第十三話 『Time goes by』
――温かい。 身体の内――ローザミスティカから、絶えず不可思議な熱と力が湧いてくる。それは全身へと、彼女を蝕む激痛を駆逐しながら、伝播してゆく。すごい。他に形容のしようがない。それほどまでに、効果は覿面だった。指先、爪先、髪の先にさえ火照りを感じながら、雪華綺晶は、ぽぅ……っと。およそ経験したことのない恍惚に、身もココロも包まれ、溺れきっていた。「どうだい、気分は?」「とっても……いい気持ちですわ。あぁ……なんてステキ」「それは、なによりだ」短くとも、はち切れんばかりに感情を詰め込んだ槐の声が、真上から降ってくる。もうすぐ愛しい娘を取り戻せる。その期待が、一言半句にも滲み出していた。子供のように歓喜を露わにする彼の様子が、なんとも愛おしくて――雪華綺晶は微笑みながら、胸に募った想いを、瞳から溢れさせた。「これで……元に戻れるのね。二年前の、あの日に還れるのですね」「そうだよ。僕らは、また……ここで一緒に――」槐の瞼から落ちた雫が、雪華綺晶の頬を流れる涙と、ひとつになる。まるで、父娘の失われた歳月を取り戻すための呼び水であるかの如く、流され続けた。おかえり、薔薇水晶。槐の震える唇が、声にならない言葉を紡ぐ。途端、雪華綺晶のココロが、胸を突き破りそうなほどの叫びを上げた。――お父さま! お父さまっ! 第十三話 『Time goes by』 自分の身体の中で、小さな女の子と思しい声が、絶えることなく響いている。これは――なに? 戸惑う雪華綺晶の脳裏に、ぼやけた映像が滲みだしてきた。目が痛くなるオレンジと、頻りに目の隅をチラつくブラック……。それが、夕陽と、自分の手が創り出した影だと判るまで、少しの時間を要した。『おとうさまぁ……どこ? おとうさまぁ……』少女は両手で目の下を擦りながら、嗚咽まじりに父を呼び続ける。たった独り、夕暮れの畦道をトボトボ歩きながら。どれだけ両手で拭っても、彼女の頬が乾くことはなかった。――ああ。そう言えば、こんなことがあったっけ。雪華綺晶は、思い出した。薔薇水晶として生きていた、幼い日のことを。あの頃は、夕暮れが怖かった。火焔地獄にも似た、あの紅い世界が。いつの間にか、ひっそりと……意志ある者のように伸びてくる影が。全ては、なんてことない自然現象。日が傾けば、あらゆるモノの影は長くなる。でも、子供心には恐ろしくて、陽が落ちるまで、いつも父の脚に縋りついていた。この映像は、この胸に響く涙声は――槐の庇護を求めていた時のものだ。今、薔薇水晶のココロは再び、父を求めている。優しく抱いて、護ってくれる存在を。その欲求は津波のように、後から後から押し出されてきて、喉元を越えようとする。我慢することなんてない。薔薇水晶の望みは、雪華綺晶の望みでもあるのだから。彼女は真っ直ぐに槐の顔を見上げて、こみ上げる想いのままに、唇を動かした。「お……と、う……さま。お父さま…………お父さまっ!」もっと触れて。あの頃みたいに、しっかりと抱きしめて。雪華綺晶は、父を呼びながら咽び、泣きながら笑みを浮かべて、腕を伸ばした。濡れて光る、槐の青白い頬に、掌を重ねるために。 ――だが、その手は目的を果たすことなく、宙で止まる。雪華綺晶が、自らの意志で止めたのではない。びくとも動かせなくなってしまったのだ。どうして? 考える暇も与えられず、ビクンッ! 彼女の胸が波をうった。その躍動はたちまち、激しい痙攣となって雪華綺晶を呑み込んだ。「ばっ! 薔薇水晶っ!」「く、あ……おと……さ……たす、け……あっ……あ、が……ぁあぁっ!」雪華綺晶が絶叫したと同時、彼女の汗ばんだ白皙に――顔に、腕に、脚に――肌という肌に、幾条ものミミズ腫れが浮き上がった。紐状のナニかが、彼女の皮膚の直下を、ひっきりなしに這いずり回っている。目を見開く槐を嘲笑うように、雪華綺晶の下腹部が、モゾモゾと蠢いた。まるで、彼女の胎内を蹂躙した寄生生物が、己が存在を誇示しているかのようだ。雪華綺晶の右眼を覆っていた眼帯が、むくり、むくりと盛りあがる。芽生えた種子が土を割るように、何かが外に出ようとしている。そして……ちゅぽ、と。あまりにも間抜けな音と共に、彼女の眼窩から、眼球が押し出された。それは、真っ黒い触手に支えられて蕾のように天に伸び、生々しい音を立てて花開いた。紅い蜜を花弁から滴らせる、一輪の白薔薇に。「あああぁぁぁっ! 痛いぃっ!」「や、やめろ! もう、僕の娘を穢さないでくれっ!」「お……父……さま……痛……い。た……す……けて」「くっ! 待っていなさい。絶対に、助けてあげるから!」言って、寝室を飛び出した槐は、ナイフを握りしめて戻ってきた。もう一刻の猶予もならない。もたもたすれば、それだけ薔薇水晶は病魔に破壊されてしまう。助けたい。その一心で、彼は雪華綺晶の下腹部に、刃を突き立てた。麻酔も使わず腹を裂かれる激痛に、彼女は頭を仰け反らせて、声にならない悲鳴をあげた。 痛みを取り除くためとは言え、更なる痛みを与えることに、槐の胸は痛んだ。でも、やらなくては。娘の身体に潜んでいる諸悪の根源を、摘出しなければ!意を決して、槐はドス黒い液体が滲み出す切開部に、左手を突き入れた。右手には、しっかりとナイフを握り締めたまま。彼が、ぬらぬらとした生暖かさを、手に感じたの直後――ソレは噴き出してきた。目にも留まらぬ速さで、彼の左腕を這い上がって、絡みついてきた。躱すことなど不可能。反応さえできずに、気づいた時には身体の自由を奪われていた。「くっ! なんだ、これはっ」幾重にも、四肢に巻きついたソレは、無数の鋭い棘を生やした触手……よくよく見れば、乾いた血のように黒い荊だった。たかが荊。どうにかしてナイフを使おうと足掻くも、彼の右腕は、まったく動かない。どうなっている。歯噛みする彼に、真っ平らで無機質な声が、そっと絡みついてきた。それは、この場に独りしか居ない娘の唇から、紡がれたもの。茫乎とした金瞳で、ひたと彼を見据えている雪華綺晶の声だった。「あなた…………だぁれ? 私……は?」「正気に戻るんだ、薔薇水晶っ! 思い出してくれ!」「ば、ら? ――違う。私は……そんな名前じゃないわ」ぎちり。荊の締め付けが強まり、槐は肺から空気が絞り出される。「やめて!」また、誰かが叫んだ。それを放ったのは、やはり雪華綺晶だった。「お願い、もうやめて! お父さまを傷つけないでっ!」「違う……お父様なんかじゃないっ! どこ? 私のお父様は、どこなのっ」独り芝居を演じるみたいに、雪華綺晶の口から、懇願と要求が交互に吐き出される。いったい彼女の中で、なにが起きているというのか。 槐の、酸欠で痺れ始めた脳裏を、ある記憶が掠めた。彼の師と、銀髪の娘のことが。まさか、あのローザミスティカには――(師匠…………貴方は、まさか)けれども、その予想を確信に換える猶予は、彼に与えられなかった。一瞬で、苦悶の叫びさえあげさせず、黒い荊は槐を細切れの肉塊に変えてしまった。――ごとり。目を見開いた彼の頭が、鮮血を撒き散らしながら床に落ち、転がった。 ~ ~ ~ 「嫌ぁぁぁぁぁ――っ!!」雨がそぼ降る夜のしじまを、鋭い悲鳴が切り裂いた。それは、自転車に乗っていた彼女――雛苺の耳にも届き、凍えた頬を更に強張らせた。「あの声は、きらきーに間違いないの! やっぱり、ここに来てたのね」なにか、のっぴきならない状況になっているらしい。雛苺はペダルを漕ぐ脚に、ありったけの体力を注ぎ込んだ。車輪に踏み散らされた泥水が、夜の闇へと溶けていった。
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