夢の続き~フィラメント~
雨が降っている。そんなに強く降ってはいない様子だったから。『このまま濡れてしまうのも悪くないかしら』などと、およそこの場に相応しく無い事を私は考える。なんだか可笑しかった。 あなたは私の手をとる。私の、右手。 あなたは何を考えているだろう? 私はあなたに手を握られる度、こんなことを考えていたの。 私の右手は、冷たいかしら。それとも、まだ温かいのかしら。 今は、どう……? 涙が零れた。あなたは泣いているの? どうか、泣かないで頂戴。 そんなことを思った私の頬にも。 今はまだ熱を持った、涙がつたっている。―――――― さあ、物語はこれから。それを見届けていただければ―――私ですか? 私はただの、道化のウサギです。とある世界の、とある、……誰かの記憶を、お伝えする道化師。これは、誰かが見た、記憶なのです。 それでは、しばしの幕間、お楽しみを……――――――
朝の光が、眩しかった。何処か遊びに行きたい気分だったけれど、生憎今日は休日ではない。学生の身分が少しだけうっとおしい。「おいし……」朝の目覚めは、一杯の紅茶から。砂糖は入れずに、ミルクを少々。美味しく飲むならば、やはり香りを楽しまなくては。 さあ、行こう。学校はうっとおしいだなんて、行く前に少しだけ考えるような瑣末な感情だ。今日も楽しい一日になるだろうか。 門をくぐる頃、見知った二人の姿。「あ、おはようですぅー!」「やあ、おはよう真紅。今日も早いね」「ええ、おはよう」翠星石と蒼星石。相変わらず、仲の良い二人だ。「朝は余裕をもって登校するのが美徳なのだわ。 まあ、誰かさんは今日も遅刻ぎりぎりなのかしらね……」「あー。あの娘達はしょうがないのですぅ。毎朝毎朝、よく飽きも せずにトラブルに巻き込まれるもんですぅ」私と蒼星石は、それを聞いて苦笑する。
「そう言えば聞きましたか? 今日はクラスに転校生がやってくる らしいですー!」そう言えば、梅岡先生がそんなこと言っていたような。ただ、別段大事が起きるというわけでもないし、それほど気にしてはいなかったのだった。「男の子と女の子、どっちでしょうねー。 なんだか楽し……や、別になんも気にしてませんけど!」わざわざ言い直さなくていいことを訂正する翠星石。この娘ときたら、見てて微笑ましくなるくらいに、他人には素直にならないというがる癖がある。もっとも、それは。本人の優しさや……そして弱さ。その裏返しになっているんだということを、私達は知っている。二度目の、苦笑。「あー! 何笑ってやがるですか二人とも!」「ふふ、なんでもないよ翠星石。さ、行こう」蒼星石に促されて、私達は教室へと向かった。
「ま、間に合ったのかしらー!!」「なのー!」席について暫くしたあと。間もなくホームルームが始まろうかというところに駆け込んでくる、いつもの二人。「全く、何時までたっても成長しないおばかコンビですぅ。 で、今日は何があったですか?」半ば呆れ顔で、肩で息をする金糸雀に翠星石が話しかける。「うう……今日はカラスに追いかけられてたのかしらー…… なんでこんな目に遭ってしまうのかしら。 頭脳明晰の私を妬む、誰かの陰謀なのかしら!」「うぃ。金糸雀は動物に好かれるのねー」ころころと笑う雛苺。ちなみに彼女は、金糸雀が家まで迎えに来てくれるのをいつも律儀に待っている。……というか、寝てる。何らかの災難(天災、と言って良いレベルかもしれない)に見舞われる金糸雀は、泣く泣く雛苺の家へ辿り着き、彼女をたたき起こすのだ。よっていつも、彼女達は遅刻ぎりぎりとなる。 雛苺が、それに巻き込まれるのすら楽しんでいるように見えてしまうのは。天性の無邪気さ故なのだろうか。せめて起きて待ってれば良いのに。だが、それを何故だか憎むことは出来ない。金糸雀自身、それについて愚痴を言ったことは無いのだった。「カラスに好かれるのは、嬉しくないかしら!」ぎゃーぎゃーと騒ぐ金糸雀。いつもの光景だった。まあ、うるさいながらも。こんな状態が、この教室の幕間なのだ。 ふぅ。ちょっと溜息を漏らす私の表情は、やわらかいものになっているのだろうか。
梅岡先生が教室に入ってきた。「えー、前にも言ったと思うが、今日は転校生を紹介するぞー。 さ、みんなに挨拶して」男の子、だった。「えと……桜田ジュン、といいます。 みなさん宜しくお願いします」パチパチと、拍手で歓迎。そんな中、私は彼から目を離すことが出来なかった。誰にも聴かれないような声で、呟く。「ジュン……?」「うーん……思ってたよりもチビなやつなのですぅ。もっとこう、 背が高くて男らしい感じの方が……って。 真紅、どうしたのです?」翠星石に話しかけられる。「え……ええ。何でもないのだわ」嘘。私は、もう薄れそうになっていた記憶を、辿ろうとしていた。
『ありがとう、ジュン。あなたははわたしの「しもべ」ね。 わたしのおねがい、きいてくれるんだもの』『ええっ。なんだかやだよ、それ。 よくわかんないけど』 幼い頃の記憶。まったく、『下僕』だなんて言葉を、当時の私は何処から知識として得たものだか。 私と彼は、もともと近所に住んでいて。二人でよく一緒に遊んでいた。見て分かる通り、私は女の子で、彼は男の子。普通、遊ぶ趣味なんかかぶる筈もないのだが、彼は確かお姉さんが居て、お人形遊びなんかに付き合わされていたようだった。 彼のすごいところは、遊ぶときの人形の服を、絵として描いてしまえる点だった。かわいいドレスなどを描いている様子を、飽きもせず眺めていたのを覚えている。 一度、お気に入りだった人形の腕が、取れてしまった事があった。どうしようもなく、わんわん泣いていると。彼が裁縫箱を取り出してきた。『こうやって、お姉ちゃんがなおしてたんだ』ちくちく、ちくちく。時々指に針を指してしまいながら。彼は人形の腕を、くっつけてくれた。その出来は、お世辞にも素晴らしいとは言いがたいものだったけれど。私は喜んだ。壊れた人形が、直ったのだと。
『じゃあ、けっこんね。 わたし、ジュンのおよめさんになってあげるのだわ』だめ? ちょっとお願いしてみた。私は彼のことを、好きだったに違いない。彼がそれを意識していたかどうかは、わからないけど。『それならいいよ。じゃあ、ぼくが真紅の「おむこさん」かな』……違う、のだが。その辺はよくわかってなかったらしい。けれど、その言葉が嬉しかった。『い、いいわ。じゃあ、わたしがジュンをもらってあげる』約束ね。私は、右手を差し出す。彼もそれにならう。『指きりげんまん、うそついたら――……』遠い日の、約束だった。 それから間もなくして彼は、親の仕事の都合で海外へ引っ越してしまった。彼がそれを親からよく聞かされてなかったのかどうかは定かではない。ただ、引っ越す前日も。いつもどおり遊んで、いつも通りに次の日会う約束をして。そうやって、別れたのだった。 彼ともう会えず、かといってどうすればいいのかもわからず。私は泣きに泣いて。愚図ってふさぎこんでしまった。 でも、いつまで泣いていたって仕方のないこと。彼はもう、行ってしまったのだから。それからの私は、普通に女の子と一緒に遊び、次第に彼のことは忘れていく筈だった。 約束を、胸に秘めたまま。
昼休み。私は彼に話しかけようとする。「……」なんて言ったらいいものか。『久しぶりね、覚えているかしら?』などと、軽い感じでいったらいいのだろうか。いやいや。覚えているのかなんて言って、もし忘れられてたら。それはそれで悲しい。では、さりげなく新しいクラスメイトとして、話しかけようか。いやいや、それもなんだか…… らしくない。何か行動を起こすときに逡巡するのは、およそいつもの自分では考えられないことであった。「折角案内してやるっていってるですー! ありがたくついて来やがれってんですよ!」「どんな誘い方だよ! そんな迷惑なら別にいいよ」「むきー! 生意気言ってんじゃないですよ、このチビー!」「な、なんだとこの性悪女! いきなり会った人間に対してその態度は無いだろ! ってか、お前のほうがチビじゃないか!」「うわーん蒼星石ー、このチビが言うこときかないですー」「なんだそりゃー!」
……。どうやら私が話しかけるのをためらっている間に、翠星石が彼に校内案内を持ちかけたようだ。 彼女のことをよく知っている人間なら、あの言い方に悪意が無いことがわかる。学校のことをよく知ってもらおうという親切心から話しかけたに違いない。だが、如何せん。誘い方が悪すぎる。「むきー!」「うがー!」まだ言い争っている。だが、その間に蒼星石が割って入っているので、クラスの人間はあまり心配していないようだった。翠星石の扱いで、彼女の右に出るものは居ない。 みんな苦笑い。どうやらこの転校生はうまくクラスに印象づいて、うまくやっていくことが出来そうだ。 と、席の後ろにいた薔薇水晶が、囁いていた。「……なんだか、いいコンビ……」
教室での幕間 結局、その日。私はジュンに話しかけることが出来なかった。数日経った後も、とりたてて会話をする機会はなく。彼は彼で、クラスには随分馴染んだ様子だった。 こういうを、人徳というのだろうか。彼は人当たりが良いという訳ではなかったけれど、何故か周りに人が寄ってくる。翠星石とは相変わらず口喧嘩が多かったが、彼も彼女の性格をわかってきたらしく、本気で怒っているような様子では無かった。「真紅ー! ちょっとこっち来るですよ! みんなでお弁当食べようなのですぅ」翠星石が呼んでいた。数名が集まっていて、そこにはジュンも居る。「いえ……ちょっと気分が悪いの、ごめんなさい。 皆で先に食べてて頂戴」そう言って、教室を出た。「うゅ……最近の真紅、元気ないのねー……」寂しそうに、雛苺が言う。「そうね、何かあったのかしらー。 ここはクラス一の頭脳派の私が、問題解決に乗り出すかしら!」「金糸雀がしゃしゃり出たら余計にこんがらがるですぅ」「ひ、ひどいかしらー!」喧騒。いつもの光景の中。桜田ジュンは、教室を出て行った女生徒を、注視していた。
保健室。担当の先生が居ないようであったから、勝手に休ませてもらおう。言葉とは不思議なもので、出任せでも『気分が悪い』と言ってしまったら、本当に体調が悪くなってきていた。『病は気から』というのは言い得て妙だ、全く以って。症状を自覚した途端、なんだか熱っぽくなったような気もする。フラフラとした足取りでベッドに倒れこむ。 暫くして。ガチャリ、と。誰かが入ってきた。「……ジュン?」彼だった。昼食はどうしたのだろう、……いや、そうじゃなくて。あれ……なんだか頭が働かないのだわ……「真紅、なのか?」話しかけてくる。「真紅は私よ。私は私」何を言っているんだろう。こんなことが言いたいのではない。頭が、うまく働いてくれない。「えっと……なんて言うか」ええい、もどかしい。「ジュン」「えっ」「お久しぶりね、ジュン。 私のことを覚えているかしら」ああ、頭がふらふらしてきた。なんだか、とてもぼんやりしている。
どうして居なくなってしまったの? どうしてあなたから話し掛けてくれなかったの? どうして? どうして?心の中で渦巻いていたもやもやを、全部吐き出してしまいたい。今、声を出しているのだろうか。「真紅」「どうして? どう……」「真紅!」声が止まる。「ごめん」一言、彼は謝った。「忘れてた、訳じゃないよ。言い訳になっちゃうけど、引越しのときは自分でもよくわかってなかったから」「なんていうか……見違えた。最初目にはいったとき、真紅だとは思わ なかったよ。なんか、きれいになってて」なんだか話し掛けづらかった、という弁である。いやはや、どうにも。そう言った彼の顔が、紅くなっているのがわかった。「ふふ……酷いのだわ。私は直ぐ気付いたって言うのに。 それと、その褒め方は英国式なのかしら」そう言って、少し笑った。彼は恥ずかしいのか、何も答えられない。
そんな様子を見ながら、私は気になっていることと言えば。「じゃあ覚えてる? 約束……」「約束?」そこまで彼が覚えているかはわからない。ここで確かめるのは不安であった。だけど、これから。時間はたくさんあるのだ。「いえ、何でもないのだわ!」そっぽを向く。「なんかその言い方も、変わってないなあ」「ふふ。でもとりあえず、こっちに戻って来たんだから、 何か最初に言わなければならないのではないかしら?」ちょっと意地悪く言ってみた。「ん……ただいま、真紅」「ええ。おかえりなさい、ジュン」 それから。私と彼は、よく話せる仲になった。いや、『戻った』と言った方が良いのだろうか。『幼馴染だったですか!? なんだかずるいですよ、真紅……』小さい頃の付き合いが発覚したとき、何故か翠星石が少し(いや、かなりか)ぶーたれていたのだった。
その日。久しぶりに、ジュンの家へ遊びに行った。「おいし……」彼の淹れてくれた紅茶に対し、思わず感嘆の声を漏らす。「そうか、良かった」嬉しそうな、彼。穏やかな時間だった。これも、ひとつの幕間。 ふと、部屋の隅に置いてあったものに気がつく。「まあ、これはランプね。しかも、随分古い……」アンティーク・オブジェというものだろうか。綺麗な薔薇の絵がガラス面に描かれた、古めかしいランプが置かれている。 「それは、向こうで暮らしている時に買ったんだ。 古いけど、まだ使えるかな。長く使ってたから、ちょっと わからないけど……」点けてみる? と彼が聞いてくるので、それに頷く。 ランプに灯がともった。カーテンを閉めて、部屋の電気を消す。「きれいね」「うん、本当に」思わず、その光に見とれてしまう。 昼白色の明かりが部屋に満ちていく。光はこんなに温かいのに、何故か私は感傷的な気分になっていった。
「芯……」「うん?」「芯よ、ジュン。このランプも、蝋燭も。電球の光だって。 は全てが光っているのではなくて、 中にある細い細い芯が。光っているのだわ」光を見つめながら言う。彼は何も答えない。「この細い芯が切れてしまったら……全て暗くなってしまう。 きっとあっけなく、消えてしまうでしょう」「……」「頼りない、光なのだわ。 いつか……芯が消えるように、事切れて。 たとえどんなものでも。無くなって、しまうのかしら」 遠い昔に起こったこと。私は今も、彼のことが好きなのだろう。だけど、あの時の約束の芯は、もう消えてしまったのかもしれない。
遠い昔に起こったこと。私は今も、彼のことが好きなのだろう。だけど、あの時の約束の芯は、もう消えてしまったのかもしれない。「真紅」彼がこちらを向いている。差し出された、右手の小指。「ジュン……?」これは。あなたは、覚えているの?「指きり。昔、したよね」ええ、ええ。確かに、したわ。「僕は覚えてる。けど、真紅の今の気持ちは…… だって、昔のことだか――」彼が言い終わる前に。その小指を、私の小指で結び返す。「馬鹿ね。忘れていたのかと思っていたのだわ」声が震える。 と。ランプの灯が消えてしまった。芯が……燃え尽きてしまったのか。だけど。薄暗い部屋の中、私と彼の小指は、離れなかった。
後日。とかく学生というものは、校内での恋愛話というものに敏感だ。私と彼が付き合い始めたという話を聞いて、一番驚いたのは翠星石。「う……悔しいけど、お似合いの二人なのですよ」複雑そうな表情を浮かべながらも、祝福の言葉をくれた。彼女はジュンと、とりわけ仲の良い感じであったけれども。ひょっとしたら、彼の事を好きになっていたのかもしれない。「真紅、幸せになりやがれですよ、ですぅ!」笑いながら言う。まるで結婚式に向けられた言葉のようだったが、私は嬉しかった。 その後の日常は変わりなく。とりたてて友人との関係が悪くなることも無かった。毎日が楽しい日々で。いつの間にか、朝起きた時にいつも感じていた少しのうっとおしさも、感じなくなっていた。 こんな日が、いつまでも続いていけば良い。私と彼が灯している芯が。いつまでも消えなければ、良かった……
――― おや、またお会いしましたね。 折角なので。道化のウサギの話に、少し耳を傾けていってください。 親の都合で海外へ在住していた少年、桜田ジュン。 そして彼の事をずっと覚えていた少女、真紅。 これは、そんな二人が紡いでいる物語です。 少年の帰国によって、二人は幼いころの気持ちを確かめ合い、 恋仲になることが出来ました。 楽しい時というのは、それこそあっという間に過ぎるものです。 さて、人は。……その楽しさ『過ぎた』ということを、 いつ実感するものなのでしょうか。 貴方は、如何ですか? さあ、それでは。この二人の幕間を、 このまま最後まで見届けて頂ければと思います……―――
【夢の続き~フィラメント~】そして幕間の続き 休日、彼と一緒に何処かへ遊びにいこうということになった。年甲斐もなく楽しみで、前の晩からよく眠れなかったほど。 その気分が、私の注意力を散漫にしていたのか。それとも、早く会いたいという気持ちが、気をはやらせていたのか。 昔と違って今は、彼と私の家は離れている。バスを使って、待ち合わせ場所に向かう。そろそろバス亭というところで、反対側の歩道を、向こうから歩いてくる彼の姿を車内で見つけた。
早く、早く会いたい。もう、すぐそこに彼は居て。それだけで嬉しさが溢れてくる。 停留所で、停車。急いで前方の出口から飛び出す。バスの前を横切り、二車線の車道を渡ろうとする。「ジュン!」そして私は、停車していたバスに追い越しをかけようとしていた車の存在に、気付く筈も無く、 叫び声が聞こえた。 でも、何を言ってるのかわからない。 消える。芯が、消える。 わたしが、わたしで無くなっていく――
――――――――――――― バチン! 僕は自分が引っぱ叩かれたことに気付くのに、暫く時間がかかった。「どういうことです、ジュン! 彼氏のあんたがついてながら、どういうことです!」怒鳴る翠星石。 真紅が事故に遭った翌日。とりもあえず容態が安定して、集中治療室から彼女が搬出されてから、彼女にずっとついていてあげようとした。しかしそれは病院の規則として通らず、結局外来のソファで夜を明かした。結局眠れず、朝になって急いで彼女のもとにいったのだけれど。真紅は目を、覚まさない。学校にも連絡がいったようだ。放課後を待たず、友人の面々が病院へ押しかける。「あんたがついてながら…… 真紅が目を覚まさなかったら、許さんです……」そう言ってぼろぼろ泣く翠星石。「翠星石。ジュン君は悪くないよ」蒼星石が宥めようとする。「そんなことは……ぐすっ、わかってるです……」「うん。真紅が眠ってるんだ。静かにしよう」そう言って蒼星石は、翠星石の頭を撫でた。 何も言い返せなかった。あの時、僕が真紅の姿をもっと早く確認できれば。僕の声が間に合っていたら。そもそも、遊びに行く約束なんてしなければ―― 今更後悔しても遅いことを、考えたところでどうしようもない。降りかかる自責の念に潰されそうだった。 僕は、真紅の手を握る。命に別状が無いと、医者から言われていたとしても。彼女が起きるのを、この目で確かめたかった。 ぎゅっ、と。握る手には、何時の間にか力が籠められていた。
――――――――――――― 夢、なのだろうか。 長年付き合った私達は、ついに結婚することになって。 望んでいた、生活。 こんなに幸せで良いのだろうか。 このままでは、罰があたってしまいそう。 でも、何か。 何かおかしい。 彼は私の右手を、離して。 遠く、離れていく。 どうして、 私の手を、離さないで。 その時。何かが消えていったような、そんな気がした。―――――――――――――
目覚めると。白い天井が私の意識を迎えた。「真紅! 良かった……」ジュンの、声。「何やってるですか真紅! 心配したでのす!」涙声になっているのは、翠星石か。友人達も来ているようだ。「ごめんなさいね、みんな……私は、大丈夫みたい」安堵の息。……皆泣いているのだろうか。私はとても、恵まれているようだ。「ごめんなさい、本当に。何が遭ったのかしら…… ああ、ジュン……ひとつお願いがあるのだけれど、いいかしら」何だい、と言って彼が私の言葉を待つ。「手を、……手を握って、頂戴」「――――」何もしゃべらない。きょとん、とした顔をしている。「何言ってるんだよ、真紅。 こうやって、ずっと握ってるじゃないか」そう言って、私の見える位置に手を持ってくる。私の手を握っている、ジュンの手を。けれど、何も感じない。「……? っ……!」彼は手を、『握って』いる。私は……どんなに力を入れても。いや、力など入らなくて。 握り返すことが、出来なかった。「真紅!?」
私の右手に、彼の両手が添えられるのが見える。 何も感じない、私の右手。 一瞬。あの瞬間に感じた、『私が私で、無くなる感覚』。 確かに動いていたのに、 私の――
神経系の、麻痺。リハビリによって回復するかどうかはわからない。ただ、今の私にはとても絶望的なことに思えた。左手は、わずかに動くものの。触覚が鈍くなっているようで、まるで麻酔を打たれた状態で、ものに触れているような感じだった。 『命が助かっただけでも』。確かにそうだ。だけど、この手。ざっくりと、醜い傷がついている。縫合の跡が生々しい。だけど、肩から下は動かず。痛みの感覚すら、ない。この私の右手で、もう彼と指きりを交わすことは出来ない。あの日の約束が、何処か遠くへいってしまったような感覚に陥る。 病室。私と彼の、二人きり。彼は私に何を話せば良いのか、考えあぐねている様子だった。「真紅――」「……」「早く退院出来るといいな。そしたらまた」「帰って」「え……」「お願い、ジュン。一人にして頂戴」「……」「見られたくないの。この姿。見られたくないの!」傷ついた、動かない右腕。見られたくない。好きなあなただから。見られたく、ない! 涙が止まらなかった。もう一度、この手で。あなたの温もりを、感じたいのに。 ごめんなさい、ごめんなさい。 泣きながら、俯いてしまう。
「真紅」呼ばれて、顔を上げると。彼は目の前にいた。私の手を、握っている。わからない、あなたが本当に私に触れているのか。「真紅!」語気を強めて言われて、身が竦む。怒っているのか―― 潤む視界で彼の顔を見る。ジュン、泣いて、いるの?「本当に、あの時僕がもっと注意していれば。 真紅はこんな目に、遭わなかったかな。ごめんな真紅」 いいえ、あなたは悪くない。悪いのは、私なのだわ。そう伝えたいのに、何故か声が出ない。「真紅。君は辛いかも――いや、辛いと思う」「でも、君の手が動かないから、傷があるからって。 ……お生憎様。僕はそんな理由で離れて行ったりはしないよ」まあ、嫌われたら別だけど。そう付け加えた。なんだか、ずるい。「真紅が寝てる間、寝顔なんか覗いちゃったんだけど」なっ。……ってしょうがないか。ここで騒いでもしょうがない。「すごい失礼な話だけど。寝てる間の真紅が、 ……目覚めなかったらどうしよう、とか考えた」 心配かけてごめんなさい、ジュン。
「全然動かないし。すごく良く出来た、人形みたいな―― きれいな人形みたいだったんだよ」 人形。 壊れた、人形。腕の取れてしまった――遠い昔の。 あの人形と同じように、裁縫道具でこの腕が治ったら良いのに。 そんなこと、考えてもしょうがないのだ。 わかっていながら、気持ちは更に挫けそうになる。「けれど君は人形じゃない。『真紅』っていう――人間。 目覚めてくれて、本当によかった」 ああ、だが。「僕は君の腕を治せないけど……」 このひとは、「君の手の、代わりになることは出来る」 こんな言葉を、私にくれるひとなのだ。
『僕が君の右腕になるよ』最後にそう彼が言ったところで、思わず私はそのフレーズに少しふき出してしまった。「な……なんだよ」「ふふ、ジュン。あなたの言葉、とても嬉しかった。 本当に、嬉しかった……でもね」何さ、と。何故笑われたのかわからない彼が、何だかご不満の様子。「最後の。私の『右腕』なんて言ったら、まるで私があなたの上司 ――いえ、私があなたの主人で、ジュンは『下僕』のようなのだわ」下僕だって!? その言葉を聞いた彼はといえば、なんだか困っているようだ。「ええっ。それは勘弁して欲しいな、真紅」そう言って、彼は笑った。私もつられて笑ってしまう。 まったく。ジュンは泣きながら笑っているから、ひどい顔になっている。私もきっとそうだろう。頬をつたっているもの。涙とは、こんなに温かいものだったのだろうか。「……ジュン。じゃあ、お嫁さん。 きっとこの先、私をお嫁さんにもらってくれるかしら……?」 私と彼の手は、しっかりと繋がっていた。 指きりは、もう。必要ないだろうか――
そして、幾数年かが経って。―――――― 雨が降っている。だいぶ小雨なようだけど、雨の日は少し残念だ。どうせなら、穏やかな陽の光の中。皆から祝福されたかった。 これは贅沢な悩みだろうか。 『君の右腕に、なるよ』あの時は笑われてしまった台詞。だけど、あの言葉はふざけて考えた訳じゃなかったんだよ、真紅。 あれから幾度、君の手を握ったことだろう。強く握り返してくれることは、今になっても無いまま。 だけど真紅。君の手は、いつだって温かい。 僕は手をとる。君の、右手。 何故か、涙が流れた。君も泣いてる。 悲しいのかい? ……いや、そうでは無いと。君を、信じる。 それは、きっとこれからも。――――――
今日は、私とジュンの新しい門出であった。……のだけれども。 全く、ジューンブライドだなんて、誰が考えたのだろう。こんなの、式場の陰謀だ。わざわざ梅雨の時期に、そんな特別な期間を設けるだなんて。 学生時代の友人達は、もちろん招待した。『思いっきりおめかししていくですー!』わざわざ電話で意気込みを伝えてくれた翠星石。他の皆も、一様に祝福の言葉をくれた。今、外で待っている彼女達は、身体など冷やしてないだろうか? あの事故の日から。私達には色々なことがあった。仲良く楽しい日々もあれば、喧嘩することもあって。あれから私は、リハビリは本当に辛かったが、その甲斐あって右腕も少しは自由が利くようになった。けれど。感覚だけは、どうしても戻らなくて。彼に手をいくら握られても、その温もりを感じることは出来かった。それは、今も。
私はこの手で、あなたの温もりを感じられない。 だけど私たちは、こうやって手を繋いで。 ここから新しい一歩を踏み出そう。 ジュン、あなたと一緒に。 扉を開ける。 雨模様だと思っていた空は、 気持ちが良いほどの光を、満たしていて。 ランプの灯りなんかよりも。ずっとずっと、眩しい光が―――
―――――― さて。束の間の夢は、如何でしたか? さあ、では。この辺りで、この夢の幕を閉じるとしましょう。 どうか、この二人に。これから、多くの幸があらんことを。 幕を閉じても。夢はまだ、続いているのです……――――――
おわり
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