『私、ジャンクじゃない』
『私はジャンクじゃない』
胸が痛い。有刺鉄線で心臓が締め上げられるような感覚に水銀燈はたまらず膝をつく。「・・・っは・・・はー・・・は・・・はあー」呼吸の乱れが己を動かしている生命のポンプの不調を如実に物語っていた。胸をかきむしりながなんとか台所へたどり着いた水銀燈を無造作に発作を抑制する薬を服用した。小さく、小さく呼吸をし、じょじょに呼吸を整えていく。鼻に少し残る薬のにおいにムカついた。
――余命数年。自由に動けるのは後半年。
あと半年。あと半年で自由が奪われる。あと半年でやりたいことを成し遂げないと悔いが残る。「く・・・ふふ・・・あは、あははは」自嘲気味に笑う水銀燈はゴロン、と台所の床に転がった。
――やりたいことなんて、なにもないじゃない・・・私・・・もう、ジャンクね。
目じりから耳に流れる涙は、悲しい涙か悔し涙なのかは本人にもわからなかった。
胸がキュンとする。彼女のことを考えると他のことが頭に入らなくなる。
――水銀燈、今日こそは君に告白するぞ。
そんな決意を思い始めてもう半年。朝、固めた決意は昼過ぎには氷解し、夕方には自分の不甲斐なさに反吐が出る。「きっかけさえ掴めればなあ・・・」玄関を出て、ジュンは空を仰ぎ見る。なんということはない。いつもと変わらぬ天候だ。Araiのヘルメットをかぶり、愛車のXJRを大通りまで押してあるく。家は閑静な住宅街にあるため、近所の迷惑とならないようにいつも気をつかってる。「・・・よし」差し込んだキーを捻り、スタートボタンを押すとマフラーからズドン!と大きい始動音がした。
――今日もいつもと同じ一日かな?
排気音が次第に甲高くなり、ジュンのバイクは見えなくなっていった。
ジャンケンで負けたジュンは一人で教室の掃除をしていた。机の上に乗っていない椅子を机に乗せ、散乱している綿埃をちりとりに集めていく。「・・・」ちりとり半分ほど集めると、ゴミ箱へ中身を移す。――廊下から足音が聞こえた。「・・・あ、桜田くん」「す、水銀燈」忘れ物を取りに来たのだろうか。彼女は少し息を切らせていた。誰もいない教室。二人だけの空間。そしてほんのり顔が赤い水銀燈を見て、ジュンの胸はときめいた。「一人で掃除なんて・・・偉いのね」「いや・・・そんなことないよ。ジャンケンで負けちゃってさ。べジータの奴が後出しするんだよ。信じられないよな」「くす・・・。そうなの。それは酷いわね」水銀燈は自分の席に向かい、ノートをバックに入れる。
――こんなもの、もう必要ないのにね。
「忘れ物かい?」「ええ、そんなところよ。じゃあね・・・」水銀燈はジュンの目を見ないように教室を去ろうとした。「ちょっと待って!」「なに?」水銀燈は振り向かず足を止める。「・・・水銀燈。よかったら、僕のバイクの後ろに乗らないか?」「・・・くす。なにそれ?ナンパしてるの?」「そう・・・かもしれないね。でも僕はずっと水銀燈に乗ってほしいとも思ってる」「・・・」「君のことが好きなんだ」水銀燈の心は揺れた。『君のことが好き』甘い響きである。しかし、そんな言葉は幾千万回も聞いてきたし、どれも応えることができなかった。水銀燈はしばらく沈黙し、考える。
自由な時間はあと少し。悔いの残らないような半年を送りたい。自分にとってやりのこしたこと。それは恋愛に他ならない。自分のような人間を好いてくれる人はいるのか?目の前にいる。
「・・・桜田くん。その言葉に嘘は無い?」「嘘なんかいうもんか。君のことを好きになって半年間もずっと思い続けていたことなんだ」「私・・・桜田くんにとって・・・必要な存在になれるのかな?」「なれるよ。僕には君が必要だ」「・・・ありがとう。嬉しい・・・」水銀燈は両手で顔を覆った。嬉しさで涙が出たことなんて久しぶりだった。
二人は付き合うことになった。
しかし、この時、ジュンは気づいていなかった。水銀燈の息切れは心臓の衰弱によるものだと。つまらない学生生活が加速し始めて、光の速さを追い越してしまうほどに。
一ヶ月ほど過ぎた。蜜月の時は早く、二人の仲は急速に深まっていった。週末、ただなんとなく海へツーリング。水銀燈はジュンのXJRの後ろへまたがっている。「水銀燈」「なあに?」「座り心地―悪いだろ」「そんなことないわぁー」風きり音が酷い中、二人の会話は成立していた。自分の銀色の髪がなびく風を受けて、二人はどこにいく当てもなく走った。休憩所で二人は缶コーヒーを開ける。「命?」バイクに張ってあるステッカーには『命』の文字があった。「ああこれ?これはさ、僕、たまに本気でサーキットや峠を走るんだ。その中でこのバイクには命が乗せて走れるようにって、願かけみたいなもんだよ」「ふうん」見れば車体下のスリキズは多いけれども、手入れは行き届いていて、排気管も綺麗に焼けている。「行こうか」「うん」二人はバイクに乗って走り出した。同じ速度でしかわかりあえない感覚。一緒に走ってこそわかちあえる喜び。
――どうしよう。私、ジュンのこと、どんどん好きになってる。
己の中に矛盾が生じた。一度諦めかけた命なのに。諦めなくなってる自分がいる。好きになって、好きになってくれる人がいる。でも自分の時間は確実に減っていることがわかる。彼はそのことを知らない。
もっと、もっと彼と一緒に話をしたい。
もっと、もっと彼と一緒に過ごしたい。
もっと、もっと彼と一緒に愛を育みたい。
でも、でも私は―――。
ジャンク・・・。
かつてない痛みが水銀燈を襲った。
「わ、私・・・まだ、ジュンに・・・好きって・・・言って・・・な・・・」
ジュンが水銀燈の入院を知ったのは翌日のことであった。
消灯時間過ぎた病院の待合室でジュンは頭を抱えていた。音も無く進む秒針と、非常口案内の光が時間の流れを遅くしている。
気づくことができなかった。一方通行な感情を押し付けていたことも理解した。本当に彼女は自分のことを好きでいてくれたのか?本当に自分は彼女のことを好きだったのか?自分にできることは本当になにもないのか?
『彼女が助かるには彼女に合う臓器が必要です』
臓器移植。まず、ドナーが見つかる確立が限りなく低い。国内では数えるほどしか見つからなく、海外へ求めていく人もいる。まして水銀燈は危篤状態だ。あと数日のうちに見つからなければ、助からない。――それ即ち、死。
死んでしまう。あの水銀燈が死んでしまう。告白してから一ヶ月。思い出せたのは彼女の儚い笑顔。命に関わる病気を抱えているのを知らないとはいえ、いや、借りに知っていたとしても――。「水銀燈を弄んだことにならないか?」視界がぼやけ、床に涙が落ちる。なんて酷い奴なんだ僕は。拭っても拭っても涙は止まらない。「あの、もうそろそろ・・・」見回りに来た看護婦に促され、ジュンは立つ。「ちょっと、電話いいですか?」病院内では携帯電話は使用できないため、公衆電話の受話器を持つ。「・・・僕だ。・・・・うん・・・そうなんだ。・・・ああ・・・時間はない・・・でも・・・そうだ・・・・・・ああ・・・もしそうなら・・・」電話を終えたジュンの視界に黄色いカードが目に入る。「・・・」
夜の道路を一つのヘッドライトが疾走する。アクセルを捻れば、ワイヤーが4連スロットルを開け、キャブレターに空気を吸わせる。吸われた空気は気化器によって燃料と混合され、シリンダー内に無理矢理押し込まれ爆発する。その力を介して、ジュンのバイクはどんどん加速していく。危険極まりないスピードでコーナーを侵入し、膝が擦るほど車体を傾けると、外側に引っ張られてゆく感覚に襲われる。ハイサイド。遠心力で転倒してしまうプロレーサーも多い。「・・・」だがジュンはタイヤをギリギリまで使い、暴れる車体をねじ伏せていく。甲高いエキゾーストノートはまるでジュンの悲しみのように吼えた。
道路脇にある自動販売機に足を止めたジュンは缶コーヒーを一本買った。水銀燈と一緒に飲んだ銘柄。「ちっともうまくない・・・」飲み口に残った線はやがて液体から固体へと変わりゆく。暖かかったコーヒーも今は冷たい。夜空を見上げると、オリオンが情けなく傾いていた。そのせいかもしれない。ジュンが迫り来る巨大なヘッドライトに気づくのが遅かったのは。
夢を見た。苦しいはずの感覚はなぜか穏やかになり、水銀燈の胸をいっぱいにする。――暖かい。まるで、ジュンに抱かれているよう。目が覚めた。見慣れた天井。取り付けられた医療器具の数々。(私・・・生きている?)僅かに首を動かすと己の命のバロメーターを表す機械があった。線の折れ具合から正常であると認識できた。(会いたい・・・ジュンに会いたい)
リハビリが完了するまでの時間はそうかからなかった。
退院の日。水銀燈は看護婦から一枚の紙を渡された。この場所で待ってる。ジュンだ。ジュンに違いない。水銀燈の胸は躍った。小走りすると胸がまだ少し苦しい。歩を進めていくと水銀燈は一つの違和感を覚えた。「ここ・・・。墓地?」頭を掠めた嫌な予感はすぐに振り払った。確かジュンは両親と死別している。今日はその月命日なのだと。高まる鼓動を抑えると、水銀燈は安心した。ジュンのXJRがある。彼の愛用していたAraiのヘルメットも。溢れてくる気持ちに任せるように水銀燈は走り出す。
――会いたい。あなたに。会って伝えたいことがあるの。
「はっ・・・はっ・・・」遠目に見える墓地に一人の少年が手を合わせているのが見えた。「ジュン!」水銀燈は少年に駆け寄ると、少年は立ち上がり、彼女を見た。「ジュ・・・べジータ・・・くん」なぜ?なぜ彼がこの場所に?いいえ、きっと一緒に来て、トイレに行ってるに決まってる。でも、でもそれじゃあ一台しかないバイクは一体?「・・・もういいのか?」「ええ・・・それより・・・ジュンはどこ?」水銀燈は辺りを見回すが人の気配は無い。「桜田か。桜田なら・・・ここと、そこにいるぜ」べジータの示した場所は、一つの墓石と、水銀燈の胸。「え・・・?」
事態が飲み込めてない水銀燈は、目を開くほかなかった。「お前が病院にかつぎこまれた翌日、いや正確には翌々日か。深夜、俺に電話をよこしてな。 もうお前が臓器移植しか助かる道は無いんだと、涙ながらに語ってな。メソメソしてやがるから、 言ってやったんだ。『お前なら自分の惚れた女に命かけることができるか?』ってな。するとあいつ はYESといったんだ。その後・・・」「じゃ、じゃあもしかして私の心臓は・・・」「察しの通り、桜田のだよ。俺は未だに信じることができない。あれだけ狂ったような速度で走るあいつが なんのこともなく、コーヒーを飲んでる最中に酒酔い運転のトラックに轢かれてしまったんだからな。あの XJRも200kmの世界ではジュンを守ってくれても、休憩の時間までは守ってくれなかったようだ」べジータは水銀燈に近づき、バイクのキーを渡す。「お前が乗ってやれ。そのほうがあいつも喜ぶ。免許はあるんだろ?」水銀燈はジュンと付き合っている間、免許は取得していた。鍵を渡されてた手は小刻みに震えている。「じゃあな」
べジータが去ったあと、水銀燈はその場に崩れ落ちた。小鹿のように震えるからだで墓標を見る。水銀燈が手術を受けた前日になっている。――あの術後に受けた暖かい感覚は。「ジュン!桜田ジュンくん!私、水銀燈はあなたのおかげで命を取り留めることができました。あなたのおかげで また普通に生活にすることができます。あなたのおかげで!・・・ぁなたのおかげで私はジャンクじゃなくなった。 私、ジャンクじゃない!ジャンクじゃないから!あなたが残してくれた・・・あなたの心臓で、一緒に生きていたいと 思う。あなたが休むまで!あなたの鼓動が止むまで・・・生き抜いていきたいと思います・・・。私、まだあなたに言って ないことがあるの・・・。私、あなたのことが好き、あなたのことを愛してる!言えなくて・・・私は・・・」
涙で墓標が見えない。
水銀燈はバイクに貼ってある命のステッカーをなぞる。「あなた・・・私と、ジュンの命を重ねて・・・命と命を重ねて、走ってくれるよね?」Araiのヘルメットをかぶり、キーを捻り、スタートボタンを押すとマフラーからズドン!と大きい始動音がした。
べジータは空を切り裂いて飛ぶ飛行機雲を見る。
「ここからが・・・本当の・・・天国になるといいな」
『私、ジャンクじゃない』 ~完~
『あなたにとどけ』に続く・・・
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