「少年時代1.5」
トン、トン、トン、トン瞬間風速の飛びぬけていた騒々しさや荒れ狂う胃-食道間の道のりもやがて鎮まり、静寂を取り戻したトモエの部屋に、あくまで軽くおっとりした、しかしどこか急いだ足音が近づいてくる。「トモちゃん、ジュン君が来てくれたわよ」寝転がった娘に向けた母の声が、障子戸の向こうから染み出してきた。暴れた事で活力が切れたらしく、戸を1枚隔てて自身の返事を待ちわびているであろう母親の影に、トモエは目線を繋がず言葉だけを放り投げた。「帰ってって言って」「あら、だめよトモちゃん。せっかく来てくれたんだから」「いいの。会いたくないの」丸く穏やかだが鋭利な固さを含んだ母の諭しに、耳を預けようとしない様相のトモエ。しかし、障子戸によって人目から守られている彼女の面持ちはあくまで弱々しく、語気の右肩下がりぶりとも相まって、心の底からの反発だろうかと問われれば首を傾けずにはいられない。「もう……」トン、トン、トン、トンため息を織り込んだ一言を置いて、母の影が障子戸の白を滑り遠ざかって行く。ひと刻みごとに萎んでいく足音に誘われるかのように、木板の茶色で占められていたトモエの視界が、まぶたの帳によってスゥッと黒く塗りつぶされていった。トン…トン…トン……母の影が白紙から剥がれ落ちてしばし。寝入る暇も与えまいとばかりに折り返し階段を上がる足音が、障子戸の向こうからトモエへ囁きを投げかける。先ほどよりも更にささやかな木製打楽器系の調べは、陰を閉じ込めたまぶたを持ち上げるにはどうにも力不足な様で、姫は目を瞑ったまま眠りの姿を保っている。シャッ パタン気流の変化と薄い木擦れの音を伴い、ためらいがちな勢いで障子戸が開閉を行った。かくてひとりきりの時間の終わりを迎えたトモエは、先ほど部屋の中心らへんで憤怒を叫んでから相変わらず、だらしないと言っても偽り無いありさまで身体ごと天井と向き合っている。「なに? お母さ……」「……」部屋のまどろみの空気を乱されたトモエの顔が、立ちすくむ来訪者の所在なさげな目と自身のそれを合わせた途端、あごの筋を筆頭にまんべんなく強張った。果たして部屋に入ってきたのは、お母さんどころか生物学の観点から見て女性に分類されない、花柄が眩い子供の手の平ふたつ分ほどの大きさの紙包みを左手に携えた少年…ジュンだった。「…… 何しに来たの」「ん、うん」ジュンよりも天井と向き合う方が負担は少ないのだろう。捻転を強要されていた首筋を自然体に戻して向ける視線をふつりと途切れさせると、トモエの唇は尖ったひらがなが7つ、強かに打ち出した。言葉には物理的な打撃力もあるのだろうか、部屋の主からの専制パンチと合わせて顔を背けた来訪者の頬は、部屋に踏み入ってきた時よりもやや赤みが強くなっている。「え~っと、その、え~……」歯に物の詰まった様な有様で、手に持った包みの端をカサカサと弄ぶジュン。口を開きかけてトモエの方を向いては、顔の赤を広げなおして視線を外すをしきりに繰り返すばかりで、どうにも要領を得ない。「…… ?」熱い湯に触れるが如きおっかなびっくりさで、ちらちらとトモエの方を見てはいるが、ジュンの視線は相手の目や顔ではなくもっと別の何かへと向かっているようで、いぶかしむトモエの目と重ならない。膨らんだ疑念に押されてひそめた眉をそのままに、トモエは弾みをつけた柔軟な背筋に足労願い、瞬発力を試すかのごとく勢いたっぷりに上身を跳ね起こした。畳に預けていた黒髪が前へさっと散り、そのいくらかが、いつの間にか汗をじんと滲ませていた額に張りつき馴染んだ。「ねえ、何しに…… んっふっふっふ~」張り付いた髪ごと額を右の手の平で拭いながら、避けるのを止めた瞳を巌とジュンにぶつけるトモエの顔に、意を得た猫の含み笑いがにや~と湧き上がる。同時に、ジュンの赤らんだ顔が密に熟したトマトに迫る勢いで色濃くなり、しでかしてしまった子供にままあるバツの悪そうな面持ちへとすり替わった。「すけべ」「っ! ……」陰鬱の香りが漂っていた顔色はなりを潜め、先ほどの猛烈な転がり行為から露わになっていた自身の白い下穿き…ぶっちゃけパンツを晒したまま、トモエはねこじゃらしと戯れる幼猫の爪を言葉に変えて、ジュンの硝子のハートをじゃれつき混じりに引っ掻いた。左腕を支柱にして座っている少女のパンツに気をとられていた少年は、掘りかえせる経験の原が狭いためか、後ろめたさがスコップを鈍らせるのか、返す言葉を見つけられず喉を詰まらせ俯いている。「見てたでしょ、あたしのパンツ。 あ~、ジュンくんがこんなにエロいなんて知らなかったなぁ」齢を重ねるほどにまずくなる行為を敢行していたジュンに、差し向けられるトモエのカラい非難。されどその口調は丸っこく、事情の分からない人から見ればからかいやじゃれあいと称したほうが合点がいくだろう。「トモエちゃん…… 怒ってる?」「おこってないよぜーんぜん。ほんとに」恐々と立てたお伺いに対し殊更に朗らかで和やかな態度を示しながら、ここにきてトモエは畳との接触面積を足の裏に限定し、いまだ障子戸の前で落ち着けずにいるジュンへと歩み寄った。身の丈を座高から身長へと進化させるにあたり、生ける我ら全ての母である星とその子の身を包む薄地の衣との間に…より正確に表現するなら地球とトモエのワンピースの間に引力が働き、梅雨時の暑気に晒されていた乙女の真白き最後の防衛部隊が…より正確に表現するなら近所のスーパーでお買い求めができる2枚いくらの白い児童向けパンツが、ようやく最前線「まるだし」から第2防衛戦線「ワンピースの影」へと戦線を退ける事に成功した。「ねー、ジュンくん座って。ほら」「ん、うん」半袖のシャツの裾あたりをくいくいと摘み引かれて部屋のほぼ真ん中、ちょうど今しがたトモエが座っていた辺りに誘われると、ひざを折り曲げ正座でもって腰を落ち着け、畳への応接を受けるジュン。彼の携えていた包みは、きょろきょろと定まらない視線を部屋に走らせている己が持ち主の左脇を居場所として、同じく畳の応接を受けながらその場所を守っている。「んふふ、いいよ正座なんて。 おさむらいさんの本当の正座はあぐらだったんだって。お父さんが言ってた」「え、あぁ、うん」向かいに座っている部屋主に言われるまま、ジュンは窮屈な状態を膝に強いる座り方から、のびのびとしたあぐらへと姿勢を移すべく中腰となった。窓の外の電線でまどろむスズメから見れば、室内の様子は笑顔の少女がシャイな少年をもてなしている図と取れるのだろうが、当のもてなされている少年はというと少女から笑顔でお声を掲げられる度に、やたら噴き出している自身の汗で髪のくせを弱めながら口元を強張らせ、奥歯の噛み合いを新たにしている。「…… やっ!」「うぁっ!?」ドスッ唐突に、そして不意に響いた鈍い衝突音と驚愕の大声が、最寄の電線にかかっていた重量負荷をスズメ3羽分ほど軽くした。クチバシが奏でるチッチッと慌てた鳴き声とせわしない羽ばたきが、ジュンの筋骨儚い上腹部辺りを太ももで挟みこむように跨いでいるトモエに聞こえていたかは分からない。だが、少なくともジュンの脳にその周辺情報を取得するほどの余裕は無かった事だろう。羞恥を呼び起こすお咎めの原因の一部となった同級生の女の子のパンツが、公開されるのをはばかられる部位を伴って激しくそれでいて柔らかく密着している事実は、どこもかしこもほっそりと作られている騎乗の人よりもずっと重く、繊細多感な少年の脳の処理機能に負担をかけているに違いない。ダチョウ3万羽分ぐらいの負荷をかけているに違いない。ちなみに、ダチョウ1羽の体重はだいたい100キログラム。「えっ? えっ、えっ?」ジュンの頭の両横に手をついて畳を掴むトモエの姿はちょうど傘のような風体で、尻に敷いた少年に向けて降ってくる分の日差しを背中で受けとめ霞ませている。しかし、仰向けの顔を薄暗く染める少女の影は熱を冷ます日除けとしては不出来なようで、のたうっている心臓共々少年の肌の火照りの強さは俄然勢いを増していた。「ドキドキいってる。 きこえるよ」少年の汗を吸ったシャツと少女のパンツが密着し、シャツ側から伝わるしっとりとした湿気の助けを借りて、互いがほのかに張り付いている。ワンピースの裾がカーテンの働きをしているため、布2枚を隔てての接触部分はほぼ完全に隠れており、人目につくことは適わないが。「…ッ! どけよバカッ! 重いッ!」「いや」茹って頼りにならない頭の代理として膨らんだ感情を選びだし、代理人に任せて広言した怒声で余裕の笑顔を保つ上のおもしをどかそうと試みたようだが、表情の裏に潜む頑なさにいともあっさりと弾き飛ばされた。身体をよじりぐいぐいと揺らしてもみるが、その抵抗は両脇を固める太ももの密着を高めるばかりで、公言している目的に対しての効果はあがっていない。「…… ジュンくんさ、なんでこのごろ、冷たいの?」明朗とした態度から一変、ゆっくりとした調子の問いが進むにつれ、笑みが徐々にトモエの顔から剥がれ落ちていく。鉄心入りのゴムまりの様だった声も風化して弾力を失い、叩けばボロボロと砕けそうな頼りない固さが顕著さを増していた。「他のコにはやさしいじゃない。 真紅ちゃんとか、雛苺とか、水銀燈ちゃんとか」「あいつらは…… べつに、そんな……」響きや流れから察するに女の子のものだろう、トモエの口でもって並べられた3つの鮮やかな名前が、抵抗を続けるジュン目がけて打ち出された。頭上からの3連撃はそのことごとくが痛いところを突いたようで、下敷きの身分から脱却せんとのたうっていた身体から強張りが逃げ出し、畳へと散っていく。「なん…で? …たし…のっ…こと…きらい?」ぽたっぎゅっと瞑られたトモエのまぶたの内から、抱えきれなくなった潤みがひと粒だけこぼれ落ち、ふたりの間の最短距離を通ってジュンの右頬に潤いを付け加えた。嗚咽をこらえながら目元拭っているが、涙は勢力を衰えさせること無く、手の甲や頬の浸水範囲を順調に広げている。「…… あのね、トモエちゃん」「…うん」「僕、その…トモエちゃんがきらいとか、そういうんじゃないんだ」しょっぱい雨を降らせる雨雲のふたつの目を見上げながら、もたもたとではあるが口を動かし始めたジュン。定まりの悪かった少年の腹もここに来て座りが良くなったらしく、先ほどからしきりに逃げていた視線はかっちりとトモエのそれに合わさっていた。「ぐすっ…… じゃあ、なんで」「あの…えっと、クラスの子にさ、言われたんだ」問いに応えるジュンの顔に、今また赤が帰ってきた。踏ん切りの悪い口のもたつきを、鼻をすする音が急かしたてる。「その、トモエちゃんが僕のよめ、って」「読め?」「嫁。 おくさん」「……」ジュンの唱えた魔法の言葉が、暗雲をすぅっと晴らした。ぐすぐすと鳴っていた音は雨と共に余韻を残しつつかすんでいき、ほどけた雲間からは隠れていた夕日が姿を表し、鬱そうとしていた雲の色に目覚ましい勢いで赤が染み渡っていく。「でさ、その、はずかしくて…… トモエちゃんもイヤだよね、そういうの」「よかった」独りひた走り始めた少年の言に、待ったをかけた少女のひと声。乗り続けていた馬の背という名のジュンのお腹からトモエが降りると、ふたりは改めて座し、膝を正して突き合わせた。「あたしのこと嫌いになったんじゃないのね」「ちがうよ、嫌いだなんて」「うん…… よかった」重ねがさねの単語はただ静かで、淡い吐息の混じった小さな呟きだった。うつうつとした埃が積もりに積もっていたトモエの表情には、いつしか儚さでもいやらしさでも無いもっと別の明るいものと手をつないだ笑顔が、すっきりと掃除を終え住み着いている。「ごめんね、トモエちゃん」「ううん、いいの。 それより……」寂しさと騒々しさの極端な雰囲気が幾度も入れ替わりを繰り返していた部屋が、まろやいだ空気で満たされていく。笑い合える仲を取り戻したふたりの間で、泣き腫らしの跡が残った目元と乱れ皺の寄った衣服だけが、ここに至るまでの道のりを微かに覚えている。「あの、ね。 あたし…イヤじゃないよ」「えっ?」「あたしね、ジュンくんのこと……」トモエはつくづく、ジュンの血色を良くするのが得意らしい。少年の顔に再び湧き上がった赤は、彼の顔史上最高記録を塗りかえて、当面は破られそうに無い金字塔を打ち建てた。「…モ…ちゃ…… トモちゃーん、トーモーちゃーん」溶けていた意識を固め合わせる階下からの呼び声で、何度か気だるげで微細なまばたきを繰り返した後、横たえていた身体と共にトモエのまぶたがようやっと持ち上がった。「…… 寝ちゃってたんだ」今の今まで寝息を立てていたせいか、半袖の白いワンピースから伸びるしなやかな右腕には、枕代わりの対価として畳のい草の織目がくっきりと跡になっている。ほくろ諸共、トモエは眠りを蓄えた目を手の甲でぐしぐしとこすりつけ、まだぼんやりと膜が染み付いているまぶたの裏に活を注いだ。うたた寝の名に相応しく長い時間は寝入っていなかったようで、目やにが溜まるまでには至っていない。「んんっ…… くぁ」背筋をぐっと伸ばし、暑気で汗ばんだ髪をさっさっと軽く撫でつけると、トモエの目は机の上よりこちらを見守る置時計へと向けられた。短針と長身で織り成される時刻は正午を超えて10分ばかり経ったところで、世間様で言うところの健全な食生活を送っているのであれば、お腹のすきを感じるには丁度良い頃合いだ。「トーモーちゃーん、お昼よー 下りてらっしゃーい」「はーい」腰の右にばかり皺の寄ったワンピースの裾を揺らして、部屋から小走りに駆け出ていくトモエ。活気を背負ってしゃんと伸びる少女の後ろ姿を、子供の手の平ふたつ分ほどの大きさの犬のぬいぐるみが、置時計の隣にちょこんと座り見送っていた。「おかあさん、水筒にお茶いれといて」「あらあら、ピクニックかしら?」「ジュンくんと探検に行くの」梅雨の訪れを控えた6月はじめの日曜の空は、前日に続く晴れ模様とあいなって、遊び盛りの子供たちに向けて腕を広げている。昼食の鮭の照り焼きを白米と一緒にぱくついているトモエは、睡眠と真上の太陽とそれ以外の何かを源にして、きらきらと瞳を輝かせていた。第1話 了
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