第二話 『Graceful world』
夜霧に染まり尽くした山道を抜けるまで、延々と続けられる徐行運転。そのため、コリンヌが屋敷に帰り着いたのは、すっかり夜も更けた頃だった。キィ――深夜の静穏にあって、車の甲高いブレーキノイズは、やたらと大きく響く。それを聞きつけたのだろう。屋敷のドアが開いて、小柄な侍女が幼顔を覗かせる。侍女は、車を目にするや瞳を輝かせ、スカートを翻しながら車窓に縋りついた。「コリンヌお嬢様ー、おかえりなさいませなのっ。 あんまり帰りが遅いから、旦那様もヒナも、いーっぱい心配してたのよ?」「ごめんなさい、雛苺。山で霧に巻かれて、立ち往生していたの」「それはお疲れさ……まな……の」明るい声を振りまいていた侍女は、しかし、車内を見るや、俄に眉を曇らせた。彼女の碧眼が向けられた先には、見ず知らずの娘の、苦しげな寝顔。「お嬢様…………その子……誰なの?」「山道を彷徨っていたから、保護したのよ。ケガの手当をしてあげないと。 手を貸してちょうだい、雛苺。お部屋に運ぶわ」「は、はいなのーっ」運転手には車の片付けを任せて、コリンヌと雛苺は、左右から娘を支えて歩き始めた。そして、シーツが汚れるのも構わず、来客用のベッドに娘を寝かし付けた。手当をするにも、まずは身体の汗や泥を拭かなければ。雛苺に湯を沸かすよう言いつけて、コリンヌは、娘の数少ない着衣を脱がせ始めた。 第二話 『Graceful World』 なんて、透きとおるような肌なのかしら。シュミーズに隠されていた娘の柔らかな白皙に、コリンヌは目を奪われ、熱っぽく吐息した。一見、コリンヌと大差ない歳のようだが、娘の胸はふくよかで、キュッと括れた腰からも、女としての妖しい色香が漂いだしている。細い首筋、浮き出した鎖骨、幾筋もの薄影を刻む脇腹、落ちくぼんだ臍……そして、脚のつけ根にある、秘めやかな茂み。一糸まとわぬ娘の、ありとあらゆる魅力が、見る者を惹き付けて止まない。コリンヌも、女の子同士であるにも拘わらず、恋に似た胸の昂りを覚えていた。「本当に、不思議な子……実は、森の妖精さんじゃあないのかしら」コリンヌは、眠り続けている娘の左隣りに、ふわりと身を横たえた。しなやかに指をくねらせ、娘の白い髪をサクサク掻き分けて、耳を探り当てる。そして、ぷるんとした耳たぶを指で玩びながら顔を寄せ、耳元で囁いた。「ねえ…………貴女は、だぁれ?」問いかける声が、おののいていた。いつの間にやら、頬が熱を帯びている。コリンヌは、不意に訪れた興奮を鎮める術を知らず、ただ、くらくらと……瀬を行く木の葉の如く、押し寄せる熱情の波に翻弄されるがままだった。美しいモノへの憧憬と畏敬――もっと近くで見たい。許されるものなら、思う存分、触りつくしてみたい。そんな、欲望とも渇望ともつかない感情が、コリンヌの胸を掻きむしる。偶像崇拝と、偶像破壊……妖しい衝動は、相反するものを乳鉢に入れて擦り潰し、ひとつに混ぜ合わせる。気づけば、彼女は汗と泥で薄汚れた娘の冷たい頬に、そっと唇を押し当てていた。はしたない! 浮つくコリンヌを、乙女としての潔癖な理性が、厳しく叱責する。こんなことしては、いけない。淑女にあるまじき、浅ましい行為だ。……解っている。だけど……娘の身体をまさぐる腕を、止められなかった。次第に、荒くなっていく呼吸。コリンヌは眩暈を覚えていた。じわじわと、彼女の背筋を、得体の知れないナニかが衝き上がってくる。もう、これ以上はダメ――理性のタガが軋めいて、自制を促すけれど、欲望の勢いを削ぐことができない。コリンヌの中で、ナニかが炸裂しそうだった。頭が痺れて、真っ白になる感覚。その気持ちよさに、もう上品な世界に戻れなくても良いとさえ思った矢先……ドアがノックされて、雛苺のくぐもった声が、厚い板越しに呼びかけてきた。「コリンヌお嬢様ー。お湯と、おクスリを用意してきたのー」「あっ?! え、ええ……ご苦労さま。待ってて、いまドアを開けるわ」幸か、不幸か。さながら破裂寸前まで膨らんだ風船を針でつついたように、コリンヌを悩ましく悶えさせていたナニかは、急速に萎んで消え失せた。跳ねるように身を起こした彼女は、内開きのドアに駆け寄って、雛苺を招き入れた。「うよ? コリンヌお嬢様……なんだか、お顔が紅いのよ?」「き、気のせいよ。それより、もうひとつ頼みを聞いて欲しいの。 わたしのお部屋へ行って、この子の着替えを持ってきてちょうだい」「う、ういー!」雛苺は釈然としない面持ちながら、ことこと靴を鳴らして、服を取りに向かった。コリンヌは、遠ざかる雛苺の背中を暫く見送ってから、徐にドアを閉ざした。そして、気合い十分に腕まくりして、きりりと表情を引き締めると、ぬるま湯を張った洗面器に、真っ白なタオルを浸した。 この娘は、いったい何をしていたのだろう? どんな目に遭ったのだろう?コリンヌと雛苺は、色々と考え得ることを並べながら、傷の手当を続けた。あとは、この娘の目覚めを待って、詳しい話を聞いてみるしかない。夜が明ければ、すべてが解る。コリンヌも雛苺も、そう思っていた。 ~ ~ ~翌朝、コリンヌは目を覚ますと、身繕いもそこそこに娘の部屋を訪れた。まだ眠っているかも。コリンヌの不安は、しかし、杞憂に終わる。かの娘はベッドの上に半身を起こして、ひたと、彼女を見据えていた。「起きていたのね。具合はどう? あ……わたしの言葉、通じているかしら?」こくり。娘は、目を凝らさなければ解らないほど微かに、だがハッキリと頷いた。「それは良かったわ。それじゃあ……まず初めに、貴女の名前を教えて」「な……ま……え? 私…………えぇと…………私は……誰?」「まあ! 冗談でしょう? 自分の名前が、分からないだなんて」だが、嘘を吐いているようには見えない。何らかのショックによる、記憶障害かも。身元の調査は、もう少し落ち着いてからの方が良いわねと、コリンヌは判断した。
「仕方ないわ。じゃあ仮に……あくまで仮に、よ? 貴女のこと――」コリンヌは、娘の胸元で輝いているペンダントに目を留めて、切り出した。「きらきしょう……雪華綺晶って、呼んでも良いかしら」キラキラと光を放つ雪の結晶を見ていて、咄嗟に閃いた呼び名だ。彼女は、何度か口の中でその名を呟き……ニッコリと満足そうに微笑んで、言った。「改めまして……初めまして。私は――――雪華綺晶」
第二話 終 【3行予告?!】名前……それは、燃える命――彼女は私に、素敵なものをプレゼントして下さいました。だから、私は……その恩返しを、したいと思ったのです。次回、第三話 『For the moment』
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