『星合にて』
いつもながらに、思うことがある。浴衣が似合う女の子というのは、どうして、こうも後ろ姿が色っぽいんだろう。ウチワを片手に少し前を歩く彼女が、艶やかに写る。それは決して、僕の贔屓目じゃない。 駅ビル前に広がるロータリーから、JRの線路と平行して伸びる、細い道路。両側を、昔ながらの風情を残す商店街が軒を連ねる場所に、僕らは居た。これでも、れっきとした県道だ。車の往来も、けっこう激しかったりする。 でも、午後6時を過ぎて、車が撒き散らす騒音は、別の喧噪に取って代わられつつあった。歩行者天国になるや、待ちかねたとばかりに、どこからか人が溢れてきたからだ。すぐに路上は混雑の坩堝と化して、僕たちは自然と、身を寄せ合った。 「すごいな」 それが、僕の率直な感想。他には言葉が出てこない。隣を歩く彼女も「そうねぇ」と、はだけた浴衣の襟元を、ウチワで扇いだ。行き交う人の流れは、牛の歩みかと思うほどに緩慢そのもので。人いきれと、焼けたアスファルトから放たれる熱気に、否応もなく汗が滲んでくる。 これだから、ごった返すところって、あんまり好きになれないんだよ。口の中で転がした呟きを、しっかり聞かれていたらしく、彼女が噴きだした。周りの喧しさに紛れるだろうと、高を括ってたんだけど……甘かったか。 「相変わらずねぇ。来たばっかりで、もう帰るなんて言っちゃ嫌よ」 「……言わないって。そこまで無粋じゃないつもりだし」 「そうそう。一年に一度のことだものぉ。楽しまなきゃ!」 だよな。そう切り返して、僕は残照が彩る、始まったばかりの夜空を仰ぎ見た。 商店街のアーケードは、色とりどりの照明と、煌びやかな装飾で満ち溢れている。簾みたいな飾り物は長く垂れ下がって、ちょっと腕を伸ばせば、楽に触れるほどだ。それらが一斉に、夜風になびくと、ざあぁ……ざあぁ……。押し寄せるさざめきが耳に流れ込んできて、僕の胸裡に、水が砕ける様を彷彿させた。 「ああ、そうか」 僕の呟きを、彼女は今度もまた、聞き取っていた。「なんのこと?」どんだけ地獄耳なんだよ、こいつ。これじゃあ、迂闊なこと喋れやしない。内心、舌を巻きながら、僕はなに食わぬ顔で頭上を指さした。 「この大きな吹き流しみたいなヤツさ、なんのために飾られてるか、知ってる?」 「えぇ? なんのためって……うーん。そんなこと、考えてもみなかったわぁ」 「僕もだよ。いま、なんとなく思いついたんだ」 彼女は相も変わらず、僕がナニを言いたいのか、掴みかねている様子だ。頬に手を当てて、小首を傾げ、眉で八の字を描いている。そんな彼女を、ニヤニヤしながら眺めていたら―― 「もぉ……焦らさないで。イジワルぅ」 「ごめんごめん。別に、困らせるつもりじゃなかったんだって」 彼女の拗ねた顔が、意外に可愛らしく見えたのは、どうしてだろう。『夜目遠目笠の内』ってヤツかな? それとも、僕は、まさか―― 意識すると、なんだか急に、目を合わせるのも気恥ずかしくなって。僕は、周りの景色を眺めるフリをして、彼女から顔を逸らした。 「もしかしたら、天の川を模してるんじゃないかな」 ――今宵は、七夕。天の川に隔てられた恋人たちが、一年に一度だけ、逢うことを許される日だ。 「風に揺れる音を聞いてたら、なんか、水の流れがアタマに浮かんでさ」 「あぁ……そう言われてみると」 彼女は周囲の混み具合も憚らず、足を止めて、瞼を閉じた。この場所に氾濫するすべての物音に、じっと耳を傾けている。 そんな彼女を、僕は傍らで、じっと観察して。そんな僕らを、人々は右に左に、避けてゆく。なんだか、川の中にポツンと突き出した石の気分だ。 「いいかもぉ」 いきなり、彼女が口を開いた。本当に、突然のことで、僕は対応しきれずに。「なにが?」訊ねたマヌケな声は、彼女の「もう!」という切り返しに、掻き消された。 「川のせせらぎってイメージが、よ」 「あ……そっちか。でもさ、我ながら、こじつけが過ぎるなって感じだけど」 「風流で、ステキだと思うわ。それに、私――」 彼女は言いかけて、意味ありげな間を置いた。そして、くるり……と。続けられるだろう言葉を待つ僕に、背を向けた。 「――ううん。やっぱり、いいわぁ」 「はあ? なんだよ、拍子抜けするなぁ。言えよ」 しつこく訊いても、彼女は「なんでもなぁい」「教えなぁい」「やぁよ」と、のらりくらり。結局、僕のほうが根負けした。 「もういいよ。それより、ここじゃ通行の邪魔になってるし、行こう」 「ええ。あ……待ってぇ。香ばしい匂いがするぅ」 言われて、鼻をヒクつかせると――なるほど、旨そうな匂いが。見れば、歩行者天国の両脇に、露店が点在している。テントに吊された電球の周りを、小さな甲虫が、うるさく飛び回っていた。 「なんか買って食べようか」 温い風に運ばれてくる、焦げたソースの匂いに触発されて、僕は切り出した。元から、そのつもりだったから、夕飯は食べてきてない。いい加減、僕のほうが空腹に堪えかねていた。 「えっとぉ~、そうねぇ」 彼女は立ち止まって、きょときょと……。めぼしい店がなかったようで、力なく、頭を振った。 「まだ、いいわ。もう少し見て回りましょう」 言って、彼女は僕の隣に並んで、馴れ馴れしく肩を寄せてくる。「よせよ、暑っ苦しい」と押し返すけれど、なに食わぬ顔で、僕の手を握った。 「つれないこと言っちゃ嫌ぁよ。こうして歩くの、久しぶりなんだもの」 「……ったく、しょうがないな」 彼女の言うように、2人で七夕の夜祭り見物をするのは、ひさしぶりだった。子供の時分には、毎年のように、一緒に来てたっていうのに。いつからだろう? それを当たり前だと、思えなくなり始めたのは。 ある事件がキッカケで、僕が不登校になった頃から……かな。ほんの些細な亀裂は、いつの間にか、飛び越えるには広くて深い谷になってたのかも知れない。近くにいるから、ココロの距離も変わらないと――甘える僕を嘲笑いながら。 「じゃあ、適当に、露店を冷やかして回るか」 ひとまず、辛気くさい考えごとは中断。童心に帰って、祭りの夜を愉しむとしよう。僕の誘いに、彼女も満面の笑みで応えてくれた。 露店は、食べ物関連がほとんどだった。たこ焼き、●●風お好み焼き、焼きそば、カキ氷、あんず飴、チョコバナナ……ああ、綿菓子に、焼きもろこしもあるんだな。とにかく枚挙に暇がない。 彼女はと言えば、喧噪から離れた路肩の縁石に座って、綿菓子を食べていた。上品に指でちぎっては、もくもくと口に運んでいる。でも、そんなしたら指がベタベタになるだろうに……思慮が足りないから困る。 僕は、手にしたウチワで彼女を扇いであげながら、その仕種を眺めていた。なにげなく見た彼女の首筋は、うっすらと汗ばんで、祭りの灯りを映している。あまりの艶やかさと、襟元から見え隠れする胸の質量に……思わず、生唾を呑んだ。こいつ、意外に胸でかい――じゃなくて! ナニ考えてるんだ、僕は。 僕の様子に気づいた彼女は、ナニを勘違いしたのか。「食べたいの?」やおら、綿菓子を一口サイズにちぎって、僕の唇に当ててきた。 なんだって押しつけがましいことするかな、こいつは。これじゃ、口を開かないワケにいかない。でも、素直に食べてやるのは面白くない。ちょっとの悪戯心と、せめてもの意趣返しに、彼女の指ごと、ぱっくり銜えてやった。彼女は可愛らしい悲鳴を上げて、手を引っ込めた。 「もぅ! なんてことするのぉ」 「おいおい、涙目になるほどのコトか?」 「だってぇ……こんなの初めてで。ビックリしちゃったんだもの」 まさか、こんなにも怯えるだなんて……。正直、予想外だった。こいつのこと、よく知ってるつもりだったけど――所詮は驕りか、独りよがりか。 「悪かった。ごめん」 彼女は、眦に溜まった雫を指で拭って、気丈に笑みを浮かべてくれた。 「いいわよ、もう。それより、あれ見て」 「え? なに?」 彼女が指さす先には、鈴なりの短冊にしなった竹が立てられている。どうやら、自由に短冊を吊していいコーナーらしい。そばに置かれたテーブルには、サインペンと短冊が、ブリキ缶に収められていた。 「私たちも、記念に書いていかない?」 「やだよ。だいたい、あんなの書いて喜ぶのは、小学生までだろ」 「んもぉー、イケズぅ」 ――と、拗ねてみたのも刹那、彼女は柔らかい笑顔に戻って、僕を見た。 「だけど、こういうのも愉しいね。また来年も、一緒に来られたらいいなぁ」 「はぁ? なに言ってんだよ、バカ。僕はイヤだね。お断りだ」 冗談じゃない。僕は即座に、遠慮会釈なしに、すげなく突き返した。「なにが悲しくて、毎年毎年、お前と七夕見物しなきゃならないんだよ。 来年こそは、カノジョ作って見にくる予定だってのに」 言って、僕は彼女に背を向け、歩きだす。 「え? あ……どこ行くのよぅ」 「気が変わった。短冊、書いてくる」 「待って待ってぇ。じゃあ、私もぉ」そして僕らは、短冊に願いを書き綴った。なんてことない、ささやかな願望を。 「ねぇ、なにをお願いしたの?」 「そっちこそ、なに書いたんだよ」枝垂れた竹に短冊を結わえ付けながら、お互いの手元を覗き込むと―― 【姉ちゃんが、いいヤツと出逢えますように】 【ジュン君に、可愛いカノジョさんを紹介してあげてくださいっ】 こんなとき、やっぱり姉弟なんだなって痛感する。まったくもって、バカげてる。でも、僕らが交わした自嘲は、いつしか自然な笑みに変わって……。 星合――か。来年の今頃は、それぞれの運命の星に、巡り会えているんだろうか。空を仰ぎ、そうであれと願う僕らの上を、一陣の夜風が吹き過ぎてゆく。それは、川のせせらぎのように――なにかが始まりそうな予感を、もたらしてくれた。
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