「『パステル』 -2-」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら
「『パステル』 -2-」(2008/04/07 (月) 23:59:37) の最新版変更点
追加された行は緑色になります。
削除された行は赤色になります。
<p> <br />
<br />
<br />
――どこかで、カラスの群れが騒いでいる。<br />
いつ聴いても、不安を掻き立てられる声だ。<br />
近い。耳を澄ますまでもなく、気づいた。窓のすぐ外で啼いているのだ、と。<br />
<br />
<br />
いつ籠もったのか記憶にないが、雛苺はベッドの中に居た。渇ききった喉が痛い。<br />
腫れぼったい瞼を押し上げて、枕元の時計に目を遣れば、午前八時を少し回ったところ。<br />
普段より30分ほど早い目覚めだった。カーテンの隙間から、眩い朝日が射し込んでいる。<br />
<br />
まだ眠い――が、喧しいカラスを散らさないことには、二度寝もできそうにない。<br />
指先で、目元を、こすりこすり……欠伸を、ひとつ。<br />
その直後だった。なにか重たい物が、ドサッ! と、彼女の上に落ちてきたのは。<br />
<br />
「ぴゃっ?! 痛ぁ……ぃ。もぉ、なんなの~?」<br />
<br />
呂律の回らない口振りで、雛苺は頭を浮かせて、重みを感じる腹部を見遣った。<br />
布団の上に、なにやら見慣れないモノが、転がっている。<br />
<br />
――いや、違う。<br />
見慣れたモノではあったが、見慣れない姿へと変貌を遂げていた。<br />
<br />
「あ……れえぇ!? か、か、形が変わってるのーっ!」<br />
<br />
紛れもなく、本棚に置いてあったベヘモス神像だ。<br />
だが、直立姿勢だった石像は、ボディビルで言うところの『サイドチェスト』のポージング。<br />
それは昨夜、彼女がスケッチブックに描いた姿、そのままだった。<br />
机に置かれている木箱に顔を向けて、雛苺は、ヒリヒリする喉に生唾を流し込んだ。<br />
<br />
石像の形さえも自在に変える効力が、このパステルには、ある。<br />
と言うことは、つまり――<br />
<br />
雛苺は、細い身体を戦慄かせた。「怖い……これ」<br />
とんでもなく危険な代物であることに気づいて、瞳を潤ませた。<br />
<br />
<br />
たとえば、富士山が噴火するイラスト。<br />
たとえば、100mもある大津波に呑まれる百万都市。<br />
それらさえも生温く思えるほどの、阿鼻叫喚の地獄絵図さえも……。<br />
<br />
<br />
このパステルで描けば、雛苺の産みだす絵空事が、すべて現実になってしまう。<br />
それこそSFマンガでも描く気分で、人類を滅ぼすことだって可能だろう。<br />
雛苺が、その気になりさえすれば。<br />
<br />
できっこない。雛苺はベッドの中に潜り込んで、膝を抱えた。<br />
彼に――ジュンに返してしまおうか、とも思った。手元に無ければ、使うこともない。<br />
そうすれば、少なくとも、大好きな絵で、誰かを傷つける心配はなくなる。<br />
こんな風に、過ぎたチカラを持て余し、戦々恐々としなくて済む。<br />
<br />
けれど……と、雛苺は考え直した。それって、ただの責任転嫁じゃないの?<br />
たとえ彼女が描かずとも、このパステルが存在する限り、危険は無くならない。<br />
<br />
雛苺は布団を払い退けて、自分の小さな手を、朝日の中に翳した。<br />
この手で処分するなり、二度と日の目を見ないように、封印すべきなのかも。<br />
それが、託された者の責務ではないか。<br />
<br />
「しっかりしなきゃ……なの」<br />
<br />
パジャマの袖で目元を擦りながら放たれた、弱々しい呟き。<br />
しかし、それは細くとも強靱な、ピアノ線を彷彿させる決意を秘めた口振りだった。<br />
<br />
<br />
<br />
冷たい水で顔を洗って、喉の渇きを癒し、軽い朝食を摂ると、少しだけ気分が落ち着いた。<br />
けれど、胸に澱んだ重みは、おいそれと消えそうにない。<br />
あのパステルを、どうにかするまでは――<br />
……いや。手放したところで、おそらく一生涯、胸を痛め続けるのだろう。<br />
<br />
マグカップに残るミルクを飲み干して、雛苺は鬱々と、息を吐いた。<br />
母親がキッチンから顔を覗かせ、心配そうに訊ねたが、「まだ少し、眠いだけなの」と。<br />
曖昧に笑みを返して、席を立とうとした、その矢先。<br />
<br />
見るとはなしに眺めていたテレビ画面に流れたニュース映像が、雛苺の関心を惹いた。<br />
どうやら、原子力発電所で、事故があったらしい。<br />
放射能が漏れるほどの規模ではなさそうだが、報道の仕方は、物々しかった。<br />
<br />
この日本という国は、とかく、原子力や核関連ともなると、病的なほどに過敏になる。<br />
そのうち、アナフィラキシーショックで死んでしまうのではないかと、案じるほどに。<br />
確かに、放射能汚染は怖い。原発の近隣住民にとっては、死活にかかわる問題だ。<br />
……が、だからといって、すべての原子力を手放すことなど、できはしないだろう。<br />
普段の生活においても、もうドップリと、その恩恵に与っているのだから。<br />
<br />
<br />
仕方のないこと……。雛苺は醒めた気分で、食器をシンクに置くと、食堂を後にした。<br />
しかし、その途中。階段を昇っているときに、ふと、閃くものがあった。<br />
<br />
「あのパステルも、原子力と同じかも知れないのよ?」<br />
<br />
使い方を誤れば、多くの不幸を生む。<br />
しかし、用法によっては――<br />
原子力が、文明の繁栄を支えているように、あのパステルで、人々のココロを豊かに出来るはずだ。<br />
<br />
核、と、描く。<br />
『nuclear』ではなく、『new』+『clear』――<br />
恵まれない今日の上に、よりよい未来を重ね描きできるものならば、そうすることに吝かでない。<br />
ダジャレじみた発想だけれど、やってみる価値はある。<br />
ふと気づけば、雛苺の胸に蟠っていた黒い霧は、一寸先が見える程度にまで薄らいでいた。<br />
<br />
「それが……ヒナも救われる、たったひとつの解決法かも」<br />
<br />
事故で身体の一部を失ってしまった人に、元どおりの人生を与えられるかもしれない。<br />
あるいは、難病の苦しみを、取り除いてあげられるかも。<br />
いずれにせよ、封印したり、遺棄したり、我欲を満たすために使うよりは、よほど有意義だ。<br />
もう、楽しく絵を描くことは、できないかもしれないけれど――<br />
<br />
「やってみる! 行動しなきゃ始まらないのよ!」<br />
<br />
パステルは使い続けていれば、いつか尽きる。そのときまで、頑張ればいい。<br />
階段を駆けのぼる雛苺の足取りに、もう迷いは感じられなかった。<br />
まるで、蒼穹へと翔けのぼるほどに軽やかで……<br />
小さな背中には、力強く羽ばたく翼さえ見えるようだった。<br />
<br />
<br />
思い立ったが吉日と、雛苺は旅支度を始めた。<br />
この週末二日で、少しでも多く、パステルの効果を試しておきたかった。<br />
<br />
パステルと鉛筆。お気に入りのスケッチブック。傘とタオル。念のための着替え。<br />
それら一切合切を、デイパックに放り込んで、準備はおしまい。<br />
旅費なら、先月分のアルバイトの給料が、ほぼ手つかずで貯金してある。<br />
<br />
あとは――行動を。目の前の扉を、開けるだけだった。<br />
<br />
<br />
<br />
デイパックひとつの軽装で、自転車に跨り、最寄りのJRの駅へ――<br />
駐輪場に自転車を置いた雛苺は、銀行に寄ってから、緑の窓口に向かった。<br />
こういうアテのない旅をするときは、乗り降り自由の『青春18きっぷ』が便利なのだ。<br />
<br />
「とりあえず、失敗しても被害の少なそうなところ……郊外に出てみるのよ」<br />
<br />
アテもなく電車に揺られ、なんとなく気を惹かれた駅で降りてみるつもりだった。<br />
見知らぬ町並みを歩いているうち、これと想う景色に、辿り着けるかも……。<br />
そんな運命の巡り合わせを、彼女は淡く期待していた。<br />
<br />
<br />
まず雛苺が目指したのは、何本もの路線が乗り入れているターミナル駅。<br />
そこからは、足の向くまま気の赴くままに、4両連結のローカル線に乗り換えた。<br />
土曜日の午前中で、しかも郊外に向かう列車とあってか、乗客は疎らだ。<br />
部活に行くと思しい学生。ハイカーらしい初老の男性。マスクをした中年女性。<br />
目の届くかぎりでも、雛苺と同じ車両には、彼女を含めて4人しか乗っていない。<br />
<br />
4人掛けのボックス席も、まったくの貸し切り状態。<br />
シートの窓際に腰を降ろした雛苺は、デイパックを抱えて、ふぅ……と吐息した。<br />
いつもより早起きしたせいか、中途半端に瞼が重たい。目がショボショボする。<br />
コーヒーか紅茶でも買ってこようかと思ったものの、発車時刻までは、あと3分ほど。<br />
きわどい時間だ。この電車を乗り過ごすと、次発は40分後になる。<br />
<br />
<br />
仕方がない。この際だから、飲み物はガマンして、少し眠っておこう。<br />
雛苺は、携帯電話のアラームを2時間後にセットして、冷えた窓に頭を預け、目を閉じた。<br />
――だが、いつまで経っても、ちっとも微睡めない。<br />
パステルのことを気にするあまり、知らず、睡魔を遠ざけているようだ。<br />
<br />
雛苺は瞼を閉じたまま、あれこれとココロに浮かんでくる疑問に、想いを巡らした。<br />
<br />
<br />
このパステルは、石像のカタチすら変えちゃったのよ。<br />
じゃあ、崩落した山の、崩れる前の姿を描いても――元どおりになるの?<br />
<br />
<br />
常識で考えたならば、有り得ない。<br />
そんなことが可能だったら、時間を巻き戻せる道理になってしまう。<br />
<br />
けれど、もし――<br />
自然環境すら変えられるのであれば、これは、とんでもないことだ。<br />
干ばつや洪水による災害を、早急に復旧できてしまう。<br />
広がり続けている砂漠を、木々の緑で覆い尽くすことだってできよう。<br />
それどころか、喪われた生命さえも、取り戻せるかもしれない。<br />
<br />
古生物の絵を描いたら、シーラカンスのように、生きた化石として現世に顕れる?<br />
ダヴィンチの全身像を描けば、彼がキリストみたいに復活する、とでも?<br />
<br />
<br />
――まさか、ね。<br />
雛苺は、くふん、と鼻を鳴らした。いくらなんでも、妄想が過ぎる。<br />
あのパステルが影響を及ぼせるのは、現存するモノ【者/物】の未来に対してのみだろう。<br />
時間の遡及など、SF小説の中だけで充分だ。<br />
<br />
<br />
考えるのを止めて、暫くすると、ウトウト……。<br />
待ちかねていた瞬間の訪れ。どうやら、このまま眠れそうだ。<br />
雛苺は意識を手放して、なにかに牽かれるまま、真っ白な世界へと沈んでいった。<br />
<br />
<br />
<br />
――あれ? いま……なにかが……。<br />
<br />
夢の中で、白いウサギを見た気がした直後、車内アナウンスが、耳に馴染みのない駅名を告げた。<br />
いけない。うたた寝のつもりが、すっかり熟睡していたらしい。<br />
口の端に違和感がある。よもや、ヨダレまで垂らしてたとは。<br />
<br />
みっともない。恥じらうあまり、顔が熱くなり、変な汗が額に滲んでくる。<br />
雛苺は窓に顔を向け、景色を眺めるフリをしながらポケットティッシュを抜き出すと、<br />
さりげなく、唇に塗ったリップクリームごと、ヨダレを拭きとった。<br />
もしかしたら、無防備に晒した寝顔を、誰かに見られていたかも……。<br />
その現場を想像すると、僅かに残っていた眠気も、羞恥の熱で揮発してしまった。<br />
<br />
まあ、過ぎてしまったことは、仕方がないとして。「どこなのかしら、ここ?」<br />
<br />
改めて、車窓の向こうに眼を向けて、雛苺は「ふわぁ~」と感嘆した。<br />
そこに広がっていたのは、およそ首都圏ではお目に掛かれない、長閑な田園風景。<br />
いい気持ちで眠っている間に、すっかり遠くまで運ばれてしまったらしい。<br />
枯れ草色に塗りつぶされた早春の田畑には、白々と霜も見えて、雛苺を寒々しい気分にさせた。<br />
<br />
<br />
この駅で降りたのは、雛苺だけだった。<br />
デイパックを背負って、ホームに降り立つなり、雛苺は肌を刺す冷気に首を竦めた。<br />
春は名のみの、風の寒さや。3月の陽気は、あまりにも有名な、あの歌のとおりだ。<br />
日一日と日射しが暖かさを増して、桜の蕾を膨らませるけれど、冬の勢いは依然として強い。<br />
ここで春の足音を聞けるようになるのは、もう少し先――4月の中旬くらいか。</p>
<p>「ふぁ……ぷちゅんっ!」可愛らしいクシャミを、一発。<br />
大仰に身震いした彼女は、ハーフコートの襟を立てて、閑散とした古い駅舎に足音を響かせた。<br />
<br />
<br />
<br />
初めて訪れる土地で嗅ぐ空気は、いつだって、孤独感と郷愁の情を募らせる。<br />
心細さに吐いた溜息が、いまだ冬を色濃く残す世界に、さらりと溶けていった。<br />
<br />
山から吹き下ろす風のせいか、実際の気温よりも、体感温度は低かった。<br />
鋭い冷気が、スラックスの生地をあっさり突き抜け、容赦なく肌に刺さってくる。<br />
スケッチする場所を求めて散策する前に、まずは暖を取りたい。<br />
もじもじと脚を摺り合わせながら、雛苺は風を避けられそうな場所を探した。<br />
<br />
「駅前なら、喫茶店くらいあるはずなのよ」<br />
<br />
スターバックス、ドトール、マクドナルド……<br />
ライム色のつぶらな瞳が、見慣れた看板を求めて、人っ気のない駅前を彷徨う。<br />
そして、1分と要さず、思い知らされた。都会の常識など、鄙では世迷い言なのだ、と。<br />
<br />
ここには、都会にありがちな人いきれや、ビル街の陰から漏れてくる饐えた臭いがない。<br />
行き交う車の騒音も、雑踏も、なにもかもが稀薄だった。<br />
雛苺は唸った。電車でたった数時間の距離に、こんな垢抜けない土地があるなんて……。<br />
<br />
……ともかく。吹きっさらしに突っ立って、無いものねだりをしていても始まらない。<br />
茫然としている間に、温かい缶ジュースでも買うほうが、よほど前向きだ。<br />
そう考えて、自販機の前に立った雛苺の目に飛び込んできた、毒々しいまでに黒い缶。<br />
一見、ブラックのコーヒーかと思えば、そうではなかった。<br />
黒の地に、ドクロみたいな苺のイラストが、ひとつ……。こんなデザイン見たことない。<br />
<br />
「ハバネロ苺? 初めて聞いたのよ~」<br />
<br />
いわゆる、地域限定商品か。こういった珍品を試してみるのも、旅の醍醐味である。<br />
なにより、イチゴと聴けば『ヒナまっしぐら』な彼女のこと。<br />
ホットの列に並んでいることもあって、躊躇いもなく、購入していた。<br />
<br />
プルタブをあげて缶を覗き込むと、ありがちなイチゴ色が揺れている。<br />
温められた甘ったるい人口香料が、ほわんと立ち上った。<br />
その薫香は、雛苺がココロで嗅ぎ取っていた微かな地雷臭を、容易に消してしまった。<br />
<br />
「ん~。アンマァな匂いがするの~。いっただきまぁーす!<br />
…………ん? ん゛むっ?! ん゛ん゛ん゛――っ?!」<br />
<br />
花の香に誘われたミツバチのように、なんの警戒もせず呷ってみれば……<br />
いきなりすぎる強烈な刺激に襲われ、雛苺は涙ぐんで、口元を手で押さえた。<br />
炭酸とか、メンソールなんて、そんな生易しいものではない。<br />
嚥下? またまたぁ、ご冗談を。(AA略)<br />
ジュースとは名ばかりの、劇薬と呼んだって差し支えないほどの代物である。<br />
飲み込むだなんて、とてもとても……。<br />
<br />
ガマンの限界。ダムは決壊寸前。間欠泉なら待ったなし。<br />
なんとか口に含んだまま堪えていた雛苺も、息苦しさには抗えず、膝を折った。<br />
人目を憚る余裕などない。自販機の脇の植え込みに、すべてを吐き出した。<br />
その直後だった。ガラスを引っ掻いたような甲高い悲鳴が、雛苺の背を叩いたのは。<br />
<br />
「きゃぁぁっ?! あ、あ、貴女っ! どうしたのよ? 一体、なにが――」<br />
<br />
いかにも難儀そうに頸を巡らした雛苺の瞳に、人影が、ひとつ映り込む。<br />
年の頃は、雛苺と同じか、やや上か。見目うるわしい乙女だ。<br />
長く艶やかなブロンドや、バーバリーと思しいトレンチコートから、並々ならぬ気品が漂っている。<br />
名も知らぬその女性は、眉を曇らせたまま、おずおずと雛苺に近づいた。<br />
<br />
「具合が悪いのね? もう少し我慢なさい。いま救急車を呼ぶのだわ」<br />
「ふゅ? あのぉ……ヒナは別に、なんともないのよ」<br />
「で、でも、吐血してたじゃないの!」<br />
<br />
吐血? 雛苺は、自分の足元を見て……ああ、なるほど。即座に得心した。<br />
この女の人が、どうして悲鳴を上げて、青ざめていたのか――その理由に。<br />
雛苺は、手中にあった『ハバネロ苺』のアルミ缶を、女性の鼻先に突き出した。<br />
<br />
「紛らわしいコトしちゃって、ごめんなさいなの。<br />
ヒナが吐いちゃったのは、このジュースだったのよ」<br />
「は? え……えっ? ……ジュース?」<br />
「うい。すっごく不味くて、どうしても飲み込めなかったの」<br />
「……なによ、もぅ。驚かさないでちょうだい。<br />
独りで勝手に取り乱したりして……バカみたいだわ、私」<br />
<br />
斜を向いた頬が朱色に染まっているのは、冷たい春風によるものか。それとも――<br />
大人びた印象の彼女が見せた、しおらしい仕種に、雛苺は口元を綻ばせた。<br />
なんだか急に、この妙齢の美女が愛おしくなり、親睦を深めたくなった。<br />
<br />
「あのね、あのねっ。ヒナは、雛苺っていうのよ。<br />
よかったら、貴女のお名前も教えて?」<br />
<br />
「私の?」彼女は、警戒心も露わな眼差しを、雛苺に向けた。<br />
あまりに馴れ馴れしくはないか。なにか企図があって、近づいてきたのかも。<br />
さっきの嘔吐も、関心を誘うための芝居だったのでは……。<br />
<br />
――が、雛苺の無邪気すぎる微笑みを見ている内に、毒気を抜かれたらしく。<br />
彼女は、やおら頬を緩めて、かぶりを振った。<br />
さらさらの金髪が、頭の動きにやや遅れて、優雅に揺れた。<br />
<br />
「私は、真紅よ。この町で、小さな製茶工場と茶店を営んでいるのだわ」<br />
「うよー。若いのに実業家なのね。かっこいいの~」<br />
「ふふ……そんな大したものじゃないわ。趣味が高じた程度のものよ」<br />
<br />
真紅の口振りは、謙遜でもなさそうだった。<br />
おそらくは、辛うじて工場と呼べるくらいの、こじんまりした規模なのだろう。<br />
<br />
「どんなお茶なの? 玉露とか?」<br />
「いいえ。紅茶よ。銘柄は『ローザミスティカ』と言うのだけれど」<br />
「う……と。ご、ごめんなさいなの。ヒナ、紅茶には詳しくなくって」<br />
「知らなくても当然なのだわ。積極的な売り込みなんて、していないもの」<br />
<br />
自社製品の知名度について、真紅は、あまり拘っていない様子だった。<br />
販路も、インターネットのウェブショップや、茶店のみに絞っているのだろう。<br />
大量生産の薄利多売よりも、稀少な高品質。玄人ごのみの本物志向が、モットーらしい。<br />
<br />
「ところで、雛苺さん」<br />
「呼び捨てで、いいのよ。ヒナも、真紅って呼んでもいい?」<br />
<br />
真紅は「ええ、構わないわ」と、人好きさせる笑みを浮かべて、続けた。<br />
<br />
「それで、なのだけれど――もし、急ぐ用事がないのであれば、うちに寄っていかない?<br />
身体が冷えてしまったし……貴女も、不味いジュースの口直しをしたいでしょう。<br />
温かい紅茶をご馳走するわ」<br />
<br />
その申し出は、暖を求めていた雛苺にとって、渡りに船だった。<br />
真紅とも親しくお喋りしてみたかったから、断る理由など、あるはずもない。<br />
雛苺は、喜色を満面に広げて、一も二もなく頷いた。<br />
<br />
<br />
<br />
真紅に連れられ、訪れた製茶工場は、小さいが極めて衛生的な建て屋だった。<br />
従業員は20人ほどで、その内の5人が畑に常駐して、茶葉の品質管理をしていると言う。<br />
なんでも、近くの山の中腹に、南に面した広い茶畑を持っているそうだ。<br />
<br />
「うちで品種改良した茶樹を栽培して、年に何度か、葉を収穫するのよ。<br />
摘んだ葉の熟成や発酵、等級の分類にも、少なからぬ人手を掛けているわね。<br />
温度、湿度などのデリケートな管理は、機械に任せているのだわ」<br />
<br />
工場の脇を通り抜けざま、簡単な説明をする真紅の表情は、とても誇らしげだった。<br />
いい物を作っているという自負が、ありありと現れている。<br />
やっぱり、かっこいい。雛苺は、気品に満ちた乙女の横顔に、羨望の眼差しを送っていた。<br />
<br />
<br />
程なく、雛苺は、工場に隣接する瀟洒なコンクリート住宅に招き入れられた。真紅の自宅らしい。<br />
てっきり、工場の一角にあるという茶店に案内されると思っていた雛苺は、遠慮がちに訊いた。<br />
<br />
「お邪魔しても、いいの?」<br />
「大切なお客様ですもの。手ずから、おもてなしするのは当然なのだわ。<br />
さあ、遠慮しないで、上がってちょうだい。散らかってて、恥ずかしいのだけれど」<br />
<br />
言って、真紅は丁寧に靴を揃えて脱ぎ、さっさとフローリングの廊下を進んでゆく。<br />
置いていかれまいと、雛苺もいそいそ靴を脱いで、足早に彼女を追いかけた。<br />
<br />
「こっちが応接間よ。すぐにお茶の支度をするから、ソファに座っててちょうだい」<br />
<br />
真紅は廊下でコートを脱ぎながら、客人が追いついてくるのを待っていた。<br />
すっかり恐縮しつつ、愛想笑って近づいていった雛苺は、ふと――<br />
どこかアンバランスなものを察知して、歩を止めた。なにか、おかしい。<br />
<br />
雛苺の目が、吸い寄せられるように、違和感を醸している箇所を捉えた。<br />
その箇所とは、真紅の洋服――だらりと下げられた右の袖。<br />
袖の先に伸びているべき右手も、そこにない。<br />
<br />
<br />
あろうことか……真紅には、右腕そのものがなかった。<br />
<br />
<br />
<br />
-<a href="http://www9.atwiki.jp/rozenmaidenhumanss/pages/3707.html">to be
continued</a>-<br />
</p>
<p align="left"> <br />
<br />
――どこかで、カラスの群れが騒いでいる。<br />
いつ聴いても、不安を掻き立てられる声だ。<br />
近い。耳を澄ますまでもなく、気づいた。窓のすぐ外で啼いているのだ、と。<br />
<br />
いつ籠もったのか記憶にないが、雛苺はベッドの中に居た。渇ききった喉が痛い。<br />
腫れぼったい瞼を押し上げて、枕元の時計に目を遣れば、午前八時を少し回ったところ。<br />
普段より30分ほど早い目覚めだった。カーテンの隙間から、眩い朝日が射し込んでいる。<br />
<br />
まだ眠い――が、喧しいカラスを散らさないことには、二度寝もできそうにない。<br />
指先で、目元を、こすりこすり……欠伸を、ひとつ。<br />
その直後だった。なにか重たい物が、ドサッ! と、彼女の上に落ちてきたのは。<br />
<br />
「ぴゃっ?! 痛ぁ……ぃ。もぉ、なんなの~?」<br />
<br />
呂律の回らない口振りで、雛苺は頭を浮かせて、重みを感じる腹部を見遣った。<br />
布団の上に、なにやら見慣れないモノが、転がっている。<br />
<br />
――いや、違う。<br />
見慣れたモノではあったが、見慣れない姿へと変貌を遂げていた。<br />
<br />
「あ……れえぇ!? か、か、形が変わってるのーっ!」<br />
<br />
紛れもなく、本棚に置いてあったベヘモス神像だ。<br />
だが、直立姿勢だった石像は、ボディビルで言うところの『サイドチェスト』のポージング。<br />
それは昨夜、彼女がスケッチブックに描いた姿、そのままだった。<br />
机に置かれている木箱に顔を向けて、雛苺は、ヒリヒリする喉に生唾を流し込んだ。<br />
<br />
石像の形さえも自在に変える効力が、このパステルには、ある。<br />
と言うことは、つまり――<br />
<br />
雛苺は、細い身体を戦慄かせた。「怖い……これ」<br />
とんでもなく危険な代物であることに気づいて、瞳を潤ませた。<br />
<br />
<br />
たとえば、富士山が噴火するイラスト。<br />
たとえば、100mもある大津波に呑まれる百万都市。<br />
それらさえも生温く思えるほどの、阿鼻叫喚の地獄絵図さえも……。<br />
<br />
<br />
このパステルで描けば、雛苺の産みだす絵空事が、すべて現実になってしまう。<br />
それこそSFマンガでも描く気分で、人類を滅ぼすことだって可能だろう。<br />
雛苺が、その気になりさえすれば。<br />
<br />
できっこない。雛苺はベッドの中に潜り込んで、膝を抱えた。<br />
彼に――ジュンに返してしまおうか、とも思った。手元に無ければ、使うこともない。<br />
そうすれば、少なくとも、大好きな絵で誰かを傷つける心配はなくなる。<br />
こんな風に、過ぎたチカラを持て余し、戦々恐々としなくて済む。<br />
<br />
けれど……と、雛苺は考え直した。それって、ただの責任転嫁じゃないの?<br />
たとえ彼女が描かずとも、このパステルが存在する限り、危険は無くならない。<br />
<br />
雛苺は布団を払い退けて、自分の小さな手を、朝日の中に翳した。<br />
この手で処分するなり、二度と日の目を見ないように、封印すべきなのかも。<br />
それが、託された者の責務ではないか。<br />
<br />
「しっかりしなきゃ……なの」<br />
<br />
パジャマの袖で目元を擦りながら放たれた、弱々しい呟き。<br />
しかし、それは細くとも強靱な、ピアノ線を彷彿させる決意を秘めた口振りだった。<br />
<br />
<br />
<br />
冷たい水で顔を洗って、喉の渇きを癒し、軽い朝食を摂ると、少しだけ気分が落ち着いた。<br />
けれど、胸に澱んだ重みは、おいそれと消えそうにない。<br />
あのパステルを、どうにかするまでは――<br />
……いや。手放したところで、おそらく一生涯、胸を痛め続けるのだろう。<br />
<br />
マグカップに残るミルクを飲み干して、雛苺は鬱々と、息を吐いた。<br />
母親がキッチンから顔を覗かせ、心配そうに訊ねたが、「まだ少し、眠いだけなの」と。<br />
曖昧に笑みを返して、席を立とうとした、その矢先。<br />
<br />
見るとはなしに眺めていたテレビ画面に流れたニュース映像が、雛苺の関心を惹いた。<br />
どうやら、原子力発電所で、事故があったらしい。<br />
放射能が漏れるほどの規模ではなさそうだが、報道の仕方は、物々しかった。<br />
<br />
この日本という国は、とかく、原子力や核関連ともなると、病的なほどに過敏になる。<br />
そのうち、アナフィラキシーショックで死んでしまうのではないかと、案じるほどに。<br />
確かに、放射能汚染は怖い。原発の近隣住民にとっては、死活にかかわる問題だ。<br />
……が、だからといって、すべての原子力を手放すことなど、できはしないだろう。<br />
普段の生活においても、もうドップリと、その恩恵に与っているのだから。<br />
<br />
<br />
仕方のないこと……。雛苺は醒めた気分で、食器をシンクに置くと、食堂を後にした。<br />
しかし、その途中。階段を昇っているときに、ふと、閃くものがあった。<br />
<br />
「あのパステルも、原子力と同じかも知れないのよ?」<br />
<br />
使い方を誤れば、多くの不幸を生む。<br />
しかし、用法によっては――<br />
原子力が、文明の繁栄を支えているように、あのパステルで、人々のココロを豊かに出来るはずだ。<br />
<br />
核、と、描く。<br />
『nuclear』ではなく、『new』+『clear』――<br />
恵まれない今日の上に、よりよい未来を重ね描きできるものならば、そうすることに吝かでない。<br />
ダジャレじみた発想だけれど、やってみる価値はある。<br />
ふと気づけば、雛苺の胸に蟠っていた黒い霧は、一寸先が見える程度にまで薄らいでいた。<br />
<br />
「それが……ヒナも救われる、たったひとつの解決法かも」<br />
<br />
事故で身体の一部を失ってしまった人に、元どおりの人生を与えられるかもしれない。<br />
あるいは、難病の苦しみを、取り除いてあげられるかも。<br />
いずれにせよ、封印したり、遺棄したり、我欲を満たすために使うよりは、よほど有意義だ。<br />
もう、楽しく絵を描くことは、できないかもしれないけれど――<br />
<br />
「やってみる! 行動しなきゃ始まらないのよ!」<br />
<br />
パステルは使い続けていれば、いつか尽きる。そのときまで、頑張ればいい。<br />
階段を駆けのぼる雛苺の足取りに、もう迷いは感じられなかった。<br />
まるで、蒼穹へと翔けのぼるほどに軽やかで……<br />
小さな背中には、力強く羽ばたく翼さえ見えるようだった。<br />
<br />
<br />
思い立ったが吉日と、雛苺は旅支度を始めた。<br />
この週末二日で、少しでも多く、パステルの効果を試しておきたかった。<br />
<br />
パステルと鉛筆。お気に入りのスケッチブック。傘とタオル。念のための着替え。<br />
それら一切合切を、デイパックに放り込んで、準備はおしまい。<br />
旅費なら、先月分のアルバイトの給料が、ほぼ手つかずで貯金してある。<br />
<br />
あとは――行動を。目の前の扉を、開けるだけだ。<br />
<br />
<br />
<br />
デイパックひとつの軽装で、自転車に跨り、最寄りのJRの駅へ――<br />
駐輪場に自転車を置いた雛苺は、銀行に寄ってから、緑の窓口に向かった。<br />
こういうアテのない旅をするときは、乗り降り自由の『青春18きっぷ』が便利なのだ。<br />
<br />
「とりあえず、失敗しても被害の少なそうなところ……郊外に出てみるのよ」<br />
<br />
アテもなく電車に揺られ、なんとなく気を惹かれた駅で降りてみるつもりだった。<br />
見知らぬ町並みを歩いているうち、これと想う景色に、辿り着けるかも……。<br />
そんな運命の巡り合わせを、彼女は淡く期待していた。<br />
<br />
<br />
まず雛苺が目指したのは、何本もの路線が乗り入れているターミナル駅。<br />
そこからは、足の向くまま気の赴くままに、4両連結のローカル線に乗り換えた。<br />
土曜日の午前中で、しかも郊外に向かう列車とあってか、乗客は疎らだ。<br />
部活に行くと思しい学生。ハイカーらしい初老の男性。マスクをした中年女性。<br />
目の届くかぎりでも、雛苺と同じ車両には、彼女を含めて4人しか乗っていない。<br />
<br />
4人掛けのボックス席も、まったくの貸し切り状態。<br />
シートの窓際に腰を降ろした雛苺は、デイパックを抱えて、ふぅ……と吐息した。<br />
いつもより早起きしたせいか、中途半端に瞼が重たい。目がショボショボする。<br />
コーヒーか紅茶でも買ってこようかと思ったものの、発車時刻までは、あと3分ほど。<br />
きわどい時間だ。この電車を乗り過ごすと、次発は40分後になる。<br />
<br />
<br />
仕方がない。この際だから、飲み物はガマンして、少し眠っておこう。<br />
雛苺は、携帯電話のアラームを2時間後にセットして、冷えた窓に頭を預け、目を閉じた。<br />
――だが、いつまで経っても、ちっとも微睡めない。<br />
パステルのことを気にするあまり、知らず、睡魔を遠ざけているようだ。<br />
雛苺は瞼を閉じたまま、あれこれとココロに浮かんでくる疑問に、想いを巡らした。<br />
<br />
<br />
このパステルは、石像のカタチすら変えちゃったのよ。<br />
じゃあ、崩落した山の、崩れる前の姿を描いても――元どおりになるの?<br />
<br />
<br />
常識で考えたならば、有り得ない。<br />
そんなことが可能だったら、時間を巻き戻せる道理になってしまう。<br />
<br />
けれど、もし――<br />
自然環境すら変えられるのであれば、これは、とんでもないことだ。<br />
干ばつや洪水による災害を、早急に復旧できてしまう。<br />
広がり続けている砂漠を、木々の緑で覆い尽くすことだってできよう。<br />
それどころか、喪われた生命さえも、取り戻せるかもしれない。<br />
<br />
古生物の絵を描いたら、シーラカンスのように、生きた化石として現世に顕れる?<br />
ダヴィンチの全身像を描けば、彼がキリストみたいに復活する、とでも?<br />
<br />
<br />
――まさか、ね。<br />
雛苺は、くふん、と鼻を鳴らした。いくらなんでも、妄想が過ぎる。<br />
あのパステルが影響を及ぼせるのは、現存するモノ【者/物】の未来に対してのみだろう。<br />
時間の遡及など、SF小説の中だけで充分だ。<br />
<br />
<br />
考えるのを止めて、暫くすると、ウトウト……。<br />
待ちかねていた瞬間の訪れ。どうやら、このまま眠れそうだ。<br />
雛苺は意識を手放して、なにかに牽かれるまま、真っ白な世界へと沈んでいった。<br />
<br />
<br />
<br />
――あれ? いま……なにかが……。<br />
<br />
<br />
夢の中で、白いウサギを見た気がした。<br />
その直後、車内アナウンスが、耳に馴染みのない駅名を告げた。<br />
いけない。うたた寝のつもりが、すっかり熟睡していたらしい。<br />
口の端に違和感がある。ヨダレまで垂らしていたなんて、みっともない。<br />
<br />
恥じらうあまり、顔が熱くなり、変な汗が額に滲んでくる。<br />
雛苺は窓に顔を向け、景色を眺めるフリをしながらポケットティッシュを抜き出すと、<br />
さりげなく、唇に塗ったリップクリームごと、ヨダレを拭きとった。<br />
もしかしたら、無防備に晒した寝顔を、誰かに見られていたかも……。<br />
その現場を想像すると、僅かに残っていた眠気も、羞恥の熱で揮発してしまった。<br />
<br />
まあ、過ぎてしまったことは、仕方がないとして。<br />
<br />
「どこなのかしら、ここ?」<br />
<br />
改めて、車窓の向こうに眼を向けて、雛苺は「ふわぁ~」と感嘆した。<br />
そこに広がっていたのは、およそ首都圏ではお目に掛かれない、長閑な田園風景。<br />
いい気持ちで眠っている間に、すっかり遠くまで運ばれてしまったらしい。<br />
枯れ草色に塗りつぶされた早春の田畑には、白々と霜も見えて、雛苺を寒々しい気分にさせた。<br />
<br />
<br />
この駅で降りたのは、雛苺だけだった。<br />
デイパックを背負って、ホームに降り立つなり、雛苺は肌を刺す冷気に首を竦めた。<br />
春は名のみの、風の寒さや。3月の陽気は、あまりにも有名な、あの歌のとおりだ。<br />
日毎に日射しが暖かさを増して、桜の蕾を膨らませるけれど、冬の勢いは依然として強い。<br />
ここで春の足音を聞けるようになるのは、もう少し先――4月の中旬くらいか。<br />
<br />
「ふぁ……ぷちゅんっ!」可愛らしいクシャミを、一発。<br />
大仰に身震いした彼女は、ハーフコートの襟を立てて、閑散とした古い駅舎に足音を響かせた。<br />
<br />
<br />
初めて訪れる土地で嗅ぐ空気は、いつだって、孤独感と郷愁の情を募らせる。<br />
心細さに吐いた溜息が、いまだ冬を色濃く残す世界に、さらりと溶けていった。<br />
<br />
山から吹き下ろす風のせいか、実際の気温よりも、体感温度は低かった。<br />
鋭い冷気が、スラックスの生地をあっさり突き抜け、容赦なく肌を刺してくる。<br />
スケッチする場所を求めて散策する前に、まずは暖を取りたい。<br />
もじもじと脚を摺り合わせながら、雛苺は風を避けられそうな場所を探した。<br />
<br />
「駅前なら、喫茶店くらいあるはずなのよ」<br />
<br />
スターバックス、ドトール、マクドナルド……<br />
ライム色のつぶらな瞳が、見慣れた看板を求めて、人っ気のない駅前を彷徨う。<br />
そして、1分と要さず、思い知らされた。都会の常識など、鄙では世迷い言なのだ、と。<br />
<br />
ここには、都会にありがちな人いきれや、ビル街の陰から漏れてくる饐えた臭いがない。<br />
行き交う車の騒音も、雑踏も、なにもかもが稀薄だった。<br />
雛苺は唸った。電車でたった数時間の距離に、こんな垢抜けない土地があるなんて……。<br />
<br />
……ともかく。吹きっさらしに突っ立って、無いものねだりをしていても始まらない。<br />
茫然としている間に、温かい缶ジュースでも買うほうが、よほど前向きだ。<br />
そう考えて、自販機の前に立った雛苺の目に飛び込んできた、毒々しいまでに黒い缶。<br />
一見、ブラックのコーヒーかと思えば、そうではなかった。<br />
黒の地に、ドクロみたいな苺のイラストが、ひとつ……。こんなデザイン見たことない。<br />
<br />
「ハバネロ苺? 初めて聞いたのよ~」<br />
<br />
いわゆる、地域限定商品か。こういった珍品を試してみるのも、旅の醍醐味である。<br />
なにより、イチゴと聴けば『ヒナまっしぐら』な彼女のこと。<br />
ホットの列に並んでいることもあって、躊躇いもなく、購入していた。<br />
<br />
プルタブをあげて缶を覗き込むと、ありがちなイチゴ色が揺れている。<br />
温められた甘ったるい人口香料が、ほわんと立ち上った。<br />
その薫香は、雛苺がココロで嗅ぎ取っていた微かな地雷臭を、容易に消してしまった。<br />
<br />
「ん~。アンマァな匂いがするの~。いっただきまぁーす!<br />
…………ん? ん゛むっ?! ん゛ん゛ん゛――っ?!」<br />
<br />
花の香に誘われたミツバチのように、なんの警戒もせず呷ってみれば……<br />
いきなりすぎる強烈な刺激に襲われ、雛苺は涙ぐんで、口元を手で押さえた。<br />
炭酸とか、メンソールなんて、そんな生易しいものではない。<br />
嚥下? またまたぁ、ご冗談を。飲み込むだなんて、とてもとても……。<br />
ジュースとは名ばかりの、劇薬と呼んだって差し支えないほどの代物である。<br />
<br />
ガマンの限界。ダムは決壊寸前。間欠泉なら待ったなし。<br />
なんとか口に含んだまま堪えていた雛苺も、息苦しさには抗えず、膝を折った。<br />
人目を憚る余裕などない。自販機の脇の植え込みに、すべてを吐き出した。<br />
その直後だった。ガラスを引っ掻いたような甲高い悲鳴が、雛苺の背を叩いたのは。<br />
<br />
「きゃぁっ?! あ、あ、貴女っ! どうしたのよ? 一体、なにが――」<br />
<br />
いかにも難儀そうに頸を巡らした雛苺の瞳に、人影が、ひとつ映り込む。<br />
年の頃は、雛苺と同じか、やや上か。見目うるわしい乙女だ。<br />
長く艶やかなブロンドや、バーバリーと思しいトレンチコートから、並々ならぬ気品が漂っている。<br />
名も知らぬその女性は、眉を曇らせたまま、おずおずと雛苺に近づいた。<br />
<br />
「具合が悪いのね? もう少し我慢なさい。いま救急車を呼ぶのだわ」<br />
「ふゅ? あのぉ……ヒナは別に、なんともないのよ」<br />
「ウソよ! 吐血してたじゃないの!」<br />
<br />
吐血? 雛苺は、自分の足元を見て……ああ、なるほど。即座に得心した。<br />
この女の人が、どうして悲鳴を上げて、青ざめていたのか――その理由に。<br />
雛苺は、手中にあった『ハバネロ苺』のアルミ缶を、女性の鼻先に突き出した。<br />
<br />
「紛らわしいコトしちゃって、ごめんなさいなの。<br />
ヒナが吐いちゃったのは、このジュースだったのよ」<br />
「は? え……えっ? ……ジュース?」<br />
「うい。すっごく不味くて、どうしても飲み込めなかったの」<br />
「……なによ、もぅ。驚かさないでちょうだい。<br />
独りで勝手に取り乱したりして……バカみたいだわ、私」<br />
<br />
斜を向いた頬が朱色に染まっているのは、冷たい春風によるものか。それとも――<br />
大人びた印象の彼女が見せた、しおらしい仕種に、雛苺は口元を綻ばせた。<br />
なんだか急に、この妙齢の美女が愛おしくなり、親睦を深めたくなった。<br />
<br />
「あのね、あのねっ。ヒナは、雛苺っていうのよ。<br />
よかったら、貴女のお名前も教えて?」<br />
<br />
「私の?」彼女は、警戒心も露わな眼差しを、雛苺に向けた。<br />
あまりに馴れ馴れしくはないか。なにか企図があって、近づいてきたのかも。<br />
さっきの嘔吐も、関心を誘うための芝居だったのでは……。<br />
<br />
――が、雛苺の無邪気すぎる微笑みを見ている内に、毒気を抜かれたらしく。<br />
彼女は、やおら頬を緩めて、かぶりを振った。<br />
さらさらの金髪が、頭の動きにやや遅れて、優雅に揺れた。<br />
<br />
「私は、真紅よ。この町で、小さな製茶工場と茶店を営んでいるわ」<br />
「うよー。若いのに実業家なのね。かっこいいの~」<br />
「ふふ……そんな大したものじゃないわ。趣味が高じた程度のものよ」<br />
<br />
真紅の口振りは、謙遜でもなさそうだった。<br />
おそらくは、辛うじて工場と呼べるくらいの、こじんまりした規模なのだろう。<br />
<br />
「どんなお茶なの? 玉露とか?」<br />
「紅茶よ。銘柄は『ローザミスティカ』と言うのだけれど」<br />
「う……と。ご、ごめんなさいなの。ヒナ、紅茶には詳しくなくって」<br />
「知らなくても当然かもね。積極的な売り込みなんて、していないもの」<br />
<br />
自社製品の知名度について、真紅は、あまり拘っていない様子だった。<br />
販路も、インターネットのウェブショップや、茶店のみに絞っているのだろう。<br />
大量生産の薄利多売よりも、稀少な高品質。玄人ごのみの本物志向が、モットーらしい。<br />
<br />
「ところで、雛苺さん」<br />
「呼び捨てで、いいのよ。ヒナも、真紅って呼んでもいい?」<br />
<br />
真紅は「ええ、構わないわ」と、人好きさせる笑みを浮かべて、続けた。<br />
<br />
「それで、なのだけれど――急ぐ用事がないのであれば、うちに寄っていかない?<br />
身体が冷えてしまったし……貴女も、不味いジュースの口直しをしたいでしょう。<br />
温かい紅茶をご馳走するわ」<br />
<br />
その申し出は、暖を求めていた雛苺にとって、渡りに船だった。<br />
真紅とも親しくお喋りしてみたかったから、断る理由など、あるはずもない。<br />
雛苺は、喜色を満面に広げて、一も二もなく頷いた。<br />
<br />
<br />
<br />
真紅に連れられ、訪れた製茶工場は、小さいが極めて衛生的な建て屋だった。<br />
従業員は20人ほどで、その内の5人が畑に常駐して、茶葉の品質管理をしていると言う。<br />
なんでも、近くの山の中腹に、南に面した広い茶畑を持っているそうだ。<br />
<br />
「うちで品種改良した茶樹を栽培して、年に何度か、葉を収穫するのよ。<br />
摘んだ葉の熟成や発酵、等級の分類にも、少なからぬ人手を掛けているわね。<br />
温度、湿度などのデリケートな管理だけは、機械に任せているのだわ」<br />
<br />
工場の脇を通り抜けざま、簡単な説明をする真紅の表情は、とても誇らしげだ。<br />
いい物を作っているという自負が、ありありと現れている。<br />
やっぱり、かっこいい。雛苺は、気品に満ちた乙女の横顔に、羨望の眼差しを送っていた。<br />
<br />
程なく、雛苺は、工場に隣接する瀟洒なコンクリート住宅に招き入れられた。真紅の自宅らしい。<br />
てっきり、工場の一角にあるという茶店に案内されると思っていた雛苺は、遠慮がちに訊いた。<br />
<br />
「お邪魔しても、いいの?」<br />
「大切なお客様ですもの。手ずから、おもてなしするのは当然なのだわ。<br />
さあ、遠慮しないで、上がって。散らかってて、恥ずかしいのだけれど」<br />
<br />
言って、真紅は丁寧に靴を揃えて脱ぎ、さっさとフローリングの廊下を進んでゆく。<br />
置いていかれまいと、雛苺もいそいそ靴を脱いで、足早に彼女を追いかけた。<br />
<br />
「こっちが応接間よ。すぐにお茶の支度をするから、ソファに座っててちょうだい」<br />
<br />
真紅は廊下でコートを脱ぎながら、客人が追いついてくるのを待っていた。<br />
すっかり恐縮しつつ、愛想笑って近づいていった雛苺は、ふと――<br />
どこかアンバランスなものを察知して、歩を止めた。なにか、おかしい。<br />
<br />
雛苺の目が、吸い寄せられるように、違和感を醸している箇所を捉えた。<br />
その箇所とは、真紅の洋服――だらりと下げられた右の袖。<br />
袖の先に伸びているべき右手も、そこにない。<br />
<br />
<br />
あろうことか……真紅には、右腕そのものがなかった。<br />
<br />
<br />
<br />
-<a href="http://www9.atwiki.jp/rozenmaidenhumanss/pages/3707.html">to be
continued</a>-<br />
<br />
</p>