―如月の頃 その2―
翠×雛の『マターリ歳時記』―如月の頃 その2― 【2月4日 立春】日付が変わり、二月四日を迎えた頃――救急病院の薄暗く、うら寂しいロビーに、二つの人影があった。常夜灯が点された真下のソファに腰を降ろし、項垂れている。「なんという事だ…………まさか、翠星石が……」両手で頭を抱えて、柴崎元治は嘆息した。鎮痛剤を飲んで就寝していたところを、事故の知らせに叩き起こされたのだ。事故を起こしたバイクのライダー共々、救急車で運び込まれた翠星石は、いま、治療と精密検査を受けていた。「あの子に、もしもの事があったら、儂は……かずきに合わせる顔が無い」「お爺さん――」彼の妻、柴崎マツは、悲嘆に暮れる亭主の背中に、そっと手を当てて囁いた。「しっかりして下さい。きっと、大丈夫ですよ」ついさっき、担当の医師に簡単な説明を受けたばかりだ。目立った外傷は無く、大きな骨折も見られないという話だった。けれど、接触の衝撃で全身を強打しており、意識不明の状態である……と。息子夫婦が残してくれた愛娘の快復を祈り続ける老人たちの元に、看護士が一人、近付いて声を掛けた。「柴崎さん。お孫さんの容態について、なんですが――」なにやら……真っ白な世界に、彼女は立ち尽くしていた。此処は、どこ? 自分は、いつから此処に居るの? なんの為に?――解らない。何も。自分の名前すらも思い出せない。喉元まで込み上げている言葉を、吐き出せない。何をすれば良いのか。何をすべきなのか。答えを探しても、思考は直ぐに、頭の中に立ち込めた白い靄に撒かれてしまう。(私は…………何かを……してた?)よく覚えていないが、何か、とても恐ろしい物――例えば怒濤のような――から逃れようとしていた気がする。思い出そうとすると、心臓が早鐘のようにドキドキして、今にも張り裂けそう。(何が、どうなっているです?)だが、見渡しても、恐ろしい物は何一つ無い。身の危険を感じさせる者も居ない。真っ白な空間に、独りぼっち……。こんな時には、いつも誰かが、側に居てくれた。そんな憶えがある。あれは…………誰だっけ?『こんな処で、何をしているんだい?』いきなり背後から話しかけられて、彼女は軽く1センチほど飛び上がってしまった。誰も居ないと思っていたのに、いつの間に、近付いていたのだろうか。彼女が振り返った先には、穏やかに微笑む、スーツ姿の青年が立っていた。(…………誰、です?)おっかなびっくり誰何する。けれど、なぜか、この青年を知っている気がした。どこかで出会っている。確かに、見覚えがあった。『もう忘れてしまったかな? まあ、無理もないか。 最後に会ったのは、お前たちがまだ、こんなに小さかった頃だからね』言って、青年は中腰の姿勢になり、足元から80センチくらいの高さに掌を翳した。何歳くらいの事かは解らないが、子供の頃だと言うことは把握した。(私を知ってるですか? 私は、誰なのです?)『お前の名前は、翠星石だよ。そして、蒼星石という双子の妹が居るんだ』(蒼……星、石…………蒼星石っ!?)『思い出したかい? それなら、お前はもう、此処に居てはいけないよ。 記憶の断片を手に入れた以上、みんなの元へ帰るんだ。お前を待っている、みんなの所へ――』(でも、どうすれば良いです? 私には、此処がどこなのかも解らねぇですぅ)『此処は、9秒前の白……という世界なんだ』青年は白い歯を見せて笑うと、翠星石の両肩に手を置いて、クルリと向きを反転させた。『でも、心配はいらない。お前は絶対に迷ったりしないから。 ほら、聞こえるだろう? お前を呼ぶ声が』――翠星石。帰ってきておくれ。――戻ってきてちょうだい、翠星石。ハッキリと聞こえたそれは、祖父母の声。とても必死で、とても悲しげな呼び声だった。翠星石の胸が、キュッと締め付けられる。帰らなければならない。なんとしても戻りたい。優しい祖父母の元に。『さあ、行くんだ、翠星石。あの声が、お前を導いてくれる』青年が、翠星石の肩を軽く押した。促されるまま、翠星石は歩き始める。一歩一歩、遠ざかる翠星石を、青年の声だけが追い掛けてきた。『私の代わりに、あの人たちの心を癒してあげておくれ』その一言で、翠星石は思い出した。あの青年が、誰であったかを。道理で、見覚えが有った筈だ。毎朝、仏壇で顔を合わせていたではないか。寧ろ、今の今まで思い出せなかった事の方が不思議で、申し訳なかった。(お父さ――)嬉々として振り返ったものの、呼びかけた言葉は途切れ、笑顔が俄に曇った。そこは、何もない、誰も居ない、音も聞こえない、真っ白な世界。また…………独りぼっち。(どうして? こんなの厭です。お父さん、お母さん……蒼星石。 なぜ……みんな、私を置き去りにしてしまうですか?)じわりと熱を帯びる目頭を、指先で擦った。涙が溢れてしまわないように、瞼を閉じて、手で覆い隠す。けれども、彼女の細い指の間を抜けて、涙は手の甲へと滲み出してきた。翠星石はその場に座り込み、小さな少女に戻って泣きじゃくった。(私は、そんなに悪い娘なのですか? 足手まといですか?)誰にともなく問いかけた矢先、また、祖父母の声が聞こえた。さっきよりも近くで、はっきりと。――儂等にはもう、お前たちしか居ないのじゃ。――貴女たち姉妹が、私たちの生き甲斐なのよ。それで、気が付いた。泣いている場合ではない。帰るのだ! 自分の居場所に!翠星石は立ち上がって涙を拭うと、瞼を閉じて、聴覚を研ぎ澄ませた。こんな真っ白な世界では、目を開けていたって仕方がない。寧ろ、見えるばかりに、変な幻に惑わされかねなかった。(おじじ……おばば……すぐに、会いに行くです)自分を必要としてくれる人たちが居る。その人たちの心を満たしてあげられるのは、自分しか居ない。……だから、行かないと。たった今、父に託された想いと共に。とても意外な事だが、目を閉じたまま歩いても、全く恐怖は感じなかった。日常の街角では、恐ろしくて1メートルと歩けないのに。やはり、躓いたり、ぶつかったりする物が何も無いと解っているからだろう。翠星石は、祖父母の声がする方へ、どんどん進んでいった。途端、彼女の足が、宙を掻いた。慌てて両目を見開き、両手をバタつかせたが、掴む物など何もない。有るのはただ、真っ白な空間だけ。翠星石の身体は上下左右も解らない空間で落下し続け、奔流の中に墜ちた。激流にもみくちゃにされて、翠星石は洗濯機で洗われる衣服になった気分だった。けれど、なぜか息苦しくない。どうやら、普通の水ではなく、概念的なものらしい。水と思えば、奔流。風と思えば突風になる。流れがあるのは、時間が流動的だからか。では、目の前に出口が在ると思ったら、どうなるだろう?目を閉じて、扉を思い浮かべる。そこを潜れば、祖父母の元に行けると信じて。翠星石は、徐に、瞼を開いた。緋翠の瞳に映るのは、一枚の扉のみ。巧くいったようだ。翠星石は躊躇いもなくドアノブを回して、扉を開いた。――微かに鼻を突く医薬品の臭いで、翠星石の意識は覚醒した。霞む視界を、何度か瞬きしてクリアにすると、薄明かりに照らされた祖父母の顔が見えた。明かりは窓から差し込んでいる。夜が、白々と明け始めたのだろう。「お、おお。おおおっ!」「すっ……翠せ――」祖父母は顔をくしゃくしゃにして、医療用ベッドに横たわる翠星石に、縋りついてきた。この光景、どこかで見た憶えがある。そう……あれは、両親の通夜の席でのこと。誰も居なくなった深夜、二人は棺を前にして、こんな風に肩を寄せ合って悲しんでいた。 『私の代わりに、あの人たちの心を癒してあげておくれ』父の言葉が、脳裏に甦る。翠星石は、祖父母の肩に両腕を回し、力を込めた。祖父母の悲しみは、きっと癒してみせる。独りでも、きっと――今日は立春。暦が、春に変わる日である。祖父母の心に蟠る冬も、今日を境に、春に変わってくれたらいいのに。翠星石は、嗚咽する祖父母の肩を優しく抱き寄せながら、そうなる事を願った。
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