雲がほとんどない秋晴れの空。風があまり吹かないせいか、肌寒さもあまり感じない。でもやっぱり暖かい屋内のほうが
いいのか、見渡すと屋上で昼ご飯を食べている生徒の数はまばらだ。俺は転落防止用の金網にもたれて、来る途中で見つけた
自動販売機で購入した紙パックのコーヒー牛乳をちびちびすすっている。
何気なく携帯電話を取り出し、メール受信履歴を呼び出す。その一番上に、昨日の夜に送られてきたメール。
「明日、よろしければ屋上でお昼をご一緒しませんか、か…」
メールの文体まで丁寧だ。全くみゆきさんらしい。
選択教科が終わった後、俺はまっすぐ屋上を目指したのだが、何か用事でもあるのか、そこにみゆきさんの姿はなかった。
だけど全く気にしていない。時間をきっちり指定したわけではないし、彼女は約束をすっぽかすようなことはしないだろう。
たぶん、もうすぐ──
「だいごさん」
落ち着きのある、聞き慣れた声が、俺の名前を呼ぶ。
顔を上げると、淡い水色のトートバッグを片手に、みゆきさんが歩いてきた。
「す、すみません。少々遅れてしまいました…」
すまなそうに頭を下げるみゆきさんに、俺はあわてて声をかけた。彼女の息が少々荒いのは、急いでいたせいだろうか?
「いや、いいよ謝らなくても。時間を決めてたわけじゃないしさ」
「で、ですけど…」
「いいからいいから。お昼にしよう?」
さらに謝罪を重ねようとするみゆきさんを、俺は無理やり遮った。こうでもしないとみゆきさんの謝罪だけで昼休みが
終わってしまいそうで──というわけではないが、彼女を責める理由は何もないのだ。
みゆきさんはおずおずと、密着でも離れすぎでもない、微妙な間を空けて、隣に腰を下ろした。
冷たい秋の風が、わずかに流れる。
そして、何と言うか、照れくさいような、こそばゆいような、落ち着かない空気も。
…まったく、いい歳して小学生かよ。なんて強がってみても、緊張やら照れくさいやら恥ずかしいやら、いろんなものが
ごちゃまぜになったものが、俺の体中を駆け巡っているのは事実なわけで。それが顔にも集まっているのか、何かほんのり
頬が暖かくて。
ちらりと横目でみゆきさんを見れば、少しうつむき加減で、わずかに顔が赤く色づいている。もしたしたら、俺と同じ
なのかもしれない。と、ここで昨日のメールをなぜか思い出し、慌てたように俺は聞いた。
「そ、そういえば、べ、弁当作ってきてくれたんだっけ?」
テンパりすぎだろ、俺。軽く噛んでるし。
「え!?あ、は、はい。お口に合うか分かりませんが…」
負けないくらい緊張しているのか、俺の言葉に弾かれたように、いそいそとトートバッグから弁当を取り出すみゆきさん。
「わ、悪いね。もしかして早起きとかさせちゃった?」
「い、いえ!そんなに早く起きたわけではないですし、お気になさらないでください」
顔を少し赤くして、はにかんだ笑みで否定するみゆきさんは、なんというか、その、とても、かわいい。一瞬ドキッと
してしまったのも無理はない。絶対にない。ないったらない。
と、とにかく弁当を受け取って、包みをほどき、まるで宝箱を開けるようなノリで(どんなノリだ)、弁当箱の蓋を
開けた俺は、「おお」と感嘆の言葉を上げてしまった。
卵焼き、唐揚げ、マカロニサラダに野菜炒め。白いご飯にはさすがに「LOVE」の文字はないが、しっかりとのりたま?
のふりかけがかかっている。ありがとうみゆきさん。ありがとう○美屋。
「す、すみません。形が悪かったり、味のほうに自信がなくて…」とすまなそうなみゆきさんだったが、決してそんなことは
ありません!そりゃあ確かにこなたさんやつかささんの弁当に比べると、卵焼きは少々型崩れしていたり、唐揚げの色が少しばかり
濃いかもしれないけど、本当に少しだから、まったくもって気になりません。というかうまそうだから腹減ってきた。
「いや、そんなことないよ。おいしそうだよ、早く食べようか」
「は、はい…」
こうして、俺の至福のランチタイムが始まったのである。
しかし、幸福な時間というものは、得てして過ぎ去るのは早いもの。この時ほど、真剣にスタンド能力に目覚めなかった自分が
もどかしいと思ったことはないね。ざ・わーるど。全体的にちょっと濃い目の味付けも、東北人気質の俺にベストマッチなせいも
あって、気づいたら弁当箱は空になっていた。恐ろしいものの燐片を味わったぜ…。
「ありがとう。本当においしかったよ」
「ありがとうございます。味付けが少々濃いと思ったのですが…」
「あれくらいが、俺的にちょうどいいかな」
「そ、そうですか!?よかったぁ…」
ほっとしたような、それでいてどこかうれしそうなみゆきさんの顔。それを見た俺の中に、熱くて、少し苦しくて、なんだか
切ないものがふつふつと沸きあがる。
本人はそんなことないって言ってたけど、薄々は分かる。いつもよりも早く起きて、台所で悪戦苦闘しながらも、二人分の弁当を
作って、しかも片方は自分のより量も多くて。それでいて俺の言葉に、本当にうれしそうな顔をしてくれて。これで何かを感じない
ような奴は、男じゃない。断定しちゃうよ私ぁ~。
「でも、やっぱり早起きさせちゃったよね。授業中ちょっと眠そうだったし、それに…その指」
そう、朝に教室で見かけたときから気づいていた。みゆきさんの右手の人差し指、その指先に巻かれた絆創膏に。おそらく調理中に
切ってしまったのだろう。
俺から受け取った空の弁当箱をトートバッグに入れて、みゆきさんはこちらを向いて微笑んだ。
「そんな、本当にお気になさらないでください。指の怪我は私の不注意ですし。それに──」
一呼吸おいたその表情に、さらに笑みが追加されたのを俺は見た。見てしまった。女神の微笑みというのは、まさにこの事
だろう。
「だいごさんがおいしいって言ってくれて、私本当にうれしかったです。こんな気持ちになったの、初めてです」
…だめだ俺。完全にダメだ。あんな表情でそんなことを言われてしまっては。まるでASM-2で撃沈されてしまった艦船の
ように、俺の心は完全に、いろいろな意味で甘い、甘すぎる海へ沈められてしまった。これで舞い上がらない男がいたら
ここに来い。そして俺に説明しろ!
「あの、どうかされましたか…?」
少し不安げな顔で、みゆきさんが問いかけてくる。いかんいかん、あまりの破壊力の高さに、少しの間呆けてしまっていた
らしい。
「いy、や、いやなんでもないよ。それにしても、作ってもらってばかりで悪いから、俺もなにか…」
「い、いえ!そんな、気を使っていただかなくてもいいんです。私がしたくてやってることですから…。おいしいって
言ってくださって、それで充分ですから…」
俺の提案を、みゆきさんは遠慮している。でも、俺は。いや、俺たちは、
「みゆきさん、俺たちその、えーと、恋人、なんだからさ。もうちょっと、こう、わがままになってもいいんだよ?」
──そう。恋人同士なんだ。そりゃあ程度はあるけど、みゆきさんはもっと、わがままになっていいと思う。自己主張
してもいいと思う。思慮深い性格がそうさせるのか、こなたさん達にも、俺にも、どこか遠慮している節があるのは、
鈍い俺でもうすうす感じていた。
「で、ですが…」
尚も言い募ろうとするみゆきさん。俺はそれに畳み掛ける。
「気にすることなんてないよ。難しいことも、今は無理な事もあるよ。でも、今すぐできることがあれば俺も頑張るし、
それに、女の子のちょっとしたわがままを聞いてあげるのも、男の務めさ」
こなたさんあたりに聞かれれば弄られそうな台詞だけど、気にしない。うつむき加減でちょっと思案顔なみゆきさんに、
もう一押し。
「恋人同士ってさ、ギブ&テイク、じゃなかな。」
これが成功したのかは分からない。でも、たぶんそうだと思う。
困ったような、照れたような、それでいてどこかうれしそうな表情で、みゆきさんはぽつりぽつりと口を開いた。
「あの、本当によろしいんでしたら、してほしい事が、あるんです」
えーと、これは一体どういう状況だろうか。
金網の柵に寄りかかって座る俺。その俺に体を預けるように、もたれかかるみゆきさん。俺の腕はなぜかと
いうか必然というか、みゆきさんの腰に回されている。
ようするに、みゆきさんを俺が後ろから抱きしめている、というわけだな、うん。…どこからか、誠氏ねという
幻聴というかコメントが流れてきそうだが、残念ながら俺は誠ではないのだよ。
第一これが、みゆきさんのリクエスト。お願い。だからしょうがないんだよな、うん。などと自分に
言い聞かせているあたり、そうとう緊張しているのが自分で分かる。心臓がどくとくと2割増で働いているのも、
体中が少し熱くなっているのも、まるっとお見通しなんだよ的な感じだ。お、俺は何を言っているんだ。
「えー、と。ホントに、こんな事でいいの?」
気恥ずかしさとか、いろいろなものをごまかしたくて、俺はみゆきさんに問いかける。
「はい、本当はずっとやってもらいたかったんです。えと、このやり取りも3回目です…」
やっぱりどこか恥ずかしいのか、少し震えたか細い声で、みゆきさんが答える。
つーか恥ずかしいのは俺だあ!3回も同じこと聞いてやがる。で、でも、他に何も考えられないんだよう。
何かしゃべっていないと、彼女の体の温かさが余計に感じられてしまう。それだけじゃない。シャンプーなのか
コロンなのかは分からないが、やさしくて甘いほのかな香りが、案外華奢で、やわらかい女の子らしい体躯も、
全てが俺を絡めとってしまう。
「い、イヤだったら言ってな。す、すぐ離れるから」
みゆきさんへの気遣い半分、色々な意味で臨界前の俺を諌めるため半分の言葉。いや、これでもういいです
なんて言われちゃったら、それはそれで惜しいというか、大変断念というか。けどそれは杞憂だった。
「いえ!あの、もう少しこうしていてください…。離れたくない、です」
最後のほうはだいぶ震えて、小さい声だったが、俺の耳にはしっかりと聞こえた。だ、だめだ…。メルトダウン
寸前です。理性というか、まともな思考という名の制御棒がボキボキ折れていっています。残った制御棒で、
なんとか臨界を阻止している状態だ。
が、それもあっさりと折れちゃいました。
みゆきさんが、後ろ手を俺の腰に回して、制服の上着のすそを、ぎゅっと掴んだからだ。
ああもう終わり。完全に臨界を越えて、炉心融解を起こしてしまった。
「み、みゆきさん。こっち、向いて…」
うつむき加減の顔を起こして、横を──つまり俺のほうを向いたみゆきさん。
自分でもよく分からないまま、俺は顔を、みゆきさんに近づけて──。
自分の唇を、みゆきさんのそれと、重ねた。
その瞬間、彼女はどんな顔をしていたのだろうか。俺は目を閉じてしまったため分からない。ただ、唇を離すと、驚きの混じった
微笑があったのは分かる。
って、お、俺はなにをしているんだ。いくらなんでも昼休み、しかも学校の屋上で!あわてて謝ろうとしたが、うまく言葉が出て
こない。しどろもどろだ。
「いいんですよ」
みゆきさんの声に、俺はハッとなった。
「ここ、出入り口と貯水槽の陰になっていますから、他の屋上にいる方からは見えにくいんです」
なるほど、弁当食べたら向こうへ行きましょうといっていたのはそのためだったのか。
「だから、その、もう少しだけ…」
その先の言葉を、みゆきさんは継ぐことができなかった。俺がまたしても、その唇を塞いだからだ。
心臓が二割増からそれ以上へ。どきどきしすぎて、耳にまで響いている感じがする。目をつむっているので視界はない。ただ感じる
のは、みゆきさんの香りと、暖かさと、ぷるりとした唇の感触と。
そしてあろうことか、俺の不届きな舌が、俺の閉じられた唇を割って、みゆきさんの唇をつっつくように嘗めてしまった。
「んんっ」とみゆきさんは驚いたようだが、その瞬間体をぎゅっと抱き寄せた。俺自身、もう止められないところまで来てしまって
いたこと、こうしたかった事をようやく悟った。
彼女の唇を、舌で撫でる。柑橘系のリップクリームの匂いがした。しばらくなぞったあと、みゆきさんの閉じた唇に、割り込ませる。
すると、意図を察したのか、みゆきさんはおずおずと口を開き、自らの舌を伸ばしてきた。
「んん、んふ…」
俺はみゆきさんのを、自分ので絡ませる。口の端から、つうと流れる感触も気にしない。吸い付き、口内のあちこちを、言い方は
悪いが、というか良く言っても同じだが、蹂躙し、弄ぶ。
どれくらいそうしていただろうか。ふいに上着の裾を、強く引っ張られる感覚。
「んっ、んん、んふぅ…」
顔を離すと、互いの唇を繋いでいた、銀の糸がぷつんと切れた。みゆきさんの体から、力が抜けていくのが分かる。糸を切られた
マリオネット、とまではいかないが、それに近いかもしれない。深く息をしながら、完全に身を俺に預けている。
「ご、ごめん、大丈夫?」
完全にやりすぎた。用法用量を正しく守って正しくお使いにならなければならないのに。これはまずい。いろいろな意味で。
覗き込んでみると、みゆきさんの頬は上気し、その目はどこか焦点が合っていない。月並みな表現で恐縮だが、とろんとした
表情、というのはこういうものを指すのだろう。
「す、すみません。力が、入らなくて…」
なんとか俺にしがみつき、体勢を立て直そうとしているが、うまくいかないようだ。縋りつくのがやっとという感じで、結局
諦めたのか、俺にかかる重さが増した。
「ホントに、ごめん。調子に乗りすぎだったよね…」
「いえ、あの…」
さすがに怒られるかなと思った俺に、聞こえてきたのは。
「い、イヤではないんです。こんなの、は、初めてで。ちょっと、その、き、気持ち、よかったですし」
顔を真っ赤にしたみゆきさんが紡いだ、震える小さな言葉だった。
「ただ、さすがにいきなりは、ちょっと…それと…」
顔を上げて、あの微笑を浮かべて。
「もう少し、その、ふ、ふいんき…じゃなくて、雰囲気のある、ところで…お願い、しますね?」