「蒼空のシュヴァリエ」第五回
昭和20年三月中旬、鵜来基地。時既に硫黄島の守備隊玉砕が間近となり、米軍の長距離重爆撃機B-29が、それまで航続距離の関係で伴えなかった新鋭戦闘機P-51の護衛を得られるようになり、日本本土への空襲を一段と激化させんとしていた。そして…勢いづいた米軍の次の目標が沖縄に向けられていることが最早疑いようの無くなっていた春先。ここ鵜来基地では、新鋭機紫電改の操縦に慣れてきていた蒼星石が、整備兵2名とともに格納庫の外に並んでいる紫電改の傍で日向ぼっこをしていた。空襲の無い昼下がりのことである。蒼「平和だね…」飛行服姿で地面に仰向けに寝転んでいる蒼星石がつぶやく。雪「空と雲は戦争なんて知りませんわ」オイルまみれの作業服に身を包んで座っている雪華綺晶がそれに応える。同じなりをしている薔薇水晶はかすかな寝息すら立てていた。蒼「それにしても…」傍らの紫電改を横目で眺めながら続ける蒼星石。彼女の愛機の尾翼には、既に23の撃墜マークの桜の花びらが描かれている。年明けの『堕天使』らとの戦闘以来、彼女が増やした敵の墓標。蒼「君達に改修してもらったお陰で、この紫電改の性能も何割も増した気がするよ。ありがとう」雪「あら、罰でとは言え、貴女の手伝いがあったからですわ。この子の肌荒れも昔のことですわね」たわんだ機体金属板を木製のハンマーで叩いてなだらかにする作業は、結局、司令以下基地全員の協力で行われた。その甲斐あってか、全機の改修にかかった日数は予想よりもはるかに短く済んだ。それ以降の空戦では、梅岡小隊長以下三機の紫電改は、順調に敵グラマンを喰い続けている。雪「このまま敵の攻勢が弱まればいいのに…」蒼「そうもいかないさ。何せ硫黄島も危ないんだ。この先は…」空は晴れていたが、二人の表情は曇った。その頃、半地下の無線室では、桜田司令以下通信士二人が机を囲んでいた。ジ「沖縄が危ないそうだな」槐「はい。ここ数日、沖縄方面の敵機動部隊発と思われる電文が引切り無しに傍受されています。 上陸は時間の問題でしょう」白「ただどうも、沖縄防衛担当の我が32軍の状況があまり思わしくありません。昨年の1010空襲で所持する 武器弾薬の大部分を喪失したばかりか、大本営が32軍から精鋭の第9師団を台湾に引き抜いたり などしてしまい、32軍全体の士気はあまり上がっていないものと思われます。また最近の情報では、 沖縄の軽便鉄道で輸送されていた砲弾類が大爆発を起こしたとのことです。長勇参謀長発の 通信によれば、どうも1010空襲以上の損失を出してしまったとか」ジ「県民の疎開は?」槐「軍と県が頑張っていますが…実を言うと、あまり進んでいないのではないでしょうか。 通信分析の結果ですが、疎開船の運用があまりなされていないようなのです。敵潜水艦の脅威こそあれ…。 学童疎開に限っては、昨年『対馬丸』が撃沈された以外、他の百隻あまりの疎開船は無事に 任務を終えているのですが、対馬丸事件が恐らく県民に知れたのでしょう。無理もありません、 県民にとっては、ただでさえ住み慣れた土地を離れる不安は大きいものかと」沖縄では多数の住民が疎開せずに残っている。激戦となった場合、彼らはどうなるのか…ジ「…ここで考えても仕方ないな。沖縄の我が飛行場が早期に敵に占領されないよう祈るばかりだ」白「司令。…恐らく、沖縄の北飛行場・中飛行場は早々に敵に獲られるでしょう」ジ「何!?」白「あくまで…予想ですが。32軍の作戦担当は八原博通大佐です。彼は陸軍きっての戦術家… 恐らく、ぺリュリュー島、そして硫黄島の我が守備隊に学び、敵を一旦本島に上陸させ、 出来るだけ長期間流血を強いる戦法を採るでしょう。そうなったら、飛行場の防衛までは 手が回りますまい」槐「…」ジ「しかし…長期戦となれば住民が…。」白「…まだどうなるかは分かりませんが。少なくとも、沖縄が早々に陥ちれば、敵は次に沖縄以北…九州 あたりの上陸を目指すでしょう。時間稼ぎです。沖縄は…本土のために在る、ということでしょうか」槐「それだけではありません。敵に飛行場が制圧された場合、…恐らく実行されるであろう我が特攻作戦 に重大な支障が生じます。敵迎撃機が沖縄に配備されれば、特攻作戦は事実上機能しなくなるでしょう」ジ「…分かった。ありがとう」重苦しい顔で席を立ち、無線室を出ようとした桜田は、思い直したように振り返った。ジ「…しかし、君達の情報収集及び分析能力には驚いたな。前から思っていたが…君達は何者だ?」槐「自分らは陸軍中野学校出身であります」ジ「そうか。上層部は陸軍の優秀な人材を我が航空隊に回してくれたのだな」白「痛み入ります」同じ頃、太平洋上の米空母「キティホーク」あの日の空戦以来、水銀燈は空戦に出ることを拒み続け、個室に篭っていた。ベッドに横になって思い返すのは、少女だった頃の記憶。…ある晴れた日のこと、15歳を迎えた水銀燈が自転車に乗ってサイクリングを楽しんでいると、少し離れた湖畔に教会を見つけた。正直なところ、彼女は教会があまり好きではなかったが、いつも通わされている教会とは違い、飾り気の無いその教会に彼女は気を引かれた。自転車を降り、鍵のかかっていない扉から中に入ると…彼女は驚いた。見慣れたキリストの磔刑の像がこの教会には無かったからだ。見ると、最前列の長椅子に、彼女と同じくらいの年頃の少女が座っていた。驚きと興味をかき立てられた水銀燈がその少女のもとへ歩み寄ると、祈りをささげていた少女が顔を上げ、水銀燈に微笑んだ。彼女は名前をメグと言った。メ「こんにちは。初めて会うわね」銀「こんにちは…」メ「ここに来るのは初めて?」銀「ええ。…何だか不思議な気分だわ」メ「…なるほどね。貴女カトリックでしょう?」銀「ここはカトリックの教会じゃないの?」メ「この教会はパブテスト教会よ。磔刑像はここにはないわ」水銀燈はパブテストという単語を聞いたことが無かった。銀「磔刑像が無いですって?」メ「ええ。…この教会には偶像は要らないの」 銀「…」主キリストの像を偶像と言い切る人間を、水銀燈は見たことが無かった。メ「あらごめんなさい。カトリックの貴女には受け入れ難い話よね…」銀「いいのよ。カトリックと言っても親が熱心なだけだし。嫌な親。私は違うわ」メ「あら。と言うことは、貴女は神を信じていないのね」銀「もちろんよ。何?貴女も私のことを不信心者とでも言うの?私の親みたいに」メ「そんな事は無いわ。貴女はとても素直なの。そう感じていても不思議は無いわ」銀「…そうなの?」メ「ねえ。神って何?」銀「!?」水銀燈は面食らった。改めて思えば、そんなこと考えたこともなかった。銀「…像、じゃないわね。…イエス様?」メ「私はそうは思わないわ」銀「…じゃあ誰よ」メ「イエス・キリストは確かに偉大な人だわ。偉大だけど…彼は人間の預言者よ。 絶対的な、と言う意味では、彼は神ではないわ」銀「…」メ「カトリックはニケーア候会議でイエスを神格化した。それは教会の権力を絶対化した」銀「…」カトリックに反発を覚えていたとはいえ、水銀燈もこの話を中々受け入れがたかった。メ「私…思うの。神って、多分私達、人そのものだと」銀「!?」再び水銀燈は面食らった。パブテストとはそんな教えを広めているのだろうか。メ「あくまで私の考え…だけどね。でもそうでしょう?いくら世界が広いと言っても、私達が 肉体をまとって生きている以上、この世界は、私達の五感を通じたものに過ぎないのよ。 つまり、私達人間の主観というものを通さずして、世界は成り立たない。例えば、チャップリンの 喜劇を見て『おもしろい』と思う人もいれば『退廃的でけしからん』と思う人もいるわけでしょう。 貴女の目に映る世界は、貴女自身が創造している世界なのよ。そして世界は人の数だけ在る。 だから…絶対的な神なんていないと思うわ。イエスも…自分が神格化されることを望んでいたとは思えない」 銀「…結局人は他人とは理解しあえないのね」メ「だけど良く考えてみて。目に映る世界がその人が創造している世界だとしたら…他人が 実は自分自身だとは思えてこない?さっきも言ったように、この世界は人それぞれの主観を通して しか存在しない。ある対象…人でもモノでも芸術でも音楽でも何でもいいけど、それに対して感じる ことって人それぞれでしょう?つまり…貴女が見たり聞いたりして心で感じたことは、貴女自身の 内面が投影されているってことなの。『人は鏡』ってことよ。ううん、人だけじゃない。貴女が見た モノ、絵画、聞いたニュース、音楽…それらを見たり聞いたりして貴女が何かを『感じた』ならば、 それらは鏡なのよ。この世界は鏡の世界なの。すごいと思わない?もし人々が、他人のことを、鏡に 映った自分自身だと理解するようになれば、争いなんて起こらないわ。そこは神々に溢れた、 永遠の楽園なのよ」銀「…難しいわね」メ「そうね。分かるわ。貴女が鏡の前に立って右手を上げるとするわね。では問題。鏡に映っている のは誰?」銀「…私よ」メ「ご名答。では、鏡に映っている貴女が上げている手は右手?左手?」銀「…左手?」メ「そう、そうなのよ。…おかしいとは思わない?鏡に映っているのは紛れも無く貴女自身なのに、 上げている手が全く逆だなんて。貴女が上げたのは右手。だったら鏡の中の貴女も右手を上げて なくちゃおかしいでしょ?ありのままを映し出すべき鏡が、実は反転したモノを映し出して しまうの。それは現実世界という『鏡』でも同じ」銀「…」メ「でも貴女は正答を言い当てたわ。どうしてかしら?それは、『鏡に映っているのが真に貴女自身』 だと理解しているからよ」銀「そぉ…ねぇ」メ「もし、貴女が貴女自身の姿を分からなかったとして、それを知りたいと思ったら、貴女はどうする?」銀「…鏡を見るでしょう?」メ「そうね。そこで話が元に戻っちゃうんだけどね。つまるところ、私達人間は、自分自身の事を何も 分からないのよ。貴女は自分自身のことをすべて知ってる?」銀「…分からないわ。知ってたら苦労はしないわ」メ「そう。貴女だけじゃない。みんなそうよ。自分だけでは自分自身のことが分からないの。だから 人は孤独を嫌うの。そして…鏡を見るのよ。自分の『主観』に彩られた、自分の世界という『鏡』をね。 だけど…洗面所にある『鏡』に映っている自分なら自分として理解できるけど、自分の『主観』 という鏡に映ったヒト、モノを、果たして私達は自分自身として理解できるかしら?貴女が『嫌』だと 感じている貴女のご両親を、『ご両親は貴女の嫌だと思うことを映し出す・教えてくれる 鏡』だと、貴女はすんなり受け入れるかしら?」 銀「…」メ「私達が見ているものは、右手と左手の例みたく全て反転しているの。だから、『人は鏡』だと言っても、 中々そうは思えないようになってしまうの。だから…人は自らと自らでないものを分けてしまう。 自らを分けるから『自分』って言うのよね。『自分』…つまり『我』があるから、人の世に 争いは絶えないのよ。だから私は、人は『我』を無せば楽になると思うわ。 『かがみ』の『が』を無くせば、人は神なのよ。 鏡を通して自分自身を知っていく。良い悪い関わらず、感じたことを全て自分自身だと思って 受け入れる…。そうすれば人の苦しみの根源、『葛藤』は消えてしまうの。全ては一つ。他人なんていない」銀「…こんなにおしゃべりな娘は始めてだわ。言ってることは分かるような…だけどぉ」メ「あら、私にとって貴女は、『ひねくれている』私を映し出してくれる鏡よ。天使さん」水銀燈が、体の弱い少女メグと友達になった瞬間だった。ドアが乱暴に開かれる音で、水銀燈は現実に引き戻された。顔だけは知っている参謀がそこに立っていた。「いつまで戦闘を拒否し続けるつもりだ。これ以上は営倉行きを覚悟せねばならんぞ」「…」「明後日、我がSBD(ドーントレス)爆撃隊は総力を挙げてヒロシマのクレに停泊している敵艦隊の攻撃に当たる。 お前にも飛んでもらうからな」「…はい」ドアが閉まり、再び静寂が訪れた。「…ごめんなさい、メグ。私、神になんてなれないわ。…だって私、『堕天使』ですもの…」天使は美しい涙を流していた。
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