216メートルの星空
生温い日であった。暑いわけではなかったし、湿度の高い日であったわけでもない。ただ、そのような日だった。 金糸雀はそんな日の深夜にわざわざ家を抜けだしとあるビルの屋上へとやってきていた。天体観測をしようと、友に呼び出されたのだ。本来ならば断るのだが、この友人と会えるのは織姫と彦星のように年1回であった。少し無理をすれば何時でも来れるとは言っていたが、金糸雀は死人に鞭打つ気はなかった。 つまり、今日しか会えないのである。 空に星が煌めき出すのを見ても、金糸雀は自転車を漕ぐスピードを早めることはなかった。多少遅れても彼女は怒らないし、彼女の二の舞いになるつもりは金糸雀にはなかったからである。 結局金糸雀が目的のビルに着いたのは、約束の時間を47分程過ぎてからだった。無駄に高くて星に近い場所である。「遅れたかしら」金糸雀は悪びれることなく、そう告げた。「お待ちしていましたわ」 赤い赤い彼岸花の影から彼女は姿を現した。彼女は正しく幽霊だ。「雪華綺晶、お土産かしら」 金糸雀は白いコスモスを彼女、雪華綺晶に手渡した。昼間、花屋から頂いたソレは綺麗だった。一輪だけというのはいまだに慣れない。だがいくつも持っていくのは流石に失礼だと金糸雀でも思う。 「花は食べられませんよ」「食用じゃないかしら」 雪華綺晶が真面目に言うので金糸雀は真面目にそう返事をした。 久々に会ったが積もる話のない二人は大人しく天体観測を始めていた。金糸雀としてはあることないこと雪華綺晶に話したいのだが、雪華綺晶は何時も金糸雀の近くにいるので話す内容がない。話好きの金糸雀としては少々物足りない。 「天体観測は嫌いですか?」「嫌いじゃないけど、星を眺めるだけじゃつまらないかしら」「眺めるだけではありません。天体観測とはもっと深いものですよ」「そんなことより人は死んだら星になるってのは実際問題どうなのかしら?」 雪華綺晶は唇に人差し指をそっと当てて首を横に振った。だが、金糸雀は雪華綺晶のそんなしぐさを見ることなく星を見ていた。 しばらくすると金糸雀は天体観測に飽きてきた。集中力のない金糸雀には天体観測は向いていないようである。 無意味な沈黙が二人を包んでいた。雪華綺晶は白いコスモスに目を落とし、金糸雀はビルの下を走る車のライトを眺めだしていた。星空など、二人は見ていなかった。 さあっと冷たい風が吹いて、赤い彼岸花がゆらゆら揺れたのを雪華綺晶は目の端でとらえた。 真っ暗な空に星と月が輝き、ビルの屋上を真っ赤に照らし出していた。真っ赤な彼岸花が咲いているのだ。恐らく彼岸花は槐あたりが育てたものだろう。「死んだら星になるなんて嘘かしら」「あら。どうしてそう思われるのですか?」雪華綺晶はゆるゆるとした表情を浮かべ、金糸雀は笑って答えた。「だって、雪華綺晶はここにいるもの」「別に何時もここにいるわけじゃありませんよ」 雪華綺晶は笑わなかった、笑えなかった。そしてここにはいない、と呟いた。空を見上げると、夜空にはまだ星が見えた。「帰りましょうか、そろそろ」 雪華綺晶は咲き乱れる彼岸花を一本手折ると金糸雀に差し出した。「私たちがいるべきところへ、かえりませんか?」 未練がましい自縛霊は何も答えずに彼岸花を受け取った。そしてビルの端までゆっくり歩くと、下を走る小さな車に向かって彼岸花を落として一言「お断りかしら」小さな呟きは雪華綺晶にはもちろん届かなかった。聞かせるつもりもなかった。 「今年こそ一緒にいけると思いましたのに」「まだまだ不安すぎるのかしら。みっちゃんも槐さんも水銀燈も翠星石に蒼星石に真紅に雛苺に薔薇水晶にジュンにのり……その他たくさんも、みんな心配でカナはまだここに居たいかしら」 すぅっと雪華綺晶の向こう側が見えた。町の光が美しく輝いている。金糸雀はソレを指差し雪華綺晶に言葉を放つ。「ほら見るかしら、町が光って星みたい。星は空から地上に落ちた。だから死者が空にいる時代はもう終わったのかしら」星空のような町はなるほど確かに星空であった。はぁ、と彼女の呆れ果てた溜め息が漏れた。「お好きにどうぞ、としかいえませんわ」「もちろん好きにさせてもらうかしら」ゆらゆらと雪華綺晶の輪郭が揺らいでいく。だからこそ雪華綺晶は優しく微笑んでいるように見えていた。「そろそろいかせてもらいますわ。また、お会いしましょう」 返事も待たずに雪華綺晶は星明かりのような煌めきを一瞬見せて、かき消えていた。金糸雀は星空を見上げて、しかし何も喋る事なく、町の光に目を落とした。「カナはカナの場所に戻るだけかしら」 誰に言うでもなくポツリと呟くと赤い彼岸花と町の明かりの向こう側に、金糸雀はトントンと跳ねるように走り出した。そしてビルの転落防止の金網をすり抜けてふわり、と町に飛び下りた。 そして町の明かりのような輝きを一瞬見せて、いつの間にか金糸雀の姿は消えていた。 ビルの屋上の赤い赤い彼岸花が風に揺られていた。そこにはもう誰もいなかった。生きている者はもちろん、死んでいる二人もいなかった。別々の同じ場所にかえっていったのである。 おしまい
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