紫水晶の瞳 第1話
「放課後の転校生」という噂が、この高校にはある。 学年問わず生徒なら誰でも知っているほどの有名な話だ。 広まり始めたのは二年ほど前――現在の三年生が入学して間もなくの頃だという。「怪談」や「七不思議」というには新しすぎ、また「都市伝説」と呼べるほど人口に膾炙しているわけでもない。あくまで校内だけのローカルな「噂話」に過ぎないのだが―― ――おい、聞いたか? 一昨日の夜、D組の笹塚がとうとう見ちまったらしいぜ。 ――マジかよ……あいつ、そういうの全然信じない奴じゃなかったか? ――やだぁ、怖いよ。部活の居残り練習、出来なくなっちゃうじゃない…… ある朝の授業前。2年B組の教室内はそんな話で持ちきりだった。「みんなまたあの話をしているのね。いったいどういう話なのだか」 噂話に夢中のクラスメイトを横目に見ながら、真紅は呟いた。「あれ、真紅は知らなかったのかしらー? 随分と遅れてるかしら」 ノートを団扇代わりに扇ぎながら金糸雀が言う。「仕方ないだろ。コイツは本物の転校生なんだからな」 軽くたしなめるような口調で言ったのは、桜田ジュン。 真紅は二年生に上がると同時に転校してきた。この学校に来てまだ四ヶ月――といっても中学まではジュンと同じ学校に通っており、親の仕事の都合で一年間別の高校に居ただけである。ジュンにとっては転校してきた、というより「戻ってきた」という感覚であった。「ジュンに『転校生』と呼ばれるのは悲しいわね……この学校についてはまだ知らないことがたくさんあるから、 仕方ないのだけれど」「ふふふ、安心するかしら。それなら校内一の情報通、この金糸雀が一から懇切丁寧に――」「ジュン、かいつまんで説明してちょうだい?」「ああ。まぁようするに、放課後の校舎で見知らぬ生徒に出くわした、って奴が大勢いるっていう話なんだけど」 あっさりとスルーされ、軽く落ち込む「自称」情報通。それもいつもの光景ではあるのだが。「所詮は伝聞の連鎖で広まっていった噂だからな。出所もはっきりしないし、よくある作り話だろ」「そんなコトないかしら! カナの知り合いにも『見た』って子がたくさんいるかしら!」「そうね。私ももっと詳しく知りたいのだわ」 真紅が興味深々な様子で乗ってくるのが、ジュンには意外だった。中学までの真紅はそういう与太話には一切関心を持たず、肝試しや怪談で盛り上がる同級生たちを見下すようなところがあったからだ。「じゃあここはやっぱり、カナの出番かし…………あ」 チャイムが鳴った。 ほぼ同時に担当教師が入ってくる。授業が始まり、「放課後の転校生」の話はそれきりになった。 * * * じんわりと照りつける陽射。 念仏のような蝉の声。 湿った空気が露出した腕や足にまとわりつき、肌を窒息させる。「鬱陶しい風…………」 誰に言うでもなく、少女は呟いた。 青紫色の襟とリボンが眩しく光る。同じ色のスカートは、見た目にも他の生徒よりだいぶ長い。 平日のまだ昼間だというのに、少女は制服のまま繁華街をぶらついていた。「よぉ」 コンビニの前を通りかかったとき、たむろしていた三人組の男子高生が話し掛けてきた。 ボタンをすべて外した学ランの裾からは、赤いチェックのシャツがだらしなくはみ出している。他の二人も似たような格好だ。「おいおい、『アリス』の制服じゃん」「へぇ……エリート女子校のお嬢様が、こんな時間にどうなさったんで?」「つまらないから、脱け出してきたの」 少女は嫌がるそぶりも見せず、淡々と答えた。「へへ、いい心掛けじゃん。それなら、今から俺達とお茶でもしねぇ?」「…………やだ」「えー、なんでだよ? いいじゃん、楽しくお話しようぜ?」「授業より……もっとつまらなそう」「ハハ、言ってくれるぜ。さすがお嬢様は違うな」 さも愉快そうに笑うその背の高い男子は、セブンスターの箱から一本取り出し火を点けた。「そうつれなくすんなって、な? そんな趣味いいモン付けてんだから、俺らとも話が合うと思うぜ?」 もう一人の男がそう言って少女の左目――その眼を覆う黒い眼帯――に手を伸ばしたとき、初めて少女は顔を歪めた。「…………触らないで」「へぇ、薔薇の模様の眼帯か……今時ビジュアル系かい? へへっ」「――――死にたいの?」 紫水晶のような眼光が、男を刺した。「う…………っ…………」 瞬間、千匹ものざざ虫が背中を這いまわるような戦慄をおぼえ、男の全身が硬直する。「…………ねぇ」「う、うっ……?」 急に声をかけられ、背の高い男がびくりと震えあがった。「一本、ちょうだい?」「えっ? あ、ああ……」 言われるままにセブンスターの箱を差し出す男。少女が一本口にくわえると、ジッポライターで火まで点けてやる。 少女は煙を深く吸い込み、満ち足りた表情でゆっくりと白い息を吐き出した。「ふぅ……ありがと。ぢゃ」「お、おい…………」 少女はそれきり何も言わず、きびすを返して去っていく。 男たちは何かに打たれたように身体が動かず、ただその後姿を見守ることしか出来なかった。「な、なんなんだ……あの女……」 * * * その日の放課後。 午後七時をまわった頃、ジュンは校門を出た。どの部活にも入っていないため放課後はやることがないのだが、今日はなんとなく図書館で勉強していたためこんな時間になってしまっている。「だいぶ日も短くなったな」 そう呟いたとき、背後から猛スピードで近づいてくる影があった。「ジュン、お先かしらー!」「うおっ!?」 発電機のような勢いで自転車を漕ぎ、ジュンの側を追い抜いていく金糸雀。背中には楽器らしきケースを背負っている。おそらく今日はバイオリンのレッスンに行くのだろう。「楽器持ちなら安全運転しろよな……まったく」「桜田君」 背後からの声に振り向くと、竹刀の袋を携えた黒髪の女の子と目が合った。「柏葉か」「今日は帰り遅いのね。どこか部活の見学にでも行ってた?」「まさか。図書館にいたら、ついつい長居しちゃっただけさ」「そうなんだ。じゃあ一緒に帰る?」「ああ」 柏葉巴はクラスこそ違うが、家は隣同士と言えるほどの近所で、小学校も中学校も一緒であった。学校帰りに並んで歩くこともさほど不自然には思えない。もっとも次期部長候補とも言われる巴は日々練習に忙しく、ジュンの淋しい帰り道にいつもいつも付き合ってやれるほどヒマではないのだが。「金糸雀、今日はレッスンなのかな」 竹刀を肩にかけ直しながら、巴が言った。幼い頃からバイオリンを習っていた金糸雀は高校に入ってさらにレベルを上げたらしく、その腕前は今や他校にも知れ渡っている。「らしいな。にしても、どうしてああ落ち着きがないんだろう」「ふふ。でも、いつも元気でいいじゃない。それにいろんなこと知ってて、話題に事欠かないし」「使えない無駄知識ばっかりだけどな。ああ、そういや今朝も――」「あ、いけない」 巴が不意に立ち止まった。「どうした?」「教室に数学の参考書置いてきちゃったみたい」「別にいいんじゃないか? テスト終わったばっかりだし」「そうだけど……でも明日、授業で小テストがあるのよ。参考書の内容から出題するって」「そりゃ……まずいかもな」「ゴメン、桜田君。私取りに戻るから、先に帰ってて?」「ああ、気をつけてな」 はっ、としてジュンは足を止めた。巴の足音が遠くなっていく。 ――気をつけてな。 今しがた自分の口から出た言葉が、耳の奥の骨を通じて脳内に反響した気がした。 何か予感めいたものが頭の片隅に浮かび上がろうとしている。 が、次の瞬間にはもうそれを打ち消していた。 真紅同様、ジュンもそういった根拠のない怖がらせ話は一切受け付けない性質であった。 長く伸びる自分の影法師を振り切るかのように、ジュンは足を速めて家路を急いだ。 * * * ――やだ、暗い…… 昇降口はまだ明るかったのに、二階への階段を上ると廊下の電気はすでに消されてしまっていた。真っ暗闇というわけでもないのだが、この時間に教室に出入りすることがないせいか、余計に暗さを感じた。まっすぐに伸びた廊下の奥を見つめると遠近感が失われ、まるで何処かへ永遠に続いているかのような錯覚をおぼえてしまう。(参考書を取ったら、すぐに出よう) 高鳴る鼓動を抑え、巴は早足で歩き出した。 途中、ひとつだけ明かりがついたままの教室が見える。「2-B」――ジュンのクラスだ。(まだ誰か、いるのかな……) この薄暗闇の校舎内にいるのは、自分ひとりじゃない――そう思うだけで、不安もいくらか和らぐようだった。 巴のクラスはその手前のC組。暗がりの中で教室の前まで来ると、勇気を振り絞って扉を引き開け、すぐさま手を伸ばしてスイッチに触れた。静かな教室内に乾いた操作音が響き、蛍光灯が目を覚ます……はずだった。 が、古い蛍光灯はなかなか安堵を与えてはくれず、鈍い点滅が室内の様子を何度も浮かび上がらせては闇に帰した。(もうっ、こんな時に限って……!) 苛立ちに任せて何度もスイッチをパチパチと鳴らす巴。普段は誰にも見せることのない表情だった。 明滅する教室内に、もし見知らぬ人影が浮かび上がったら…… 「放課後の転校生」の噂話が脳裏をよぎる。 だがその恐怖が脳内で像を結ぶ前に、室内は白い光に照らし出されていた。「ふぅ……」 思わず溜め息を吐いた。幾分落ち着いて、自分の机に近づく。廊下側の前から三番目。椅子に座り、机の中から分厚い参考書を取り出して手早く鞄の中に押し込んだ。 こんな自分の姿を見たら、ジュンはきっと笑うだろう。 椅子から立ち上がると、ふとそんなことを考えていた。「……ばかみたい」 吐き捨てるように呟いて、今度は何の抵抗もなく蛍光灯の明かりを消していた。 教室を出ると、隣のB組の教室がまだ明るい。(誰が残ってるんだろう?) B組の前まで来ると、入り口は開いたままだった。 ふと見るでもなく中を覗いてみる。窓際でこちらに背を向けて立っている女子生徒がいるのが見えた。残っているのは彼女ひとりだけのようだ。その容姿には、見覚えがあった。「金糸雀……?」 巴は呟いた。後姿しか見えていないが、背の高さといい髪形といい、金糸雀に間違いはない。普段よく話す友人がいたことで、巴の胸中を覆っていた不安は一気に忘れ去られようとしていた。 これで夜道を一人淋しく帰ることもないかもしれない。「どうしたの? 今日はレッスンじゃ……」 そこまで言った時だった。 突然、喉が詰まった。 声が、出ない。 喉が、カラカラに渇く。 手が、足が、震えが止まらない。 ――金糸雀、じゃ……ない……! その女子生徒――数秒前まで金糸雀だと信じて疑わなかった少女の後頭部は、フィルムのように透けていた。 陰になって見えないはずのステンレスの窓枠がはっきりと見えた時、巴の脳の右半分は凝固剤でも打たれたかのように麻痺してしまっていた。 鈍い電気音。 蛍光灯が、点滅する。 視界が、少女に向かって吸い込まれていく。 状況を判断しようとする理性が薄らぎ、感情が、あらゆる感情だけが、カラーバーのように鮮やかに網膜に浮かんでは、モノクロームに転じて消えていく。「ぅ……あぁ…………」 巴は、涙を流していた。 理性も本能もごちゃまぜに引っ掻き回され、悪寒と吐き気だけが体内を這いずり回っているというのに、溢れ出てくるおぞましい感情――その恐怖の本質だけは、何故か明確に思い知ることが出来ていた。「ぁ…………ぅ…………」 叫び声をあげようとするのに、その口からは言葉にならない乾いた雑音がひねり出されるばかりだった。 少女の首が、ゆっくりと回転する。 人形のように、あるいはフクロウのように、その首は驚くほど滑らかに、何処までも回転を続けそうな気がした。「ひぅッ……!…………」 ついに少女と目が合った瞬間、呼吸が停止した。 そこに少女の目は、無かった。 本来眼球が収まるべきふたつの窪みには、深淵に繋がる漆黒の空洞が口を開けているだけだった。 直後、ばつん、という断裂音と共に、教室は完全な暗闇に飲み込まれた。 * * * 翌朝――ジュンは学校を休んだ。 病室のベッドに腰をかけ、虚ろな目で宙空を見つめる巴。 かけてやるべき言葉も見つからず、ジュンは入り口近くで呆然と立ち尽くすだけであった。「ジュン君……とりあえず、座ったら?」 姉ののりに促され、ようやくベッド脇のパイプ椅子に腰を下ろす。 この日はのりも大学を休み、ジュンと共に朝一番で病院へ見舞いに訪れていた。桜田家は、昔から柏葉家とは家族ぐるみの付き合いである。昨夜学校から連絡が入ったとき、のりは危うく卒倒しかけるほどのショックを受けた。ジュンに言わせれば万事につけ大げさな姉なのだが、今度ばかりは無理もない。 今回はむしろ、ジュンのほうが受けた衝撃は大きかったのだ。「あの時、僕が一緒に教室まで付き合ってやってれば……」 学校帰りに別れた後、薄闇の校舎内で何が起こったかについては皆目見当がつかない。 しかしあの時、いつになく妙な胸騒ぎを感じたのは確かなのだ。その予感を信じきれなかったことを、ジュンは今になって悔いていた。「そんなコト言っても、仕方ないわよ。こんなコトになるなんて、いったい誰が想像できるっていうの……?」 のりの言葉も、ジュンの耳には半分も届いていない。「いったい、何が……」 手がかりは、巴を発見して救急車を呼んだ教師の話だけであった。 それによれば、巴が教室で倒れているのを見つけたのは午後七時半過ぎ。ジュンと別れてから30分も経過していない。 発見された時点で巴に意識はなく、呼吸も不安定な状態だったという。暴行を受けた形跡が一切ないことから、何者かに襲われたという可能性は極めて少ない。さらに、当時二年生の教室に残っていた生徒は他に一人もいなかった。 ジュンとのりは連絡を受けてすぐに病院へ駆けつけた。巴は病院に運ばれて間もなく意識を取り戻したものの、両親やジュンたちの問いかけにも一切反応を見せず、また一言も言葉を発することはなかった。医師の診断によれば、強い精神的ショックにより神経に一時的に支障をきたしているとのことらしい。 ジュンとのりは巴の両親に促されて一度帰宅し、朝になって再び病院へ見舞いに訪れたのである。「柏葉……」 宙に何かを捉えたまま、巴は視線を動かなかった。瞬きもほとんどしていない。「ジュン君……あとは私が看ているから、ジュン君は午後の授業に出た方がいいわ。ね?」「……ああ」 いつになく素直に姉の言葉に従い、ジュンは病室を出て行った。 * * * ジュンが教室に入ると、ちょうど昼休みに入ったところだった。 午後の授業は、世界史からだった。「ありゃ、教科書ないや……」 鞄の中を物色して、ジュンは肩を落とした。「無理もないわね。昨日はあんなコトがあったのだし……」 いつもはジュンが忘れ物をすると皮肉まじりになじる真紅も、この日ばかりはまるで棘がない。病院から戻ったジュンの表情を察してか、巴の様子を聞くこともしなかった。「とはいえ、さすがに私の教科書を貸すわけにはいかないけど……ああ、C組は午前中に世界史があったようよ?」「そうか。サンキュー、真紅」 素直に礼を言って、教室を出て行こうとするジュン。「あ、そういえば今日はあのうるさいのがいないな」「金糸雀のこと? そうね、今日は朝から休んでいるようなのだわ」「へえ……あいつにしちゃ珍しいな」 もしかして、金糸雀にも何か――という言葉が出かかったが、危うく飲み込んだ。真紅の様子からしてそれはなさそうだと思い直したのだ。 C組の教室の前まで来たものの、ジュンは途方にくれた。(柏葉は、いないんだっけ……) ノートや教科書の貸し借りはもっぱら巴とばかりやり取りしていたため、ついついC組といえば巴がいるものだと思ってしまっていた。「おや、ジュン。いったいC組に何しに来やがったですか?」 教室から出てきた一人の女子生徒が、ジュンに声をかけた。「おお、そういやお前がいたっけ。すっかり忘れてた」「なんですとぉ!? いきなりなんて失礼なこと言いやがりますか!!」 ジュンの言葉を聞いて、その女子――翠星石は激昂した。 「ぷんすか」という擬音がこれほど似合う奴もそういまい――とジュンは思う。「悪い悪い。いや、昨日はいろいろあったからさ……世界史の教科書忘れてきちゃったんだ」「まったく、どうしようもないダメ人間……と言いたいところですが、今度ばかりは仕方ねぇですね……」 巴のこととなると、さすがに翠星石も態度を軟化させる。 翠星石はジュンや巴とは高校に入って初めて出会ったのだが、家が比較的近いこともあってかたちまち仲良くなった。特に巴とはずっと一緒のクラスであり、浅からぬ仲なのである。「実は翠星石も忘れてきてたのです。だから蒼星石に借りたのですが……」 蒼星石は翠星石の双子の妹で、E組にいる。「なんだ、そうか……じゃあ蒼星石に頼むとするか。ところで翠星石」「何です?」「今回の件だけど、何か手がかりになりそうなこと知らないか?」 ふと口をついて出た疑問であった。「どうして……翠星石に聞くのです?」「いや、別に他意はないよ。ただ同じクラスだし、仲もいいしと思って……」「知らんです。思い当たることなど、これっぽっちもないのです」「おい、そんな言い方はないだろう?」 ジュンはややむっとして言い返した。 自分には関係ないとでもいいたげな口調が、癇に障ったのだった。「知りたいんだよ、柏葉の身に何が起こったのか……お前だってそう思うだろう!?」「知らんと言ったら知らんのです! あーもう、しつこい男はキライです! とっとと帰れですぅ!!」 大きな音をたてて扉を閉め、翠星石は教室に戻ってしまった。「なんなんだよ、いったい……」 明らかに不自然な翠星石の態度に、ジュンは苛立ちと共に純粋な疑問を抱くのだった。 その後E組の教室に来たジュンだが、気持ちは重かった。「はぁ……」 思わず漏れる溜め息。 翠星石の妹とはいえ、実は蒼星石とはあまり話したことがないのである。 そういう相手にいきなり教科書を貸して欲しい、とは頼みづらいものがあった。 だいたいE組の教室自体、あまり入ったことがない。中に入ると、日頃慣れた教室とはあまりに違う空気に戸惑ってしまう。 蒼星石は窓側の一番後ろの席に座り、ノートに一心に目を通していた。次の授業の予習だろうか。「えっと……や、やぁ、蒼星石」 ジュンの声に、蒼星石の瞳がくいっ、と動いた。表情はほとんど変わらない。「ジュン君、か。どうしたんだい?」「いや、その……あ、そうそう。世界史の教科書貸してもらったって翠星石に聞いてさ、それで――」「借りたいの? いいよ、どうぞ」 抑揚のない声で答える蒼星石。 机の中から無造作に教科書を取り出し、手渡す。「ど、どうも……」 言われるままに受け取った教科書は、新品同様だった。表紙には折り目も汚れもまるで見当たらない。 もちろん勉強していないというわけではなく、日頃の扱いが極めて丁寧であることを窺わせるのだ。(プレッシャーなんだよな、こういうの……) 蒼星石にはもう二度と頼むまい――悪気はまったくないのだが、ジュンはそう思わざるを得なかった。「用は、それだけかい?」「え? ああ、まぁ…………あ、そうだ」 この際だ、聞いてしまえ――半ば投げやりな気分で、ジュンは疑問を口にした。「柏葉のコト……聞いてる?」「ああ、知ってるよ。大変だったそうだね、キミも」「そのことで、さっき翠星石に相談したんだよ。そしたら……あいつ、急に怒り出しちゃってさ」 蒼星石の視線が、にわかに鋭さを増した。「なあ、何か知らないか? もしかして、翠星石は何か――」「二度とその話をしないでくれないか? 彼女の前で」「え……」 蒼星石の強い口調に、ジュンはそれ以上の言葉を失った。周りにいた同級生までもが、若干青ざめている。「頼む」 頷くよりほかなかった。 来た時よりも重い足取りで、ジュンはE組を後にしていた。 気がつくと、ジュンは三階への階段を上っていた。 昼食は済ませてきたため、昼休みにはまだ余裕がある。(絶対、おかしいよな……) 巴の病室を見舞ったときには、ただただ自分の行動を悔いるばかりだった。 が、あの双子の姉妹と話すうちに徐々に違った感情が芽生えてくるのを、ジュンは感じていた。 ――手がかりは、意外に近くにあるのかもしれない。 もちろん、現時点ではその糸口さえも見出せそうにない。 だが少なくとも、巴の身に何が起こったのか。それだけは知っておきたい。 こういう時に頼りになる存在――無意識のうちに思い浮かべたその姿が、ジュンの足を三年生の教室へと向かわせていた。 3年D組。教室の前まで来て、さすがにジュンは躊躇いをおぼえた。三年生の教室など、蒼星石のE組以上に馴染みがないのである。(考えてみれば、メールでも送れば済んだんだよな……) しかしここまで来て今さら引き返すのも阿呆らしい。 半開きになった教室の入り口から、とりあえず中をそっと見回してみた。「いない、か……」 残念ではあるが、反面ほっとしてしまうのがなんだか情けない。 その時、ジュンの背後に不気味な気配が迫った。 次の瞬間、背中が暖かく柔らかな感触に包まれ、同時に滑らかな掌に視界を遮られてしまっていた。「ダァ~レダ♪」 不自然に甲高い声が、頭上から響く。「……すいぎんとー」「あらぁ、バレちゃった? ちゃんと声色も変えたのに……つまんない感じぃ」「一人しかいないだろ、この教室で僕にそんなに馴れなれしくする奴は……てか胸、当たってるんだけど」 身をよじり、水銀燈から無理矢理離れるジュン。「んもぅ、いけずぅ。……でぇ、ここに来たのは、昨日の巴の件?」「ん……ま、まぁな」 いきなり核心を衝かれて動揺しつつも、ジュンは頷いた。 ――かなわないな。 水銀燈は真紅や巴同様、幼い頃からの付き合いである。年上なこともあって、ジュンにとってはもう一人の姉のような存在でもあった。 水銀燈に対してはどうも苦手意識があった。それでいて、いざというときには甘えてしまうところもある。「わざわざ私のところへ来たってコトは、何かワケありなのよねぇ?」「というより、分からないコトだらけなんだけどな……」 昨日の出来事、巴の容態、そして翠星石と蒼星石の反応……ジュンはこれまでの経緯を簡単に説明した。「なるほどねぇ。私自身は力になれるかわかんないけど……力になってくれそうな人なら知ってるわぁ」「本当か?」「てゆーか、こういう時しか役に立たないって言ったほうが正確なんだけど、ねぇ」 いったん明るくなったジュンの表情が、再び曇る。 水銀燈がそんな言い方をするからには、よほど問題のある人物であることには間違いなさそうだ。「あら、大丈夫よぉ? アナタのこと食べちゃったりはしないから…………お肉は大好きみたいだけど」「……」 不安を抱きつつも、ジュンは水銀燈の言う人物に会ってみることにした。 善は急げとばかりにその人物にメールを送る水銀燈。やがてメールが返ってくる。「明後日ならヒマらしいけど……それでいい?」「日曜日だな。それなら、構わないよ。時間もそっちで決めてくれていい」 待ち合わせの約束を大雑把に済ませると、ジュンは自分の教室に戻った。 まもなく、昼休み終了のチャイムが鳴った。
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