『雪の華ひとひら』
『雪の華ひとひら』庭にあるたった一本の槐の木は、とうに花も葉も散らせている。父は自分と同じ名だからというだけで、わざわざこの小さな庭に木を植えつけたのだから、どちらの槐もご苦労なことだ。暖房のよく効いた部屋で、窓の外の庭景色を肴にこたつで甘酒を酌むのが、近頃の雪華綺晶のたのしみである。十四歳の趣味じゃないと槐は言うが、クリスマスに子どもがシャンパン代わりにシャンメリーを飲むのと似たようなものだ。どぶろく代わりの甘酒、そう年寄りじみたものでもないと雪華綺晶は思っている。薔薇水晶はまだ帰ってきていない。姉の目にも変わり者に映る愛らしい双子の妹は、放課後デートだと言って、水銀燈の腕を曳いてどこかへ行ってしまわれた。薔薇水晶の言うところの、デート、という単語に深い意味はないのだろうが、お姉ちゃんは心配である。そのつもりで言ったではないにしても、とても心配である。ともかく、雪華綺晶は今日ひとりで家に帰ってきた。自宅を改築して開いたドールショップは、その閉店まで時間をのこしており、一階の余った生活スペースに、今は雪華綺晶だけがいる。
雪華綺晶は風情にこだわる性質ではないので、甘酒は雪平鍋いっぱいに作って温めたものをこたつの上に置き、おたまで掬って愛用のマグカップにそそぐだけ、といった具合である。(湯のみは夕食の時に要るのでここでは使わない)その甘酒を一杯、それから溜め息を一つ、そして、――ああ、幸せ。しみじみと実感する。正月には少し、桃の節句にはまだかなり早い。終業式を明日に、クリスマスを数日後にひかえた、そんな十二月のある日のことだった。五時を過ぎてから、店じまいを終えた白崎が戻ってきた。槐はいない。人形師の槐は販売員の白崎と違い、五時閉店だからといってすぐに終業というわけにもいかないので、まだ店にのこっているのだろう。白崎は、こたつでぬくもっている雪華綺晶を見て、「若者が学校から帰るなり、そうだらけているのは、感心しないね」と言った。「白崎もどうかしら」にこりと笑った雪華綺晶は、マグカップをゆすって白崎を誘った。が、白崎は、「いいえ、ぼくはこれから、夕飯の支度をしなければならない」と、きっぱりと断って、服を着替えるために二階へ上がった。「それは残念」雪華綺晶は白崎の姿が見えなくなってから呟いた。
誘ってみて断わられると、とたんにひとり酒の微妙なわびしさを感じてしまう。気がつくと、薔薇水晶の帰宅を今かと心待ちする雪華綺晶だった。しかしながら、家で一番つきあいのよいはずの白崎があれでは、薔薇水晶も見込みが薄そうである。槐は問題外だ。冬休みが始まる前に、相手を探したほうがよいのかもしれない。こうなると、もはやひとりで甘酒を酌むなど、とてもやっていられない気分になってしまった。マグカップがからになったので、雪華綺晶はおたまをつかみ、甘酒を掬おうとした。ところが、かき混ぜても持ち上げても、いっこうに重みを感じない。もぞもぞとこたつから体を出して鍋のなかを見た。すると、鍋はもうからっぽだった。この趣味は、今日はこれでおしまいということらしい。雪華綺晶はまる見えになった鍋の底をこつこつとたたいてから、荒っぽい動作でおたまを投げ出した。ほんとうに、やっていられない。雪華綺晶はついに自分の体も床に投げ出して、そのまま夕食まで眠っていた。「ひまなら少しは夕飯の支度を手伝ってほしかったけれど、雪華綺晶ときたら、あんまりにも不機嫌そうな顔で眠っているから、これを起こすと手伝ってもらうどころの話じゃないと思って、ぼくは結局、ひとりでやったよ」白崎、そこは嘘でも、あんまりにも幸せそうな寝顔だったから起こすにしのびなかった、と言うべきではないのか。雪華綺晶はさらに機嫌を斜めにした。おかげで終始、なんとも言えない空気での夕食となった。
冬休みが始まれば、クリスマスはもう目前である。二十四日・二十五日の予定、パーティーやプレゼントの準備のこと、その学校での最後のうちあわせが、HR前のあちらこちらでおこなわれていた。終業式の朝の教室は、朝からさわがしかった。薔薇水晶は来たる一大イベントをまぢかにテンションがあがっているのか、早々と隣のクラスへ、より正確に言うと水銀燈のもとへ、机に鞄を引っかけるなりかっ飛んでいった。最近、姉はさびしい。雪華綺晶は力なく机につっぷした。このさい男でも女でもよいから、家族以外の聖夜を共に過ごす素敵な人と巡り会いたいものだ。そんなことを槐が聞けば、中学生にそれはまだ早いと怒るだろうが、槐なんぞはどうでもよろしい。「雪華綺晶、ちょっといいかな」「まあ、素敵な方」「うん?」雪華綺晶は寝かせていた体を起こした。机の上に手を置いて声をかけてきた蒼星石が、不思議そうに目をしばたかせる。「もしかして寝ていたのかな。起こしちゃって、ごめん」どうやら蒼星石は、雪華綺晶が寝ぼけていたためにトンチキなことを言ったのだと勘違いしたらしい。それはかまわないのだが、蒼星石が雪華綺晶のクラスまで来たのは、いったいなんの用なのだろう。
雪華綺晶が訊ねると、蒼星石は頬を掻きながら、「買い物に、その、つまり、クリスマスプレゼントを、一緒に選んでほしいんだけど、午後から、あいているかい」と、歯ぎれ悪く言った。おかしな蒼星石である。――これは、もしかして、はにかんでいるの、この子。まさか家族や友達へのプレゼント選びの相談で、いきなりこんな挙動不審になったりはしないだろう。と、いうことは、だ。……「家族へのプレゼント、まだ決まっていないのですか」雪華綺晶は念のために訊いて、蒼星石が首をふって、そっちはもう買ったとやはり歯ぎれ悪く否定するのを確認してから、「あいています。ひまです。いくらでもおつきあいいたしましょう」心中快くとはいかなかったが、とりあえずにこやかに諒承した。買い物所は図書館近くの百貨店、いったん帰宅してから待ちあわせることになった。待ちあわせの細かい場所と時間を決めたあたりで、ちょうど予鈴の音を聞く。「ありがとう、放課後にまた来るねっ」蒼星石はまるで捨て台詞でも吐くかのような大声で言って、教室を出ていった。蒼星石の背を見ながら、雪華綺晶は、どこかにわたしと甘酒を酌み交わしてくれる素敵な人がいないかしらと、溜め息混じりに思った。もうこのさい男でも女でも犬でも兎でもよいから、だれかどこかに。
そして、ちっともおごそかでない終業式と二学期最後のHRが終わった。雪華綺晶は勉強道具等をちゃんと持って帰っていなかったことに後悔した。机の下のものを通知表とまとめて鞄に詰めこんだ。すごいふくらみようだった。朝に言ったとおり、蒼星石がやって来た。ただし、ひとりではなく翠星石を伴っていた。薔薇水晶と入れ替わるように教室に入ってきた蒼星石の荷物は、雪華綺晶と比べものにならないほど少ない。翠星石は雪華綺晶と大差なかった。机の下は生徒の性格がよく現れる部分だと、雪華綺晶は思った。待ちあわせ場所と時間とをもう一度確かめあいつつ、ついでだから一緒に帰らないかと蒼星石は雪華綺晶を誘った。どうせ薔薇水晶はまた水銀燈との、放課後デートとやらだろうし、ひとりで帰るのも、それはそれでさびしいものだ。「では、一緒に帰りましょう」雪華綺晶はいつもより重い鞄を提げた。
帰宅して昼食をとって、それから外出着に着替えていざ百貨店へ行く。そういえば今年の夏休み、薔薇水晶と一緒に、白崎が図書館で借りた本を代わりに返しにいく途中、図書館帰りの蒼星石と翠星石に偶然会い、四人で食事したのがきっかけで、つきあいが始まったのだった。今回は家で昼食を済ませたが、いつかまたみんなで例のラーメン屋に入るのもよいかもしれない。蒼星石はすでに待っていた。雪華綺晶は一言謝り、蒼星石はお決まりの言葉で返し、百貨店のなかへ入った。てきとうにそこらを歩きながら話す。「どういうものをプレゼントしたいのか、だいたいは決まっているのでしょうか」と、雪華綺晶は蒼星石に訊いた。それがわからなければ、この広い店内をやみくもに歩かなければならなくなる。ある程度の見当は最初につけておきたかった。「困ったことに、なにも」ほんとうに困ったようすで蒼星石は言った。「そうですか。……」雪華綺晶も困った。あてがないのは、どうしたものか。ところで、これはだれへのプレゼントなのか、雪華綺晶はかんじんの部分を聞いていなかったことを思い出した。雪華綺晶がそのことを訊くと、蒼星石はなぜだか口ごもった。視線を床に落とし、顔を赤らめた。まるで、どうにかこの話題をそらせやしないかと思案しているようだった。
意外に細い雪華綺晶の堪忍袋の緒に、わずかな綻びが発生した。蒼星石が、相手の名前を言いたがらないのは、なぜだ。言われなくても、雪華綺晶には、蒼星石がだれへのクリスマスプレゼントに頭を悩ませているのか、半ばわかっている。蒼星石が高台の薔薇屋敷の老主人に執心であることを、雪華綺晶は知っている。雪華綺晶だけでなく薔薇水晶だって知っていることだ。そりゃ、あれだけご当人の口から、べらべらべらべら嬉しそうに薔薇屋敷のことを語られたら、いやでも覚えるだろう。家族でもなく友達でもない他のだれかに贈りたいプレゼントの、その相手を、これでわかるなというほうに無理がある。それを、今さら恥じて、いったいなんだというのか。雪華綺晶は、堪忍袋の緒が切れないよう心を落ち着かせ、なるたけ優しい声で、「せめて性別と年齢くらいは教えていただきませんと、わたしにはどうにもなりません」と、蒼星石に言った。話題が完全にそらされたわけでもなかったが、蒼星石はほっと一息、「男の人だよ。年齢は、知らないけれど、たぶん、六十、いや七十歳くらい、かな」と、意味もなく両手の指を折って数えながら言った。指を折れば年齢に正鵠を得るわけではないから、まさしく意味のないことだった。「つまり、その男性はご老人と」「うん」「高台のお屋敷に住んでいらっしゃる」「えっ」「元華族さまの資産家の」「あの、雪華綺晶」「お名前は結菱一葉さん」「……そうです」蒼星石の声が細く萎えていった。
「蒼星石――」「はいっ」すごみのある声に、蒼星石は思わず立ちどまって背筋を伸ばしたが、それでどうなるわけでもない。雪華綺晶はかまわず蒼星石に詰め寄り、「どうして、わたしなのですか」と、静かな声で言った。どうして翠星石に相談しなかったのか。いや、もうしたのかもしれないが、それにしてもその上でなら、なおさら、雪華綺晶に声をかけた理由はなんなのか。翠星石は何度か薔薇屋敷へ行って一葉に会ったことがあるし、一度も行ったことのない、一葉と会ったことのない雪華綺晶より、ずっと頼りになるにはずである。雪華綺晶がそれを言うと、蒼星石は、「翠星石はだめなんだ。翠星石は、ぼくが結菱さんのところへ行くの、あんまりおもしろくないっていうか、よく思っていないみたいだから」と、とまどっているような口調で言った。妙に怖い顔をしている雪華綺晶にではなく、蒼星石が薔薇屋敷へ行くことを快く思わない翠星石にとまどっている、そんな感じだった。なるほど、なるほど。雪華綺晶は頷いた。蒼星石はその頷きを事情の把握として受け取ったが、じっさいは翠星石への理解を示したものだった。雪華綺晶には、翠星石の気持ちがわからなくもなかった。
雪華綺晶は、(薔薇水晶もだが)一年の時に翠星石・蒼星石の双子と同じクラスだった。その頃の双子の家は、両親が不倫だ離婚だと、なにかとたいへんな時期で、しかも聞けばどうやら、小学生の時から延々と続いている問題らしく、周囲は教師も生徒もみんな、腫れ物のようにこの双子を扱っていた。そんななかで、翠星石は蒼星石の姉というより、母だった。両親がたいへんな時期だから、なおのこと自分こそが妹を守らなければならないと気を張っていたのだろう。つねに周りを警戒し、蒼星石を胸に抱きこむようにかばっていた。一時でも離れようとしなかった。そうした翠星石の姿というのは、妹を守る姉というより子を守る母に見えた。他のだれにそう見えなくとも、雪華綺晶にはそのように見えたのである。そそいだ愛情もひとしおだったろうに、まさかまさか枯れた爺さんに大切な妹を持っていかれるとは、翠星石もつゆ思わなかったに違いない。翠星石ほど複雑な事情がないにしても、雪華綺晶も似たようなものである。薔薇水晶が水銀燈と最近やけに親しげなのが、雪華綺晶としてはおもしろくない。今まで大事に守ってきた妹を横から取られたような気分である。いや、薔薇水晶が一方的に水銀燈に懐いているだけで、水銀燈から積極的になにかしたわけではないから、横取りとは違うのだが、――やっぱり、いやだわ。と、雪華綺晶は思う。懐くなら姉に懐いてほしい。甘えたいのなら姉がいる。だのに、違うクラスの生徒で、違う家に住んでいて、言うまでもなく血の繋がりなんてなにもないもない水銀燈にばかり、薔薇水晶は甘える。雪華綺晶の気にいらないことおびただしい。この感情を端的に言えば、これはもう、嫉妬以外のなにものでもなかった。
だから雪華綺晶には、翠星石の気持ちがなんとなくわかる。たぶん翠星石にも雪華綺晶の気持ちが、なんとなくわかるはずである。それなのに蒼星石は、なんでかなあ、などと呟いている。ムッとした雪華綺晶は、翠星石と、あと自分を擁護するつもりで、「そういう蒼星石も、翠星石が真紅や雛ちゃんと仲よくお話していると、とたんにご機嫌ナナメになるじゃありませんか。それと同じです」と、言ってやった。「そうだっけ。えー、でも、うーん……、えっ、同じ?」真面目にうなる蒼星石には、まったく自覚がなかった。蒼星石はむずかしそうな性格をしていて、けっこう単純でわかりやすい。蒼星石は同年代の他の女子と比べても、思考のひだが多いほうだろう。ひだの多さは感情の煩さでもあり、蒼星石はこの煩さが、おもてに出やすい。そのあたりは雛苺や癇癪持ちの翠星石とそう変わらないが、違うのは、蒼星石は内面の情の濃さに対して、外面に出てくる情が他に際だって薄いということである。出やすくとも、ひじょうに薄い。そのせいで、彼女は一見すると無感動に、あるいはそれこそ真紅のような冷静で大人っぽい女の子に映るが、しかしほんの少し彼女に近づけば、それが実像とはかけ離れていることに気づくだろう。そして、彼女の思考のひだの多さは、容易に鬱に繋がる危うさがあることもわかるだろう。翠星石の、心配で手を離すに離せないわけである。雪華綺晶は翠星石に同情した。それは自分に対するものでもあった。かわいそうな姉であること、自分で自分をあわれみなぐさめた。姉は海より広くて深い愛情を妹にもっているのに、当の妹はわかってくれない。
「でもあんまり過保護だと、彼女もうっとうしく感じるんじゃない?」なんて、水銀燈が言っていた気がする。――言いたいことはわかります、水銀燈。でも納得いかないのです、わたし。妹を掻っ攫っていった張本人にだけは、言われたくない雪華綺晶である。そもそも水銀燈が甘やかしさえしなければ、あそこまで薔薇水晶が懐くこともなかったかもしれないのだ。思い出しただけで腹が立ってきた。雪華綺晶は、深呼吸してもう一度気を落ち着かせ、一葉の趣味などを知っていれば、それを教えてほしいと蒼星石に言った。「ごめん、それも知らない」と、蒼星石は申しわけなさそうに言った。一葉については、当然だが、知らないことのほうがはるかに多い。「身に着けている特徴的なものなどは」「それは、手袋かな。白い手袋をいつも着けている。毛糸じゃなくて、あと皮でもなくて、なんていうのかな、あれ」「ああ、わかりました」蒼星石の言う、あれ、とは、フォーマル用の手袋のことである。雪華綺晶もよく知らなかったが、想像はできた。お金持ちの主人がパイプでも持っていそうな、あれだろう。
「他には、膝掛けだね。夏でもずっと膝掛けをしていた」「それにしましょう」防寒目的でない毛糸でも毛皮でもない、手により密着した手袋だと、サイズにそれなりの気をつかわなければならないかもしれず、残念ながら蒼星石は一葉の手の大きさなど知らない。大きいのか小さいのか、よくわからなかった。大きいな手のようにも思えたし、また男性にしてはいささか小さい手であるようにも思えた。思い出そうとするたびに、蒼星石のなかで一葉の手の大きさは変わった。それなら、膝掛けのほうが失敗のないプレゼントに違いなかった。ふたりの向かうべき場所が決まった。膝掛けは寝具のひとつだから、そのあたりを見て回ればどこかにあるはずだった。探してさまよわなければならないことにかわりはなかったが、モノ自体に迷いながら店内を歩くより、はるかに足どりがよかった。さんざんに歩き回って、ようやくそれらしいテナントを見つけた。一葉に似合うと思われる膝掛けを物色し、これと決めて買った。最終的には雪華綺晶はなんのアドバイスもしなかった。雪華綺晶は一葉のことをなにも知らないから、どれが似合うかなどわかりようもなかったためである。それでも蒼星石は、何度も雪華綺晶に礼を言った。なにもかも雪華綺晶のおかげだとでも言いたげだった。膝掛けを買ってから別れるまでずっと、蒼星石は雪華綺晶に礼を言い続けた。他の言葉を知らないかのようだった。
バスから降りてからの家路で、雪華綺晶は、甘酒用の酒粕がもうすぐ無くなりそうだったことを思い出した。足を家から遠ざけ、近くのスーパーに向ける。しかし、雪華綺晶はスーパーには入らなかった。自動ドアの向こう側から、両手に買い物袋を提げた白崎が出てきた。雪華綺晶を見つけた彼が、「夕飯の買い物。あと、酒粕がもうのこり少なかったから買っておいたよ」と言ったから、雪華綺晶は入る理由をなくした。雪華綺晶は手を差し出した。白崎は両手の買い物袋を持ち上げ、重さを量ったあと、軽いほうの袋を雪華綺晶に持たせた。買い物袋片手に、ふたり並んでドールショップ兼自宅への道を歩く。道は少しずつ上り坂になっていき、自然と足も重くなった。雪華綺晶は身をふるわせた。今日はこの冬一番の寒さかもしれない。朝、テレビの天気予報がそんなことを言っていた気がする。「これくらいの寒さなら、ホワイトクリスマスになってくれるかな。それにしては、空がすっきりしすぎなのが気になるけれど、雪が降るといいねえ」と、白崎が視線を上向かせて言った。雪華綺晶はいちおう同意したが、彼女は、クリスマスに雪はなんて要らないと思っている。理由はいたって簡単なもので、寒いからである。窓から槐の木が見えさえすれば、そこにどんな添え物も要らない。
でも、雪と言われて、雪華綺晶はふと昔を思い出した。「昔、とてもとても小さい頃、薔薇水晶が入院したことがあったでしょう」突然話しかけられて、白崎は雪華綺晶にふり向いた。「ああ、あったね。食中毒だっけ。仏壇の賞味期限切れのお供え物を食べちゃって」「そう。それで薔薇水晶は入院してしまった。それなのにわたしは、全然お見舞いに行こうとしなかった」雪華綺晶は自嘲とともに苦笑した。薔薇水晶の見舞いに行きたがらなかったのは、その頃彼女が自分の名前の由来を知ったからである。あなたの名前はスノードロップという花なのよ、と賢しらな当時のクラスメイトが教えてくれた。そういう名の花があることを、雪華綺晶は知らなかった。和名がユキノハナ、漢字をあてると雪花(雪華)になるのだろう。花言葉は希望という話だから、悪い花ではないと幼心に喜んだものだった。雪華綺晶はそれで興味が湧いて、学校の図書室から図鑑を借りてスノードロップのことをもっと詳しく知ろうと思った。それで知ったのが、スノードロップがヒガンバナ科の花ということで、雪華綺晶は小学生といっても、彼岸花が入院患者に贈るにははなはだ不吉な代物であることくらいもう知っていたから、薔薇水晶の見舞いに行きたがらなかったのである。
「あったね。そういうことがあった。泣いてわめいて、きみはどうしようもなかった。薔薇水晶も、お姉ちゃんが来てくれない、嫌われてしまったと泣いた。槐の困り果てた顔は、今でもはっきり思い出せるよ」白崎は自分の記憶をめぐらせながら、懐かしげに笑った。雪華綺晶も自嘲の色を取り除いて笑った。「そこで、白崎は教えてくれました。お父さまは、わたしに、花の名前じゃなくて雪の名前をつけたのだって」「それはあったかな。覚えていないね」「ええ、ありましたよ。わたしは覚えていますとも。あなたはたしかに、教えてくれました。雪華綺晶はうつくしい雪のことだと、わたしに教えてくれた」そしてそのあと、雪華綺晶は白崎に手を曳かれて薔薇水晶を見舞った。雪に六花を象り、その雪の舞うに雪華と謂い、花に名づけてユキノハナと呼ぶ。綺晶は雪華に添えられた美辞で、うつくしくかがやく、ということだろう。すなわち彼女の名は、雪のような花ではなく雪そのものだった。雪華綺晶は買い物袋を持っていない右手で、白崎のあいている左手に触れた。心得た白崎が柔らかく雪華綺晶の手を握り、雪華綺晶の手がそれを握りかえした。「ちょっと恥ずかしいね。若い親子か、年の離れた兄妹くらいには見えるかな」「親子でも兄妹でも、手を繋ぐような年齢には見えないでしょう」雪華綺晶からすると、いっそ恋人同士に見えてもかまわなかった。
せめてここで雪でも降れば、多少ふんいきも出るだろうに、暗くなっていくだけの寒空には、雪の降りそうな雲は見あたらなかった。けれども雪華綺晶は、今日はとても冷えるので早く家に帰ってこたつでぬくもりながら、甘酒を飲みたかった。「おつきあいしてくださるかしら、素敵な殿方」「あなたのようなうつくしい女性から誘われて、断わる男はいませんよ」昨日はきっぱり断わった男が、さらりと言って返す。――でもそれはなかったことにしてくれると嬉しい。細い目はそう言っていた。お互いの手をいっそう強く握って、笑った。今は降っていなくても、十二月はきちんと雪の季節である。ホワイトクリスマスがやってきた。おしまい。
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