『パステル』 -オーベルテューレ-
一連の騒動から、1ヶ月―― さしたるトラブルもなく、時間は滔々たる河口の流れのように過ぎて、4月。各々が、同じような日々を繰り返し、それぞれの人生を少しずつ刻み続けていた。 大学の春休みも残り僅かとなった、第二土曜日。雛苺は、早朝の日が射し込む自室で、イーゼルと向かい合っていた。正しくは、イーゼルに立てかけた40号のキャンバスと、である。そこの描かれた油絵は、完成と言って差し支えない出来映えだ。 「……うん。バッチリなの」 手抜かりがないことを確認。左下隅に自分のサインを描き込んで、満足げに頷く。それは、スケッチブックの下絵をキャンバスに起こした、茶畑の風景画。アルバイトを終えて帰宅した後に、こつこつと描き進めてきたものだ。製作期間は、およそ2週間を費やした。 「あとは、これを無事に届けるだけね」 搬送手段については、昨夜のうちに、約束を取り付けてあった。そろそろ来るかなと壁掛け時計に眼を移した、その直後――タイミングよく、自宅前に車が停まる気配。続いて、インターホンが鳴る。雛苺は部屋の窓を開けると、テラスに身を乗り出し、来客に向けて手を降った。 「うよーい! 待ってて、すぐ行くのよー」「慌てなくていいわよ。時間なら、まだ余裕あるしぃ」 門扉の前に佇む水銀燈が、機嫌よさげに手を振り返してくる。黒いレザージャケットに、ブルーデニムのジーンズ姿だ。素が色白だからか、彼女には黒系がよく似合う。 水銀燈の後ろに停めてあるのは、あの夜とは違う車。黒いボディーのスポーツセダン……彼女の趣味が窺える。その助手席には、うっすらと笑みを浮かべる薔薇水晶の姿もあった。 水銀燈が、雛苺とジュンを伴って槐邸に戻ったのは、めぐの絵を描いた翌日。あのときの会話を、雛苺はいまでも、昨日のことのように思い出せた。 それまでの非礼を詫び、正体を明かした水銀燈。『家族ごっと』は終わり。彼女は明言しなかったけれど、言わずもがなだ。けれど、しがみつく薔薇水晶の健気さに絆され、突き放すこともできずに――依然として、ぬるい『家族ごっこ』を続けている。あの頃と違うのは、水銀燈が働きに出て、家主の槐に家賃を納めだした点か。 して見ると、あれは水銀燈なりの照れ隠しではなかったかと、雛苺は思う。奇妙な同居生活も、慣れてしまえば、安らぎを生む。彼女なりに、受け容れてもらえる温かさを、居心地よく感じていたのだろう。仕方ないからと言うのは、所詮、お為ごかしだ。 梱包はしないまま、雛苺はキャンバスを抱えた。小柄な彼女にとって、40号というサイズは嵩張って持ちにくい。 「うんしょ、うんしょ……と、とと……ぴぎゃっ?!」 絵をぶつけないよう注意していたら、部屋を出る際、ドアの角に足の小指をぶつけた。ツメが割れて、血が出たかも知れない。視界が涙で滲むけれど、絵だけは濡らすまいと、唇を噛んで堪える。数分をかけて、どうにか玄関を出た雛苺は、絵と共にリアシートに収まった。 車中では、お喋りに花が咲いた。娘が3人寄れば、それも仕方のないことだ。様々な話題の中でも、とりわけエイプリルフールのことで盛りあがった。水銀燈の発案によるドッキリ大作戦が、決行されたときの話である。 「私と先生が結婚すると言ったら、薔薇水晶ってば、すっかり信じちゃって。 先生が演技上手だったのもあるけど、この娘も呆れたおバカさんよねぇ」 それについては、雛苺も、よく知っていた。困惑しきって半泣き状態の薔薇水晶が、相談の電話をかけてきたからだ。しゃくりあげ、呂律の回らない声を聞いたときには、雛苺も一緒になって狼狽えたが、よくよく話を聞く内に、なんとなく、からくりが見えたのだった。 「ばらしーってば、すっごく動揺してて、まともに話せなかったのよ」 水銀燈と雛苺に、ニヤニヤと笑われて、当時の心境を思い出したのだろう。薔薇水晶は顔を真っ赤にしながら、ツン、と唇を尖らせた。 「もぉ……ヒドイよ。あんなの洒落になってない」「ごめんねぇ。先生にベッタリな貴女を見てたら、つい、からかいたくなっちゃってぇ」「……むぅ~。あ、でも」 頬を染めたまま、薔薇水晶が照れ笑う。「銀ちゃんなら――」 「私なら、なぁに?」「お母さまって……呼んであげても……いい、かも」「バカなこと言ってるんじゃないわよぉ」「えー。妹、欲しいな」「……しょうがないわねぇ。じゃあ、私と先生の共同作業で、作ってあげるわ」「お人形を、って言うんでしょ」「大当たりぃ。先生お手製の人形で、我慢しときなさぁい」 すげない。愛想よく語らっていながら、取りつく島もない。しかし、馴染むと、それでこそ水銀燈――と思えてくるから不思議なもの。そんな彼女のひねくれた性根を、雛苺が揶揄する。 「銀ちゃんって、好きな子ほど虐めたくなる性分なのよねー」 途端、バックミラー越しに見る水銀燈の双眸が、妖しく細められた。「ふふ……そうよぉ。お気に入りのオモチャで遊ぶのは、当然じゃなぁい」 言って、意味深長に「次のターゲットは……」なんて。水銀燈の冷たい笑みを向けられると、なぜか冗談に聞こえない。しかも、そこに薔薇水晶まで面白がって和するから、余計だ。 「楽しそう。言ってくれれば……手を貸す」「それは妙案ねぇ。たまには、協力プレイも面白そうだわ」「うよ……。2人とも、眼が笑ってないのよ?」 ――などなど。他愛ない会話をしているうちに、車は喫茶店『ジョナサン』の駐車場に滑り込んだ。土曜日の午前中、開店から1時間も経たずに、もう3台の車が停まっている。ますます商売繁盛しているようだった。 「あ! やーっと来たかしらー!」 仕事をこなしながらも、ちょくちょく駐車場を見張っていたのだろう。ジョナサンのドアが開けられ、カウボーイスタイルの金糸雀が駆け寄ってきた。その姿を認めて、水銀燈もパワーウィンドウを下げる。 「もー。遅くなるなら連絡して欲しいかしら。 事故でも起こしたのかって、サラと心配してたんだから」「ごめぇん、朝の渋滞に捕まっちゃってぇ。ギリギリ、アウトだったわねぇ」 口ぶりに悪びれた感じはないが、本気で申し訳なく思っているらしい。水銀燈は、拝むような仕種をして、金糸雀にウインクを飛ばした。 「ん……まあ、仕方ないかしら。渋滞じゃ不可抗力だし。 みんな無事に着いてくれただけでも、幸いと喜んでおくかしら」 金糸雀は、両手を腰に当てて、小さく溜息を吐いた。本来のスケジュールでは、開店前に運び込んで、お披露目のはずだったが……こうなっては是非もなし。お客がいるのに、模様替えなんてできない。 「ともかく、ひと休みしていくかしら。渋滞の中のドライブで疲れたでしょ。 朝食は? ちゃんと食べて来たかしら?」「お茶だけ頂くわぁ。真紅のところにも、顔を出さなきゃならないしぃ」「諒解かしら。じゃあ、その絵は、閉店まで真紅の家に保管しといてね」 ――しかしながら、女の子が『お茶だけ』で済ませられるはずもなく。メニューの写真と言えども、甘い物を見れば、別腹が騒ぎ出してしまう。結局、誘惑には抗いきれず、ケーキセットも追加して小腹を黙らせた。 その後、水銀燈と薔薇水晶は、予定どおり真紅の家へ。絵のことは彼女たちに任せ、雛苺は急遽、別行動を取ることにした。と言うのも、『ジョナサン』に翠星石と蒼星石の姉妹が、顔を見せたからだ。 今朝、茶畑の絵が届くと聞かされていたから見に来た――とは、翠星石の談。搬入が間に合わず、飾られていないと知ると、双子の姉妹は残念そうに項垂れた。 「ま、しゃーねぇです。お楽しみは、閉店後まで取っておくですよ」 しかし、そこは気持ちの切替が早い翠星石のこと。クサクサしてても仕方がないから、茶畑に行かないかと、雛苺を誘った。無論、雛苺に異論などない。ジュンや、めぐにも会いたいと思っていたから、渡りに船だった。 細い林道を、翠星石の運転する軽自動車で、登ってゆく。軽トラの荷台に乗って、お尻が痛くなったことは、まだ記憶に新しい。 ――あんまり、変わってないな。 春のよそおいを見せだした森に、ライム色の瞳を彷徨わせつつ、雛苺は思った。利便性を追求するなら、もっと拡幅すべきなのだろうけど、話はそう簡単ではない。林道とは言え、拡幅して舗装もとなると、工事資金はかなりの額となる。その他にも煩雑な問題があって、右から左といかないのが現実だった。 約1ヶ月ぶりに訪れた茶畑は、鮮やかな緑に彩られていた。これでも、もう新芽を収穫した後なのだと、翠星石に教えられた。こんなに広い面積の茶樹ひとつひとつを、手摘みしたそうだ。そのほうが、茶葉の品質を、均一にできるのだと言う。 観光気分もそこそこに、雛苺たちは管理棟に向かった。めぐとジュンは、元気にしているのだろうか。ジョナサンを借り切って、身内だけの披露宴が催されたのは、もう半月前になる。雛苺は、ささやかな光景を、脳裏に甦らせようとした。 が、彼女の思索は、近づいてくる声に邪魔され、元のモヤモヤに戻った。見れば、2匹の子犬がキャンキャン鳴きながら、転がるように駆け寄ってくる。ピンと立った耳、くるんと丸まった尻尾、茶色い毛並み……柴犬らしい特徴だ。 「おおー、レンピカにスィドリーム! 今日も元気ですねぇ。 インテル入ってるですぅ? あ、このハッスルぶりだと、フリスクのほうですかね?」 よく分からない呼びかけをしながら、翠星石は、嬉々として屈み込んだ。じゃれついてくる子犬を両手に抱きあげ、満面の笑みで、もふもふと子犬に頬ずり。子犬もよく馴れたもので、左右から、翠星石の顔を舐めたくっている。「やめるですー」と黄色い声をあげる姉を、蒼星石は隣で、にこやかに眺めていた。 「そのワンちゃんたち、2人の飼い犬なの?」「いや、違うよ。飼い主は、ジュン君たちさ。番犬として飼い始めたんだ」「命名は、私たちですけ……わ、ぷ。こら、レンピカ! 喋ってるときに、口元を舐めまわすんじゃねーですよっ」 はしゃぐ翠星石を見ても明らかだが、犬がいると、セラピー効果などが望めて都合がいい。シカやイノシシも、犬の吠え声や臭いがすれば、不用意には近づかないだろう。また、不審者の接近も、察知しやすい。 子犬たちの騒ぐのを聞きつけたらしく、管理棟のドアが、徐に開かれる。そして、ひょい……と。ジーンズにフリースジャケット姿の女性が、顔を覗かせた。 「めぐさーん。遊びに来たのよー」「あら、雛苺。いらっしゃい」「ジュンは買い出し?」「仕事中よ。長閑な田舎暮らしっぽいけど、これで意外に、雑用が多くて」 眩いばかりの微笑み。死を予感させる翳りなど、片鱗も見出せない。めぐは、生き生きとしていた。張りのある肌の血色も良く、生命力に溢れている。 「元気そうなのね。安心したのよ」「おかげさまで、どうにかね。毎日が充実してるから、かな」「発作は、起きてないの?」「不思議なことに、緊急入院するほどの発作は、あれ以来、一度もないわ」 あれ以来――とは、あの絵が描かれてからを指しているに相違ない。「適度な運動をするようになって、心臓が鍛えられてるのかもね」 冗談めかしているが、めぐの言うことも、あながち間違いではないように思える。だが、なによりの要因は、生きたいという彼女自身の意欲なのだろう。溌剌として見えるのも、内面的な健全さが現れ出たものだ。 「ま、とにかく入って。お客さんに、お茶くらい出さなきゃ失礼だものね」「ありがたいですが、私と蒼星石には、おかまいなくですぅ」「先に、茶畑の様子を見回ってきたいからね。お昼ごろに、寄らせてもらうよ」「ん、わかった。じゃあ、後でね」 随分と仕事熱心なことだ。いかにも、管理主任らしい。それだけ自分たちの仕事を愛し、誇りをもって携わっているのだろう。翠星石と蒼星石は、朗らかに笑って手を振り、立ち並ぶ灌木の中へと消えていった。そんな彼女たちの後ろを、2匹の子犬が、跳ねるように追いかけてゆく。見送る雛苺の口元も、自然と綻んだ。 「お、来たな」 ドアを潜るなり、かけられた親しげな声。気心の知れた仲ならではの挨拶だ。ジュンは、リビングのソファに座って、防虫ネットの破れ目を繕っていた。早くも、夏に向けての準備を始めているらしい。 「うよーい。ジュンも元気そうね」「いつもどおりだよ。幸い、身体のほうは無駄に丈夫なんでな」「それって、すごく贅沢なコトよね。そう思わない?」 めぐがキッチンに向かいがてら、口を挟む。持病を抱える彼女からすれば、普通に生活できることが、贅沢に感じられるのだろう。健常者には理解しがたい憧憬が、2文字に凝縮されている様子だった。 「……まあな」 通り過ぎる彼女の背に相槌を打つと、ジュンはネットを脇にやって、仕事の手を休めた。「それじゃあ、ここらで少し、勤労感謝の時間とするか」 なんだか、体よく休憩の口実にされてしまった感があるが、そこはそれ。彼なりの気づかいなのだろうし、雛苺は勧められるまま、テーブルを挟んだ席に座った。それを待って、徐に、ジュンが口を開いた。 「歩いてきたのか、おまえ」「まさか。ジョナサンで、翠ちゃんたちと会ったから、送ってもらったのよ」「ああ……だよな、うん」「ジュンたちも大変なのね。週に一回くらい、麓まで買い出しに行くの?」「いや。毎日、誰かしらは畑の手入れに来るからな。頼んでおけば、翌朝には運んでくれるよ。 工場とここを、荷物運搬用のロープウェイで結ぶ計画も進んでる」「めぐさんは、どうやって病院に?」「見てないのか? このすぐ近くに、ヘリポートを新設したんだ」 有栖川大学病院には、医療用ヘリでの救急搬送システムがある。万一の際は、それで病院まで運んでもらえるよう、設備を整えたのだと言う。「真紅は、よくしてくれてるよ」と、ジュンは締め括った。 「今更だけど、この1ヶ月、ホントにお疲れさまだったのよ」 まあな、と。雛苺の労いに、ジュンが鼻で吐息して、口の端を吊り上げる。就職先への内定辞退、結婚、この管理棟での新生活……彼にとって、これまでの人生で、最も繁忙激動の3月ではなかったか。 「勤めるはずだった会社の人事部長、随分と僕を気に入ってくれてたらしくてさ。 新人研修が始まるって寸前の辞退に、すごい剣幕で怒鳴られたよ。ふざけるなって。 でも、ちゃんと理由を話したらさ、分かってくれたんだ。 別れ際に、しっかりな……って。僕の肩を掴んで、励ましてくれたよ。 ポケットマネーで、ご祝儀までくれたんだ。たかが新卒の青二才にだぜ?」 だから――と、ジュンは続ける。「これしきで音を上げてなんか、いられないさ。もっともっと、僕は頑張るよ」 そこに折りよく、三つのティーカップを乗せたトレイを携え、めぐが戻ってきた。彼女の左手の薬指には、銀色の薔薇が、輝きを放っている。いまの会話を聞いていたらしく、めぐはカップを置きながら、ジュンに話しかけた。 「頑張るのもいいけど、ほどほどにね。身体を壊したら、元も子もないわ」「そりゃ、僕の台詞だろ。あんまり無理するなよ」「私はいいのよ。元から壊れてるんだし」 さらっと質の悪い冗談を口にしてしまうのは、さびしんぼうの名残りなのか。めぐが、『しまった』と言わんばかりの顔をする。ジュンは、そんな彼女の手を握って引き寄せ、隣りに座らせる。そして、優しく微笑みかけた。 「大丈夫だよ。きみは、壊れない」「…………そうね。あなたが守ってくれるから」 またぞろイチャつく2人に、「お邪魔してますなのよー」と。雛苺はジト~っと白い目を向けつつ、嫌味を言った。しかし、当の本人たちには、どこ吹く風。意に介した様子もない。諦めて、雛苺はキョトキョトと周りを見回して、話題を変えた。 「ところで、あのパステル画は、どこかに飾ってあるなの?」「ああ。アレなら、2階の寝室にあるよ」「朝起きて、すぐ眼にとまる場所がいいと思ってね」 寝室とはまた、気が利いているのか、いないのか。まあ、2人で夢を見たり、希望を語らう場所だし、飾るには相応しいのかも。 「そうそう。雛苺が来たら、訊こうと思ってたのよ」 ティーカップを手に、そう切り出したのは、めぐ。彼女は、見えるはずもない絵を眺めているかのように、天井を仰いだまま続ける。 「私に絡みついてる骸骨だけど……あれ、女の子でしょ?」「うい! 大正解なのよ」「え? そうなのか」 毎日、眼にしているにも拘わらず、ジュンは気づいていなかったらしい。「なんで解ったんだ」と訊ねる彼に、めぐは自分の腰のあたりを、指差して見せた。 「骨盤はね、男女の違いがハッキリ判る部分なの。あの骨は、女性のものよ」「……へえ。よく、そんなこと知ってたな」「長く入院してるとね、そういう知識も、自然と増えるものなのよ。 入院患者は暇を持て余してるから、すぐ病気自慢とか始めちゃうわけ。 手術痕とか、見せっこしたりね」 めぐは懐かしむように、穏やかな笑みを湛えながら、そう語る。けれど一転、対座する雛苺を、挑むような眼差しで刺した。 「あれは、もう一人の私なのよね。死にたがりの、わたし――」 前途に望みはなく、いつ来るとも知れない苦痛に怯えて……いつしか、めぐは夢なんて単語さえ、くだらないと思うようになっていた。考えるのは、美しく散り逝くことだけ。 「彼女はね、いつも私に囁きかけてきたわ―― ねえ、あなた。いつまで、こんな牢獄に繋がれっぱなしでいるの? 生きてたって苦しいだけ。辛いわよ。誰も、あなたを救ってはくれない。 みーんな離れていくの。彼らにとって、あなたは役立たずの重石。 お為ごかしを口にしながら……白々しく気づかう素振りなんかして…… その実、哀しげな顔の裏では、あなたを疎んじているのよ。 厄介払いしたいって、誰もが思っているのよ。彼だって、もう来やしない。 みんなウソばっかり。なんて寂しい。なんて虚しい。哀しすぎるわ。 でも、わたしは違う。ずぅっと、そばにいてあげる。 あなたと一緒に、死んであげる。 ここに縛られているのも、もう飽き飽きでしょ? さあ、自由になるのよ。 そうよ。死は甘美な誘惑。一度きりしか味わえない、甘い果実。 一緒に食べてしまいましょう。やりきれない生活なんか捨てちゃって。 わたしたち、死んでも一緒よ。寂しいコトなんて、なにもないわ。 ――ってね。 私も、その気になってた。いつ死んだっていいわ……なんて。 いまにして思えば、『小人閑居して不善をなす』ってヤツよね」 けれど、めぐは、その結末を選ばなかった。誘惑に乗らなかったのは、なぜ?それは多分、本当の自分をさらけ出せるほど気を許せる存在に、巡り逢えたから。ココロに鬱積した寂しさと悲しさを吐き出しても、黙って受け止めてくれる親友に。 「水銀燈との語らいは、冥冥として何も見えない世界で、たったひとつの道案内だった」 めぐと、水銀燈。どこかで共鳴し合っていた2人。つまるところ、それは相互依存と呼べる仲なのだろう。癒されるための。 洗いざらいを吐いてしまうと、世界が違って見えた……と、めぐは言った。なにもかも、曲解。感傷で曇り、歪んだレンズを透して写された、虚像。見捨てられた? とんでもない。差し伸べられる手を、自分から遠ざけていただけ。寂しくて、縋りつく腕を求めていながら、他人の想いを信じ切れずに……死を条件にしてまで、相手の純粋さを試さずにはいられなかった。その結果の孤独だ。 「それで」ジュンが小首を傾げて、呟く。「僕に、メールを?」めぐは頷いた。 「ええ。冥路の出口で逢えたのは、あなただったから。 ……なんて言うのは、都合のいい脚色だけれど、それに近い夢を見たのはホントよ。 だから、目を醒ますなり、携帯電話を掴んでた」「どんなメール、送ったなの?」「それは、ナイショ」「僕たち2人だけの秘密だ」 まったくもって、2人の間に好きはあっても、隙がない。ぴったりと合わさった、インカ帝国の石垣のようだ。それだけ意気投合できている……ココロの深い部分で繋がり合っている、と言うことか。 2人はきっと、数多ある選択肢の中の、ごく僅かな正解に、辿り着けたのだろう。雛苺は、そんな彼らの関係を、羨ましく感じていた。 ~ ~ ~ 夕方、雛苺は翠星石らと共に、帰路についた。通い慣れた道とは言え、夜の林道を走るのを嫌ってのことだ。 麓へは、ものの30分で着いた。しかし、寄る予定だったジョナサンは夕食の時間とあって、えらい混雑ぶりだ。金糸雀と、アルバイトと思しい女の子が、キリキリ舞いしているのが見えた。 「いま立ち寄るのは、遠慮しといてやるですかね。武士の情けですぅ」 キミは、いつから武士になったのさ――なんて蒼星石の指摘は、馬耳東風。翠星石の運転する車は、ひとまず、真紅の邸宅へと向かった。 ~ ~ ~ 「そう言えば――」 真紅の家に集った6人で、和気藹々とテーブルを囲んでいるとき、ちょっとした会話の切れ間を縫って、蒼星石が雛苺に話しかけた。 「あの、不思議なパステル……いまも使ってるのかい?」 みんなの視線が、チラと壁に掛かる真紅のパステル画へと走り、ブーメランのように、雛苺の顔に戻ってきた。 「うと、ね」妙な雰囲気に圧されながらも、雛苺が口を開く。「あれはもう、ヒナの手元にないのよ。あげちゃったから」 雛苺の語るには、3日前、絵のモチーフを探して街を歩いていたら―― 「曲がり角でね、若い男のヒトと、ドシン! って、ぶつかっちゃったのよ。 そのヒト、荷物を抱えてたんだけど、弾みで車道に落っことしてね。 運悪く、ちょうど走ってきた車に、踏みつぶされちゃったなの」 男性が持っていたのは、36色セットのアクリル絵具。これから会いにゆく友人――恋人への、誕生日プレゼントだったと言う。雛苺は平謝りに謝って、弁償すると申し出たらしいのだが…… 「そのヒト、『僕も不注意でしたから、どうかお気になさらず』って言うのよ。 だけど、ヒナ、ホントに申し訳なくって、泣きたくなっちゃって」「それで、あのパステルを変わりに、と?」 真紅に問われて、雛苺は首肯した。 「うい。せめてものお詫びにって、押し付けるみたいに渡しちゃったなの。 3回の魔法は使い切っちゃったし、もう普通のパステルだもの」 確かに、そうだ。もう悪用されるおそれもない。誰が使おうと、ただのパステルにすぎないのだから。 「彼女さんと、幸せになってくれてたら嬉しいのよー。えへへ……」 満面の笑みで話す雛苺に、呆れたような視線が注がれる。けれど、それもすぐ、温かい眼差しに変わっていた。らしいと言えば、欲のない雛苺らしい。 「きっと、貴女の願いは叶ったのだわ」 真紅が、予言者のように瞑目して告げたのと、ほぼ同時。玄関のほうから、金糸雀とサラの賑々しい会話が、夜風に乗って流れてきた。 愉しい週末のパーティーは、これからが本番。彼女たちが織りなす物語もまた、始まったばかりだった。 ~ ~ ~ 「やあ。どうだい、調子は?」 片手を挙げ、軽い調子で話しかけてきた青年を見るなり、その乙女は破顔した。年端もいかない幼女のように、嬉々として、可憐な唇から言葉を紡ぐ。 「ようこそ、白崎さん」 実際、彼の訪れを待ち侘びていたのだろう。彼女の瞳には、恋をしている者に特有の熱が、秘めやかに宿っていた。 「毎日、お仕事帰りに、私のような者のところへ立ち寄るなんて…… ずいぶんと奇矯なご趣味ですのね」「いやはや。困ったことに、僕は極度の暇人なもので」「深く打ち込める趣味の、ひとつふたつ持てばいいのに」「君に会いに来るのが唯一の趣味……と言うのは、キザすぎですかねえ」「いささか難あり、かと。歯が浮きすぎて抜け落ちます」 冷ややかに言いつつも、乙女の顔に浮かぶ喜色は、さらに濃くなる。白崎と呼ばれた青年は、愛想よく微笑んで、スーツの上着を脱いだ。そして、ワイシャツの袖を捲りながら、彼女が向かっている机へと歩み寄る。 「それで、雪華綺晶。今日は、どこから手伝えばいいのかな」「では……この原稿のペン入れから、お願いします」 言って、彼女――雪華綺晶は、数枚のマンガ原稿を差しだした。それを恭しく受け取りながら、白崎が訊ねる。「締め切りに、間に合いそうかい?」雪華綺晶は、形のいい顎に指を当てて、うーんと唸った。 「今回はフルカラー原稿なのでキビシイですけど、なんとか、ギリギリ……」「意地を張らずに、アシスタントの1人2人、雇っちゃどうだい」「ダメです。まだ印税だけで食べていけるほど、売れっ子じゃないんですから。 それに――」「――それに……なに?」「いえ、なんでも」 雪華綺晶は、ぷいっと白崎から顔を背けて、描きかけの原稿と向き合う。「そんなコトしたら、あなたが来てくれなくなるじゃありませんか」なんて、口の中でモゴモゴ呟きながら。 「ん? なんか言ったかい?」「い、いえいえいえ! なにも言ってませんよ?」「……はて? モゴモゴと、声が聞こえた気がしたんだけどな」「なんでもありません! 欠伸を噛み殺しただけですっ!」 「どうして怒るの」「怒ってないからっ。さあ、早く作業に取りかかってくださいっ。さあさあさあ!」「はいはいはい」 空とぼけているのか。それとも、本当に聞こえなかったのか。飄々とした白崎の態度からは、どうにも判別が付かない。雪華綺晶は顔を紅くして、頭から湯気を上げながら、ペンを持つ手を震わせた。しかし、その手で線を描き損じてしまう前に、 「ああ、ところで――」 白崎が、如才なく話を変えた。「あのパステル、使ってみてくれたかな」それは数日前、雪華綺晶の誕生日に、彼がプレゼントした物だ。 「ええ。試しに、トビラ絵を塗ってみました。なかなか、使い勝手のいい品ですね」「そりゃよかった。残りのページも、徹夜でガンガン塗ってもらわないとね。 明日は日曜日だし、張り切っていこうか。今夜は寝かせないから、そのつもりで」「白崎さん……担当さんより鬼です」 嬉しいのか、哀しいのか、判らなくなる。雪華綺晶は頬杖を突いて、小さく吐息した。とは言え、結局のところ一緒にいられるだけで、彼女は満足だったのだけれど。 小一時間ほど過ぎた頃、再び話しかけられ、雪華綺晶は現実に引き戻された。椅子に座ったまま半身を捩ると、背骨がコキコキ鳴る。振り返れば、ちゃぶ台で作業する白崎が、原稿を片手に雪華綺晶を見ていた。 「なにか、変な箇所が見つかりました?」「いやいや。次回は、なかなかキナ臭い展開なんだな……と、思ってね。 これから本格的に、アリスゲームもバトルモードに入っていくのかい?」「それはヒミツですよ。アイデアも商品の内ですので」「だよね。こりゃ失礼」 アッサリと引き下がって、白崎はまた、ちゃぶ台に広げた原稿と格闘し始める。そんな彼に、ふ……と微笑を投げかけて、雪華綺晶が腰を上げる。 「……ですが、まあ。白崎さんになら、教えてあげても――」「ほう。それは光栄だね。しかし、一体どういう風の吹き回しかな」 白崎の、切れ長の眼差しに、好奇が満ちる。雪華綺晶は、ちゃぶ台の前に正座して、彼と向かい合った。 「ちょっとした打算、でしょうか」「と、言うと?」「アイデアにも、好不調の波がありましてね。たまに、行き詰まっちゃうの。 いわゆる、スランプですか」「僕に、今後のストーリー展開を教えるとは、つまり――」「ネタに困ったら、私と一緒に考えてください……という意味です」 それに、こういう約束をしておけば、声を聞きたいとき電話する口実になるでしょう。――なんて、雪華綺晶は俯いて、唇を手を隠しながら、ごにょごにょと口ごもる。白崎は怪訝な顔で、わずかに身を乗り出した。 「なんだい?」「い、いえいえいえ! 別に、なにも」「……いま、なにか言ってたじゃないか」「なんでもありませんっ!」 「どうして怒るの」「怒ってないからっ。さあ、休憩は終わりですっ。さあさあさあ!」「はいはいはい」 ついさっきも、同じやりとりをした。それに気づいて、どちらからともなく笑みを零す。 「まぁ、僕でよければ、相談くらい乗るけど」「ホントに! いつでも?」「もちろん、いつでも」「きっとですよ。約束ですからね」 雪華綺晶は念を押しながら、ぴょんと跳ねるように立ち上がって、再び机に向かった。鼻歌まで唄って、とにかく上機嫌だ。そのハイテンションは、明け方、彼女が机に突っ伏して眠るまで続いた。 ~ ~ ~ 「はてさて、これは意外な流れになったものです」 寝息を立てる雪華綺晶の背にコートを掛けながら、白崎は独りごちた。彼の双眸は、机の隅に置かれたパステルの木箱へと注がれている。 これが雛苺の手に渡るよう、周到に根回ししたのも。偶然の事故を装い、彼女の手から、これを回収したのも。すべては、白崎の退屈しのぎ。賢しい思惑によるものだった。 「傍観者のままでいるつもりでしたが…… 物語を綴る側に立ってみたら、また違った趣があるかも知れませんね」 利用し、利用される。情けは人の為ならず。持ちつ持たれつが、この世の常。 「前のお嬢さんは、我欲に狂うほど世俗にまみれていませんでした。 あなたは、どうなのでしょうね……雪華綺晶」 覗き見る雪華綺晶の寝顔に、邪な印象はない。けれど、外見に似合わず狡猾な一面を隠していることを、白崎は知っている。手を加えずとも、雛苺のケースとは異なる結末を、迎えられるだろう。しかし、白崎の影響力で、雪華綺晶を操れるとしたら―― 「力尽きて倒れるまで、激しく踊り狂わせてみるも一興。 よしんば、その逆だったとしても……それもまた面白い。 くくっ……いましばらく、愉しませてもらいましょうか。美しいお嬢さん」 含み笑って、白崎はまた、原稿に手を着け始めた。これから始まる新たな劇を、どう演出していくか思案しながら――
イーニー ミーニー マイニー・モー神様の言うとおり……
Das Ende ……?
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