薔薇色の日々
大学ってのは、それまでの高校と違って…何って言うのか、その、自由だ。どの授業を受け、どの講義を取らない。いつ大学に行って、いつ家に帰る。そんな事が全て、自分で決められる。当然、そんな自由な環境に身を置かれたら…サボる奴だって出てくる。2年目になり、周囲の環境にすっかり馴染んでしまうと、なおさら。ちょうど、今の僕の状況がそれだ。寝る間を惜しんで、テレビとネットに噛り付き…そして翌日は、昼まで惰眠を貪る。小腹が空いた感覚に時計を見ると、深夜12時ちょっと前。そういや、晩御飯食べてなかったな…。大学に行く、という名目で手に入れた、憧れの一人暮らし。でも、実際にやってみると…結構大変だった。掃除、洗濯、そして何より、日々の糧。「…コンビニでも行くか…」呟き、部屋着のまま家の鍵をポケットに滑り込ませた。 ―※―※―※―※― 薔薇色の日々 ―※―※―※―※― 煌びやかな衣装に身を包んだ男性達が、私に挨拶をしてくる。私は欠伸をかみ殺したまま、一段高い所から微笑み返す。誰も彼も、服だけは良いものを身に着けてはいるが…如何せん、動きの端々から成り上がり者の匂いがする。私は心底、辟易しながらも…それでも微笑だけは絶やさない。折角お父様が開いてくれた、私の20歳の誕生パーティー。ローゼングループ総帥の娘。来るべき次の時代の担い手。その記念日に、せめて少しでも顔を売ろうとする下賎な輩。とはいえ、それに一々眉をひそめていては育ちが知れる。赤いドレスに身を包んだまま、私は媚を売りに来る各界の人間に、人形のように笑みをかえし続けた。繰り返される心にも無いやり取りの合間を縫って、従者のラプラスに小声で尋ねる。「…このパーティー…いつまで続くの?」ラプラスが懐中時計を取り出し、時間を確認する。8時40分。「ご心配なさらずとも…まだまだ祝いの席は続きますゆえ…」何を勘違いしているのか…使えない従者ね。「…そう。…気分が優れないし、私は先に部屋に帰るわ」そう言い、ぴょんと椅子から跳ね降りる。無作法をラプラスが咎めようとするが…お小言にはうんざり。ダンスを申し込んでくる殿方にも、名刺を片手に笑顔で近寄る連中にも、うんざり。私は足早に、パーティー会場を後にした。~~~~~ 最上階にある、私の私室。その窓から、遠くに見える街の光を眺めていた。小さく、だが、確実に注意を引く。そんな訓練されきったノックの音が聞こえる。「…入りなさい」相手を確認もせず、振り返りすらせずに、答える。「失礼致します、真紅様」…やっぱりラプラス、あなたね。私は街の光から視線を逸らさず、ラプラスにも注意を払わない。「どうなさったのです?折角の記念パーティーだと言うのに…」はら、やっぱり、小言を言うつもりね。私はラプラスの言葉を、片手を軽く振って制する。「…ねぇ…この街の光…どう思う?」私の言葉に、ラプラスは暫く考える仕草をして……確かにラプラスは頭も良いし、礼儀正しい。…多少、慇懃無礼な所は有るけど。一人で私の護衛と、教育係と、従者と…とにかく、何でもそつ無くしてのける。私の短い問いかけにも、その真意を自分なりに考えてから返答をしてくれる。「ふむ…真紅様がグループをお継ぎになられた際には、更なる発展が見込めるかと」そうね。その通りだと思うわ。だけど、そんな事を聞いてるんじゃないの。全く、仕事熱心で融通の利かない、とち狂った三月兎ね。「確かに、私は語学も経済学も経営学も心理学も帝王学も、何の意味が有るのか錬金術に関する事まで…全てマスターしたわ。でも…そんな事じゃないの」
「……ぶれいもの」まだ寝ているのか、舌っ足らずな声でそう言い、僕にビンタしてきた。バチンと、良い音が夜の公園に小さく響く。「な…なぁ…!?」僕は軽いパニック。何で殴られるの?僕、親切だったよね?あれ?何で?「え?いや、ちょっと?…ねえ?」訂正、完全なパニック。よく考えたら、今まで殴られた経験なんて全く無かったしね。僕はオロオロしながらも、それでもちょっとだけ芽生えた親切心の名残からか、再び彼女に声をかける。「その、とにかく、こんな所で寝てたら危ないし、な?」殴られないように、ちょっと距離をとって。~~~~~「…全く…今日はついてないな…」二度もビンタされ、真っ赤に腫れあがった頬を擦りながら、僕は自分の部屋の鍵を開けた。結局、ベンチの上で眠る姫君は、そのまま放置してきた。…あれ?僕ひょっとして、フラグクラッシャーの才能有るんじゃね?なんて思い始めたのは、顔を洗って一息ついてから。でも、タオルで顔を拭いて、眼鏡をかけた時には、すっかり公園での出来事なんて忘れた。「とりあえず、晩飯…いや、夜食かな」呟きながら洗面所のドアを開け…手ぶらで帰ってきた事に気がついた。何ってニブイんだ。そもそも、あの女に殴られたからだ。ショックを受けての不可抗力だ。僕はニブくない。考えるにつれて…どうも、荷物を忘れたのは公園以外には無さそうだ。 公園。まだ、あの子はベンチの上で眠っているのか…?ふとした疑問が脳裏に浮かぶ。「……荷物を取りに行くだけ。それだけ」自分に言い聞かせるように呟き、再び部屋の鍵をポケットに放り込んだ。~~~~~公園のベンチの近く。僕の買い物袋はすぐに見つかった。それでも、僕はちっとも嬉しくない。ジト目で、ベンチの上で眠る女性を見つめる。全く…こんな所で熟睡できるなんて、どんな神経してるんだ?何か変化が有るかも。例えば、彼女の知り合いが介抱に駆けつけたり…そんな僕の期待を見事に裏切る、先程と何も変わらない光景だった。「……ハァ…」これが最後。これが最後。そう呪文のように心に呟きながら、最後にもう一度声をかける事にした。「…おい、起きろよ」…反応は無い。完全に熟睡しているんだろう。つまり、もうビンタは降ってこない、という事だろうな。僕は彼女の肩に手を置き、少し揺する。「…おい。…いつまでこんな所にいる気だよ」…やっぱり、反応は無い。呼吸に胸が上下してなかったら、死んでるのかと思うほど、静かに眠っている。…もう、いいや。僕はなるべく足音を立てないように、その場から離れた。 …腹が立つ。何グースカ寝てやがるんだ。声をかけて、殴られて、完全に僕の心配し損じゃないか。もう、あんなヤツどうだって良い。スタスタと公園の出口に向かう。勝手に公園で寝て、風邪をひくなり、嫌な目に会うなり、勝手にしろ。公園の出口が近づく。優柔不断。そう思われるかもしれないけど…僕はもう一度、ベンチの上に視線を向けてしまった。―※―※―※―※―夢を見た。私は普通の女の子で、街を自由に歩いていた。私のご機嫌取りに来る人間なんか誰も居なく、私をこそこそ尾行する人間も居ない。私は自由に、街を散歩していた。「―――……」意識がしだいにはっきりするにつれて、体のあちこちが痛い事に気がついた。たしか昨日は20歳の誕生会で…初めてワインを飲んでみたけど…これが二日酔いというものかしら?ぼんやりとそう考え…体を温める太陽の光が、いつもより強い事にも気がついた。ラプラスが勝手にカーテンを全開にしたのだろうか?…全く、主人に何の断りも無しに…お仕置きが必要ね。ころっと寝返りを打とうとして…「うわっとと!!」誰かの声と手に、それを遮られた。「!!誰!?」慌てて飛び起きる。 一体、誰が、何の目的で私の寝室に…いや、自分の立場から考えたら、心当たりはいくらでも存在する。なら護衛の連中は?ラプラスすら乗り越えて来たという事!?それは―――と、私の思考はそこまで行き、それから完全に止まってしまった。青い空。揺れる木々。小鳥の鳴く声。…公園のベンチの上。??…え?何が何だか分からない。確か夕べ、ラプラスから薬をもらって…そこから、屋敷を抜け出す夢を見た気がする。ご機嫌になって街をフラフラと散歩して…そんな夢を見た…気がする……嫌な予感に、首筋に汗が伝うのが分かる。……え?本当なの?大変。今頃屋敷では、大騒ぎになってるだろう。お父様は心配のあまり昏倒し、ラプラスは発狂する。屋敷の警備体制が厳しく問われ、ラプラスは減給される。…たまには、お灸をすえてやってもいいわね。それに…初めて手にした、自由。ほんのちょっとだけ楽しんでみても、構わないでしょう?そう考えると笑みが零れそうになるが…現在の状態を思い出し、そうもいかなくなった。 「…やっとお目覚めかよ」不貞腐れるように呟く…私と同年代と思しき人物。一体、何でこんな所にいるのか…私は寝起きにもかかわらず、すっかり覚醒した頭と鋭い視線で向かい合う。と、そんな私の様子が気に入らないのか、その男性はため息混じりに事情を説明してきた。「コンビニの帰りにさ、ここで寝てるのを見つけて…心配して声をかけたらいきなり殴られるし…まあ、そのまま帰っても良かったんだけど……その……」そこまで言うと、その男性ははにかんだ笑顔で携帯ゲーム機を持ち上げた。「どうせ家に帰っても、やる事は一緒だからな」なるほど。自ら志願して、寝ずの番をしてくれたという訳ね。忠臣には報いる所が無くては、真の主人とは言えないわね。「そう。ありがとう」ねぎらいの言葉と笑顔を向ける。「え!?いや、その……うん…」すると、その男性は顔を赤くしてソワソワしだした。「…どうかしたの?」何で彼は、そんなに恥ずかしそうにするのだろう?そんな疑問が浮かび…だがそれも、すぐに理解できた。当然の事である。こちらは寝起きで顔も洗ってない。慣れない場所で寝ていたせいもある。さぞかし、酷い顔だったのだろう。私の淑女としての嗜みの無さに彼は赤面したのだ。そう思うと…我ながら情けなくなってくる。 そんな顔で往来を行くのは、レディーとして致命的な事なのだわ。とりあえず…私はコホンと咳払いをして、目の前の男性に改めて声をかける。「とりあえず…貴方は誰なのかしら?」「あ…ああ、僕は桜田ジュン…この近くで下宿して…」「そう。ならジュン。貴方の家にこの真紅を招く栄光をあげるのだわ」とりあえず、顔を洗わない事には、街に出るなどもっての外。…いくら何でも、水道くらいはあるわよね?―※―※―※―※―ヤバイ。何がヤバイって、仕方無しにお守りをしてたら…太陽と一緒にその子は起きたんだけど…とにかく、美人だった。寝起きなのに、全くボケた様子の無い瞳。癖の無い髪。人形のように整った顔立ち。とにかく、美人だった。そして、傲慢だった。いきなりお前の家に行ってやるみたいに言ったかと思うと、反論して掴みかかった僕に軽くビンタ。それから諭すように、じっくり話をして…僕が下僕となる運びになった。…ん?何だかよく分からないけど、この真紅とかいう子は自信に満ちている。今日び、こんな自信に満ちた人間なんて見たこと無いし…「まあいいや」位の軽い気持ちで、僕は「はいはい」と返事してしまった。~~~~~ 「ここが家…?狭苦しい所ね」おいおい。他人の部屋見て第一声がそれって…酷いんじゃないか?「…とりあえず、顔を洗いたいわ。案内して頂戴」「はいはい」「返事は一度」「はいはい」少しむっとした表情の真紅を無視しながら、洗面所のドアを開ける。「……狭い上に、汚い所ね」はいはい。いちいち一人暮らしの部屋に対する感想は言わなくて良いから。「…ふぅ……顔を洗ってる間に、紅茶の準備でもしておいて」少し諦めた感のある表情で、真紅は蛇口をひねった。これでも、一人暮らしにしては小奇麗な方だと思ってたけど…そんな自信は、この自信満々の女を前に粉々。美人だからって甘い考えをしていた自分が情けなくなってきた。言われた通りに紅茶を準備するのも癪だけど…かといって、無視するのもなあ…キッチンからパックを取り出して、ポットで紅茶を作る。うん。やっぱり、リプトゥンは良い香りだ。安くてお得だし。僕はそんな事を考えている。洗面所から水の流れる音が一向に止まらない。何で!?ひょっこり顔を出して、洗面所を覗いてみると…真紅が顔を洗う姿勢のまま、片手だけを真横に突き出していた。それ、何の儀式?~~~~~ 「普通、顔を洗った時には、横からタオルを差し出すものでしょ!?」「そんな普通聞いた事無いよ!一体、どんな育ち方したら、そんな『普通』が身につくんだ!?」「! …う…うるさいわね!どうだっていい事なのだわ!」小さなテーブルを挟んで、紅茶片手に火花を散らせる。「そもそも、こんなもの紅茶とは言えないのだわ!温度以前の問題よ!どんな保存をしたらこんなリーフになるの!?」「なに!?リプトゥンが不味いだと!?」僕はカップに残ってる紅茶を一気に喉に流し込む。「うまいよ!リプトゥンうまいよ!」「な!?!? ……ふふ」「お?何だ?今ちょっと笑ったな?謝れ!リプトゥン大好きな僕に謝れ!」「!! 何を馬鹿な事を言っているの!?貴方こそ、そんな飲み方…紅茶に失礼なのだわ!」―※―※―※―※―私がこんなに感情をコロコロさせながらお喋りするなんて、何だか信じられない。このジュンとかいう人間は多少、いや、大いに無礼な所は有るけれど…それでも、この楽しさに免じて大目に見てやろう。紅茶的な何かの入ったカップを片手に、私はジュンとお喋りを続ける。と、ふとした拍子にジュンが私に尋ねてきた。「…で? 何であんな所で寝てたんだ?」…そうだ。こんな楽しい時間も、永遠では無い。私はローゼンの娘。家に戻らなければならない。「……レディーに詮索は無粋よ」だけれど…もう少しだけ。せめてあとちょっとだけでも、自由を味わっていたい。もう少しだけ、普通の女の子として過ごしていたい。 「…じゃあ……」ジュンはカップを置き、少し考える仕草をする。「これからどうするんだ?」これからどうする?そんな事、考えてもみなかった。今までの私は、スケジュール通りに生活するお人形だったから……でも…今は…「…そうね…ちょっと、街を見てみようかしらね…」「その格好で?」すかさずジュンのツッコミが来る。…ちょっとは空気を読みなさいよ。でも、確かに今の私は…真っ赤なドレスで、確実に周囲の視線を集めてしまうだろう。それはつまり、私を探しているだろうラプラス達との接触の危険が高くなる、という事。「…そうね。新しい服が必要ね」でも、お金なんて持ち歩いた事が無い。当然、今持ってる訳なんて無い。…全く、自由というのもそれはそれで厄介ね。何とか考えを巡らし…そして、良いことを思いついた。「ねえジュン。左手を出しなさい」「ん?…ああ」差し出されたジュンの手に、コトリとそれを置く。私の誕生日に合わせて、私がデザインした純金製の薔薇を模した指輪。作ってる時には、大層な思い出になる気分でいたけど…でも今では…目の前に広がるチャンスの魅力の前では完全に霞んで見える。「今の金の相場を考えると、それなりの価値は十分にあるわ。この指輪をあなたにあげる代わりに…今日一日、私に付き合いなさい」「ふー…ん…」ジュンは少し興味深そうに呟き、手の平で指輪をコロコロ転がす。全く、純金なんて大した事無いけど、それをデザインしたのはこの私なのよ?それだけで、その指輪には無限の価値が付加されるというのに… 「…昔さ、インチキ通販をからかったりして遊んでたけど……久々にこうリスクが有る感じも良いかもな」相変わらず、無礼ね。そんなものと一緒にしないで頂戴。そんな風に、ちょっと嫌そうな顔をした私に視線を向け、ジュンは少し笑って見せた。―※―※―※―※―とりあえず、僕のもので悪いけど、部屋にあった適当なジャケットを真紅に渡す。「これ羽織ってるだけでも、大分普通に見えると思うぞ?」「……汚いわね」「な!?これでも洗濯したてなんだぞ!?」こいつは…言いにくい事を迷わずに言ってくるな。文句を言いながら、真紅は僕に向けてジャケットを差し出し、くるりと背中を向けてきた。「まあ、この際だものね。…着せて頂戴」はい!?お前はどこのお姫様だ!?ブツブツ言うも…「早く」という真紅の言葉に、僕は仕方無しに彼女の腕に袖を通した。一歩下がって、真紅の姿を改めて見る。…僕もまあ小柄な方だが…真紅は女性にしても小柄な方だ。少し服はブカブカだったけど…「うん。これなら変に目立つ事も無いだろう」僕の言葉に満足したのか、真紅は少し嬉しそうに目を細めた。何って言うのか、性格はちょっとアレな所もあるけど…その顔は反則だろ。僕は思わずドギマギと視線を泳がせてしまう。そんな僕をまるで無視するかのように、真紅は鏡に向き合い…「そうね…後は…」そう言い、髪をスルスルと解く。流れるような、くせ一つ無い綺麗な金色の髪がふわりと狭い部屋の中で舞う。まるで重力を無視するかのように…まるで絹糸のように、繊細に舞い降りる細い髪。夢でも見るように、そんな光景に見とれる僕の手を、真紅が握ってくる。そして、そのまま扉の方に向かい―――「さあ――行きましょう」部屋の扉が、小さな音を立てて開いた―――。―※―※―※―※―「ねえジュン、あれは何なの?」生まれて初めて、誰の監視も無く街を歩く。目に映るもの、感じるもの、この世界の全てが新鮮で、どこか愛しくすら感じる。そんな中見つけた、変な形をした車。ジュンの袖を引きながら、好奇心の赴くまま近づいてみる。「ああ、クレープ屋だな。…って、そんな事も知らないのか?」「と…当然知ってて聞いてるのだわ!」あれがテレビで言ってるクレープというものを売ってる所なのね!でも、こんな街中で、衛生状態は大丈夫なのかしら?そんな事を考えてる間に、ジュンが店先に行き、なにやら店主と会話をして…暫くして、手に何かを持って帰ってきた。「…ほらよ。買ってきてやったぞ」そう言い、片手のクレープを私に差し出してくる。私はそれを受け取り…少し様子を見てみる。…匂いは…なんだか体に悪そうな感じがするけど、まあ大丈夫ね。それにしても、ナイフとフォークも無しに、どうやって食べれば良いのかしら?クレープを睨み続ける私。ジュンはそんな私を少し眺め…ちょっと笑って、クレープにそのまま噛り付いた。そう!これが買い食いというやつなのね!理解した私も、ジュンに続いてクレープを食べてみる。「…どうだ?」「………妙な味ね」確かに、変な味だった。食べなれない、雑なクリームの味。バランス感覚に乏しいフルーツの配置。でも…普段食べてる、完全に設計された料理とは違い、どことなく楽しい感じが伝わってきた。「へえ…笑うと案外、子供っぽい表情するんだな」「な!?」ジュンの言葉で、私は自分が笑みを浮かべていた事に気がついた。「失礼ね!レディーをからかうものではないのだわ!」無礼者のスネを、コツンと蹴りつけてやる。ジュンはスネを抱えてピョンピョン跳ね回り、でも何故か楽しそうな表情を浮かべる。私も、そんなジュンに呆れながらも…どこか楽しい気分になる。「ほら、いつまでそうやって跳ねてるつもり?そんな事より、あっちにも何か見えるのだわ。早速、行ってみるわよ」ジュンの手を取り、駆け出す。「え!?おい…ちょっと待ってくれよ!」困ったような顔をしながらも…ジュンの口元からは笑みが零れる。それを見て、私もなんだか温かい気分になってくる。そうね…これが、普通の幸せなのかしらね…。 ―※―※―※―※―一体、僕より小さなその体のどこに、それだけの体力があるのだろう。そう思わずに居られないくらい、真紅は色んなものに興味を示しながら、その度に僕の袖を引っ張ってく。ふらりと入ったペットショップで、仔犬の頭を楽しそうにワシワシと撫でてたかと思うと、猫に擦り寄られて涙目になってたり…ゲームセンターのクレーンゲームで人形が取れなくて、ガラスを叩き割ろうとしたかと思えば、僕が取ったくんくん人形を幸せそうな顔をしながら抱きしめたり…おちょくるとすぐに頬を膨らまし、不貞腐れた顔をして僕のスネを蹴ってきて…でもすぐに機嫌をなおして、僕の手を引いて駆け出し…そして、気がつけば僕たちが出会った公園のベンチで一休みしてた。「ほらよ」そう言い、自販機で買ってきた紅茶を真紅に渡す。「ありがとう、ジュン」真紅は缶のフタを開けようとするけど…どうも、うまくいかないみたいだ。「…貸してみろよ」真紅の手から缶を取り、フタを開ける。プシュっと、小さな音が鳴った。改めて、真紅に手渡す。「喋りはぶっきらぼうだけど、だいぶ下僕が板についてきたみたいね」相変わらずどこか楽しそうな表情で、微笑みながら真紅がそう言ってくる。「あ…ああ…」やっぱり、この笑顔を向けられると、少し挙動不審になってしまう。僕は適当に答えながら、真紅の隣に座った。…いつの間にか…太陽はすっかり赤くなって、街のビルの隙間に消えるように沈みかけていた。 「もう…こんな時間なんだな…」「…ええ…そうね……」夕陽に照らされた真紅の横顔は、どこか憂いを秘めているようでもあり…神秘的で綺麗だ、と素直に感じた。「…そろそろ…帰らないとな…」「……そうね…」ずっと続きそうだった、続いて欲しかった一日も…気がつけば、太陽は半分まで沈んでいる。「…なあ…また…今度はちゃんと下調べもするしさ……遊びに行かないか?」「…ええ…いつか…また…」不思議と、すんなり言えた。嬉しくてドキドキした、なんて事は無く…地平線に溶ける夕陽と同じように、僕の心に静かな幸福感だけがそっと広がる。いつまでも、沈む夕陽を二人で眺めていたかった。いつまでも、夕陽に沈みきってほしくなかった。「そうだ。…なあ、最後にもう一箇所、付き合ってくれないか?」遠く夕陽を眺める真紅の横顔に声をかける。自分でも、ガキっぽい考えだと思う。それでも…少しでも長く、一緒に夕陽を見ていたかったから。「あら?こんな時間からレディーを誘うのは少々マナーが良くないのではなくて?」少し悪戯っぽい顔で微笑を返してくる。「はは…いや、ちょっと観覧車にでも乗らないかな…って。…駄目かな?」やっぱり、子供っぽ過ぎたかな。僕は少し照れながら頭を掻ながら弁解みたいに答える。 「いいわよ?…下僕の働きに答える所が無くては、主人とはいえないもの」僕の予想を裏切り、真紅はあっさりとそう答え…そして座ったまま、僕に片手を差し出してきた。「それじゃあ、エスコートして頂戴」僕はそして、初めて自分から真紅の手をとる。小さく、可憐で、守ってやりたいと思える手。それを握りながら、僕は二人が出会った公園の出口へと向かう。出口まで来たとき、不意に真紅がピタリと立ち止まった。「どうしたんだ?」不思議に思って真紅の顔を覗き込むと…その目に見た事が無い位に鋭い光が宿っていた。そして、その視線の向けられる先…スーツを着込んだ男がこちらに近づいてくる。誰だろう?そう言えば、僕は真紅の事を何も知らないままだったと思い出し、何だか無性に目の前の男に腹が立ってきた。間違いなく、ただの逆恨みだけれど…とにかく、ニヤニヤしながら近づいてくる男にむかついてきた。握った真紅の手を、強く握る。真紅もそれに答えるように僕の手を握り返してくる。確かに僕は、真紅の事は何も知らないのかもしれない。それでも…真紅もアイツの事が嫌いなことだけは伝わってきた。それなら…迷う事は無い。それだけで十分だ。「真紅…走れるか?」「ええ…でも……」力いっぱい、真紅の手を握り締める。それに負けない位、強い意思で言葉を伝える。「大丈夫。何とかなるし…何ともならない時は……僕が何とかしてやるさ」 ―※―※―※―※―夕焼けに照らされた公園を、手を繋いだまま二人で走る。ずっと黙ってた事に対する後ろめたさはあったけど…それでも、そんな私の手を握りながら一生懸命走るジュンの横顔を見てると…心が満たされるような気分になってくる。たった、一日。私はジュンの事をよく知らないし、ジュンだって私の事を知らない。それでも…たった一日という時間の中で、自分がどれだけ想われてるか感じた気がして…ほんの少しだけど、恥ずかしくなる。場違いに少し赤い顔をする私の手を引きながら、ジュンが走る。二人で、どこまでも走る。夕陽がすっかり沈み、空は赤からだんだん黒へと変わっていく。街灯の明かりが早くもつきだした街を、二人で走り抜ける。やがて…少し人通りが少ない歩道で、肩で息をしながらジュンがゆっくり、立ち止まった。両膝に手をつきながら、大きく呼吸をして、絞るように聞いてくる。「ハァ…ハァ…ここまで来たら…大丈夫かな…?」…残念だけど…今は逃げる事が出来たとしても…私は……何と答えれば良いのか分からない。ジュンは私の為に何かをしようとこんなに必死なのに…私は…何も答える事は出来ない…これではご主人様失格ね…私は罪の意識から、ジュンから視線をそらせ――通りの中に、こちらに近づくラプラスの姿を見た。 視線をジュンに戻す。…まだラプラスに気がついてはいない。そのまま、何気ない動作で背後にも視線を向ける。動物園の檻の中にスーツを着た男が入っているような…場違いな程に整った動きで歩く数人の人影。…どうやら、完全に囲まれているようね…。つかの間の自由。それは、ただの我侭だと分かっている。これ以上、そんな事にジュンを巻き込む訳にはいかない。そう思うけど…私の手は、ジュンの手を握ったままだった。すっと息を吸い込み、視線を空に向ける。太陽はすっかり沈み、夜が広がり始めていた。私は頭上の光景を目に、心に焼き付けるように見つめ……そして、しっかりと、明確な意思を持った目でラプラスに視線を向ける。きっと、通じる。残念だけど、ラプラスは頭も良い。私が逃げる事が不可能な事も、逃げる気が無い事も、汲んでみせるだろう。暫くの間、無言で視線のみが交差し…やがてラプラスは、その場で立ち止まった。それを確認し、まだへばっているジュンに声をかける。「全く、情け無いわね」 ――そんな体力の無さでは、私を守ることが出来ないわよ?そして、握ったままのジュンの手を、そっと引っ張る――最後の自由な時間の流れる場所へ―――― ―※―※―※―※―「何でこんな時に観覧車なんだよ!?」「騒がないで頂戴。揺れるのだわ」真紅に連れられて向かった先。宙吊りの狭い観覧車内での僕の抗議は、あっさりと打ち切られた。…全く…アイツが誰だか知らないけど、逃げ切れたからって、はしゃいでさ……僕のそんな考えを読んだのか…それとも、ただの偶然か。真紅が窓から外を眺めたまま、すっと口を開いた。「…彼はね、ラプラス。私の護衛兼教育係」…あまりの事に、思考が一瞬止まる。いや、借金のカタに追われてるとか、アイツはヤクザで、とか…とにかく、そんな悪いヤツだと思ってたから。そんな事を率直に真紅に伝えると、彼女は少し笑いながら答えた。「ふふ…あながち、間違いとも言えないわね。だって、ラプラスはとってもイヤミなのだわ」そして、僕の方にちらりと視線を向け…とても楽しそうに笑みを浮かべる。「でも…新しい下僕の方が、ずっと無礼者ね。ふふ…困ったものだわ」「おい!?新しい下僕ってソレ、僕の事か!?」「あら?他に誰かいるとでも思ったの?」僕はため息混じりに、シートに深く座り…真紅は再び、窓の外へと視線を向けた。観覧車はゆっくり、それでも確実に動き、頂上近くに差し掛かってくる。「…駄目ね…もう一度夕陽が見れないかと思ったのだけど…」真紅が小さな声で呟く。「過ぎた時間を戻す事は…誰にも出来ないのね…」「毎日太陽は沈むんだから、また見ればいいだろ?」僕の言葉に、真紅は少し悲しそうな表情で僕に向き直る。「…そうね……でも…今日という日の夕陽は、二度と戻らないのだわ……」観覧車はゆっくり動き、そして、上る時と同じように、ゆっくり下降しだした。「私は、籠の中の鳥。囚われのお人形。外の世界を眺めながら、自由を願うだけ。…そう言ったら信じる?」「…信じないさ。…だって、願うだけ、じゃなくて、今日は自由だったろ…やってみたら…また好きなときに、自由になれるだろ……」自分でも何を言ってるのかよく分からない。それでも、何となく、これが別れの予兆の気がして……僕は自分なりに精一杯の言葉を返す。観覧車はだんだん地面に近づき、米粒のようだった街の光もはっきり見えてくる。「ありがとう…ジュン…」「いや…こっちこそ…楽しかったよ…」もう、残された時間は少ない。それは分かっているけど…それでも、短い会話しかしない。できない。つかの間の自由。真紅と僕の時間の終わりが近づく。――不意に真紅が椅子から立ち上がり…――唇に触れるような、そんなキスをしてくる――ほんの一瞬。それでも、僕の時間は止まったみたいになって…「…こういう事をレディーにさせるのは紳士として恥ずべき事よ。覚えてなさい」真紅のその言葉で、僕の凍りついた時間が戻る。何かを言いたいけど…何も言葉が出てこない。真紅は立ち上がったまま、僕に背中を向け…その表情を見せてくれない。そして、そのままドアをガチャリと開け、観覧車の外に出て行った――。 ~~~~~僕は結局、呆然としたまま…一人でもう一周、観覧車に乗っていた。知らずの内に、僕は泣いていた。何で僕は泣いているんだろう。分からなかった。ただ、涙が止まらなかった。僕が観覧車から降りた時…そこにはまるで、全てが夢だったみたいに、普通の日常が広がっていた。何が夢で、何が現実なのか。分からなかった。ただ、ポケットの中の薔薇の指輪だけが、手に乗せると優しい重みを与えてくれた。僕はその指輪を、自分の指に嵌めてみる。径が小さくて、左手の小指にしか入らない。「真紅の手…こんなに小さかったのか…」呟く。そういえば、昨日からロクに寝てなかったからな…突然襲い掛かってきた疲労感に、昨日の夜の事…真紅と出会った事を思い出す。ほんの、昨日の事なのに…ずっと昔の事みたいに感じる。そうだ…こんな疲れてるんだし…僕は家に向いていた足を、くるりと方向転換する。あの公園のベンチ…あそこで、一休みしよう…。
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