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「『うそつき老人』」(2008/02/28 (木) 23:14:11) の最新版変更点
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『うそつき老人』<br /><br />
ある初夏の朝のことである。私は縁側の籐椅子で寛ぎながら、亡き妻のことを<br />
懐かしんでいた。<br />
妻が急な病で彼岸を渡ってから、早いものでもう二年になる。その頃の私は、<br />
すでに家業の全部を義理の息子に任せ、屋敷からも出、このさほど大きくない平<br />
屋に妻と二人で暮らしていた。老生は二人きりで静かに過ごすというのが、私と<br />
妻の夢であった。還暦から〝あしなえ〟の気が出始めていたので、娘夫婦は私<br />
が屋敷から出て行くのを止めたが、私は妻の甲斐々々しいのを頼みに、我儘を<br />
通してここに移った。が、移って二年後に、立春間もない頃、妻は罹病し、早々と<br />
この世を去った。過ごした時間は足掛けでも三年しかない。短いものである。妻<br />
は私より四歳若かったのだ。<br />
三回忌を終えた今年、私は自分の生家である・あの瓦葺の大屋敷へ帰ること<br />
になった。義理の息子が、忙しい合間を縫って私の家までやって来て、一緒に住<br />
みましょうと説得するのを、私はそろそろ断われなくなっていた。次第に気が変わ<br />
り、結局「終の棲家」と定めたはずのこの矮屋を、引き払うことになったのである。<br />
――実を言えば、そういうふうに決めた大部分の理由は、息子の粘り腰より、悪<br />
くなり続ける〝あしなえ〟と、それを一人で相手する勇気が萎えたせいであった。<br />
そういう、全く情けない・小狡い理由であった。<br />
今日は娘夫婦がこの家やって来る予定である。家の中を整頓し、荷を纏めて、<br />
屋敷まで持って行くのである。きっと私は、横から息子夫婦の作業を眺めている<br />
だけで、それだけでは申し訳ないからと、二人のために茶を淹れてやるくらいだ<br />
ろう。<br />
その前に、私には、やっておかずばならぬことが一つある。今、私の手には庭<br />
の倉庫の鍵が握られている。私は杖を体の支えに倉庫に行った。現在私は杖が<br />
あればなんとか歩ける。娘達は転ぶと危ないからと車椅子を勧めるが、まだ歩け<br />
るのにそんなものに頼れば、一層に萎えてゆくと思われたので、私はこればかり<br />
は頑なに断わっている。なにより狭い家では却って難儀だろうとも思われた。は<br />
っきり言えば億劫であった。ただし、この言い分は広々とした屋敷に戻ると、とた<br />
んに通じなくなりそうなのが、気がかりである。<br />
(……庭が荒れている。妻がいないとこの具合だ)<br />
老夫婦がおとなしく暮らしていた家だから、倉庫内も、片付いているとか散らか<br />
っているとかでなく、ただ少ない工具等がぽつりぽつりと置かれているだけであ<br />
る。土埃塗れの倉庫の吊り棚に、用件の物があった。薄い方形の金属箱で、中<br />
には大学ノート数冊が納まっているはずだった。私は吊り棚から金属箱を下ろす<br />
と、その場で箱を開けた。大学ノート六冊がビニール紐で纏められている。一番<br />
上のノートの表紙に、番号と日付があった。「昭和三十四年六月二十七日於書写<br />
す」とある。随分と古い年号から始まるもので、月日は私の双子の弟の命日と重<br />
なっていた。紐を解いてノートの表紙だけを見てゆくと、みなそのような形式で番<br />
号と日付が記されていた。最後のノートの日付は、私達がこの家に移って来た年<br />
のものになっている。六冊九年周期のノートであるらしかった。これらは間違いな<br />
く妻の字である。私がこれを見たのは初めてであった。<br />
いつか妻は――確か妻が病に罹るより以前のことで、彼女が健常そのものに<br />
見えていた時期である――私にこう言った。――倉庫の吊り棚に金属箱があり<br />
ますでしょう。ええ、あるんです。いつか、あなたにお見せしたいと思っています。<br />
いつか。そうね、二三年、いえ三年経ったら、お渡ししたいわ。でも、もしも、私が<br />
そうする前に死んでしまったら、その時は箱を捨ててください。中は他の誰にも見<br />
せないで! もし、私の知らないところであなた以外の人があれを見たら、私達<br />
は、あの世で再会出来ないわ。私はあなたとまともに顔を合わせられず、逃げて<br />
しまうに決まっていますもの。……と、こういうふうだったと思う。<br />
私はその時の妻のことを、たった今ありありと思い出したが、自分のことを思い<br />
出すことは出来なかった。そう言われた時、私はどんな顔をして、どう返したのだ<br />
ったか。考えながら、私はノートを縛り直し、金属箱に蓋をして、脇に抱えて倉庫<br />
を出た。<br />
私は居間の机の上に金属箱を置くと、箪笥からビニール紐を取り出し、金属箱<br />
を十字に縛り、百貨店かどこかの紙袋の中にそれを納めた。妻が、ああ言った<br />
日がいつのことだったかは憶えていない。だから私は、その三年を三周忌と定め<br />
ることにした。来年の妻の命日、私はこの箱を開け、大学ノートを開いてみようと<br />
思う。<br />
そう決めた時、玄関の呼鈴が鳴った。どうやら娘夫婦が来たようである。玄関<br />
の鍵は閉まっているから、私が手ずから開けずばなるまい。私は玄関に向かっ<br />
た。戸を開けると、そこには娘と義理の息子の他に屋敷の人間も数人来ていた。<br />
私は果たして、彼らの作業を横から眺めているだけだった。時々、捨てる・捨てな<br />
いの判断を仰がれたくらいだった。そして茶を淹れたのは私でなく、息子が連れ<br />
て来た屋敷の人間だったのである。<br />
一時間ほど経って、また呼鈴が鳴った。頭部のすっかり禿げ上がった義理の弟<br />
であった。義弟は私より一歳下なだけだが、顔の皺の少ないのを常々誇っている<br />
ような男で、この日もその自慢の頬を撫でて、笑いながら、「や、お前はまた老け<br />
たなア」などと、私に言ってきた。彼は私と違って五体が頑丈に出来ている。動き<br />
はてきぱきとしたもので、私の意向など全く聞こうともせずに、家にある物を分別<br />
していった。<br />
日没前になると、私はいよいよ寂寥の感に襲われた。私はついにこの家から去<br />
るのである。妻と終生まで過ごすと決めた家から、いなくなってしまうのだ。この<br />
家に来てから、たった二年で妻は死んだ。さらに二年経って、次は私がここから<br />
立ち去る。死んだわけでなく生きたままで、しかし、なお妻のように――。……<br /><br />
*<br /><br />
ある初夏の日のことだった。僕は双子の姉と一緒に、先月亡くなった祖父(この<br />
場合母方の祖父)の部屋の掃除をしていた。<br />
生前の祖父はずいぶんと〝マメ〟な性格だったらしく、押入の奥の奥から、僕<br />
らには馴染みのない「昭和」の日付から始まる、大量のノートを見つけた。内容<br />
は祖父の日記らしい。しまっているより隠しているような感じだった。<br />
日記は、紐綴じのものから鍵付のもの・最後の方はルーズリーフ等を使ってい<br />
て、新しい物好きの祖父の性格もよく現していた。後で母に聞いた話によれば、<br />
日記は祖父が十代の頃から始めたもので、祖父は体調を崩した時などを除いて、<br />
ほとんど毎日、こうして日記を付けていたということだった。若い頃のものは、ゴタ<br />
ゴタがあってなくしてしまった。それでも大変な量の日記が出てきたもので、僕と<br />
姉は口をぽっかり開けて、掃除するのも忘れてただ驚くしかなかった。<br />
ぱらぱらと捲って読んでみるだけでも、祖父の几帳面さが分かる内容だった。<br />
祖父がなにか書き物をしていたのは、たまに見たことがあったけれど、それが日<br />
記かどうかは「きっとそうなんだろう」と、勝手に想像していただけで、知っていた<br />
わけではなかった。<br />
一字々々・一行々々が万年筆で均等に書かれている。一日の日記の文章量が<br />
長い。二ページに及ぶものもあった。知っているような・いないような漢字がある。<br />
どれも記憶より画数が多い。僕の読んだ大体がそうだった。(他も同じに違いな<br />
い)僕らにはとても読みづらい日記だった。姉はそのうち音をあげた。<br />
僕は部屋の掃除を姉に任せ、祖父の日記の一部(日付の新しい方のもの)を<br />
持って、母のところへ行った。母には日記の文字が読めるようだった。それから<br />
母は、僕に日記のことを色々と話してくれた。そして最後に僕に言って、「金属箱<br />
がしまわれている場所を知らないかしら。ビニール紐で縛られている、百貨店の<br />
紙袋かなにかに入っている、そういう箱なのだけれども」――<br />
僕は祖父の部屋に戻って、姉にそのことを話した。掃除は中断され、今日の僕<br />
らの仕事は、この時点から、箱探しに変わった。押入の中のものを全部引っ張り<br />
出して、段ボールだの木箱だのと、片っ端から開けていった。ところが、それらし<br />
いものは一つも出てこない。この部屋にはないのかと思って、祖父の書斎や、他<br />
に祖父の所有物のありそうなところを探し回ったけれど、やはり出てこなかった。<br />
それなら庭の倉は? と姉が思いついて言った。庭の倉にあるかもしれない。倉<br />
内を探すとなるとさすがに子供二人では無理だと思ったので、給仕さん頼んで手<br />
伝ってもらうことにした。三人で薄暗い倉の中を手当たり次第にあばいた。それ<br />
でも見つからなかった。日が暮れ始めて「物を探す」どころではなくなったので、<br />
僕らは箱探しを諦めて倉から出た。疲れるためだけに時間を過ごした、と考える<br />
とさらに疲れた。<br />
(……庭が赤いのは夕日のせいだ。空も庭も屋敷もみんな赤い。それを見て、そ<br />
うだ、と僕は少し思い当たるところがあるようだった。曖昧な記憶を探る、記憶が<br />
輪郭を持つ、形になってゆく、車椅子の祖父がいる、――)<br />
そうだ。その金属箱は灰になったのだった。中身も全部燃えて、すっかり灰にな<br />
った。灰になって煙になって、それで天に昇る。元の形を取り戻して祖母(この場<br />
合母方の祖母)のところに行く。そういうふうに祖父は言った。なにを燃やしてい<br />
るの、と僕が訊くと、祖父は、――ばあさんの日記だよ。私が日記を付けている<br />
のを見て真似したくなったらしい。内容は半ば私の言行録だった。我がことより、<br />
私のことに字数を割いていたわ。……祖母の三周忌の前後だったと思う。<br />
祖父はその二月後に亡くなった。愛用の籐椅子に座って、いつものように寛い<br />
でいる状態のまま亡くなっていたのを、母が見たのだった。うたた寝でもしている<br />
ようで、実際母はそう勘違いして、祖父の死を見過ごすところだったという。<br />
僕は母に呼び出された。その気があるのなら、と、どうしてか、祖父の日記を僕<br />
にくれた。〝その気〟は母に言われた時はなかったけれど、自分の部屋に戻っ<br />
てから、どんどん膨れ上がっていった。とりあえず僕は、読めるところだけ見繕っ<br />
て読んでゆくことにした。所々に日記というよりただの走り書きのメモのような、箇<br />
条書きの内容があることに気づいた。そういうところは、自分にもはっきりと読め<br />
た。後の方に行くほど日記は読みやすい字になっている。最後の日記は祖母の<br />
三周忌の翌日のもので、「弟に奪われてしまう。急がなくては、この足では間に<br />
合わない」これだけだった。隅に付記されている祖父・結菱二葉の名前は、字画<br />
が一つ足りない。<br /><br /><br />
おしまい。</p>