一点――
右腕に刻まれた"二画"の紅い文様を除いては。


少女の瞼が微かに開く。
翡翠と紅玉の双眸が、暗い風景を写し取る。
視覚はまだほとんど機能していない。
ただ漠然と、暗がりに浮かぶ輪郭を反射するだけ。


白い髑髏のような貌の輪郭を――


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最終更新:2011年04月15日 03:13