―――もしも時が止められたのなら。
―――もしも時が止められたのなら。ふと、そんなことを考えた。昨日読んだSF物の漫画のせいだろうか。それともこの授業が退屈で退屈でまさに"時が止まって"いるからか。先生がテスト範囲だ、入試にもよく出る、と熱弁を振るっているが、正直な話、どうでもいい。時を止められたとして、それから何ができるのだろう。そもそも時が止まるとはどのような状態なのだろうか。イメージとしては、全ての物体が停止している状態。止められた時の中で動くものは全ての記録に残らず、ただ結果だけが残る。止められた時の中で何かをされたのならばの話だけれど。思うに、この世界は止められた時がミルフィーユのように幾重にも、幾重にも重なってできているのだろう。その世界の中で何かをする存在がないから、誰も気づかないだけで。例えば、この授業の間に一回ずつクラスのみんなのほっぺをつねることも可能なわけだ。居眠りしてるジュンの眼鏡を逆にしたり。適当に授業のノートを取っている銀ちゃんにセクハラしたり。―――まぁ、実際には時なんて止められやしないんだから可能も不可能もないんだけどね。私ながら、なかなかいい理論じゃないか。うん。そんな、とてもとても退屈な、授業中のお話。それは面白そうですね、と誰かが言った。
それはどう見てもウサギだった。紳士服を着て、シルクハットの。気が付けばそこは私とウサギ以外誰もいない、何もない空間で。さっきまで響いていたチョークの音も、ペンの芯が削れる音も、何も聞こえない。ああ夢か、と本能的に理解する。まず間違いなく夢だろう。こんなに意識がはっきりしてる夢も珍しいけど。「おお、申し遅れましたな。私は『ラプラスの魔』と申します。」私が思考に耽っている間に、ウサギが話しかけてきた。それにしても、偉そうなウサギだなぁ。態度が、だけど。多分ラプラスは群れの中でも特異すぎてのけものにされているウサギだったのだろう。会話の中で変な言葉が出てきたらそれはいつもラプラスで。仲間から変だと指摘されてもしゃべり方を変えない。その内群れから追い出され、ラプラスは一匹で旅をすることになりました…旅は続き、やがて、ラプラスは一人の少女に出会います。少女には友達がいませんでした。そんな少女に自分の姿を重ねたのか、ラプラスは少女を食い入るように見つめていました。少女は道端で見つけたウサギを拾い上げラプラス、と名前をつけました。ラプラスをきっかけに歳の近い近所の子供たちと触れ合い、少しずつ友達を増やしていく少女。少女の親にも可愛がられ、幸せな日々を過ごしていました。しかし、ラプラスは所詮ウサギ。とうとう寿命がきてしまいます。もっともっと遊びたかった。生きていたかった―――そんな強い思いが、ラプラスを霊以上の存在へと変えていきます。少女の夢の中に入り込む妖怪変化・ラプラスの『魔』。それが、今私の目の前に―――!「人の話を聞きなさい。」ウサギに怒られた。いいかげんにウサギの話を聞いてあげようか。「いいですか…?私はラプラスの魔。人と人の夢の間を行き交う旅人… まぁ妖精みたいなものですな。」頭だけがウサギのジェントルメンは外見のイメージ上、妖精とはいえない気がする。「本題に入りましょう。神様というものがありましてね、私に仕事を命じたんです。 私は退屈でした。ですから私もその話に乗って仕事をしているわけです。 神様は言いました。ゆめはうつつの映し鏡であると。ゆめはうつつに少なからずとも影響を与えると。 つまり私の仕事は夢の中で現ではできないあることをして、それを現に移すということです。 ここまでは理解いただけましたか、薔薇水晶さん?」さっぱりわかりません。「…まあいいでしょう。 私が現に移動させるように言われたものは"ちから"です。 時を止める力。それがこの世界に足りないものなのです。 ある力を扱うにはある事象に対しての観念が固まっていなければいけません。 それを探して…あなたのところに辿り着いたわけです。あなたのその観念ならば、きっとうまくいく。 さあ…あなたに力を授けましょう。こっちは気が遠くなるくらいの間探してたんです。嫌とは言わせませんよ…!」ラプラスの魔の両目が光り、私の夢の中が真っ白になる。足から霧状になって姿を消していくラプラスは最後に私にこう言った。「夢から覚めたら強く念じてみてください。きっと面白いことが起きますよ… それでは、ごきげんよう。」―――夢から覚めて…授業の半分以上を睡眠学習として過ごしたので先生に怒られた。さあ、これからお昼ご飯の時間。ジュンと銀ちゃんにあの変なウサギの夢を話してみよう。そんなことを考えながら私は屋上への階段を上っていった。楽しいことをしていると時が早く流れているように感じる。逆につまらないことをしていると時が遅く流れているように感じる。誰でも一度はそのような経験をしたことがあると思う。私―――薔薇水晶もそんな人の一人。時間なんていつも同じように流れているのに、ね。私が思うに、時間とは人にとってとても大切だけれども、とても定義があやふやなものなのだ。だから少しずつ歪みができる。いびつなその矛盾を人は認識するけれど、解決することなど出来やしない。地震を人が止められるか?そんなことと同じなのだ。そんなわけで私とジュンと銀ちゃんのランチタイムは足早に旅立ってしまった。再び、授業。「―――よって直角二等辺三角形のtan45°は1とわかる。これはあくまで分かりやすい例だ―――」既に知っていることの授業も退屈なものだ。たまたま予習の段階でうまく理解でき、今日のこの授業は聞かなくても何ら問題は無いと独断。ラクガキでもして暇を潰そうか、とペンを手に取ったとき、ふとウサギ―――ラプラスの魔の言ったことを思い出した。『強く念じてみてください。きっと面白いことが起きますよ…』馬鹿馬鹿しい、と思う自分がほとんどで、わくわくする自分がちょっぴり。カツカツ、カリカリ。鋭い音が教室に散らばっている。一人別のことに取り組もうとする自分がまるで、いやまさにこの空間の異物のような気がした。それほど意気込まずに、軽い気持ちでえい、と心から言葉を投げた。頭の中で、かちん、と歯車の合ったような音がした。「………え?」黒板に、ノートに、みんなが字を書きつける音が消えた。沈黙した教室。石のように動かない生徒。―――自分だけが動いている。「………嘘。出来ちゃった…」時間の停止。そんなまさかと思う自分と、興奮の止まない自分と、早く帰りたいと思う自分。驚愕と、動悸と、―――恐怖が止まらない。どうしよう?と自問する。他に誰もいないから。答えは、見つからない。―――初めて訪れた領域だから。こめかみに次々と血が送られてくるのがわかる。これは、焦り? おそらくそうだろう。独りでに細かく震えていた足を、右、左、右、左と動かす。「…銀、ちゃん。」端整の整った、どこかだるそうな顔。普段と変わらない、同じ顔だった。けど、何かが違う。ものすごく精巧な人形を見るような気持ち。まるで死人を見るような―――死人?その言葉が頭の中を横切って、私は自分が心底焦っているのだと感じた。―――“今”を普通に生きているのは銀ちゃんだ。私は、今私だけが、“今”を生きていない。眼の疼きをこらえて自分の席に座る。帰りたい。ここは教室だけど、ジュンがいて、銀ちゃんがいて、つまらない授業のある教室じゃない。潰れてしまいそうな空気の中で、ただひたすらに、願った。ふと、教室が動きに包まれているのに気がついた。「…あれ?」戻ってこられた、しかもやけにあっさりと。銀ちゃんがふあ、と大きな欠伸を一つ。何ら問題は無い。なんだぁ、と拍子抜けする。私が思っていた以上に事はお気軽かつ、お手軽だったらしい。泣きそうになった自分が、苔むした路傍の地蔵のように思えて、ちょっぴり悲しくなった。今度夢でラプラスに会ったらお鍋にでもしてあげようか、と未来のウサギ鍋に思いを馳せつつ、私は鐘がリズム良く鳴る音を聞いた。きんこんかんこん。この音をあと二回聞けば、今日はおしまい。「ふぁぁ、やっと一日終わったぁー…」ジュンが肩をほぐす動作をして、そう呟いた。「まだ眠たぁい…」手の甲で銀ちゃんがまだ重たそうな瞼をこする。空にぽつんと一粒の雲が浮かんでいる。いい天気。あと二時間ぐらいで日は沈むけど、本当にいい天気だった。三人で校門を出て、そのまま商店街へと足を伸ばす。今日は新しいCDの発売日。三人でお金を出し合って、私の家で聞くついでにMDに録音する予定なのだ。もっとも同じ曲を二回聞かなくてはならないが、その間は宿題をするということで事足りる。遅くなっても家が近いから大丈夫。幼馴染のアドバンテージはこういうことに生かすべきだと、私は思う。「聞くのが楽しみだよね、新曲なんて半年も出てなかったから。」そうそう、とジュンと銀ちゃんが返す。「今日は課題がたっぷりあるから、早めに帰りましょぉ。」銀ちゃんがそう言った時、ふと一人の男の人が目に付いた。半袖のシャツの上にアロハシャツのようなのを羽織って、周りからよく見えないような死角に立っていた。ケースを手に取っているのに視線は周囲へ向いている。もしかして、と疑惑の念が浮かぶ。嫌な予感がしていた、その時だった。思い切ったように、男の人がCDを服の裏に滑り込ませた―――万引きだ。「………!」見てはいけないものを、見た気がした。男はほくそ笑んで、汗も流していたが、入り口、つまり私達のほうへ歩いてきていた。止めなくちゃ、と考える。どうやって、とも考える。店員さんに伝えようか―――いや、それでは間に合わないかもしれない。『私』が『ここ』で止めなくては『いけない』、いつしかそんな考えに縛られていた。迷うことなく、私は時を止める。かちり、と歯車の合ったような音が、また聞こえた。空気が凍てついた。人も、物も、音も、何もかもを動かさないように。さっきとは違う。私が戻りたいと思えば元に戻れるのだ。空間を裂きつつ、男に近寄る。盗まれたCDは布を裏と表に一枚隔てて脇に挟まれていた。さてどうしよう、と案を巡らせる。もし男に盗んだCDを持たせてレジの前に置いたとしても、問題は解決することは無いだろう。誤魔化す方法なんていくらでもありそうだ。つまり、この男が万引きをした、と周知させなければいけないのだ。浮かんだ一つの案。この男の服の中からCDが落ちるところを目撃させればいい。店員から姿が見えるようにして、脇を緩めさせる。これで完璧のはず。そうと決まれば善は急げ。重たい男の体を引きずっていく。私はまるでモデルを撮影するカメラマンのようだった。うん、角度よし。セッティングを完了させて、入り口近くの―――私がもともといた位置に戻って、そして時間の流れを戻した。ふわ、と空気が和らいで、かちゃん、とプラスチックの落ちる音。「あ………」男が声を漏らした。ジュンも、銀ちゃんも、私も―――周囲の視線が男の方へ集中している。後で店員の声。「お客さんちょっとこっちへ来てもらえますか。」完璧すぎる。完璧すぎて疑心暗鬼になるぐらいに完璧だった。上手く、行き過ぎていた。「お前らぁ!こっちに来てみろ、このガキをぶち殺すぞ!」突如響く罵声。太い腕で絞められた私の肩。どこかで見た服の柄。そして私の首もとに光る銀色の―――ナイフ?驚きで眼を見開いているジュン。悲鳴を上げる銀ちゃん。もしかして、私は―――人質?何故私は気付けなかったのだろうか。左胸から全身に血の巡る音。血の流れを五臓六腑の隅々にまで感じた。ひたすらに、怖い。ただそれだけ。心臓をぐちゃぐちゃとかき回されるような、頭の中に鉛筆でガリガリと線を書きなぐられるような不安定。動けないのは私だけでは無かった。ジュンも、銀ちゃんも、だれもかもが金縛りにあっていた。「いいか、こっちに来るんじゃあねえぞ…」男が湿った息を吐き出す。それが、耳に当たる。ナイフが首に光る。その銀色はあと五ミリでもずれれば皮膚をちりりと焼きそうだった。ゆっくりと、ゆっくりと、入り口の自動ドアへ身体が運ばれる。男がスイッチを踏んで店から出ようと身体を翻した。ほんの、一瞬のこと。男が肩を右から左へ動かして、外を見た時のこと。視界から自分の姿が消えた瞬間にジュンが動いた。眼と、拳に力を入れて―――カバンの中から折りたたみ傘を取り出して柄を先端に持ち、叫び声も上げずに走って――振り返った男の顔へ――振り下ろした。ずん、と男から衝撃が伝わった。男が堪えきれずに声を漏らす。頭蓋に与えられた痛みが身体中を走り、腕の締めを緩めさせる。「きゃっ…」私が男の腕の中から零れ落ちた。途端、床に倒れる。「薔薇水晶!」「ジュンっ」ジュンの手に引き上げられて立ち上がる。安堵が、私の胸を撫でた。「薔薇水晶、早く後ろにっ」ジュンが私をそのまま後方へぐいっと引っ張る。男とジュンが私の視界から消える。それはほんの数秒、いや、ごくごく短い間のこと。私がジュンと背中を合わせる形になった、少しの間のこと。男が、突っ込んでくる。それを視認したときには、男は『ジュンの』目の前に身体を乗り出していた。私ではなくジュンの前に。ジュン、の―――ぞぶり。生暖かい音が、聞こえた。「―――え?」膝から崩れていく、ジュン。お腹に―――あの、ナイフ。白いカッターシャツをその根元からじわじわと血が侵食していく。薫る鉄のにおい。かこん、と傘が柄から落ちる音がして、急に意識が戻る。「このォッ」男が喚き散らしながらジュンに殴りかかろうと近寄る。ジュンが地面に着いた膝を上げようと歯を食いしばっても、うまく動かせない。「このガキィィィィィィッ」やめて。もう、来ないで。もう、ジュンに近寄らないで。お願い、だから。「嫌ああああああああああああああああああああああ!」絶叫。そして、私は。私は、世界を一つ飛び越えた。「 !!」声にならない、叫び。怖い? いいや違う。似ているけれど、違う。嫌なの? そう、嫌だ。でも少し言葉が足りない。―――憎い?おそらく、きっと、そうなのだろう―――落ちたジュンの傘を拾い上げて、両手で握る。男に一撃を与えた持ち方と同じ持ち方で握る。無骨な拳を握り締めた男、その姿を見て―――怒りのままに振り下ろせ。後頭部にプラスチックの柄が落ちる。狙うことなんて出来なかった。衝撃を与えられた分だけつんのめった男に振り下ろすモーションからの追い討ちを当てる。ふと見えたその顔は笑っていて―――とても不気味だった。今度は、恐怖。次は、怒り。そして、憎しみ。循環する感情が交じり合って、交じり合って、自分がとっぷりとタールの中に溶けていくような気がした。 脳が焼けついていく。こいつの全身を、粉々にしてやれと、誰かが叫ぶ。右から、左、袈裟に払って、振り上げる。ぐるぐると、繰り返す。男の右の上腕に当てたときに、ぼきん、と音がした。循環は、傘の骨が折れた音で止まった。とくん。心臓の鳴る音。ぐらり。私が虚ろになる感覚。今までにない疲労が私の身体を、精神を、浸して、いく。―――ああ、眠い。意識が掻き消えていきそうなときに、私はそんなことを考えていた。でもそれは確かなこと。白いもやが頭の中にかかっている。―――そして、私は倒れた。ざわざわ。喧騒が聞こえる。その中に私の知っている声。これは、銀ちゃんの声?何故だかとても懐かしい。冷たい、濡れた床の上で、少しずつ、力を抜いていく。……………おやすみ、銀ちゃん。心地よく、夢見るように。「…ほう、それで今はお休み中というわけですか。」ラプラス、かぁ。うん、そうだよ。…ってことはここは夢の中?「御名答。ともかく、今度からは気を付けてくださいね。時を止めるとしてもせいぜい10秒程度、それがあなたの限界です。」へぇ…「今回倒れたのは力の使いすぎが原―――薔薇水晶さん?」………「…薔薇水晶さん?―――ああ、完全に寝てますね。夢も見なくなるなんて、本当に疲れているのですね…」……………「それでは、おやすみなさい。」ぱち、と眼を開いた。知らない天井、知らないベッド、独特の薬のニオイ。「ここ…どこ…?………あぅっ」ぼんやりしつつ身体を起こした途端、誰かに身体を抱きしめられた。「薔薇水晶っ………」銀ちゃんだった。「よかった…眼を覚ましてくれて、本当によかったぁ…」「銀ちゃん…い、痛いよー…」渾身の力で抱きしめられる。…大きい。「このまま…あなたが起きなかったら…どうしようかとっ…!」「わ、銀ちゃん。ひとまず落ち着いて、私は何ともないから…多分。」ついに、とうとう、彼女は泣き出してしまった。銀ちゃんが泣く姿を見るのなんて初めてかもしれない。首筋に彼女の涙が零れる。冷たいようで、とても、とても、熱かった。「大変だったのよぉっ…ジュンが刺されたと思ったら薔薇水晶も突然倒れちゃうんだからぁ…」“ジュン”。その言葉を聴いてあのときの感覚が、ほんの少し甦る。「…!銀ちゃん、ジュンは!?」「………薔薇水晶。」銀ちゃんが口をつぐむ。そんな、いや、まさか。「ジュンは…ジュンはね………」その淀んだ間。それだけで最悪の結末を思いついてしまった。そんなはずは無い、と何度も振り払っても、イメージが纏わりついてくる。まさか(嫌だ)もう(違う)ジュンは(ジュンは)死んで(生きて)―――「…さっきからずっとあなたのとなりにいるわよぉ?」「へっ?」「いやぁ、元気?」「えぇっ!?」カーテンを開けて、彼は現れた。しかもやけに爽やかな笑顔で。「…薔薇水晶?薔薇水晶さーん…ばらすぃー…あ、震えてる。」「水銀燈、ちょっとやりすぎたんじゃないかなぁ…」とりあえず、ばかーっ、とだけ叫んだ。
断片的に継続中。
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