『貴女のとりこ』 第十五回
『貴女のとりこ』 第十五回その朝、ジュンは普段と変わらぬ態度で家を出ると、学校ではなく、薔薇水晶の屋敷へと、足を向けていた。いま、彼女は助けを求めてる。救いの手が差し伸べられることを、切望している。そのことを、彼は痛いほどよく解っていた。なぜなら、彼自身も、似たような境遇に立たされた経験があったのだから。中学生の頃、一時期ではあったが、ジュンは引きこもった。原因は、今にして思えば、とても些細で他愛ないこと。けれども、あの頃は、そんな風に考えられなかった。固定概念に縛られ、些末な事象を鼻先であしらえるだけの余裕を、持っていなかった。――顔も知らない誰かが引いたレールの上を、ただガムシャラに走るだけの汽車。そんな生き方に、疑問など抱いていなかった。そもそも、考えもしなかった。喩え、誰かの操り人形にも等しい生活だったとしても……気付かずに踊っていた筈だ。なにも、問題が起こらなければ。そして体験した、脱線。それに伴う、価値観の崩壊。待っていたのは惨めな生活と、苦痛だらけの世界。敗者に与えられるのは慰めの言葉ではなく、屈辱と嘲笑。どこに行っても、人々の視線と、会話の内容が気になって……耳をそばだてれば、今度は幻聴が、弱り切った若い心を打ちのめした。強迫観念を植え付けてきた。あまりにも残酷な世界で、それでも自ら道を絶たなかったのは、それが逃避だと、彼女が――幼なじみの女の子が気付かせてくれたからだった。枠組みから爪弾きにされても、しぶとく生きてやろう。そう考えられる強さを、彼女に分けてもらったから。生きて……生き抜いて……。他人が繋いだNゲージのレール上で、ぐるぐる回っているだけの没個性集団を――自分を蔑んだ連中を、蚊帳の外から眺めて、笑ってやろうと思えるようになった。もっとも、その後も暫くは、姉に多大な迷惑と心労をかけたのだけれど。(姉ちゃんと、柏葉には、どれだけ感謝しても足りないよな)幼なじみの娘――柏葉巴は、毎日のように、ジュンの元を訪れてくれた。自分も部活などで多忙だろうに、何故、あんなに気に掛けてくれたのだろう?あの当時は、幼稚な発想しかできなくて、彼女の動機が理解できなかった。引きこもって間もない頃には、疎ましく思う余り、帰れと怒鳴った憶えもある。だが――――その翌日も、巴は来てくれた。台風の日も、雷雨の日も、珍しく雪の積もった日も、欠かさずに来てくれた。ドア越しに一時間以上も話し合う日があれば、一言交わすだけで別れた日もあった。(だけど、あの日から――)ある日を境に、パッタリと、巴が来なくなった。前日の別れ際には、明日も来ると言っていたのに……。何かの都合で、急に来られなくなったのだろう。その日は、そう思って過ごした。だが、翌日も、翌々日も、彼女は来ない。学校での話を、聞かせに来てくれない。待てど暮らせど、携帯電話にすら、連絡はなかった。その時になって初めて、ジュンは気付いたのだ。いつの間にか、巴の訪問を心待ちにしていた、自分に。その日…………ジュンは、自室を出て、家の外に踏み出した。柏葉に会いたい。ただ、それだけの想いに衝き動かされて、彼女の家を目指していた。誰か、知人と鉢合わせになるのではないかとビクビクしながら、町中を歩き、散々に躊躇った末、彼女の家の呼び鈴を押したのだ。(思えば、随分と子供だったな……僕は)巴は、風邪をこじらせて、寝込んでいた。熱に浮かされ苦しい筈なのに、訪ねてきたジュンの顔を見るや、心底嬉しそうに微笑んでくれた。ただ一言「ありがとう」と……。そこに至るまでにも、ジュンは薄々とだが、巴の気持ちに気付き始めていた。そして、彼女に寄せる自分の想いにも――だから、彼は一切の迷いなく、巴と、初めての口付けを交わした。彼女の風邪が、自分に移ってしまえばいいと願いながら……そっと、優しく。その翌日、ジュンは恋愛マンガさながらに風邪をひいて寝込み、全快して、以前のように桜田家を訪れてくれた巴の看病を受けることとなったのだが。「柏葉…………今、どこに居るんだ? 会いたいんだ――君に」回想に耽っていたジュンの唇から、知らず、心情が吐露されていた。もう一度、彼女の笑顔が見たい。声が聞きたい。温もりを感じたい。そして――――胸に蟠る想いを、伝えたい。 好きだ、と。キスしたい、と。だからこそ、昨夜の電話で巴の名が出るや、二つ返事で承諾したのだ。今日、学校をサボってまで、薔薇水晶の家を訪問することを。(柏葉と、雪華綺晶の手懸かりが掴めるかも……って言ってたけど)どういう事なのだろう。今になって、何らかの連絡が付いたのか?有り得ない――と、ジュンはかぶりを振った。連絡が付こうものなら、執事の青年あたりが、真っ先に警察へ通報する筈だ。それもせずに、薔薇水晶が、ジュンにだけ電話を掛けてくるなんて……変な話だ。「どうやって、失踪した二人の手懸かりを、掴むんだろう?」ジュンはまだ、薔薇水晶が嘘を吐いたなんて、考えてもいなかった。「おや、桜田くん。お嬢様のお見舞いに来てくれたのですか? ささ……どうぞ」平日の朝っぱらから、制服姿で屋敷を訪れたジュンを、執事の白崎は平然と招き入れた。こんな時間に……と訝るのが、普通の反応である。にも拘わらず、彼はジュンを諫めることすら、しなかった。執事とは、そう言うものなのだろうか?主人の家族と親しい者ならば、道義的に誤っていても、看過する――と?その理屈でいくと、ジュンがこの屋敷で盗みを働いても、許容されることになる。そんなバカな話は、有ろう筈がない。(……ってことは、薔薇水晶から僕の訪問予定を、聞かされてるのか?)であるなら、ジュンが朝から訪問しても、驚かなかったのは当然だ。きっと、そういう事なのだろう。イマイチ釈然としなかったが、ジュンは無理矢理に、納得しようと努めた。タキシード姿の白崎に先導され、廊下を歩きながら、窓の外を見遣る。梅雨の晴れ間から顔を覗かせた太陽が、燦々と輝いている。窓越しにも判る強い日射しが、押し寄せる夏の気配を漂わせていた。やがて、彼らは軋む階段を昇り、とある部屋の前で立ち止まった。ドアプレートには《◇ばらしーのお部屋◆》と、カラフルな文字が躍っている。白崎は三回、ドアをノックした。「お嬢様。桜田くんが、お見舞いに来てくれましたよ」小走りに近付いてくる足音が、ドア越しに聞こえたかと思った直後、鍵がカチャリと音を立てて外され、内側からノブが回された。そぉ……っと、室内へと開いていく扉。隙間から、おどおどと様子を窺う、琥珀色の瞳。「ホントに……来て……くれたの?」「ああ、本当だよ」白崎に代わってジュンが答えると、ドアは瞬く間に開け放たれ、薔薇水晶が飛び出してきた。挨拶を交わす間もなく、ジュンにしがみつく。再会を喜ぶ抱擁ではない。まるで、恐い夢を見て、親に縋る子供のようだった。「ありがとう…………すごく不安だったから……すごく、嬉しい」途切れ途切れの言葉は、語尾の歪んだ涙声。程なく、彼女は嗚咽し始めた。かなり、精神的に追い詰められていたらしい。心なし、痩せたようにも感じられる。(可哀相にな――)口の中に、苦いものが湧き出してくる感覚。あの頃の自分と同じだった。じわじわと万力で押し潰される様な胸の痛みに耐えながら、ジュンは薔薇水晶の華奢な体躯を包み込んで、背中を優しく撫でてあげた。これで、少しでも彼女の気持ちが和らげばいいと願いながら。白崎は、そんな二人を眺めて、意味深長に瞼を細めた。そして、恭しく一礼する。「それでは、飲み物でも用意してきますので…………ごゆっくり」白崎の用意してくれたハーブティーは、味わいと香りで、ジュンと薔薇水晶の波立った感情を落ち着かせてくれた。小さなテーブルを挟んで差し向かい、暫し、他愛ない雑談に花を咲かせる。楽しそうに笑う、薔薇水晶。万全とは言わないまでも、体調は回復している様だ。「なあ――」室内の空気も和み、そろそろ頃合いかと意を決して、ジュンは本題を切り出した。「柏葉たちの手懸かりが掴めそうって、どういう事なんだ? もう、何か解ったのか?」薔薇水晶は急に口を噤んで、答えない。答えられる訳がなかった。あんなものは、ジュンを呼び出す口実でしかなかったのだから。黙りこくる彼女に、苛立ちを募らせる、ジュン。「なにか知ってるなら、教えてくれ! 僕は、柏葉を捜し出したいんだ!」――巴ちゃんのことしか、心配してくれないの?喉元までこみ上げた言葉を、薔薇水晶は呑み込んだ。付き合いの浅い雪華綺晶よりも、幼なじみの巴を大切に思うのは、当然だからだ。薔薇水晶にしても、巴より、雪華綺晶の安否の方が気掛かりだった。どうあれ、これ以上、沈黙で話を長引かせることは不可能。瞼を閉じて、深く吐息すると、薔薇水晶は徐に語り始めた。自分を凝視している彼の瞳を、真っ直ぐに見つめ返して。「あの……ね、ジュン。実は――」一寸先も見えない漆黒の世界に、生々しく、湿った音が響く。時折、ゴリゴリと、なにか固い物を噛み砕く音が混ざる。はぁっはぁっはぁっ……獣のような荒い息遣いも、聞こえた。不意に、物音が止む。一瞬の後、闇の中に、ぽぅ……と明かりが灯った。淡い光に浮かび上がったモノ――それは、簡素な寝台の上に広がる、ドロドロした粘っこい液体と――その中に転がる、元が何であったのかすら判別できない、赤黒い物体と――口元から喉にかけて、血脂を滴らせた夜叉の姿だった。夜叉――左の瞳に異様な光を宿した雪華綺晶は、手の甲で唇を拭い、こびり付いた血脂を、舌でネットリと舐め取った。はぁ――――ぅ。嘗て、巴だった物体を眺めながら吐き出される、長い溜息。それは、長い酩酊から目覚めた直後の欠伸か。それとも、ただ気紛れで、深呼吸をしただけなのか。何故、そんな行動を取ったのだろう?実のところ、雪華綺晶にも、よく解っていなかった。「巴ぇ…………なんて、醜い姿になってしまいましたのぉ」そんな痴れ言を、ぽつりと呟く。彼女を、そんな風にしたのは、自分。巴の凛とした美しさに魅せられ、その甘美なる果実を貪り食ったのも、自分。美醜など、紙一重。綺麗に印刷された表紙の裏には、汚らしい現実が綴られている。――丁度、目の前にさらけ出された、こんな世界が。美しいものを醜く汚した背徳は、雪華綺晶を恍惚とさせた。その権限を、自分は与えられたのだと考えるだけで、とろけるほどの優越感を覚える。血の海に沈んでいた小さな肉片を摘み上げ、口に含む。とろりと、舌の上で溶けていく、甘い触感。喉越しの快感が全身を駆け巡って、雪華綺晶は、ビクビクビクッ……と小刻みに痙攣した。「はぁ……はぁ…………はあぁん、堪りませんわぁ。 頭が、おかしくなって……何度でもイッちゃいそう」歪められた口の端から、薄紅に色付いた唾液が、滴り落ちた。官能の余韻に、ひくっひくっと身体を震わせながら、へらへらと薄ら笑う。巴は醜くなった。汚くなった。死という穢れに染まってしまった。――だが、と、雪華綺晶は想う。「これは、聖なる儀式。 不完全な肉の器を捨て、究極の美へと昇華するメタモルフォーゼ。 蝶が、イモムシという醜い期間を経て、美しく変貌するように! 植物が、蕾の時期を経て、大輪の花を咲かせるように! ああ…………巴。貴女の美は、ミクロのレベルまで解体され、再構築されるのですわ! 私は、その素晴らしい仕事を任された、一人の職人に過ぎない」彼女を幾重にも包み込んでいる穢れの繭――或いは蕾――を悉く断ち切り、遙かな高みへ連れていく翼となるべく、自分は、この世に産まれてきたのだ。今では、そう確信していた。携帯電話のバッテリーゲージへと、視線を転じる。もう、残り僅か。儀式が終わるのが先? バッテリー切れが先?間に合わせなければならない。この儀式を完遂できなければ、自分の存在もまた、無意味なものとなってしまう。それだけならまだしも、巴の美しさすら、未来永劫、失われてしまう。――それだけは、絶対に…………イヤ。最後の仕上げをする用意は、出来ている。準備が、まだ終わっていない。巴の全てを、取り込んでいない。早くしなければ。急がなければ。少しでもバッテリーを長持ちさせるため、雪華綺晶は携帯電話の電源を切った。再び、彼女を包み込む、深淵の闇。雪華綺晶は手探りで凄惨な聖餐を掴み、無心で口に運んだ。私の中で、溶けていく…………巴が、溶けていく…………。巴の全てが、身体に染み込んでくる。彼女の核が、雪華綺晶の細胞膜を突き破って、入り込んでくる感じがした。全身の細胞の、ひとつひとつが――――与えられる痛みに痺れ、歓喜している。なんという愉悦。なんという快楽。この悦楽こそが、聖なる作業に従事する者への、報酬なのだろうか。ならば、受け取ることを、躊躇ったりしない。もっと! もっと! もっと、もっと、もっと!「あああああああああああぁぁ――――――――っ!!!!」肉体を震わせ、下着を汚しながら、雪華綺晶は官能を声に変えて、闇に解き放っていた。 ~第十六回に続く~
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