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『パステル』 -15-」(2008/11/22 (土) 00:49:03) の最新版変更点

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<p align="left"> <br />  <br /> そういう風に、口裏を合わせてもらったのだ――と。<br /> 水銀燈は、なんの捻りもない事実を、自嘲を交えて語った。<br />  <br />  「病院から連絡を受けて、お父さまが、すぐに駆けつけたわ」<br />  「怒られなかったなの?」<br />  「決まってるでしょ、おもいっきり撲たれたわよぉ」<br />  <br /> まあ、当然か。けれども、それは愛情の籠もった平手打ちだったろう。<br /> 愛娘に、愚かな考えを翻させるための、優しい暴力だったに違いない。<br /> 槐の邸宅で世話になっていたのも、愛想を尽かされて勘当されたと言うよりは、<br /> リハビリ期間といった意味合いではなかったのか。<br /> 雛苺に訊かれ、こくり……。水銀燈は、首振り人形のように頷く。<br />  <br />  「私が、お願いしたのよ。別人として生きることを、許して欲しいって」<br />  「そこまでして、真紅から遠ざかりたかったの?」<br />  「今にして思えば、思考停止してたのよねぇ。逃げることしか考えてなかったわ」<br />  <br /> そして、苦笑したっきり、水銀燈は口を噤んでしまった。<br />  <br />  <br /> 目指す病室のあるフロアまでは、階段で――<br /> 多くの患者はエレベーターを使うため、階段は静かなものだ。<br /> 各フロアから届くざわめきも、この縦坑に居ると、別世界のことみたいに感じられる。<br /> それらが2人の足音と混ざり合って共鳴すると、不思議な余韻が鼓膜に染みついた。<br />  <br /> その途中、徐に、水銀燈のほうから話しかけてきた。<br />  <br />  「真相を知っていたのは、4人だけ。お父さまと、主治医と、槐先生と、私。<br />   水銀燈は行方不明って扱いのままにして、私は、有栖川アリスを名乗ったわ」<br />  「この病院に、ちなんだのね。でも、すぐにバレちゃいそうな名前なのよ?」<br />  <br /> そう。あまりに幼稚で、安直すぎる。まるっきり、子供の『でまかせ』だ。<br /> しかし、その結果たるや、大方の予想を覆すものだった。<br />  <br />  「これが意外にバレないものなのねぇ。2年もの間、別人を演じてたんだもの。<br />   家事手伝いでいる間は、身元を証明する必要もなかったしぃ」<br />  「でも、保険証は? 病院の診察とか、お薬の処方には必ず使うでしょ?」<br />  「そこのところは、槐先生たちにも迷惑をかけて、申し訳なく思ってるわ」<br />  <br /> その言葉どおり、水銀燈は、心苦しそうに息を吐いた。<br /> 話の流れから察するに、健康保険証は、槐のものを使わせてもらっていたのだろう。<br /> 主治医も共犯なのだから、薬は、薔薇水晶の名義で処方されていたに違いない。<br />  <br /> その経費、見返りとして、どれほどの金額が動いたものやら……。<br /> 雛苺は興味をそそられたが、プライベートなことだし、詮索しないでおいた。<br /> 丸く収まりそうなことを、わざわざ箱に詰め戻して角を立てる必要もない。<br />  <br />  「でも、かくれんぼは、もう終わり――なのよね?」<br />  「もう続ける意味ないわねぇ。正直、他人に成りきるのにも疲れてたのよ。<br />   あの娘たち――めぐと薔薇水晶にも、謝っておかなきゃ」<br />  <br /> 言って、水銀燈は、少しばかり不安げに顔を曇らせる。怯えたのかも知れない。<br /> 騙し続けてきた罪悪感と、それを責め詰られ、ココロを傷つけられることに。<br />  <br /> だが、雛苺は、薔薇水晶については杞憂な気がしていた。<br /> 彼女は、水銀燈の人間性を慕っているのであって、名前を好いているのではない。<br /> 『アリスさん』ではなく『お姉ちゃん』と呼んでいたのが、いい証拠だ。<br />  <br /> これから会いに行く柿崎めぐも、退院祝いにパジャマを贈るほど気安い相手だし、<br /> 「なぁんだ」くらいに、笑って許してくれるのではないか。<br />  <br />  <br /> 案ずるより産むが易し、とは、けだし名言だろう。<br /> ずっと良好な信頼関係が続いてきたのであれば、些細なことで壊れたりはしない。<br /> それでも、もし仮に、ダメになってしまう関係ならば……<br /> どのみち、いつか終わってしまう仲だったと諦めても良いのではないか。<br />  <br />  「じゃあ早速、めぐさんに会いに行かなきゃね」<br />  <br /> 雛苺は、水銀燈の手を握った。冷たくて、かさかさに肌荒れた手――<br /> 家事ばかりが原因ではなく、常用している薬の副作用もあるのだろう。<br /> それを気にしてか、引っ込められる手を、雛苺は強く引き戻した。<br />  <br />  「早く早くっ。善は急げーなのよ~」<br />  「……貴女、見かけによらず強引ねぇ」<br />  「うよ? やっと気づいたの?」<br />  「まあ、知ってたけどぉ。改めて、そう思っただけよ」<br />  「えへへー」<br />  <br /> 無垢な笑み。天使のような、という形容そのままの。<br /> つられて、水銀燈も口元を綻ばせた。<br />  <br />  「お気楽なのか、おバカさんなのか……どっちにしても、たいしたものね」<br />  「ん? なにが?」<br />  「貴女は、逃げようともしない。目の前に、困難が立ちふさがっているのに」<br />  「あぁ、めぐさんのコト?」<br />  <br /> 水銀燈が頷くのを見て、雛苺も、声のトーンを落とした。<br />  <br />  「確かに、すごく難しい問題なの。どんな絵を描けばいいのかも、分かんない。<br />   ヒナは神さまじゃないんだもの」<br />  <br /> 雛苺が、繋いだ水銀燈の手を、ギュッと握りしめる。<br />  <br />  「でもね――<br />   大切な毎日を、大切な人たちを、ずっと守りたいって思えるから……<br />   だから、ヒナにできることなら、してあげたいの。それだけなのよ」<br />  <br /> 優しい子だ。水銀燈は、手の痛みとともに、ココロに温もりを感じた。<br /> さもしい打算や姑息さなんて、まったくない。<br /> その精神は本来、高潔なものとして賞賛されるべきものであろう。<br />  <br /> まあ、雛苺については、世俗の汚濁を知らないだけの、<br /> いわゆる『世間知らず』な面が濃厚そうだったが。<br />  <br />  「つくづく人が好いのね。世が世なら、修道女にでもなってたんじゃなぁい?」<br />  「えー? たぶん、それはないのよー」<br />  「どうだかねぇ」<br />  <br /> いつもの、からかい口調はそのままに、水銀燈が朗らかに笑う。<br /> ニヒルな笑みを浮かべることの多い彼女にしては、珍しいことだ。<br /> 雛苺の純朴さに、ちょっぴり感化されたようだった。<br />  <br /> 事実、水銀燈は上機嫌だった。こんなにも晴れ晴れとした心境は、久しぶり。<br /> 今ならば、すべてが巧く収まってくれそうな……そんな予感を覚えていた。<br />  <br />  「さぁて、と。おしゃべりも大概にしときましょ。<br />   どんなに素敵な理想を語っても、行動しなきゃ始まらないわ」<br />  <br /> 水銀燈は言って、雛苺の手を握り返した。「めぐに、希望を描いてあげて」<br />  <br />  <br />  <br /> ――316。それが、病室の番号。<br /> 併記されているのは『柿崎めぐ』の名前のみ。1人部屋だった。<br />  <br /> 雛苺は、ちょこんと首を傾げた。これは、どういうことだろう。<br /> 重病なのだし、集中治療室みたいに、おおくの医療機器が運び込まれているのか。<br /> それとも――およそ考え難いが、言動甚だ粗暴につき隔離中……とか。<br />  <br /> 後者だったら、どうしよう。雛苺の背中が、ぞぞめく。<br /> ほとんど交流がなかった相手だけに、勝手な想像が独り歩きしつつあった。<br /> そうだったとしても、水銀燈も同伴しているし、酷くは荒れないだろうけれど。<br />  <br />  「はぁい、めぐぅ。起きてるぅ?」<br />  <br /> 雛苺の不安を察してか、水銀燈がノックもなしに病室のドアを開いた。<br /> すると――<br />  <br />  「……あ、有栖川さんね。いらっしゃい」<br />  <br /> こんな不意討ちには慣れっこなのか、ドアの前を覆う薄いカーテンの衝立越しに、<br /> 鈴の音を思わす若々しい声が返ってきた。柿崎めぐ、その人だろう。<br />  <br />  「どうぞ入って。いま動けないの」<br />  「なぁに? 点滴でもしてるわけぇ」<br />  「あう。銀ちゃん、待ってなのー」<br />  <br /> 水銀燈は、遠慮もへったくれもなく、ズカズカと衝立を回り込む。<br /> 雛苺も、彼女の背に隠れるようにして、小走りに追いかけた。<br /> そして遂に、この部屋の主との対面を果たした。<br />  <br />  <br /> 彼女――柿崎めぐは、日射しが溢れる窓辺のスツールに座って、<br /> 雛苺もよく知る青年、桜田ジュンに、美しい黒髪を梳いてもらっていた。<br /> なるほど、これでは動けないはずだ。<br /> めぐは、水銀燈の服装を見るなり、陽光にも負けないほどの眩しい笑顔を湛えた。<br />  <br />  「そのパジャマ、着てくれてるのね。あなたも、検査入院?」<br />  「違うわ。ちょっとワケありでねぇ。で、あのぉ…………<br />   実は、私……めぐに謝らないといけないんだけど」<br />  「なぁに? お見舞いのケーキ買ってくるの忘れちゃった、とか?」<br />  「……ウソ吐いてたのよ。私は、有栖川アリスなんて名前じゃないわ」<br />  「え、そうだったの? じゃあ、本当の名前は?」<br />  「水銀燈、よ。ずっと騙してて、ごめんなさい」<br />  <br /> 水銀燈。その名詞を、めぐは何度か口の中で繰り返し、ふ……と、眼を細めた。<br /> 「いい響きね。あなたのイメージに合う、素敵な名前だと思う」<br />  <br /> 拍子抜けして、呆気にとられた水銀燈が「なんで怒らないの?」と訊ねれば、<br /> めぐは、それこそ意外そうに訊き返した。<br />  <br />  「おかしい? 誰にだって、秘密にしておきたいことくらいあるでしょ。<br />   でも、あなたは打ち明けてくれた。だから、許してあげるのよ」<br />  「だけど……それじゃあ、私の――」<br />  「気が済まない? だったら、ずっと私の友だちでいてね。それでチャラよ」<br />  <br /> なんとも、さばさばしたものだ。案外、話しやすい娘かも知れない。<br /> 雛苺は、思い切って水銀燈の背後から進み出て、会話に割り込んでみた。<br />  <br />  「おはようなの。いきなりお邪魔して、ごめんなさい」<br />  「あれ? やっぱり雛苺か。似た声が聞こえたから、もしやと思ったけど……」<br />  「ヒナね、めぐさんに会いに来たのよ。ジュンは、朝からお見舞い?」<br />  「面会時間は午後3時からなんだけどな、特別に入れてもらってるんだ」<br />  「あらぁ……婚約者ともなると、かいがいしいわねぇ。ちょっと妬けるわぁ」<br />  <br /> からかうように水銀燈が話の腰を折っても、ジュンは、「まあな」と。<br /> とても雛苺と同じ歳とは思えない、大人びた微笑みで応じた。<br />  <br />  「あれ? 3人とも知り合いなんだ?」<br /> めぐは訊ねて、雛苺を見つめた。そして、おや? という風に眉を上げた。<br />  <br />  「えっと……間違ってたら、ごめんなさい。あなた……どこかで会ってた?」<br />  「うい。高校で、一緒の学年だったのよ。お話したことは、なかったけど」<br />  「…………あ! あー、はいはいはい。思い出した。憶えてるわよ」<br />  「ホントに?」<br />  「あなた、6組だったでしょ。私は1組で、顔を合わせる機会は少なかったけどね。<br />   お人形さんみたいで可愛い子だなって、思ってたものよ」<br />  <br /> 多少なりとも憶えてもらえていたことが嬉しくて、雛苺ははにかんだ。<br /> 水銀燈に『イカレた子』だと聞かされていたから、どれだけ怖い人かと思いきや――<br /> なんのことはない。温厚で、気さくで、優しそうな女性だ。<br />  <br /> もしかすると、めぐもまた、変われた存在……<br /> 呼んでくれる声に気づいて、過ちを正すことができた一人なのかも。<br /> だとしても、本題を切り出せば豹変しないとも限らない。<br /> 雛苺は、より親好を深めておこうと、先手を打った。<br />  <br />  「改めて、自己紹介するのよ。ヒナはね、雛苺っていうの。よろしくね」<br />  「よろしく。私、柿崎めぐ。呼び捨てで構わないから」<br />  「じゃあ、ヒナのことも、雛苺って呼んでなの」<br />  <br /> ジュンに髪を三つ編みにしてもらいながら、めぐは静かに頷いた。<br />  <br />  「それじゃあ、雛苺――そろそろ、ご用向きを教えてくれない?<br />   あなた、言ってたわね。私に会いに来た……とか」<br />  <br /> 期せずして、めぐの方から切り出された。<br /> 表情は穏やかなままだが、彼女の瞳に宿る訝しげな光は、刺さりそうなまでに鋭い。<br />  <br />  「絵を描かせてもらいたくて……その、お願いに」<br />  <br /> 遅かれ早かれ話すことだ。雛苺は意を決して、本来の目的を告げた。<br /> ジュンが同席しているのも幸いと、デイパックから、パステルの箱を取り出す。<br />  <br />  「おい、雛苺。それって、金曜日にあげたヤツじゃないのか」<br />  「え、なになに? あなた、私以外の女の子にプレゼントなんてしてたの?<br />   まさか……信じられない。挙式もしない内に、もう浮気だなんて」<br />  「冗談はよせよ。そんな甲斐性ないって。めぐだけで手一杯だしさ」<br />  「あら、そう? じゃあ、浮気できないように、もっと迷惑かけなきゃね」<br />  「はいはい。身を尽くしてお仕えしますよ、プリンセス」<br />  <br /> いつも2人は、こんな風に、気安く軽口を交わしているのだろう。<br /> 仲睦まじく、端で見ている者に、ちょっとの羨望と嫉妬心を抱かせる関係。<br /> 雛苺と水銀燈は、互いに顔を見合わせて、やれやれと言わんばかりに苦笑った。<br />  <br /> ジュンは、そんな2人のゲストなど気にも留めず……<br /> 三つ編みにした彼女の髪に、紅いリボンをあしらって、手鏡を差し出した。<br />  <br />  「よしっと。こんな感じで、どうかな」<br />  「……ん。いい感じよ。ありがと、またお願いね」<br />  <br /> お安いご用さ――なんて。<br /> ジュンは、めぐの耳元で囁き、彼女の肩を揉みほぐしてあげたりする。<br /> あまりのラブラブっぷりを見せつけられ、とうとう、水銀燈が痺れを切らした。<br />  <br />  「あーもうっ! ベッタベッタベッタベッタ、鬱陶しいわねぇ。<br />   居心地悪すぎて、やってらんなぁい。さっさと、めぐを描いちゃってよ」<br />  <br /> と、水銀燈は、雛苺の手にある木箱を指差す。<br /> それを受けて、ジュンの顔が、あからさまに強ばった。<br />  <br />  「待てよ、おい……おまえ、なにを言ってるんだ?<br />   それが、どんな代物か、知ってて言ってるのかよ」<br />  「もちろんよ。描いた絵が現実になるパステル、でしょぉ?」<br />  <br /> ここぞとばかり、水銀燈が胸を張る。<br /> 2人のやりとりに興味をそそられたらしく、めぐは雛苺に目を向けた。<br />  <br />  「面白そうな話ね。本当なの?」<br />  「う、うい……ホントよ。描いたとおりになるの。ヒナ、確かめたのよ」<br />  「へぇ~。まるで、おとぎ話ね。そういうの、割と好きよ」<br />  <br /> 並んで立つ雛苺と水銀燈を、交互に見つめ、真意を察したのだろう。<br /> 「つまり、こういうコト?」めぐは徐に、唇を開いた。<br />  <br />  「その魔法のパステルで、私の病気を治す絵を描いちゃおう……と」<br />  「話が早いわねぇ。そのとおりよ」<br />  <br /> なんて安直な発想。ジュンは、苦虫を噛み潰したような顔をした。<br /> もちろん、めぐを病苦から救ってあげたいと願っているのは、彼とて同じ。<br />  <br /> しかしながら、ジュンは、どちらかと言えば現実主義者だった。<br /> 1枚の絵を描くだけで、20年も患い続けてきた病気が治る――<br /> そんなオカルトめいた話には、強い抵抗を感じずにいられない性分だった。<br />  <br /> ならば、めぐの意志はと言うと。<br />  <br />  「いいわ。描いてみてよ、私を」<br />  「お、おい! ちょっと待てよ、めぐ! よく考えるんだ」<br />  <br /> 気が気でないのは、ジュンだ。「あんな得体の知れないもの、アテになるもんか」<br /> 語気を強めて、将来を誓い合った女性に再考を求める。<br />  <br />  「めぐの身にナニが起きるか、分かったものじゃないんだぞ」<br />  「あら。なにが起きるか分からないのは、今だって同じでしょ」<br />  「そうだけど…………まかり間違えば……」<br />  <br /> ジュンの危惧は、真っ当なこと。それが最愛の女性についてのことなら、尚更だ。<br /> めぐは、自らの肩に置かれた彼の手に、そっ……と、手を重ねた。<br />  <br />  「解るわ……あなたの気持ち、あなたの怖れは。でも、私だって怖いのよ。<br />   やっと幸せな日々に巡り会えたのに、もう終わりだなんて、考えたくもない」<br />  「僕だって、そうさ。でも、だからって、こんな博打みたいなこと――」<br />  「それを言ったら、人間の一生なんて、博打そのものだと思わない?<br />   チャンスを捉えて勝ちを拾うか。危ない橋は渡らず、適当に惰性で生きるか」<br />  「……今が、めぐにとっての勝負時だって言うのか」<br />  「断言なんて、できないけど……なんのリスクもない人生なら、私は要らないわ」<br />  <br /> リスクだらけの人生を送ってきた彼女の感性は、麻痺しているのかも知れない。<br /> だが、どうあれ、彼女の意志が揺るぎそうもない以上、ジュンも決断を迫られた。<br />  <br />  「…………解ったよ。僕も、未来を賭ける。めぐと一緒に」<br />  「ありがとう。あなたは、そう言ってくれるって信じてた」<br />  <br /> 信念と呼べるほど強くはないけれど、ジュンは我を折った。<br /> めぐは、満足そうにジュンに笑いかけて、その視線を2人の乙女に転じる。<br />  <br />  「水銀燈も、雛苺もね……ありがとう」<br />  「ん? ヒナは、まだ何もしてないのよ」<br />  「絵のモデルなら、私の写真で事足りるでしょ。でも、そうしなかった」<br />  「だって、めぐさんの気持ちを聞かなきゃ、絵にココロを宿せないもの」<br />  「その想いが、結果として、私に選択権をくれた。だから……お礼を言うのよ」<br />  <br /> どういう意味なのか。小首を傾げる雛苺から、めぐは目を逸らせた。<br />  <br />  「誰かのせいで――なんて、無力な被害者ぶるのは、イヤ。<br />   誰かに変えてもらえるのを、ただ呆然と待っているのは、もうたくさん。<br />   私はね、自分で選んで、自分で決めたいの。誰のせいにもしたくない。<br />   たとえ愚かな選択をして、傷ついたとしても、その結果を誇りたいのよ」<br />  <br /> だから――<br /> めぐの、鬼気迫るほどに真剣な眼差しが、雛苺を射竦める。<br />  <br />  「描かせてあげる。私の……いいえ、私と彼の未来を」<br />  <br /> 雛苺を、極度の緊張が支配する。固唾を呑むことさえ、ぎこちなかった。<br /> どんな絵を描けば、めぐの病気を治せるのか……イメージは、まだ浮かばないけれど。<br /> いよいよだ。ちらりと唇を舐めて、雛苺は、戦慄く声を絞り出した。<br />  <br />  「銀ちゃん、ジュン……。悪いんだけど、めぐさんと2人きりにしてなの」<br />  <br />  <br />  <br />   -<a href="http://www9.atwiki.jp/rozenmaidenhumanss/pages/4109.html">to be continued</a>-<br />  <br />  </p>
<p align="left"> <br />  <br /> そういう風に、口裏を合わせてもらったのだ――と。<br /> 水銀燈は、なんの捻りもない事実を、自嘲を交えて語った。<br />   <br /> 「病院から連絡を受けて、お父さまが、すぐに駆けつけたわ」<br /> 「怒られなかったなの?」<br /> 「決まってるでしょ、おもいっきり撲たれたわよぉ」<br />   <br /> まあ、当然か。けれども、それは愛情の籠もった平手打ちだったろう。<br /> 愛娘に、愚かな考えを翻させるための、優しい暴力だったに違いない。<br /> 槐の邸宅で世話になっていたのも、愛想を尽かされて勘当されたと言うよりは、<br /> リハビリ期間といった意味合いではなかったのか。<br /> 雛苺に訊かれ、こくり……。水銀燈は、首振り人形のように頷く。<br />  <br /> 「私が、お願いしたのよ。別人として生きることを、許して欲しいって」<br /> 「そこまでして、真紅から遠ざかりたかったの?」<br /> 「今にして思えば、思考停止してたのよねぇ。逃げることしか考えてなかったわ」<br />  <br /> そして、苦笑したっきり、水銀燈は口を噤んでしまった。<br />  <br />  <br /> 目指す病室のあるフロアまでは、階段で――<br /> 多くの患者はエレベーターを使うため、階段は静かなものだ。<br /> 各フロアから届くざわめきも、この縦坑に居ると、別世界のことみたいに感じられる。<br /> それらが2人の足音と混ざり合って共鳴すると、不思議な余韻が鼓膜に染みついた。<br />  <br /> その途中、徐に、水銀燈のほうから話しかけてきた。<br />  <br /> 「真相を知っていたのは、4人だけ。お父さまと、主治医と、槐先生と、私。<br />  水銀燈は行方不明って扱いのままにして、私は、有栖川アリスを名乗ったわ」<br /> 「この病院に、ちなんだのね。でも、すぐにバレちゃいそうな名前なのよ?」<br />  <br /> そう。あまりに幼稚で、安直すぎる。まるっきり、子供の『でまかせ』だ。<br /> しかし、その結果たるや、大方の予想を覆すものだった。<br />  <br /> 「これが意外にバレないものなのねぇ。2年もの間、別人を演じてたんだもの。<br />  家事手伝いでいる間は、身元を証明する必要もなかったしぃ」<br /> 「でも、保険証は? 病院の診察とか、お薬の処方には必ず使うでしょ?」<br /> 「そこのところは、槐先生たちにも迷惑をかけて、申し訳なく思ってるわ」<br />  <br /> その言葉どおり、水銀燈は、心苦しそうに息を吐いた。<br /> 話の流れから察するに、健康保険証は、槐のものを使わせてもらっていたのだろう。<br /> 主治医も共犯なのだから、薬は、薔薇水晶の名義で処方されていたに違いない。<br />  <br /> その経費、見返りとして、どれほどの金額が動いたものやら……。<br /> 雛苺は興味をそそられたが、プライベートなことだし、詮索しないでおいた。<br /> 丸く収まりそうなことを、わざわざ箱に詰め戻して角を立てる必要もない。<br />  <br /> 「でも、かくれんぼは、もう終わり――なのよね?」<br /> 「もう続ける意味ないわねぇ。正直、他人に成りきるのにも疲れてたのよ。<br />  あの娘たち――めぐと薔薇水晶にも、謝っておかなきゃ」<br />  <br /> 言って、水銀燈は、少しばかり不安げに顔を曇らせる。怯えたのかも知れない。<br /> 騙し続けてきた罪悪感と、それを責め詰られ、ココロを傷つけられることに。<br />  <br /> だが、雛苺は、薔薇水晶については杞憂な気がしていた。<br /> 彼女は、水銀燈の人間性を慕っているのであって、名前を好いているのではない。<br /> 『アリスさん』ではなく『お姉ちゃん』と呼んでいたのが、いい証拠だ。<br />  <br /> これから会いに行く柿崎めぐも、退院祝いにパジャマを贈るほど気安い相手だし、<br /> 「なぁんだ」くらいに、笑って許してくれるのではないか。<br />  <br /> 案ずるより産むが易し、とは、けだし名言だろう。<br /> ずっと良好な信頼関係が続いてきたのであれば、些細なことで壊れたりはしない。<br /> それでも、もし仮に、ダメになってしまう関係ならば……<br /> どのみち、いつか終わってしまう仲だったと諦めても良いのではないか。<br />  <br /> 「じゃあ早速、めぐさんに会いに行かなきゃね」<br />  <br /> 雛苺は、水銀燈の手を握った。冷たくて、かさかさに肌荒れた手――<br /> 家事ばかりが原因ではなく、常用している薬の副作用もあるのだろう。<br /> それを気にしてか、引っ込められる手を、雛苺は強く引き戻した。<br />  <br /> 「早く早くっ。善は急げーなのよ~」<br /> 「……貴女、見かけによらず強引ねぇ」<br /> 「うよ? やっと気づいたの?」<br /> 「まあ、知ってたけどぉ。改めて、そう思っただけよ」<br /> 「えへへー」<br />  <br /> 無垢な笑み。天使のような、という形容そのままの。<br /> つられて、水銀燈も口元を綻ばせた。<br />  <br /> 「お気楽なのか、おバカさんなのか……どっちにしても、たいしたものね」<br /> 「ん? なにが?」<br /> 「貴女は、逃げようともしない。目の前に、困難が立ちふさがっているのに」<br /> 「あぁ、めぐさんのコト?」<br />  <br /> 水銀燈が頷くのを見て、雛苺も、声のトーンを落とした。<br />  <br /> 「確かに、すごく難しい問題なの。どんな絵を描けばいいのかも、分かんない。<br />  ヒナは神さまじゃないんだもの」<br />  <br /> 雛苺が、繋いだ水銀燈の手を、ギュッと握りしめる。<br />  <br /> 「でもね――<br />  大切な毎日を、大切な人たちを、ずっと守りたいって思えるから……<br />  だから、ヒナにできることなら、してあげたいの。それだけなのよ」<br />  <br /> 優しい子だ。水銀燈は、手の痛みとともに、ココロに温もりを感じた。<br /> さもしい打算や姑息さなんて、まったくない。<br /> その精神は本来、高潔なものとして賞賛されるべきものであろう。<br />  <br /> まあ、雛苺については、世俗の汚濁を知らないだけの、<br /> いわゆる『世間知らず』な面が濃厚そうだったが。<br />  <br /> 「つくづく人が好いのね。世が世なら、修道女にでもなってたんじゃなぁい?」<br /> 「えー? たぶん、それはないのよー」<br /> 「どうだかねぇ」<br />  <br /> いつもの、からかい口調はそのままに、水銀燈が朗らかに笑う。<br /> ニヒルな笑みを浮かべることの多い彼女にしては、珍しいことだ。<br /> 雛苺の純朴さに、ちょっぴり感化されたようだった。<br />  <br /> 事実、水銀燈は上機嫌だった。こんなにも晴れ晴れとした心境は、久しぶり。<br /> 今ならば、すべてが巧く収まってくれそうな……そんな予感を覚えていた。<br />  <br /> 「さぁて、と。おしゃべりも大概にしときましょ。<br />  どんなに素敵な理想を語っても、行動しなきゃ始まらないわ」<br />  <br /> 水銀燈は言って、雛苺の手を握り返した。「いっときの夢でもいい。めぐに希望を見せてあげて」<br />  <br />  <br />  <br /> ――316。それが、病室の番号。<br /> 併記されているのは『柿崎めぐ』の名前のみ。1人部屋だった。<br />  <br /> 雛苺は、ちょこんと首を傾げた。これは、どういうことだろう。<br /> 重病なのだし、集中治療室みたいに、おおくの医療機器が運び込まれているのか。<br /> それとも――およそ考え難いが、言動甚だ粗暴につき隔離中……とか。<br />  <br /> 後者だったら、どうしよう。雛苺の背中が、ぞぞめく。<br /> ほとんど交流がなかった相手だけに、勝手な想像が独り歩きしつつあった。<br /> そうだったとしても、水銀燈も同伴しているし、酷くは荒れないだろうけれど。<br />  <br /> 「はぁい、めぐぅ。起きてるぅ?」<br />  <br /> 雛苺の不安を察してか、水銀燈がノックもなしに病室のドアを開いた。<br /> すると――<br />  <br /> 「……あ、有栖川さんね。いらっしゃい」<br />  <br /> こんな不意討ちには慣れっこなのか、ドアの前を覆う薄いカーテンの衝立越しに、<br /> 鈴の音を思わす若々しい声が返ってきた。柿崎めぐ、その人だろう。<br />  <br /> 「どうぞ入って。いま動けないの」<br /> 「なぁに? 点滴でもしてるわけぇ」<br /> 「あう。銀ちゃん、待ってなのー」<br />  <br /> 水銀燈は、遠慮もへったくれもなく、ズカズカと衝立を回り込む。<br /> 雛苺も、彼女の背に隠れるようにして、小走りに追いかけた。<br /> そして遂に、この部屋の主との対面を果たした。<br />  <br />  <br /> 彼女――柿崎めぐは、日射しが溢れる窓辺のスツールに座って、<br /> 雛苺もよく知る青年、桜田ジュンに、美しい黒髪を梳いてもらっていた。<br /> なるほど、これでは動けないはずだ。<br /> めぐは、水銀燈の服装を見るなり、陽光にも負けないほどの眩しい笑顔を湛えた。<br />  <br /> 「そのパジャマ、着てくれてるのね。あなたも、検査入院?」<br /> 「違うわ。ちょっとワケありでねぇ。で、あのぉ…………<br />  実は、私……めぐに謝らないといけないんだけど」<br /> 「なぁに? お見舞いのケーキ買ってくるの忘れちゃった、とか?」<br /> 「……ウソ吐いてたのよ。私は、有栖川アリスなんて名前じゃないわ」<br /> 「え、そうだったの? じゃあ、本当の名前は?」<br /> 「水銀燈、よ。ずっと騙してて、ごめんなさい」<br />  <br /> 水銀燈。その名詞を、めぐは何度か口の中で繰り返し、ふ……と、眼を細めた。<br /> 「いい響きね。あなたのイメージに合う、素敵な名前だと思う」<br />  <br /> 拍子抜けして、呆気にとられた水銀燈が「なんで怒らないの?」と訊ねれば、<br /> めぐは、それこそ意外そうに訊き返した。<br />  <br /> 「おかしい? 誰にだって、秘密にしておきたいことくらいあるでしょ。<br />  でも、あなたは打ち明けてくれた。だから、許してあげるのよ」<br /> 「だけど……それじゃあ、私の――」<br /> 「気が済まない? だったら、ずっと私の友だちでいてね。それでチャラよ」<br />  <br /> なんとも、さばさばしたものだ。案外、話しやすい娘かも知れない。<br /> 雛苺は、思い切って水銀燈の背後から進み出て、会話に割り込んでみた。<br />  <br /> 「おはようなの。いきなりお邪魔して、ごめんなさい」<br /> 「あれ? やっぱり雛苺か。似た声が聞こえたから、もしやと思ったけど……」<br /> 「ヒナね、めぐさんに会いに来たのよ。ジュンは、朝からお見舞い?」<br /> 「面会時間は午後3時からなんだけどな、特別に入れてもらってるんだ」<br /> 「あらぁ……婚約者ともなると、かいがいしいわねぇ。ちょっと妬けるわぁ」<br />  <br /> からかうように水銀燈が話の腰を折っても、ジュンは、「まあな」と。<br /> とても雛苺と同じ歳とは思えない、大人びた微笑みで応じた。<br />  <br /> 「あれ? 3人とも知り合いなんだ?」<br /> めぐは訊ねて、雛苺を見つめた。そして、おや? という風に眉を上げた。<br />  <br /> 「えっと……間違ってたら、ごめんなさい。あなた……どこかで会ってた?」<br /> 「うい。高校で、一緒の学年だったのよ。お話したことは、なかったけど」<br /> 「…………あ! あー、はいはいはい。思い出した。憶えてるわよ」<br /> 「ホントに?」<br /> 「あなた、6組だったでしょ。私は1組で、顔を合わせる機会は少なかったけどね。<br />  お人形さんみたいで可愛い子だなって、思ってたものよ」<br />  <br /> 多少なりとも憶えてもらえていたことが嬉しくて、雛苺ははにかんだ。<br /> 水銀燈に『イカレた子』だと聞かされていたから、どれだけ怖い人かと思いきや――<br /> なんのことはない。温厚で、気さくで、優しそうな女性だ。<br />  <br /> もしかすると、めぐもまた、変われた存在……<br /> 呼んでくれる声に気づいて、過ちを正すことができた一人なのかも。<br /> だとしても、本題を切り出せば豹変しないとも限らない。<br /> 雛苺は、より親好を深めておこうと、先手を打った。<br />  <br /> 「改めて、自己紹介するのよ。ヒナはね、雛苺っていうの。よろしくね」<br /> 「よろしく。私、柿崎めぐ。呼び捨てで構わないから」<br /> 「じゃあ、ヒナのことも、雛苺って呼んでなの」<br />  <br /> ジュンに髪を三つ編みにしてもらいながら、めぐは静かに頷いた。<br />  <br /> 「それじゃあ、雛苺――そろそろ、ご用向きを教えてくれない?<br />  あなた、言ってたわね。私に会いに来た……とか」<br />  <br /> 期せずして、めぐの方から切り出された。<br /> 表情は穏やかなままだが、彼女の瞳に宿る訝しげな光は、刺さりそうなまでに鋭い。<br />  <br /> 「絵を描かせてもらいたくて……その、お願いに」<br />  <br /> 遅かれ早かれ話すことだ。雛苺は意を決して、本来の目的を告げた。<br /> ジュンが同席しているのも幸いと、デイパックから、パステルの箱を取り出す。<br />  <br /> 「おい、雛苺。それって、金曜日にあげたヤツじゃないのか」<br /> 「え、なになに? あなた、私以外の女の子にプレゼントなんてしてたの?<br />  まさか……信じられない。挙式もしない内に、もう浮気だなんて」<br /> 「冗談はよせよ。そんな甲斐性ないって。めぐだけで手一杯だしさ」<br /> 「あら、そう? じゃあ、浮気できないように、もっと迷惑かけなきゃね」<br /> 「はいはい。身を尽くしてお仕えしますよ、プリンセス」<br />  <br /> いつも2人は、こんな風に、気安く軽口を交わしているのだろう。<br /> 仲睦まじく、端で見ている者に、ちょっとの羨望と嫉妬心を抱かせる関係。<br /> 雛苺と水銀燈は、互いに顔を見合わせて、やれやれと言わんばかりに苦笑った。<br />  <br /> ジュンは、そんな2人のゲストなど気にも留めず……<br /> 三つ編みにした彼女の髪に、紅いリボンをあしらって、手鏡を差し出した。<br />  <br /> 「よしっと。こんな感じで、どうかな」<br /> 「……ん。いい感じよ。ありがと、またお願いね」<br />  <br /> お安いご用さ――なんて。<br /> ジュンは、めぐの耳元で囁き、彼女の肩を揉みほぐしてあげたりする。<br /> あまりのラブラブっぷりを見せつけられ、とうとう、水銀燈が痺れを切らした。<br />  <br /> 「あーもうっ! ベッタベッタベッタベッタ、鬱陶しいわねぇ。<br />  居心地悪すぎて、やってらんなぁい。さっさと、めぐを描いちゃってよ」<br />  <br /> と、水銀燈は、雛苺の手にある木箱を指差す。<br /> それを受けて、ジュンの顔が、あからさまに強ばった。<br />  <br /> 「待てよ、おい……おまえ、なにを言ってるんだ?<br />  それが、どんな代物か、知ってて言ってるのかよ」<br /> 「もちろんよ。描いた絵が現実になるパステル、でしょぉ?」<br />  <br /> ここぞとばかり、水銀燈が胸を張る。<br /> 2人のやりとりに興味をそそられたらしく、めぐは雛苺に目を向けた。<br />  <br /> 「面白そうな話ね。本当なの?」<br /> 「う、うい……ホントよ。描いたとおりになるの。ヒナ、確かめたのよ」<br /> 「へぇ~。まるで、おとぎ話ね。そういうの、割と好きよ」<br />  <br /> 並んで立つ雛苺と水銀燈を、交互に見つめ、真意を察したのだろう。<br /> 「つまり、こういうコト?」めぐは徐に、唇を開いた。<br />  <br /> 「その魔法のパステルで、私の病気を治す絵を描いちゃおう……と」<br /> 「話が早いわねぇ。そのとおりよ」<br />  <br /> なんて安直な発想。ジュンは、苦虫を噛み潰したような顔をした。<br /> もちろん、めぐを病苦から救ってあげたいと願っているのは、彼とて同じ。<br />  <br /> しかしながら、ジュンは、どちらかと言えば現実主義者だった。<br /> 1枚の絵を描くだけで、20年も患い続けてきた病気が治る――<br /> そんなオカルトめいた話には、強い抵抗を感じずにいられない性分だった。<br />  <br /> ならば、めぐの意志はと言うと。<br />  <br /> 「いいわ。描いてみてよ、私を」<br /> 「お、おい! ちょっと待てよ、めぐ! よく考えるんだ」<br />  <br /> 気が気でないのは、ジュンだ。「あんな得体の知れないもの、アテになるもんか」<br /> 語気を強めて、将来を誓い合った女性に再考を求める。<br />  <br /> 「めぐの身にナニが起きるか、分かったものじゃないんだぞ」<br /> 「あら。なにが起きるか分からないのは、いまだって同じでしょ」<br /> 「そうだけど…………まかり間違えば……」<br />  <br /> ジュンの危惧は、真っ当なこと。それが最愛の女性についてのことなら、尚更だ。<br /> めぐは、自らの肩に置かれた彼の手に、そっ……と、手を重ねた。<br />  <br /> 「解るわ……あなたの気持ち、あなたの怖れは。でも、私だって怖いのよ。<br />  やっと幸せな日々に巡り会えたのに、もう終わりだなんて、考えたくもない」<br /> 「僕だって、そうさ。でも、だからって、こんな博打みたいなこと――」<br /> 「それを言ったら、人間の一生なんて、博打そのものだと思わない?<br />  チャンスを捉えて勝ちを拾うか。危ない橋は渡らず、適当に惰性で生きるか」<br /> 「……いまが、めぐにとっての勝負時だって言うのか」<br /> 「断言なんて、できないけど……なんのリスクもない人生なら、私は要らないわ」<br />  <br /> リスクだらけの人生を送ってきた彼女の感性は、麻痺しているのかも知れない。<br /> だが、どうあれ、彼女の意志が揺るぎそうもない以上、ジュンも決断を迫られた。<br />  <br /> 「…………解ったよ。僕も、未来を賭ける。めぐと一緒に」<br /> 「ありがとう。あなたは、そう言ってくれるって信じてた」<br />  <br /> 信念と呼べるほど強くはないけれど、ジュンは我を折った。<br /> めぐは、満足そうにジュンに笑いかけて、その視線を2人の乙女に転じる。<br />  <br /> 「水銀燈も、雛苺もね……ありがとう」<br /> 「ん? ヒナは、まだ何もしてないのよ」<br /> 「絵のモデルなら、私の写真で事足りるでしょ。でも、そうしなかった」<br /> 「だって、めぐさんの気持ちを聞かなきゃ、絵にココロを宿せないもの」<br /> 「その想いが、結果として、私に選択権をくれた。だから……お礼を言うのよ」<br />  <br /> どういう意味なのか。小首を傾げる雛苺から、めぐは目を逸らせた。<br />  <br /> 「誰かのせいで――なんて、無力な被害者ぶるのは、イヤ。<br />  誰かに変えてもらえるのを、ただ呆然と待っているのは、もうたくさん。<br />  私はね、自分で選んで、自分で決めたいの。誰のせいにもしたくない。<br />  たとえ愚かな選択をして、傷ついたとしても、その結果を誇りたいのよ」<br />  <br /> だから――<br /> めぐの、鬼気迫るほどに真剣な眼差しが、雛苺を射竦める。<br />  <br /> 「描かせてあげる。私の……いいえ、私と彼の未来を」<br />  <br /> 雛苺を、極度の緊張が支配する。固唾を呑むことさえ、ぎこちなかった。<br /> どんな絵を描けば、めぐの病気を治せるのか……イメージは、まだ浮かばないけれど。<br /> いよいよだ。ちらりと唇を舐めて、雛苺は、戦慄く声を絞り出した。<br />  <br /> 「銀ちゃん、ジュン……。悪いんだけど、めぐさんと2人きりにしてなの」<br />  <br />  <br />  <br />   -<a href="http://www9.atwiki.jp/rozenmaidenhumanss/pages/4109.html">to be continued</a>-<br />  <br />  </p>

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