毒牙
新雪のように真っ白な肌。まるで蔦のように僕の首筋に絡みつく雪華綺晶の細い腕。ガラス細工のように、美しく、脆そうな指先からは想像できない力。獲物を捕らえた猛禽類の鍵爪の如く、僕の首をがっちりと掴んでいる。僕は彼女に押し倒されるような形になる。身動きが取れない。そして彼女に、離してくれそうな様子は無い。ゆっくりと、しかし確実に、雪華綺晶の顔は近づいてくる。仄かに赤みのさしている、やわらかそうな頬。風もないのに、何故かたゆたう白い髪。ぷっくりとふくらみ、瑞々しく光る真っ赤な唇。そこから洩れる、生暖かく湿った彼女の吐息。老若男女問わず、人を惑わす金色の瞳が薄く閉じているのは幸いか。長い睫毛が棘のように僕を見据える。「ねぇ、悪ふざけなら、よそう?」彼女に問いかける。答えは無い。雪華綺晶の接近は止まらない。そうか。それが君の答えか。ああ、僕はこれから彼女に食べられるんだ。蜘蛛の巣に捕らえられた蝶。或いは獅子に組み伏せられた草食獣。そんな気分だった。少女の腕はいつの間にか僕の背中にまで、まわされていた。逃げ場など無いよ。そう言いたげに。いよいよ、彼女の薔薇色の唇は、僕のそれと間近に迫る。彼女のやわらかく、あたたかそうな唇。甘く香るのはグロスだろうか。互いの吐息を、口腔で感じあうほどに。―――――いっそのこと、こちらからくちづけしてしまいたい。そんなこといけないのに、思ってしまった。思わされてしまった。ほんの数瞬だとしても、雪華綺晶の唇を、心を、身体を、求めてしまった。狂おしいほどに、雪華綺晶は美しかった。僕には真紅という、立派な彼女がいるというのに。「をんなというものに溺れたらですね」彼女の口が言葉を紡ぐ。その度に香る彼女の匂いが、僕をより深い悩みの淵に突き落とす。「二度と浮き上がって来ることは無いのですよ」彼女の左目が薄く開く。まるで全てを映す鏡のように、僕を見つめる。僕の心を鷲掴みにする。にやり、と口元を大きく歪ませて、雪華綺晶は嗤う。けだもののように。そして、再び彼女は薄く目を瞑る。美しい。その一言に尽きる、その貌。先ほどとは打って変わって、まるで聖母のように、優しく、穏やかな表情。そして彼女は、思い出したかのように、その表情で再び僕へと迫る。だめだ。僕には絶えられそうにない。ごめん、真紅。彼女と僕の距離が限りなく0に近づく。僕は目を閉じる。そして―――――ついに―――――ごつん鈍い音が狭い部屋に響く。額に痛みが走る。目を開いたそこでは、雪華綺晶が無邪気に、おかしそうに、笑っていた。心なしか、彼女の額も薄赤く腫れている。「うふふふ。本気で私がキスをするとでも思ったのですか? 彼女持ちの殿方に?」彼女は僕に巻きついた腕を緩める。そうだ。もともとこの子はこういういたずらが好きなのだから。僕は一杯食わされたってわけだ。「まぁ、そうだよな。普通は」僕もふふふと笑う。実に恥ずかしい。「そうですね。普通は」そう言うや否や、彼女は再び、口元を吊り上げる。白い歯が見える。僕が最後に見た彼女は、雪華綺晶は、邪気まるだしで、犯シソウに笑っていた。彼女の笑顔が見えたかと思えば、先ほどとは比にならないスピードで。既に僕は彼女の猛毒の牙の下にいた。甘く、蕩けるように、脳に突き刺さる劇毒のような吐息。見るモノの心を奪う、宝石のように空ろに輝く瞳。ぬらぬらと光る唇。蠢く舌。僕は気付いたときには彼女に犯されていた。唇も、心も、身体も、余すことなく総て。温かく、やわらかく、湿った雪華綺晶の唇。それが僕のものと触れ合い、そして貪欲に求め合っている。ぬっちりとした感触が、僕の思考を剥ぎ取り、奪い取る。舌と舌が絡まり合う。ざらざらとした感触。温もりというには激しすぎる熱。どろりと溶岩のように、僕を飲み込んで溶かしてゆく。僕の腕はいつの間にか堅く彼女を抱きしめていた。離さない。離そうという気すら起きない。今だけは彼女は僕のもの。逆も然り。僕の唾液と雪華綺晶の唾液が交わりあい、ねっとりと糸を引きながら、唇の上を垂れ落ちる。粘り気を含んだ雫がベッドにぽつり、ぽつりと染みを作る。始めは雪華綺晶が僕に圧し掛かっていたが、いつの間にか、僕が雪華綺晶を押し倒したような形になっていた。ふにゃりとした雪華綺晶の唇の感触を存分に味わいながら、彼女の滑らかな肌を撫でる。不意に雪華綺晶が唇を離す。涎が糸を引いている。彼女の頬は紅潮し、目も焦点がぶれて、震えている。半開きになった口からは唾液が宝石のような玉を作っている。荒く、なかなか整わない彼女の呼吸音が、僕の劣情を猛烈に刺激する。「ジュンさんも、いけない人ですね」雪華綺晶は、手の甲で、唇についた粘つく唾液をふき取り、さらにそれを味わうように、丹念に舐める。少し恥じらいを含んだ笑いをしながら、言う。「ほんのイタズラのつもりだったのに…あんなにされてしまうなんて…」「…ごめん」目を逸らす。僕にはもう、誰に対しても、それしか言えそうになかった。「素敵です、ジュンさん」唐突な彼女の言葉に僕は耳を疑った。「え?」彼女はじっ…と僕を見つめる。懇願のまなざしで。「浮気でもなんでもいいです。だから、私を傍に置いてくれませんか?」…僕は首を振った。縦に? 横に? それはあなたの想像にお任せする。
終
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