【MADE'N MOOR - 黄昏に手招き】
何もないところだ。見渡す限りのヒースの荒野、寒々と続く土塁。
こんな田舎に来たのは、私が体も心も病んでしまったからだ。医師に転地療養を勧められ、私は喜んで飛びついた。別に都会の空気が身に合わなかったわけではないと思う。人が多いくせに誰もが目を逸らしあう都会は、結局ここと同じ。あるいは北海の真ん中と同じ。孤独な世界だ。
けれど、都会に住むための代償は、私には辛すぎた。辛すぎたんだ。
ファームハウスを農場ごと買い上げて、私はそこに住み着くことにした。農場を営むつもりはない。荒れるに任せる。なんと素晴らしいアイディアだろう。
私はヒースの野をあてもなく歩いた。足が向くに任せたので、トレッキングの装備などない。いささか渇きを覚えていたが、ただ歩いた。そうしたかったのだ。
土塁にあたれば沿って進み、こぼたれたところを見つけて乗り越える。大きな石塚を見たが、位置を覚える気もなく通り過ぎる。そんなことを繰り返すうちに、いつしか頂上になにかの廃墟を頂いた、丘に登っていた。
この辺りでは丘の事をシィといい、中には妖精の国が広がっているという。古い言葉では、妖精そのもののこともシィというのだそうだ。物件を選ぶとき、土地出身だという不動産屋が誇らしげにそんな事を言っていた。
教会、あるいは修道院の廃墟のようだった。こんな俗塵を離れた場所にあるのだから、修道院だろう。いつしか影は長く、歩けばすぐに一回りできてしまうような小さな修道院を、途方もない広さの迷宮のように感じさせ始めていた。
ぇああぁあぁ!
そんな凄まじい声だったが、私は奇妙に静かな心地で音の方を振り向いた。屋根が崩れ、ぽつんと一枚だけ瓦礫の中から立ち上がる壁の上に、一羽の烏が止まっている。
ぇああぁあぁ! ……ぁぁ。
コートの裾でも払うかのように小さく羽ばたいて、彼女 ---- どうしてだろう? 私はその烏を雌だと思った ---- はもう一度叫んだ。今度は、最後に呟くような余韻を加えて。なんとなくそれが好ましくて、独りで小さく笑ってしまっていた。
私は、眺めていた場所に視線を戻した。それはとても不思議なものだったから……一群れの薔薇だ。こんな、誰も訪れないところに。薔薇など園芸の花で、人が世話をしなければじきに朽ちてしまうものと思っていた。それが、紅々と咲き誇っている。
紅々と咲き誇っている。朱々とした黄昏の中で。
陽は落ちようとしていた。土塁の灰色と荒野の淡い緑色が次第に区別をなくし、薄墨色に埋もれていく。西の地平線に最後に残る黄金の残滓。その向こうに滴り落ちていく夕焼け。這い登りつつある夜。一番星に続いて、一つ、二つ。まだ爪の先のように若い月は、夕焼けの中に辛うじて白く浮かび、一緒に流れ去ろうとしている。
私は背後を見上げた。修道院は黒々と背伸びを始め、天を覆うかのような気配を感じさせる。崩れて積み上がった瓦礫に向かって、私は踏み出した。どうしても、修道院の中で日没を迎えてみたかったのだ。
けれど、私の手を引いて引きとめるものが合った。しっとりと柔らかな、小さな手。その瞬間は、恐ろしくは無かった。あまりに自然な感触だったから。それでも、独りだったはずなのに、といういぶかしさから、私は眉を顰めながら振り向いた。
途端、容赦のない痛みが走った。手を、薔薇の茂みに差し込んでしまっていた。指と手の甲を伝う血の感触が、不気味なほど生々しい。
引いても押しても痛みは強まる。私は諦めて、暗いばかりの手元を手探りしながら、薔薇の蔓をほどきにかかった。
ぇああぁあ! ぁああっ!
三度目の烏の声に、私ははっきりと恐怖を感じた。それを恐怖だと実感する前に、耳元を翼と羽ばたきの風圧が襲う。
疾風のような黒い影。翼に頬を打たれながら、私は怯えて跳びすさった。激痛とともに、手が自由になる。血の色が……失われつつある黄昏の中に埋もれる。
うずくまる私の視界の隅を、ドレスの裾がよぎった。闇、そして紅。黄昏の淡い光の中で、不自然なくらいはっきりと、目の奥に残る。
「真紅……? お客様に酷いことするのねぇ」
くすくす笑いの混じる、残虐さを奥底に秘めた猫撫で声。
「水銀燈のせいなのだわ。今の無作法、お客様にもわたしにも失礼よ」
きっぱりと命令に慣れた、邪魔を厭う気高い声。
声も出ず、私は顔を上げる。そこには、小さな板碑の上に止まった烏と、その傍らで夕暮れの風に揺らぐ薔薇の茂み。
くすくす笑う朧な気配。チェシャ猫はにやにやだ。では、くすくすは?
じっと見つめる確かな気配。私は独りでさ迷っていた。では、誰が?
おどおどと首を巡らせる私の視界の隅を、また闇のドレスと紅のドレスとがよぎる。そちらを見据えれば、烏と薔薇。
「ふぅん……ハズレかしらねぇ?」
「そんなことはないのだわ。だって、自分でここまで歩いて来た人だもの」
この島に上陸したキリスト教は、異教の征服を試みた。いくつもの方法があったが、異教の聖地に教会などを建ててしまうのもその一つ。そして古い神々は人々の記憶の中で零落させられていき、背丈が縮み、妖精となったという。
教父達は、妖精には魂がない、最後の審判において救われることもない、と説いた。だから近づいてはいけない。救いを求めて、神の子羊たちを、子羊たちの魂を求めるから……
……妖精は、直視しては見えないのだという。方法はいくつもあるが、目の焦点をずらし、視界の隅で捕らえると見えるともいう。
「あら、お気づきのようねぇ」
板碑に身軽く腰掛けた、闇色のドレスの少女が笑いを含みながら言った。病的な白さの指がくしけずるのは、髪か、それとも翼か。
「ごらんなさい。わたしの目に狂いはないのだわ」
棘も恐れず薔薇の花を弄びながら、紅のドレスの少女が満足げに目を細める。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
「踊りましょう?」
「あら、わたしが先だわ。だってわたしが先に取ったもの」
「また。見つけたのはわたしが先よぉ」
薔薇の蔓が絡む。棘が痛い。痛みが甘い。
鳥の羽毛が舞う。羽ばたきの音に耳が眩む。暖かい。
黄昏が、闇の中に沈んでいく。
- 了 -
BGM:ALI-PROJECT '幻想庭園' ( from "etoiles" )
or:Enya 'Athair ar neamh' ( from "The Memory of Trees" )