絵のココロ
『絵のココロ』 雪華綺晶は、ゴールデンウィークの連休を利用して、別荘を訪れていた。ただ、趣味のためだけに。普段は忙しくて、なかなか打ち込むことが出来ない、彼女の趣味。それは、油絵を描くことだった。別荘のベランダからの眺望は、絶景の一言に尽きる。緑豊かな森と、山々の懐に抱かれた、小さな湖。彼女は、小さな頃から、この景色が大好きだった。 「さて、と。少し休んだら、デッサンに行きましょう」部屋の隅に荷物を置いて、スケッチブックとペンケースを取り出す。ペンケースの中には、様々な芯の鉛筆が収められている。どの芯も、先が鋭く削られていた。 「今日は、湖の畔まで歩いてみようかしら」ベランダ越しに、煌めく水面を見遣る。すると、湖の岸辺に、小さな人影が見えた。遠い上に、陽光の反射で良く判らないけれど、髪の長さから女の子らしいと見当が付いた。その子は、膝くらいまで湖に入り、立っている。はしゃぐでもなく、動き回るでもなく……。ただ、その場に立つ尽くすのみだった。あの子は、何をしているのかしら?雪華綺晶は、興味をそそられた。不思議な魅力を感じた。そして気付けば、スケッチブックを広げて、さらさらと湖に立つ少女を描いていた。ラフスケッチながら、なかなかの出来映え。これを元にして、後でキャンバスに描いてみましょう。会心の笑みを浮かべながら、もう一度、湖に目を向ける雪華綺晶。けれど、そこにはもう、あの少女の姿は無かった。 「近所の子供かも、知れませんわね」だったら、その内に、また会える。今度は、近くで描かせて貰おう。心の底から、そう思った。湖の畔まで、散歩がてらの二十分。意外に、歩き出がある。五月の陽気でも、全身、汗でびっしょりだった。イーゼルやキャンバスを担いで来るには、少しばかりキツい。スケッチブックで顔を扇ぎつつ、周囲を見回すと、お誂え向きの場所を見付けた。木陰のベンチ。しかも、周りに人は居ない。雪華綺晶は、そそくさとベンチに座って、眼前に広がる光景にココロを解き放った。――風のそよぐ音。揺れる木立のざわめき。――波立つ水面が、岸辺でちゃぷちゃぷと砕ける音。有りとあらゆる自然現象が、雪華綺晶の創作意欲を掻き立ててくれる。スケッチブックに、鉛筆を走らせる。時折、目の前の風景に目を遣り、再びデッサンに勤しむ。そんな事を、どのくらい続けていただろうか。 「お姉ちゃん……絵……上手だね」いきなり背後から声を掛けられ、雪華綺晶は胸から心臓が飛び出すくらい驚いた。振り返ると、薄紫のドレスを着た女の子が、木にもたれかかっていた。右眼には、お洒落なデザインの眼帯。近くで、仮装パーティーでも有ったのかしら?にしては、何処かで会ったような……無いような。雪華綺晶は既視感を覚えて、少女をじろじろと眺め回していた。 「…………失礼じゃない?」徐に言われて、雪華綺晶は我に返った。確かに、失礼だ。初対面の人を観察してしまうなんて。 「ごめんなさい。悪気は無かったのよ」 「…………」 「ただ、以前にも、お会いしてたかしら……と」雪華綺晶が告げると、少女はくすくす……と笑った。 「会ったこと……ある……かもね」 「貴女、お名前は?」 「……薔薇……水晶」薔薇水晶? 口の中で、何度か呟いてみる。記憶を辿っても、そんな名前の子は知らなかった。そもそも、目の前の少女は、どう見ても小学生高学年から中学生くらい。その年齢の子に、知り合いは居なかった。 (本当に、以前に会っているのでしょうか?)雪華綺晶の戸惑いを、表情から読み取ったのだろう。目を細めて笑った薔薇水晶は、雪華綺晶の手にあるスケッチブックを指差した。 「さっき…………描いてくれてたでしょ」 「え? ……ああっ!」『さっき』というキーワードを得て、雪華綺晶はスケッチブックを手繰った。別荘の部屋から、衝動的に描いてしまったラフスケッチ。あの時は、後ろ姿しか描いていない。けれど、改めて見直してみると、確かに少女のドレスと、絵の中の少女の服は似ていた。 「私がスケッチしていた事が、分かったと言うの?」そんな筈はない。だって、湖畔から別荘まで、徒歩で二十分もかかるのだもの。それだけの距離が、隔たっているのに……。雪華綺晶の戸惑いを余所に、薔薇水晶は、にこにこと無邪気に笑っていた。 「ねえ、お姉ちゃん。もっと……私の絵……描いて?」 「え、ええ。良いですわよ、勿論」薔薇水晶に促されるまま、雪華綺晶はスケッチブックに、少女の似顔絵を描いた。柔らかそうな髪、なだらかな頬のライン。髪飾りの紫水晶と、洒落た眼帯は、いいアクセントになる。しかし……。不思議なことに、彼女の右眼を描くことに、強い抵抗を覚えた。画竜点睛ではないけれど、これでは完成しない。さんざん迷った挙げ句、雪華綺晶は少女の右眼を、閉じた状態で描いた。 「はい、出来ましたわ」 「どれどれ……わぁ……上手上手」 「お粗末様ですわ。でも、喜んで頂けたなら、描いた意味がありましたわね」 「ねぇねぇ……今度は……もう少し、大人っぽく描いてみて?」――大人っぽく? また、おかしな注文が付いたものですね。おそらく、少女が抱く、大人の女性への憧れを具体化して欲しいのだろう。雪華綺晶は「そうですわねぇ」と微笑しながら、少女の成長した姿を想像した。女子高生の薔薇水晶。髪は、長いまま。面差しを、今よりも細めに描く。そこで、初めて気が付いた。この娘……将来、スッゴイ美人になる。けれども、いざ完成の段になると、やはり右眼を描くことに抵抗を感じた。何故なのだろう?今まで、人物画は何枚も描いてきた。しかし、一度だって、こんな気持ちになった事など無かった。結局、この絵も右眼を閉ざした笑顔にして、描き上げた。 「はい、おまちどおさま」 「わぁい。スゴイスゴイ……カッコイイなぁ」薔薇水晶は、大人になった自分の絵を見て、夢見がちな目になった。雪華綺晶には、薔薇水晶の気持ちが解った。自分にも、同じような時期があったから。将来の自分に、根拠のない妄想を重ね、勝手に憧れて……自己嫌悪に陥ったり。 「でも、どうして、目が閉じてるの?」 「その方が、可愛らしいからですわ」――ごめんなさい。嘘つきました。本当は、描きたくなかったからだ。今日は、どうしてしまったのだろう。もしかしたら、旅の疲れが出たのかも知れない。 「お姉ちゃん……もっと、描いて?」 「ごめんなさい、薔薇水晶ちゃん。今日はもう、疲れてしまったの。 明日で、構わないでしょうか?」 「しょうがないなぁ…………じゃあ、明日ね? それと、私を呼ぶ時は、 薔薇しぃ――で良いから」 「え、ええ。それじゃあ、薔薇しぃ。また、明日ね」別れの挨拶を交わすと、薔薇水晶は脱兎の如く駆け出し、木陰に消えた。本当に、不思議な少女だ。彼女をモデルに絵を描くのも、決して厭ではなかった。ただ一点――眼を描き入れたくない事を除けば。 「明日も……来てくれるのでしょうか?」東の空が、白々と明るみ始めた早朝。山奥の清々しい空気を満喫しながら、雪華綺晶は別荘のベランダで、軽い食事を摂っていた。とても優雅で、贅沢な気分だ。 「今日も、納得のいく絵が描けたら良いですわね」良い絵が描けるとき……。それは、大概、今朝のように寝覚めが良く、気分がスッキリと優れている時だ。雪華綺晶は、昨日の少女、薔薇水晶に想いを巡らした。今日は、あの子の眼を描き込んであげられるだろうか?昨夜は疲れからか、スケッチを見直す間もなく、眠りに就いてしまった。スケッチブックに手を伸ばした雪華綺晶は、湖の湖畔に立つ人影に気付いて、視線を向けた。 「……薔薇しぃちゃん?」薔薇水晶は、昨日と同じように、湖に足を浸して立っていた。違いを挙げれば、今朝は、こちらを向いている――と言うこと。 「随分と早起きなのね、あの子」素早く身支度を整え、雪華綺晶はキャノンデールのマウンテンバイクに跨ると、まっしぐらに湖畔を目指した。雪華綺晶が湖畔に着くと、昨日のベンチに、薔薇水晶が座っていた。けれど、その姿は小学生ではなく、自分と同い年くらいに成長していた。一瞬、別人かと思ったほどだ。 「おはよう…………お姉ちゃん」 「薔薇しぃ、貴女……何故、大きくなっているの?」 「お姉ちゃんが……描いてくれたから……お姉ちゃんのお陰」 「わたしの、お陰?」狐に摘まれた様な顔をする雪華綺晶に、薔薇水晶は突拍子もない事を語り始めた。 「私は……この湖の……精霊だよ」 「……はい?!」 「信じなくても良いよ。でも……ホントのことだから」 「わ、解りましたわ。とりあえず、続けて下さいな」落ち着いて返事をしたつもりだったが、雪華綺晶の声は、緊張で戦慄いていた。なにを怖がっているのだろう。こんな事、有り得るはずがないのに。そんな彼女を和ますように、薔薇水晶は湖の水面の如く穏やかな笑みを浮かべた。 「私は……もうすぐ消えるの」そう前置いて、薔薇水晶は、つらつらと身の上を話し続けた。人々の信仰心が薄れるにつれて、力を失い、実体化が難しくなったこと。もうすぐ消えゆく運命だと悟って、せめて自分の存在した証を残したかったこと。絵を描いてくれる人を、一日千秋の想いで、ずっと待ち続けたこと。でも、誰も自分の存在に気付いてくれなかったこと。 「だからね……お姉ちゃんが気付いてくれて…… 私を描いてくれた時は、とっても嬉しかったんだよ♪」言って、薔薇水晶は満面の笑みを、雪華綺晶に向けた。彼女の瞳が、潤んでいるのが分かった。ベンチから立ち上がって、薔薇水晶は両腕を広げ、雪華綺晶の前で、くるりと回って見せた。 「ねぇ……あと一枚だけ……私を描いてくれない? 私が、消えてしまう前に……。あと……一枚だけ」 「……喜んで……描いて差し上げますわ」知らず知らずの内に、雪華綺晶は涙を流していた。これでは描けない。しっかりするのよ、私。雪華綺晶はハンカチで目元を拭い、ベンチに腰掛けて、深呼吸を繰り返した。スケッチブックを開いて、意識を集中する。一期一会……この出会いを描く為に、全身全霊を注ぐ。薔薇水晶は愉しそうに笑いながら、膝まで湖に入って、はしゃいでいる。無邪気な笑顔。その一瞬を、雪華綺晶は切り取って、スケッチブックの中に貼り付けた。そして最後に、描けなかった想いを――薔薇水晶の右眼を、しっかりと描き込んだ。 「出来ましたわ……薔薇しぃ」雪華綺晶の絵を、薔薇水晶は穴が開くほど、じっくりと見詰めた。そして、満足そうに、ニッコリと笑った。 「ありがとう。すごく、ステキ」薔薇水晶の頬を、水晶の様な雫が、ぽろりぽろりと滑り落ちる。 「貴女の絵には……ココロが宿ってる。それは、とても素敵なことよ」 「そんなに褒めても、なにも出ませんわ」そう応じた雪華綺晶の瞳からも、宝石を想わせる涙が、溢れては落ちた。 「お姉ちゃん……本当に…………ありがとうね。 私、これで…………何も思い残すことなく、消えてしまえるよ」 「……」 「そんな顔、しないで。私が消えてしまう事は、なにも気にしなくていいの。 それが、時代の移り変わりと言うものだから……誰のせいでもないの」 「だけど……薔薇しぃが……」 「私に会いたくなったら、その絵を見れば良いのよ。 言ったでしょう? 貴女の絵にはココロが宿る……って。 私はここで消えるけれど、ココロはいつも、貴女と共にあるから」山間から、やっと朝日が射してきた。眩い光の中に、薔薇水晶の姿が薄れ、溶けて行く。 「お姉ちゃん、ありがとう…………さようなら」 「薔薇しぃっ!」薔薇水晶は、微笑みだけを残して、消えてしまった。別荘から自宅に帰り着くなり、雪華綺晶はキャンバスに向かい、一心に絵を描き始めた。 タイトルは 『湖に戯れる乙女』薔薇水晶が存在した証を、みんなに教えるために、ひたすら絵筆を走らせ続けた。朝が昼になり、夜が訪れ、再び、東の空に太陽が昇る頃――雪華綺晶は、キャンバスの左下に、自分のサインを描き入れた。絵の中の薔薇水晶は、温かい眼差しをしている。 「……出来た。これで、貴女のことを、みんなが忘れずにいてくれますわ」緊張の糸が切れて、雪華綺晶は急激に、身体の重さを感じた。旅疲れに加えて、久しぶりに徹夜までしたので、酷く眠い。雪華綺晶はベッドに倒れ込むと、直ぐに寝息を立て始めた。――ふと、誰かに揺り起こされる感覚。誰? 申し訳ないけれど、今は眠っていたいの。一度は気付かないフリをしたが、二度、三度と揺すられて、彼女は諦めた。誰なの? この時間、両親は家に居ない筈なのに……。雪華綺晶が瞼を開くと、そこには絵の中の娘が、にこにこと微笑みながら立っていた。 「えへへ……なんか解らないけど……戻ってきちゃった」 「ば……ら……」 「素敵な絵だね。色が着くと、尚更――」 「薔薇水晶っ!」雪華綺晶は、薔薇水晶にしがみついて、誰憚ることなく嗚咽を漏らした。そんな彼女の身体を、薔薇水晶も、しっかりと抱き締めるのだった。 「もしかしたら、お姉ちゃんの絵が、私を呼び戻してくれたのかもね」 「どうでも良いですわ、理由なんて! 貴女が戻ってくれさえすれば、私は、それだけで嬉しいのですから」 「そっか……そうだよね。ありがとう」抱き合って、再会を喜び合う最中、雪華綺晶は薔薇水晶に訊ねた。 「これから、どうするの?」 「分かんない。何をすべきか……どうすれば、良いのか」 「そう。じゃあ……私の妹にならない?」突拍子もない提案だという事は、雪華綺晶とて承知している。しかし、折角また巡り会えた彼女を、厄介払いする気にはなれなかった。 「私の妹として暮らして……一緒の学校に通って……いろいろな事を学べば良い。 これからの事は、ゆっくりと決めれば良いのですわ。 焦る必要なんて、無いのですから」 「そうね。それじゃあ……お願いします、お姉ちゃん」 「はいはい。あ、でも、お父様とお母様には、どう伝えれば良いのでしょうか」 「それなら、任せて。精霊の力は、伊達じゃない」夏休みが終わって、二学期が始まる頃。教室で、担任が、転校生の女の子を紹介していた。転校生の美貌に、男子生徒ばかりか、女子生徒まで驚嘆の声を上げている。ただ一人、雪華綺晶だけは、鼻高々に教壇に立つ女の子を見詰めていた。――彼女の名前は、薔薇水晶。 私、雪華綺晶の、大切な妹ですわ。その声が聞こえたのかと思えるタイミングで、薔薇水晶も、ニコッと微笑した。
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