第八話 『Feel My Heart』
「二葉さんはね、日本という極東の島国から、訪ねてきたのよ」 そう語るコリンヌの声は、雪華綺晶の耳を、右から左へと通り抜けてゆく。写真の中の、優しそうな目元と、社交的であることを思わせる微笑。潤んだ金色の瞳は、二葉という青年に、釘付けとなっていた。 この既視感は、なに? ずっと以前にも逢っている……みたいな。だが『いつ、どこで』に当たるパズルのピースは、見つからなかった。二年前に、二葉が渡仏した際のことか。それとも、もっと他の時期なのか。 雪華綺晶が手繰る記憶の糸は、どれも、ぷっつりと途切れてしまう。コリンヌと出逢うまでの経緯さえ、夜霧に巻かれたように、茫漠としていた。 「二葉さまは、どのくらい、このお屋敷に滞在なさってたのですか?」「そうね……一ヶ月以上は、お泊まりになっていたはずよ。 わたし、殆ど毎晩のように、二葉さんに日本の話を聞かせてもらってたっけ」「この写真も、その時の?」「ええ。写真ってステキね。美しい思い出を、より鮮やかに留めておけるから。 眺めながら想うだけで、息づかいが聞こえるほど、彼を身近に感じられるのよ」 楽しかった日々の思い出に浸っているコリンヌは、いつになく上機嫌だ。目の前にいる雪華綺晶が、想い人であるかの如く、一言一言、声を弾ませる。蒼い瞳を輝かせて、口早に喋るさまは、恋する乙女そのものだった。 第八話 『Feel My Heart』 ――なんて健気なんだろう。雪華綺晶のココロが、キュッと痛くなった。写真を眺めて、手紙のやりとりをして……二人を隔てる距離にも屈せず、二年もの間、一途に想いを紡いでいる。そんなこと、よほど強い気持ちがなければ、できやしない。コリンヌの思慕には、特別な意味があるのだと、雪華綺晶は悟った。 「もしかして、あなたと二葉さまは、将来を誓った仲ですの?」「それは……いいえ、まだよ」 伏し目がちに、か細い声で呟いたコリンヌの頬は、桜色を帯びている。奥ゆかしい仕種ながら、彼女の気持ちは、あからさまだった。 「だけど、いつかは――ね。そう願いながら、手紙をしたためているの。 子供じみた夢……かも知れないけれど」「想いは届きますよ、きっと。いえ……もう届いているのでしょう。 ですから、二葉さまも頻繁に、手紙を書いてくださるのです」「そうね。そうよね」 言って、コリンヌは端正な表情を、パッと綻ばせる。けれども、その美しく澄んだ蒼眸の奥に、一抹の不安が宿っていることを、雪華綺晶は見逃さなかった。 彼を信じていない訳では、ないだろう。だが、コリンヌはまだ若い。喩えるなら、苗木のようなものだ。激しい雨に土壌を浚われれば倒れるし、突風に薙ぎ払われもする。脆弱な根元は、些細な変化であっても、呆気なく揺らいでしまう。 彼の声を聞きたい。優しく、髪に触れて欲しい。コリンヌが心から望んでいることは、きっと、そんな自己満足だけ。少女は今、想いを貫くために、確かな絆を求めずにはいられない年頃だった。 「ねえ、コリンヌ」 主人の背後に回った雪華綺晶は、目の前にある細い肩を、両腕で包みこんだ。そっと近づけた頬に、コリンヌの耳が触れる。驚くほど熱くなっている。でも、なんだか気持ちいい熱。彼女は、ますます頬を擦りつけて囁いた。 「もっと……二葉さまのお話を、聞かせてください」 彼を思い出すことで、コリンヌの寂しさが少しでも紛れるのであれば――聞き役となることに吝かでない。保護してくれたばかりか、こうして側仕えまで許してくれたコリンヌへの、せめてもの恩返しができるなら……と。 しかし、それだけが理由ではなかった。雪華綺晶もまた、二葉という存在に、並々ならない興味を抱いていたのだ。なぜ、彼が夢の中に現れたのか……その理由が知りたい。だからこそ、彼のことを、もっと教えて欲しいと望んでいた。 ~ ~ ~ コリンヌは、それこそ湧き出す泉の如くに、二葉についてを語り続けた。やがて日が傾き、夜が訪れても、彼女の回想は止むことを知らない。食事を自室に運ばせてまで、雪華綺晶とのお喋りに熱中していた。 この会話の終了が、二葉との縁の切れ目になると怖れているような――そんな素振りだった。 「二葉さんには、双子のお兄さまがいらっしゃるのよ。 ご兄弟で、新しい事業を展開しているの。かなり大掛かりな計画らしいわ」 そんな話題が切り出されたのは、一緒に食後のシャワーを浴びている時のこと。二葉のことを話している時のコリンヌは、本当に愉しそうだ。雪華綺晶は、かいがいしく主人の背中を流しながら、笑みを交えた相槌を打つ。 けれど、その笑顔の裏で、雪華綺晶はじわじわと興醒めていた。自ら望んだことながら、コリンヌが他人の名を口にするのが、面白くない。いま、最も側にいて、触れ合っているのは自分なのに……どうして、遠く離れた国の青年のことばかり、嬉しそうに話すのだろう。嫉妬と思慕の情が、もやもやした欲求不満を募らせる。雪華綺晶の胸で、独占欲が燻りだしていた。 インプリンティング――という言葉がある。鳥類や哺乳類が、産まれて直ぐに見た物体を親と認識する学習能力のことだ。雪華綺晶の、コリンヌに対する感情も、それに近いものかも知れなかった。 (あなたは…………私だけのマスター) コリンヌは今、確かな温もりを求めている。雪華綺晶は、それを与えられる。だから、行動することに、なんの躊躇いもなかった。 「続きは、お部屋で聞かせてください。夜が明けるまでの、寝物語に――」 雪華綺晶は背後からコリンヌを抱きしめ、濡れた素肌を、ひたと重ね合わせた。そして、返事を促すように……主人の白い首筋を、ちゅぅ――と吸った。花弁のような少女の唇から、驚きの中にも悦びを滲ませた声が漏れる。ひくん……コリンヌは喉を蠢かせて、おののきながらも、こくっと頷いた。
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