『絆を下さい』
『絆を下さい』予想外に急変した空模様を、ジュンは部屋の窓から眺めていた。下校時間になってからの、突然の夕立。夏場は、これだから油断がならない。外は文字通り、バケツをひっくり返した様なドシャ降り。時折、暗雲の中で閃光が瞬き、数秒遅れて轟音が鳴り響いた。 「暫く、止みそうもないな。ほら、タオル。頭、ちゃんと拭いとけよ」 「まったく、酷い目に遭ったですぅ。あ、ハンガー貸して欲しいです」 「ハンガーは、これ使ってくれ。そっちが着替えな」 「解ったです。どうも、ありがとですぅ。あと、お風呂……」 「遠慮ねえな、お前。いま沸かしてるから、三十分ほど待ってろよ」帰宅途中に降られて、二人はすっかりズブ濡れになっていた。元々、桜田家に遊びに行く予定だったから、雨宿りもせず走って帰り付き、今に至っている。 「じゃあ……ちょっと、紅茶を煎れてくるからな」濡れた栗色の髪を拭きながら、翠星石は微笑み、頷いて見せた。気を利かせてくれたジュンの好意を、無駄にしてはいけない。翠星石は窓のカーテンを引くと、雨を吸い込んで重くなったブレザーをハンガーに掛けて、スカートと、ワイシャツを脱ぎ捨てた。 「ごめんな、翠星石。お茶菓子、こんなもんしか無かった」 「ううん……お構いなくです。 はぁ~、ジュンが煎れてくれる紅茶は、いつ飲んでも美味しいですよ」 「そりゃどうも。お世辞でも嬉しいよ」 「ジュンにお世辞なんか言った事、一度だって無いですぅ」ジュンに借りたTシャツとジャージを着た翠星石は、ティーカップを手に、幸せそうな表情を浮かべた。そんな彼女を眺めるジュンの眼差しは優しい。二人が正式に付き合い始めて、早二ヶ月。幼なじみだった少女が、高校で同級生となり、今や肌を交わす存在になっているなんて、想像もしていなかった。子供の頃から本音をぶつけ合ってきた二人には、互いの距離が近すぎて、側に居るのが当たり前になりすぎていた。だからこそ、殊更に互いを求めようとは考えなかったのかも知れない。その必要を感じなかったから。そんな幼い関係が愛へと昇華したのは、彼女の妹、蒼星石が、間を取り持ってくれたからだった。 「お……翠星石。そろそろ、風呂が沸く頃だけど」 「もう? じゃあ、遠慮なく借りしてもらうです。で、そのぅ――」 「なんだよ。制服なら、いま乾燥機で乾かしてるぞ」 「ち、違うです! あの…………ジュンも、一緒に……入るです」浴室に響く翠星石の嬌声は、徐々に大きく、艶を帯びていった。荒い息づかいと、激しくぶつかり合う音が重なる。肌を撫でる指の感触。途切れ途切れに交わされる『好き』という呪文。揉みほぐされていく肉体。呼吸困難になるくらい動き続けても、まだ、お互いを求め足りなかった。そして――――翠星石は前歯で指を噛み締め、声を押し殺しながら身体を震わせた。彼女の奥深くで欲望を解き放ったジュンは、翠星石の頬を慈しむように撫でて、頻りに吐息を洩らす唇を優しいキスで塞いだ。 「そろそろ、姉ちゃんが帰ってくる頃かな」 「もう、おしまいなんですね。ちょっとだけ……胸が切ないです」 「翠星石が見られても構わないって言うなら、もう一回するけど?」 「ばっ……バカ言うなですぅ!」風呂から上がり、翠星石が制服に着替えて一分と経たない内に、部活を終えたのりが帰宅した。 「あらぁ。翠星石ちゃん、いらっしゃ~い。晩御飯、ウチで食べてくぅ?」 「おう。そうしろよ、翠星石」 「うふふ。そ、それじゃあ……お言葉に甘えるです」やがて、楽しい晩餐も終わり―― 「家まで送るよ。夜道の独り歩きは危ないからな」 「うふふ……ジュンは優しいです。でも、近いから大丈夫ですぅ」玄関先で暫く立ち話をした後、翠星石は別れの挨拶をして、夜の町並みを駆け出していった。桜田家から彼女の家までは、距離にして四百メートル弱。街灯も多いし、この付近で痴漢が出たとの話は聞いていなかったので、特に心配はしていなかった。翠星石が、いつもの交差点に差し掛かる。あそこを左折すれば、あとは真っ直ぐだ。彼女の後ろ姿が角の家の塀で隠れるのを見送ったジュンは、自分も家に入ろうと踵を返した。その時、ジュンの視界に猛然と交差点を走り抜ける原付が飛び込んできた。明らかなスピード違反に加え、二ケツしていた。その原付は翠星石と同じ方角へ向かった。ジュンは、なにか厭な予感がして、気付くと走り出していた。何も……何も起きないでくれ! 無事でいてくれ、翠星石!ただ、それだけを念じながら、ジュンは走り続けた。さっきの交差点――ここを左折すれば!角を曲がったジュンは、百メートルほど先の街灯の下に倒れている人影を目の当たりにして、息を呑んだ。間違いない、彼女だ! 「す……翠星石っ!!」ジュンは無我夢中で駆け寄り、翠星石の身体を抱き上げた。警察の話では、原付でのひったくりに巻き込まれたという事だった。翠星石の鞄は、近くの河原に投げ捨てられていたところを発見された。――そして、翠星石は病院のベッドに横たわっていた。腕には擦過傷。鞄をひったくられた時、十メートルほど引きずられたらしい。 「意識が……戻らないんだ」蒼星石が茫然と呟いた言葉は、ジュンの心にギリギリと捻り込まれる様な痛みを覚えさせた。ハッキリと口に出したりしないが、蒼星石の口調には、ジュンに対する憤りが込められていた。どうして、姉さんを護ってくれなかったの?いたたまれなかった。あの時、どうして有無を言わさず翠星石を送っていかなかったのだろう。どれだけ後悔しようとも、翠星石はベッドの上で眠り続けていた。 「蒼星石。その……ゴメン。僕が、ちゃんと送っていれば――」 「ジュン君の責任じゃないよ。悪いのは、ひったくり犯さ」蒼星石は拳を握り締めて、怒りに肩を震わせていた。そんな蒼星石に、ジュンは何も、掛ける言葉を思い付かなかった。この日から、学校が終わると病院に足を運ぶのが、ジュンの日課になった。十日経ち、二十日が過ぎても、ジュンは一日も欠かさず翠星石を見舞い続けた。相変わらず、翠星石は目を覚まさない。何度もキスを交わした瑞々しい唇も、今では人工呼吸器のマスクに覆われて、かさかさに乾いていた。それに、なんだか身体中が骨張ってきた感じだ。点滴だけで補給できる栄養素など、高が知れていた。ベッドの端から、翠星石の左腕がはみ出している。こんなに、細くなって――ジュンはベッドの脇に跪くと、翠星石の手を、両手で包み込んだ。学園からの帰宅途中に繋いで歩いた手の感触とは、明らかに異なっていた。悲しみに胸を詰まらせたジュンの目から、不意に熱いものが零れ落ちる。ジュンは涙に濡れた頬に、翠星石の手を擦り付けた。 「お願いだ、翠星石。目を……お願いだから、目を開いてくれよ。 そして、いつもみたいに僕を見詰め返してくれよ! なあ……おい、翠星石! 聞こえてるんだろう? 寝たフリなんか、してんなよ。 このまんまじゃ、お前……痩せ衰えて……死んじゃうんだぞ?」ジュンは涙と鼻水でグシャグシャの顔で、翠星石に語り続けた。少しでも、自分の言葉が彼女に聞こえるように祈りながら―― 「起きろよ、翠星石! もう……朝なんだぜ。早く…………起きて…… 学……校へ、行く支た……く…………ううぅ……うわぉああああぁぁ!!」人形の様に無反応な翠星石。あんなにも愛らしく、感情豊かだった翠星石。たった一度で構わないのに、君は天使のような微笑みを、僕に向けてはくれない。ジュンはベッドに顔を埋め、シーツを堅く握り、堰を切ったように嗚咽し続けた。ジュンが目を覚ますと、翠星石の枕元に花束が置かれていた。多分、蒼星石が来たのだろう。泣き疲れて眠っていたジュンに気を遣って、そっと帰ったようだ。窓の外は、もう真っ暗だった。折角だからと花瓶に生けようとしたが、花瓶は空だった。 「――丁度いいや。ついでに顔、洗ってこよう」トイレの水道で、ジュンは顔を洗った。下の瞼が赤く腫れている。あんなに泣いたのは、久しぶりだった。 「我ながら、ひでえ面してるな」思い出すと、また目頭が熱くなった。涙は、まだ尽きていなかったらしい。花瓶に水を汲み、ジュンは薄暗い廊下に出た。翠星石の病室に戻り、蒼星石が持ってきた花を生けた。少しだけ、病室の雰囲気が和らぐ。だが、所詮は誤魔化しにすぎない。窓から射し込む月の光に照らされ、窶れた翠星石の顔が死人のように見えた。そんな彼女を見たくなくて、ジュンはカーテンを引いて月光を遮った。 「誰でも良い。翠星石を……目覚めさせてくれ。 頼むから、翠星石を――」神でも仏でも悪魔でも構わない。翠星石を救ってくれるのならば、ジュンはどんな事でもする覚悟だった。ふわり――――夜風を孕んだカーテンが、ジュンの背後で舞い上がった。おかしい。窓は全て閉じられて、施錠もしてあった筈だ。そして、背後に何者かの気配――振り返ったジュンが目にしたのは、タキシードを着てシルクハットを被ったウサギの紳士だった。 「こんばんわ、非現実を求めし少年よ」 「なっ……なんだ、お前は!」 「日常と非現実を渡り歩く道化に、名など有りませんよ。ワタシはただ、 キミの要求を知って、お節介を焼きに来ただけです」 「お節介、だと?」鸚鵡返しに訊いたジュンに、道化ウサギは無言のまま頷いた。 「キミの願いは、そのお嬢さんを助けること。しかし、一筋縄ではいかない。 何故なら、キミと彼女は魂が反撥し合っているのですから」 「ふざけた事を言うな! 僕も翠星石も子供の頃から一緒に居るんだぞ」 「だから、反撥など無い――と? いいえ。キミが気付いていないだけで、 水面下では現実に反撥しているのですよ。例えるなら、その特性は…… そうですね、コレに似ているでしょうか」言って、道化ウサギがタキシードのポケットから取り出したのは、赤と青に塗り分けられた、一本の棒――――棒磁石だった。 「キミをN極とすれば、彼女もまたN極なのです。 本来なら同じもの同士が引き合い、結合するのが自然なのですがね」道化ウサギは右と左の拳を軽くぶつけて、ぱっ……と五指を開いた。そして、当惑するジュンの顔を見て、愉快そうに目を細めた。 「キミ達は心で惹かれ合いながらも、どこかで―― 一定の距離を保った関係を甘受していたのではないですか?」ウサギの指摘は核心を衝いていた。幼なじみという繋がりに甘えて、そこから先の関係……恋人同士になりたいだなんて考えもしていなかった。そんな努力をせずとも、いつだって一緒に居られると思っていたから―― 「キミ達がN極同士でありながら繋がりあえた理由は、ひとつ」道化ウサギは棒磁石をジュンの眼前に掲げて、片方の端をトントンと指で叩いた。 「S極が、とても身近に存在していたからですよ」道化ウサギの言うS極が誰なのか、ジュンは直ぐに解った。翠星石との仲を取り持ち、新たな関係を築く事に戸惑う自分たちの背中を押して、一歩踏み出す勇気をくれた娘…………蒼星石の存在なくして、二人の交際は有り得なかった。 「このお嬢さんを目覚めさせるには、彼女の存在が必要なのです」翠星石は日常の非現実面に陥っていると、道化ウサギは話していた。現実世界から抜け落ちて、帰り道を見失っているのだ――と。 「だったら、蒼星石にどうして貰えば、翠星石は目を覚ますんだ? 僕が身を引いて、姉妹が一つの磁石に戻れば全ては円満に解決するのか?」ジュンの問いに、道化ウサギは頸を横に振った。今更、ジュンが翠星石から離れたところで、現状は何も変わらない。寧ろ、翠星石を見殺しにするに等しい行為だった。ジュンが日常の非現実面に落ちて、翠星石に現実を悟らせなければならない。道化ウサギは確かに、そう言った。非現実面は、日常生活のあらゆる場所に点在している。そこから、入り込むのだ――とも。どうやったら、日常の非現実面に入れるのかと問えば、向こうの世界でジュンと翠星石の間を引き裂こうとする蒼星石を、現実面で始末すれば良いと答えた。そうすれば、一石二鳥。必ず非現実面に落ちることが出来て、しかも邪魔者が消えているとあれば、この上なにを不満と考えようか。 「このお嬢さんを死の罠から救い出すには、この方法しかないのですよ」――これしかない。それは、ジュンにとって決定的な一言となった。躊躇いが全くない訳ではない。だが、今のジュンにとって、翠星石を助ける目的以外は、悉く些末な問題だった。 「決行は――――明日だ」そして日付は変わり―― 「こんにちわ、ジュン君。大事な話って、なに?」 「悪いな、急に呼んだりして。取り敢えず、上がってくれよ」 「ああ、うん……お邪魔します」桜田家を訪れた蒼星石を、ジュンは満面の笑みで迎えた。蒼星石の挨拶に、のりの返事は無かった。 「姉ちゃん、今日は部活で居ないんだ。先に、部屋へ行っててくれ。 紅茶、煎れてくから」 「うん。解ったよ」短く答えて、蒼星石は足取りも軽く階段を昇っていった。ジュンは、キッチンの収納扉から、今日のために研いでおいた出刃包丁を抜き出した。切っ先が蛍光灯の明かりを拾って、鋭く光った。 「これしかないんだ。翠星石を救うには、これしかないんだ」呪文のようにブツブツと呟きながら、出刃包丁を逆手に掴んだジュンは階段を昇り始めた。蒼星石の待つ、自分の部屋へと向かって……。包丁を握りしめて現れたジュンを見るなり、蒼星石は血相を変えて後ずさった。 「な、なんなの、ジュン君……変な冗談は止めてよ!」 「――――なんだ。翠星石を…………これしか」 「ちょっ……やだっ! 来ないでよっ!! 近づかないでったらっ!!!」本・文具・目覚まし時計・ぬいぐるみ・ハンガー・棚の上の呪いグッズ。蒼星石は辺りにある物を手当たり次第に掴んではジュンに投げ付けたが、それでジュンの接近を止める事など出来なかった。部屋から逃げ出そうにも、扉と蒼星石の間をジュンが遮っている。武器になりそうな物を探して辺りに視線を走らせるが、もう机上の液晶ディスプレイくらいしか残っていなかった。じわじわと部屋の片隅に追い詰められていく。蒼星石の膝裏が、ベッドに当たった。 「蒼星石ぃ――っ!」 「いやぁぁっ!」蒼星石をベッドに押し倒して馬乗りになると、ジュンは右腕を振り上げた。何かに取り憑かれた瞳――濁った目をしたジュンの顔は狂気に歪んでいた。 「もう、これしかないんだっ! 翠星石を助けるためには、これしかっ!」 「いやっ! いやぁっ!! こんなの、いやあぁーっ!」 暴れる蒼星石の両腕を、ジュンは左手と右足で抑え付けた。もう、何も障害は無い。この包丁を振り下ろせば、翠星石を連れ戻せる。しゃくり上げ、嗚咽する蒼星石を見下ろしながら、ジュンは――束の間、逡巡して…………包丁を振り下ろした。それは、ほんの一瞬の出来事だった。きつく目を閉じて、顔を背けた蒼星石。涙が光る彼女の横顔に、あの夜、街灯の下で気を失っていた翠星石の横顔が重なって……消えた。 (違うっ! 僕は、ただ――翠星石を救いたかっただけなんだ!)狂気の中で、ジュンは理性の叫びを聞いた。 (だからこそ、蒼星石に危害を加えちゃ駄目だ!) どすっ! 「――――っ!」――部屋中に、純白の羽毛が舞い上がった。枕に突き刺さった包丁は、蒼星石の首筋から五センチと離れていなかった。ジュンは両手で頭を抱えて、恥も外見もなく号泣していた。 「ごめん、蒼星石……僕は、なんて事を…………してしまったんだ。 翠星石が戻ってきたって、蒼星石が居なければ……僕たちだけでは…… ひとつに、なれないのに――」蒼星石の上から退いたジュンは、まるで小学生のように泣き喚いて膝を抱えた。そして、蒼星石も抑え付けられていた姿勢のまま嗚咽を洩らし続けた。夕暮れの病室に佇む、二つの人影……ジュンと蒼星石だ。ベッドの上では痩せ衰えた翠星石が、暢気なほど穏やかな寝息を立てている。 「始めようか、ジュン君」 「ああ、始めよう」ジュンと蒼星石は、とても清々しい顔をしていた。泣きたいだけ泣いて、今まで胸の内に溜め込んできた鬱憤の全てを、吐き出し尽くしたのかも知れない。漸く、気持ちの整理がつけられた気分だった。ジュンは翠星石の口元を覆う酸素吸入器を掴んで、静かに外した。こんな事をすれば彼女は死んでしまう。だが、これこそ蒼星石が提案した非現実世界への渡航チケットだった。これから助けようといている者を、自らの手で殺す矛盾。それが日常の中の、非現実的な場面を呼び覚ます。ふと、病室に一陣の風。 「ほう? なるほど、そういう手できましたか」やはり……来た。ジュンと蒼星石は、互いに目で合図を交わして頷いた。事前に検討していたとおりに、事は運んでいる。静かに振り返る二人。そこには、目を細めて笑う道化ウサギが立っていた。 「てっきり、その娘を殺すものと確信していたのですがね」 「くっ! お前が、ジュン君を誑かした道化かっ!」 「待つんだ、蒼星石!」今にも殴りかからんばかりの勢いで立ち上がった蒼星石の腕を、ジュンの手が繋ぎ止めた。血気に逸って行動すれば、自分の様に心の隙を利用されかねない。 「僕達には、こいつと無駄口を叩いてる暇なんか無い」 「でしょうね。そこのお嬢さんの余命は、あと僅か。命の炎が消える間に、 キミ達が彼女の心を呼び覚ませるかどうか…… 久しぶりに、面白い物が見られそうですね」言って、道化ウサギは病室の扉を指差した。 「ほら、もう非現実世界は開いていますよ。あの扉が境界としてね」一見すると、何の変哲もない病室の扉。けれど、あの向こうには翠星石の心を呑み込んだままの非現実が広がっている。その場所が如何に恐ろしいかろうとも、逃げ出す訳にはいかなかった。 「行こう、蒼星石。翠星石を探し出して、必ず……連れ戻すんだ!」ジュンが差し出した右手。蒼星石は、彼の手と眠り続ける姉の顔を交互に見遣り、しっかりと握った。もう一度、この二人に確かな絆を取り戻させるために。病院内は疎か、非現実世界は街中ですら、不気味なほど静まり返っていた。もっと魑魅魍魎の跋扈する地獄の様な空間をイメージしていた二人は、あまりの静けさに却って不安を覚えた程だった。二人は手を繋ぎながら、有る場所を目指して静寂な街を走り続けていた。 「翠星石は僕との暮らしを楽しんでいると、あいつは言っていたんだ」 「だとしたら、姉さんはきっと、ジュン君の家に!」 「ああ。とにかく、行って見るしかないさ」桜田家に着いて、ジュンと蒼星石は垣根越しに家の様子を窺った。花壇は奇麗に整備され、庭やベランダの物干し竿には真っ白な洗濯物が下げてあった。間違いない。誰も居なければ絶対に生じ得ない生活臭が、この家には濃く感じられた。 「ジュン君! 居たよ、一階のリビングだ」蒼星石に服を引っ張られて、ジュンは庭の向こう……閉ざされたリビングの窓を凝視した。探し求めていた最愛の人、翠星石。彼女はリビングのソファに座って、テーブルに突っ伏していた。よく見れば、丸めた背中は小刻みに震えている。泣いているようだった。ずっと、こんな世界に、ひとりぼっちで閉じこめられていたのだろう。会いたかった。これで、やっと会える。ジュンの胸は、思慕の情で今にも張り裂けんばかりだった。ジュンは玄関のブザーを押すのも間怠っこしくて、ジュンは庭を横切り、リビングの窓を叩いた。翠星石に触れたい。彼女と話をしたい。確かに存在する証が欲しい。コンコンコン……。窓を叩く音に、翠星石は頚を巡らせた。――立っていたのは、ジュン。風にはためく洗濯物を背景に、彼は微笑んでいた。胸が締め付けられる。翠星石は言葉を失って、口をパクパクさせていた。ずっと探し求めていた、かけがえのない存在。その彼が、今、手を伸ばせば触れられる距離に居る。翠星石は勢い良く駆け出して、窓を開け放った。 「ジュンっ!」 「やあ……迎えに来たよ、翠星石」ジュンが最も見たかった満面の笑みを、翠星石は惜しみなく浮かべてくれた。だが、それは三秒と持たずにくしゃくしゃ歪んで、涙の大洪水に変わった。蒼星石が、ジュンの背中をポン……と押した。一歩、踏み出したジュン。それに応じるように、翠星石も一歩を踏み出し、素足のまま庭に降り立った。互いの瞳に映る顔は泣き笑いだけ。ジュンもまた、気付かぬうちに泣いていた。二人は、失われた時間を取り戻そうとするかのように、しっかりと抱き合った。求めていた笑顔。求めていた温もり。現実世界から切り離された翠星石の心が、いま此処にある。ジュンは翠星石の華奢な身体を抱き締めながら、栗色の長い髪を撫でた。 「会いたかったよ、ずっと」 「うん……私もです。ずぅっと、ジュンのことだけ考えてたですぅ」短い会話。もっともっと話したいことがあったのに、今は何も思い浮かばない。こうして触れ合っているだけで、ジュンと翠星石は心が満たされていった。もっと、心の渇望を満たしたい。二人は少しだけ身体を離して見つめ合い、徐に顔を近付けていった。 「あのさぁ……折角の良いムードを邪魔するのはとっても忍びないんだけど、 あまり悠長には構えてられないみたいだよ」蒼星石に言われて、ジュンは我に返った。ここは非現実の世界。本来、彼等が暮らすべき場所ではないのだ。病院に開いた境界線は、まだ繋がっているのだろうか。仰ぎ見たジュンは、病院の上空に怪しい暗雲が広がり始めているのを目にして表情を曇らせた。 「確かに、急いだ方が良さそうだな。走れるか、翠星石?」 「いざとなったら、ジュン君に背負ってもらえばいいよ」 「大丈夫。早く行くです!」翠星石が靴を履くのを待って、三人は病院へ向かって走り出した。病院の上空に立ちこめた暗雲は、さらに濃さを増していた。それは、現実世界の翠星石が瀕死の状態だという証拠。境界線が途切れるまで、あと、どれだけの時間が残されているだろう。焦るジュンの隣で、翠星石は不意によろめき倒れた。 「翠星石!」抱き起こしてジュンが呼びかけると、翠星石は弱々しく微笑んだ。彼女の顔から、急速に血の気が失せていくのが分かった。まるで、この世界そのものが、翠星石を引き留めようとしているみたいだ。 「くそっ! 僕は諦めないからな」ジュンは両腕で翠星石を抱き上げ、蒼星石と並んで走り続けた。息が切れて、気を張り詰めていないと脚が縺れそうになる。けれど、ジュンは決して脚を止めようとしなかった。病院の玄関を潜り、ロビーを横切って階段を昇り続けた。喉はカラカラで、脚の筋肉もすっかりパンパンに張っている。 「も、もうちょっとだぞ、翠星石。しっかりするんだ!」 「姉さん! 此処まで来たのに、死んじゃ駄目だよ!」さっきから声をかけ続けているものの、翠星石の容態は深刻だ。早く、現実世界に連れ戻さなければ!だが、現実と非現実を結ぶ境界線を目にしたジュン達は、言葉を失った。境界線は、今にも消滅しそうなほど小さくなっていた。 「くっ! まだ、消させないっ!」
蒼星石は境界線に駆け寄ると身体をねじ込ませ、四肢を突っ張って空隙を広げた。 「ジュン君、今の内に、早く……姉さんを!」 「すまん、蒼星石!」辛うじて蒼星石が支えてくれているものの、境界線は人ひとりが漸く這って進めるくらいのものだった。ジュンは昏睡状態の翠星石を脇に抱えながら進み、なんとか境界線を越えた。 「やったぞ! 今度は僕が支えるから、蒼星石も早く来るんだ!」 「良かった……なんとか、間に合ったね」境界線の向こうで、蒼星石は嬉しそうに微笑みながら、寂しそうに呟いた。 「――悔しいな。正直、もう……支え……切れない」 「なっ! なに弱気になってんだ! こんな時に悪い冗談なんか言うなよ!」 「あ、はは…………ごめん、ジュン君」蒼星石の膝ががくりと折れて、彼女を押し潰さんばかりに境界線が狭まった。 ジュンは急いで境界線の縁に指を掛けて、渾身の力で引っ張った。 「諦めるなよ、蒼星石! 早く出てこい!」ジュンの努力を嘲笑うかの様に、境界線はどんどんと小さくなっていった。 「あのさ…………こんな時に言うのも、何なんだけど」バスケットボールくらいに収縮した境界線の向こうで、蒼星石が言った。 「白状すると、ボクもね……姉さんに負けないくらい、ジュンのこと―― 大好きだったよ」 「蒼星石! 馬鹿なこと言ってる余裕があるなら……」 「そうだよね。ごめん……変なこと言って」境界線が更に収縮して、ハンドボール大になった。 「だけど、伝えておきたかったんだ。だって――」顔が真っ赤になるほど力を込めて引っ張っているにも拘わらず、野球ボールくらいまで小さくなっていき―― 「もう、二度と会えないかも……知れないから」 「ふざけるなっ! そんな事、僕は許さないぞ!」 「ふふ……ありがとう、ジュン君。さようなら――――」 「!!」境界線は、蒼星石を呑み込んで消えた。 「……ジュン」境界線が存在していた辺りを茫然と眺めていたジュンの背中に、翠星石の掠れた声が投げかけられた。 「蒼星石は……どこに居るるんですか?」ジュンは何も言わずに立ち上がると、ベッドの上で上半身を起こした翠星石の側に行き、涙を堪えながら彼女の肩を抱き締めた。翠星石が、やっと目を覚ましてくれた。それは蒼星石が絆となって、二人を結び付けてくれたからだ。彼女が残した最後の言葉を、翠星石は聞いていただろうか?やるせない想いが、ジュンの心に溢れていた。「翠星石……あのな。蒼星石は――」だが、本当のことを伝えなければならない。意を決して口を開いたジュンに、翠星石は言葉を重ねた。 「私達の為に……向こうの世界に、残ったんですね」翠星石の声は震えていた。病室を出て、ジュンと翠星石は玄関先の花壇を眺めていた。よく晴れた日の、ありふれた昼下がり。そよ風に吹かれて、色とりどりの花が一斉に揺れた。けれど、そんな自然の美しさを目にしながらも、二人の心は沈んでいた。蒼星石の事を思うと、翠星石が目を覚ました喜びも半減した。結局のところ、結末は道化ウサギの言っとおりになった訳だ。翠星石を救うために、蒼星石を犠牲にする。それは、かけがえのない絆を失った事を意味した。僕たちは、これからも付き合っていけるのだろうか?ジュンの胸に、そして翠星石の胸に、一抹の不安が影を落としていた。そこに、一陣の風。道化ウサギが、嘲笑いに来たのだろうか? ハッと顔を上げた二人の目の前で、突然の落雷が生じた。こんな晴れた日に、落雷など有り得ない。それは、日常の中の非現実世界。ジュンと翠星石は驚愕に目を見開いたまま、肩を寄せ合った。――そんな彼等の後ろには、一人の少女が腰に手を当てて立っていた。 「しょうがないな、君たちは。やっぱり、ボクが居ないとダメなんだね」一斉に振り返る二人。駆け寄る蒼星石。柔らかい日射しの下で、三人はしっかりと抱き合った。その様子を、病棟の屋上から見下ろす影が、ひとつ。シルクハットを頭に載せた、あの道化ウサギだった。 「立派に死ぬことは、大して難しいことでは、ありません。 本当に難しいのは、立派に生きてゆくこと。そう。あなた方のように、ね」――それでは。いずれ機会がありましたら、またお会いしましょう。道化ウサギの声が、吹き抜ける風の中に谺する。けれど、その姿はもう、屋上から消え失せていた。
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