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六、柿崎めぐ」(2008/01/02 (水) 11:56:35) の最新版変更点

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<p><span style="line-height:150%;"><br>      六、柿崎めぐ<br> <br>  長野の柿崎氏に、めぐ、という名の娘がいる。巴が聞いた〝カキザキメグ〟のことにほかならない。彼女は病に罹り、ために余人とともに起居することができなくなった。<br>  妾が間男と姦通して生んだ子、という微妙な立場の姉妹が、柿崎家で暮らすことができていたのは、めぐの同情があったためである。すべて、彼女が都合し、世話していたことであった。が、めぐが柿崎家から出てしまった以上、あえてこのやっかいな属性の姉妹をそのまま離れに住まわせる理由がなくなった。<br>  二度の不実をはたらいた妾の女は、放逐するまでもなく神経衰弱のために邸を出て療養中にあって、とてもひきわたせる状態ではないし、間男・ローゼンはゆくえ知れずのままであった。<br>  そこで、柿崎氏は、彼女たちの姉の居候先である分家方へふたりをやろうとしたが、こちらはいったん諒承されたものの、あとになって断わられた。そして、けっきょく柏葉氏のあずかるところとなった。<br>  一年の経過があって、妾の女が死に、あらわれたローゼンが分家方に話をつけて柏葉本邸まで娘ふたりをひきとりに来た、という具合である。今までまったくゆくえ知れずだったこの男は、いったいどこで女の死を知ったのか、そういう疑問より、<br>  ――なにを今さら……。<br>  という呆れのほうが、かかわってきた人間には強かったろう。<br>  ともかくとしても、話がそのほうへまとまったのである。<br>  これが、三月のことである。同月のうちに、巴が翠星石と蒼星石とを柏葉の本邸から出して槐の店へゆかせ、彼を恃んで三田のオディールのもとへ送らしめようとしたことは、すでに述べた。<br>  当初巴は、みつに三田まで送ってもらおうと考えていた。巴や由奈の足ではそこは遠く、邸の者の目もあったからである。その点、みつはたんなる居候にすぎず、また成人女性であり、年齢的なものからくる敏慧を当てにしたわけでもあった。<br>  ところが、当日のみつはさんざんに酩酊してとても邸外へ出るどころではなく、ついには、肩をゆすって急かす由奈の胸と腹いっぱいに吐瀉物をぶちまけるというありさまであった。それで、仕方なしに、みつと縁のあった槐をたよることになったのである。<br>  一葉から電話を受け取った巴は、さすがにそこまでのことは言わなかったものの、邸での次第をだいたい説明しきった。<br>  巴と一葉は同時に息を吐いた。<br>  一葉は、自分の通話相手であるところの柏葉巴という少女が、存外に胆力に富んでいると知って、ひそかに驚き、感心し、また呆れた。豪胆というより、むこうみずというべきであろう。少女らしからぬ行動力といえばそうだが、ある意味子供だからこその行動力であるとも言えるかもしれない。<br>  これは彼女の旦那になる男は苦労しそうだな、と一葉は内心笑った。その旦那というのは、彼の甥――いかにも気の強さより優しさが勝っているあの甥だ――に違いないのである。<br>  それにしても、双子が蒸発したその日に、二葉のほうへ花見の話をもちかけてくるというのは、柏葉氏(巴の父)とは、よほどのん気なのか、あるいは娘の暴走をわかっていて見逃したのか、だとしたら、<br>  ――いやな男だ。<br>  と、一葉は、なにか気に入らぬものを感じた。<br> 「子供たちのことは、しばらくこちらであずかっておきますよ。お暇な時にでも遊びに来てください。きっと喜ぶでしょう。しかし、ローゼンについては、じっさい会ってみないことには、なんとも判断できませんな」<br>  巴の話を聞いただけでは、双子をローゼンのもとへかえしても問題ないのかどうか、一葉には判断しかねた。巴が翠星石に教えてもらったところでは、どうもカキザキメグはローゼンのことを毛嫌いしていたらしい。逃げたのはそのせいでもあろう。それに、柏葉家での評判もかんばしいものではない。<br>  が、ローゼンのひととなりがどんなものであっても、彼はふたりの肉親に違いないのである。本人がひきとると言っているのだから、一葉としては、なるべくそうなるように便宜をはかる方向で、話をもってゆきたいと思っている。<br> 「ローゼンがだめそうなら、わたしが世話しつづけますよ。正直なところ、柿崎さんもおたくも、あまり頼りになりそうにない」<br> 「おひきとりになるんですか。でも、彼女たちのお父上がなんと言うか……」<br>  と、巴が訊くと、一葉は、はは、とかるく笑って、<br> 「そのあたりは、まあ、なんとでも。どこの馬の骨ともわからん男に劣るほど、うちの家は廃れた名ではありませんから」<br>  と言った。要するにローゼンと対して面倒事があれば、権力ずくで解決するということである。<br> 「とりあえず、先にメグさんとやらと話してみようと思います。ローゼンのことはそのあと、考えましょう。ああ、言わでもないことかもしれませんが、念のため、この件は花見の席では内密に、ということでお願いします」<br>  そう言って、一葉は巴との通話をうちきった。<br>  一葉は、カキザキメグ、すなわち長野柿崎氏の一人娘・めぐのことを、たぶん知っている。昔、長野の別邸で静養中の二葉が寄越して来た信書の中に、その名が載っていたはずである。そのようなおぼえが、一葉にはかすかにあった。帰京の年のことだから、十年ほど昔のことになろう。<br>  自室にもどって、信書の束をしまっている箱をひっぱりだして読んでみると、はたして柿崎めぐの名があった。<br>  一葉は、部屋を出たところで都合よく会った二葉に声をかけて、<br> 「ぼくは病気に罹った。これから長野まで静養にゆくから、父さんにはそう伝えておいてくれ」<br>  と言った。<br> 「ご自由に」<br>  二葉の反応はにべもないもであった。二葉のつれない返事に、一葉は少しむっとした。が、それはさておいて、<br> 「あと、変な外人が来ても相手にするなよ。ほかの連中にもよく言って聞かせろ」<br> 「変な外人?」<br>  と言って、怪訝な表情をむけてきた二葉に、一葉は、<br> 「ローゼンだかなんだかという男のことだ。そいつからなにか連絡でもあったら、その時は報せてくれ」<br>  と、補足にならない補足をした。二葉はそもそもローゼンという男を知らない。名さえはじめて聞いたのだから、一葉の説明は不足もはなはだしかった。が、どの関係者であるか、だいたい想像できる。<br> 「善処するよ」<br>  と、二葉は、やはりそっけない調子でかえしたのであった。<br> <br>  一葉は、すばやく荷をまとめると、供も連れずに邸を発った。巴の電話を受けた翌日のことであり、またそのさらに次の日には柏葉本邸での花見が催されるはずで、きわどい時期での出発であった。<br>  一葉が電車の中で考えることは多い。それはそうであろう、彼はなにも考えずに出てきたのである。柿崎めぐに会ってみようと決めた巴との通話中でのことあったが、会ってどうするというのは、なにも考えていなかった。会う約束すらとりつけずに電車に乗りこんだのである。相手が病人なこともあって、一葉は急に不安になった。<br>  ――まあ、起きてひとと話せる状態であれば、どうにでもなるだろう。<br>  と、一葉は不安をうち消して楽観した。とにかく、彼女と会わねば話がすすまないのである。<br>  一葉の想像する柿崎めぐは、きわめて自尊の高い女性である。気丈である、と言いかえることができる。うす暗い土蔵で父も母も違う女児の面倒を見るという行為に、家の者たちが温顔をむけるはずなく、なんの人気とりにもならないそれをあえてやる名家の娘の性情は、どう考えても懦弱ではなく、柿崎めぐとは烈しい意志のもち主に違いない。善意だけでおこなえるのなら、彼女はまさに聖女である。……<br>  聖女、というところで、一葉は思わず微苦笑した。<br>  ――女童ニ会ウ、玉ノ如シ、天女ナリ。<br>  と、うかれた内容の信書を、二葉が寄越したのを思い出したのである。むろん、その玉の如き天女とは、めぐのことを言っている。それが十一年も昔の話なのだから、そうとうにうつくしい娘なのであろう。<br>  同時にこんなことも思い出した。以前、一葉が双子の女児の美貌を褒めたところ、二葉は、冗談で言っているのであれば性質がわるすぎる、本気であればここを疑う、と言って、自分の頭を指してみせた。<br>  ――なんだ、あいつのほうが、よほどどうかしているじゃないか。<br>  そういう苦笑であった。<br>  別邸に到着すると、ちょうど女中が玄関先の清掃をしているところであった。お久しぶりです、と言って一礼した女中を、しかし一葉はちっともおぼえていなかった。<br>  出むかえた初老の給仕に荷をあずけると、一葉は柿崎氏にめぐとの面会の旨、とりづぎの連絡を入れるように言いつけ、自分は二葉が寝起きしていた二階の部屋にむかった。<br>  二葉の部屋には調度品一式がきちんと置かれていたが、さすがに生活の色や香りというものは消えていた。十歳の時から足かけ十二年間すごした部屋である。一葉は最初の数年に、二三度見舞いに来たことがあるだけで、別邸での記憶はほとんどない。<br>  転居してほどなく第二次世界大戦がはじまったこともあり、二葉は疎開のかたちでここで起居しつづけた。帰京したのは終戦から三年後のことである。二葉も一葉も二十歳を超えていたが、二葉の痩身は少年期と少しも変わっておらず、再会した一葉は、そのことにずいぶんと驚いたものであった。自分と同じ豊頬は見る影もなかった。そして、二葉は今でも痩せこけている。一葉は、弟はもはや死ぬまで痩せたままではないかとさえ思っている。<br>  一葉は無聊をおぼえた。<br>  二葉が見ていた景色を見ようと、窓辺に近づいていった。陽射しが目にぶつかった。陽射しにぶつからないように壁の影に入って、ぶかっこうに切り取られた窓景色を見た。とうに暮色に染まっている。<br>  無聊をぬぐえないままずっと外を見ていると、ついに日がしずんだ。その直前に強烈な光が部屋をつらぬき、転瞬のうちに消えた。<br>  部屋が真っ暗になった。<br>  老給仕が部屋に入って来た。柿崎めぐとの面会が諒承されたことを、伝えに来たのである。ついでに電灯もつけた。<br> 「明日の十四時頃にお待ちしています」<br>  という返事であった。めぐが療養しているのは、柿崎邸ではなく、病院でもなく、邸からだいぶん離れたところにある瓦葺の平屋らしい。<br>  あれのことだろうか、と一葉は記憶をめぐらせた。ここに来る途中で、そんな家を見た気がした。一目見て、富貴の者の家であろうと思われる造りであった。<br>  一葉は、退室しようとしている老給仕に、明日の朝いちばんで花を買ってくるように言い、彼が退いて足音が聞こえなくなってから、部屋の真ん中に立って、うつむき目をつむった。<br> 「二葉よ、おまえは……」一葉は幻の二葉に話しかけた。「おまえの青春は、こんなものでよかったのか」と。<br>  そんなわけがない。幻の声はそう言った。<br> <br>  翌日のことである。<br>  一葉はめぐに会いにいった。<br>  めぐは庭に出ていた。ふだんの彼女は、一日のほとんどを畳の上ですごしている。ところが今日は、ふとんから出て、下駄履きで小さな庭を散策していた。<br>  女中に案内されて庭まで入って来た一葉に、めぐはふりかえり、にこりと笑った。頬はこけ、膚肌は蒼く、骨ばっている。しかし、よく見ると、まなじりは涼やかで、長い髪には漆を塗ったような艶があり、そこだけを見れば健常者と勘違いしそうなほどであった。<br>  ほう、と一葉は口の中で驚いた。一葉はひとの美醜にうるさいほうであろう。そのうるさい目が感動している。めぐはまだ二十歳になるまい。が、すでに円熟した芳香をもっている、と見た。<br> 「女童に会う、玉の如し、天女なり」<br>  と、一葉は二葉の信書の一文を、めぐに聞こえないように小声で言った。<br> 「このところ、とても体調がいいんですよ」<br>  先にそう言われると、一葉としては、むりに気遣って部屋にもどることをすすめるかどうか迷う。<br>  縁側がある。座りませんか、と一葉は逆にすすめられた。一葉をここまで連れて来た女中は、いつのまにかいなくなっている。茶の用意でもしているのかもしれない。<br> 「あなたのお子は、わが家におります。あなたの分家にひきとられたあと、柏葉氏にあずけられ、うちに来ました。健勝ですよ」<br>  と、一葉はめぐを見ず、庭を見てきりだした。<br> 「わたしの子じゃありませんよ」<br>  と、めぐもまた一葉を見ずに言った。一葉は彼女の横顔に視線をあわせた。<br>  ローゼンが最初に柏葉本邸にあらわれた時、彼は柿崎の分家方の紹介状を持って来ていたらしいから、ローゼンの消息については、当然この長野本家にも伝わっているはずで、あるいはローゼンはまずこちらに来たのかも知れず、どちらにせよ、めぐもあるていどの情報をすでにおさめている、と一葉は考えていたが、どうやら、そのとおりのようである。<br>  一葉はまた、<br> 「でも、妹でもない。父も母も違う」<br> 「母は同じです。血のつながりはなくても、父のつれあいであれば、みんなわたしの母です」<br>  彼女のことは大嫌いですけれど、と言って、ぺろりと舌を出した。そこには、亡母に対する敬意は少しもない。<br> 「父親のこともお嫌いでしょう」<br>  と、一葉が唇のはしをわずかにあげて言うと、めぐはくすくすと笑った。<br> 「ええ、嫌いですよ。それはもう、くびり殺してやりたいくらい」<br>  めぐはそう言って両手をくみ、こね回した。自分が生ませた子を二度も棄てた男である。その子というのは、めぐにとってかけがえのない妹なのである。最初の子はシラコであった。次に生まれた双子も身体的な異常をもっていることはあきらかで、しかし母はその異常を遠ざけ、父は去った。三人の子はいずれも両親のぬくもりにくるまれたことがない。嫌って当然であった。<br>  柿崎家は名家である。土地の実力者であり、声望がある。したがって、その三人の子にそそげる同情には限界があり、その限界を超えたところで、めぐはせいいっぱいその不遇の子を愛したと言える。<br> 「シラコの子というのは、石神井の分家にひきとられた子ですね。たしか名は、水銀燈と言いましたか」<br> 「そうです。ローゼンが付けました。でも、名前だけですよ。それに一回きり。翠星石と蒼星石は、水銀燈が名前を考えたんです。その時だって、水銀燈はまだ本家にいたのに、けっきょく彼女とは顔もあわせなかったんですから。なのに、なんで今頃……」<br>  めぐの声がしぼんでいった。<br>  一葉は無言でめぐから視線をはずし、黙ったまま思考をはじめた。<br>  ――ローゼンは、その妾女を本気で愛していたのではないか。<br>  と、思った。しかし、その愛情は女のみにむけられ、生まれた子に対しては、底の浅いところできりあげられていた。それが、女の死によって、女を投影して子にまでむけられるようになったとしたら、どうであろう。<br>  一葉は鼻哂した。そして、<br>  ――今の保護者はぼくだ。そのぼくに対してふざけたことを言った時には、思いきり蹴り飛ばしてやろう。<br>  と、めぐほどでないにしろ、いささか物騒なことを心の中でうそぶいた。<br> 「上京しませんか。ここに来て、東京のほうが医療設備がととっていますから、などと言ってさそいません。ただ、東京にも静かな場所はありますし、四人一緒に暮らせるのなら、そのほうがよいでしょう。それを援助するのはやぶさかではありません」<br>  と、一葉は言ってみた。<br>  めぐは一葉を見て笑った。大声を出して笑いたいのを、必死でこらえているというふうである。<br> 「それを本気でおっしゃってくれたら、喜んで上京しますよ」<br>  と、めぐは言い、こけた頬を撫でた。<br>  一葉は、かすかに笑ってかえすだけであった。<br>  たしかに一葉は、本気でそれを提案したわけではなかった。一葉は、めぐこそが、翠星石と蒼星石を分家にひきとらせるように言った張本人ではないか、と思いはじめていた。<br>  病に痩せたからだというのを、女はとくに見せたがらないものだ。それゆえ、めぐは、自分と親しい者を遠ざけ、その者たちの中に綺麗なままの自分を保存させ、病院の世話になってまで病を治そうとはせず、女中とふたりきりで暮らしているのではないか。<br>  一葉は、そういう想像をはたらかせたのである。その想像どおりなら、よほどのことがないかぎり、いくら上京せよと言ったところで、めぐはうべなうまい。<br> 「妹さんたちが、恋しがっている・会いたがっている、あるいはあなたを思って泣いている、と言ったら……」<br> 「ふふ。どうしましょう。逃げようかな」<br> 「どこに?」<br>  めぐは右の人さし指を立てた。指先は天上を示している。</span></p>
<p><span style="LINE-HEIGHT: 150%"><br>      六、柿崎めぐ<br> <br>  長野の柿崎氏に、めぐ、という名の娘がいる。巴が聞いた〝カキザキメグ〟のことにほかならない。彼女は病に罹り、ために余人とともに起居することができなくなった。<br>  妾が間男と姦通して生んだ子、という微妙な立場の姉妹が、柿崎家で暮らすことができていたのは、めぐの同情があったためである。すべて、彼女が都合し、世話していたことであった。が、めぐが柿崎家から出てしまった以上、あえてこのやっかいな属性の姉妹をそのまま離れに住まわせる理由がなくなった。<br>  二度の不実をはたらいた妾の女は、放逐するまでもなく神経衰弱のために邸を出て療養中にあって、とてもひきわたせる状態ではないし、間男・ローゼンはゆくえ知れずのままであった。<br>  そこで、柿崎氏は、彼女たちの姉の居候先である分家方へふたりをやろうとしたが、こちらはいったん諒承されたものの、あとになって断わられた。そして、けっきょく柏葉氏のあずかるところとなった。<br>  一年の経過があって、妾の女が死に、あらわれたローゼンが分家方に話をつけて柏葉本邸まで娘ふたりをひきとりに来た、という具合である。今までまったくゆくえ知れずだったこの男は、いったいどこで女の死を知ったのか、そういう疑問より、<br>  ――なにを今さら……。<br>  という呆れのほうが、かかわってきた人間には強かったろう。<br>  ともかくとしても、話がそのほうへまとまったのである。<br>  これが、三月のことである。同月のうちに、巴が翠星石と蒼星石とを柏葉の本邸から出して槐の店へゆかせ、彼を恃んで三田のオディールのもとへ送らしめようとしたことは、すでに述べた。<br>  当初巴は、みつに三田まで送ってもらおうと考えていた。巴や由奈の足ではそこは遠く、邸の者の目もあったからである。その点、みつはたんなる居候にすぎず、また成人女性であり、年齢的なものからくる敏慧を当てにしたわけでもあった。<br>  ところが、当日のみつはさんざんに酩酊してとても邸外へ出るどころではなく、ついには、肩をゆすって急かす由奈の胸と腹いっぱいに吐瀉物をぶちまけるというありさまであった。それで、仕方なしに、みつと縁のあった槐をたよることになったのである。<br>  一葉から電話を受け取った巴は、さすがにそこまでのことは言わなかったものの、邸での次第をだいたい説明しきった。<br>  巴と一葉は同時に息を吐いた。<br>  一葉は、自分の通話相手であるところの柏葉巴という少女が、存外に胆力に富んでいると知って、ひそかに驚き、感心し、また呆れた。豪胆というより、むこうみずというべきであろう。少女らしからぬ行動力といえばそうだが、ある意味子供だからこその行動力であるとも言えるかもしれない。<br>  これは彼女の旦那になる男は苦労しそうだな、と一葉は内心笑った。その旦那というのは、彼の甥――いかにも気の強さより優しさが勝っているあの甥だ――に違いないのである。<br>  それにしても、双子が蒸発したその日に、二葉のほうへ花見の話をもちかけてくるというのは、柏葉氏(巴の父)とは、よほどのん気なのか、あるいは娘の暴走をわかっていて見逃したのか、だとしたら、<br>  ――いやな男だ。<br>  と、一葉は、なにか気に入らぬものを感じた。<br> 「子供たちのことは、しばらくこちらであずかっておきますよ。お暇な時にでも遊びに来てください。きっと喜ぶでしょう。しかし、ローゼンについては、じっさい会ってみないことには、なんとも判断できませんな」<br>  巴の話を聞いただけでは、双子をローゼンのもとへかえしても問題ないのかどうか、一葉には判断しかねた。巴が翠星石に教えてもらったところでは、どうもカキザキメグはローゼンのことを毛嫌いしていたらしい。逃げたのはそのせいでもあろう。それに、柏葉家での評判もかんばしいものではない。<br>  が、ローゼンのひととなりがどんなものであっても、彼はふたりの肉親に違いないのである。本人がひきとると言っているのだから、一葉としては、なるべくそうなるように便宜をはかる方向で、話をもってゆきたいと思っている。<br> 「ローゼンがだめそうなら、わたしが世話しつづけますよ。正直なところ、柿崎さんもおたくも、あまり頼りになりそうにない」<br> 「おひきとりになるんですか。でも、彼女たちのお父上がなんと言うか……」<br>  と、巴が訊くと、一葉は、はは、とかるく笑って、<br> 「そのあたりは、まあ、なんとでも。どこの馬の骨ともわからん男に劣るほど、うちの家は廃れた名ではありませんから」<br>  と言った。要するにローゼンと対して面倒事があれば、権力ずくで解決するということである。<br> 「とりあえず、先にメグさんとやらと話してみようと思います。ローゼンのことはそのあと、考えましょう。ああ、言わでもないことかもしれませんが、念のため、この件は花見の席では内密に、ということでお願いします」<br>  そう言って、一葉は巴との通話をうちきった。<br>  一葉は、カキザキメグ、すなわち長野柿崎氏の一人娘・めぐのことを、たぶん知っている。昔、長野の別邸で静養中の二葉が寄越して来た信書の中に、その名が載っていたはずである。そのようなおぼえが、一葉にはかすかにあった。帰京の年のことだから、十年ほど昔のことになろう。<br>  自室にもどって、信書の束をしまっている箱をひっぱりだして読んでみると、はたして柿崎めぐの名があった。<br>  一葉は、部屋を出たところで都合よく会った二葉に声をかけて、<br> 「ぼくは病気に罹った。これから長野まで静養にゆくから、父さんにはそう伝えておいてくれ」<br>  と言った。<br> 「ご自由に」<br>  二葉の反応はにべもないもであった。二葉のつれない返事に、一葉は少しむっとした。が、それはさておいて、<br> 「あと、変な外人が来ても相手にするなよ。ほかの連中にもよく言って聞かせろ」<br> 「変な外人?」<br>  と言って、怪訝な表情をむけてきた二葉に、一葉は、<br> 「ローゼンだかなんだかという男のことだ。そいつからなにか連絡でもあったら、その時は報せてくれ」<br>  と、補足にならない補足をした。二葉はそもそもローゼンという男を知らない。名さえはじめて聞いたのだから、一葉の説明は不足もはなはだしかった。が、どの関係者であるか、だいたい想像できる。<br> 「善処するよ」<br>  と、二葉は、やはりそっけない調子でかえしたのであった。<br> <br>  一葉は、すばやく荷をまとめると、供も連れずに邸を発った。巴の電話を受けた翌日のことであり、またそのさらに次の日には柏葉本邸での花見が催されるはずで、きわどい時期での出発であった。<br>  一葉が電車の中で考えることは多い。それはそうであろう、彼はなにも考えずに出てきたのである。柿崎めぐに会ってみようと決めた巴との通話中でのことあったが、会ってどうするというのは、なにも考えていなかった。会う約束すらとりつけずに電車に乗りこんだのである。相手が病人なこともあって、一葉は急に不安になった。<br>  ――まあ、起きてひとと話せる状態であれば、どうにでもなるだろう。<br>  と、一葉は不安をうち消して楽観した。とにかく、彼女と会わねば話がすすまないのである。<br>  一葉の想像する柿崎めぐは、きわめて自尊の高い女性である。気丈である、と言いかえることができる。うす暗い土蔵で父も母も違う女児の面倒を見るという行為に、家の者たちが温顔をむけるはずなく、なんの人気とりにもならないそれをあえてやる名家の娘の性情は、どう考えても懦弱ではなく、柿崎めぐとは烈しい意志のもち主に違いない。善意だけでおこなえるのなら、彼女はまさに聖女である。……<br>  聖女、というところで、一葉は思わず微苦笑した。<br>  ――女童ニ会ウ、玉ノ如シ、天女ナリ。<br>  と、うかれた内容の信書を、二葉が寄越したのを思い出したのである。むろん、その玉の如き天女とは、めぐのことを言っている。それが十一年も昔の話なのだから、そうとうにうつくしい娘なのであろう。<br>  同時にこんなことも思い出した。以前、一葉が双子の女児の美貌を褒めたところ、二葉は、冗談で言っているのであれば性質がわるすぎる、本気であればここを疑う、と言って、自分の頭を指してみせた。<br>  ――なんだ、あいつのほうが、よほどどうかしているじゃないか。<br>  そういう苦笑であった。<br>  別邸に到着すると、ちょうど女中が玄関先の清掃をしているところであった。お久しぶりです、と言って一礼した女中を、しかし一葉はちっともおぼえていなかった。<br>  出むかえた初老の給仕に荷をあずけると、一葉は柿崎氏にめぐとの面会の旨、とりづぎの連絡を入れるように言いつけ、自分は二葉が寝起きしていた二階の部屋にむかった。<br>  二葉の部屋には調度品一式がきちんと置かれていたが、さすがに生活の色や香りというものは消えていた。十歳の時から足かけ十二年間すごした部屋である。一葉は最初の数年に、二三度見舞いに来たことがあるだけで、別邸での記憶はほとんどない。<br>  けっきょく二葉は、快復後もずるずるとここで起居しつづけ、帰京したのは終戦から三年後のことであった。帰京したのは終戦から三年後のことである。二葉も一葉も二十歳を超えていたが、二葉の痩身は少年期と少しも変わっておらず、再会した一葉は、そのことにずいぶんと驚いたものであった。自分と同じ豊頬は見る影もなかった。そして、二葉は今でも痩せこけている。一葉は、弟はもはや死ぬまで痩せたままではないかとさえ思っている。<br>  一葉は無聊をおぼえた。<br>  二葉が見ていた景色を見ようと、窓辺に近づいていった。陽射しが目にぶつかった。陽射しにぶつからないように壁の影に入って、ぶかっこうに切り取られた窓景色を見た。とうに暮色に染まっている。<br>  無聊をぬぐえないままずっと外を見ていると、ついに日がしずんだ。その直前に強烈な光が部屋をつらぬき、転瞬のうちに消えた。<br>  部屋が真っ暗になった。<br>  老給仕が部屋に入って来た。柿崎めぐとの面会が諒承されたことを、伝えに来たのである。ついでに電灯もつけた。<br> 「明日の十四時頃にお待ちしています」<br>  という返事であった。めぐが療養しているのは、柿崎邸ではなく、病院でもなく、邸からだいぶん離れたところにある瓦葺の平屋らしい。<br>  あれのことだろうか、と一葉は記憶をめぐらせた。ここに来る途中で、そんな家を見た気がした。一目見て、富貴の者の家であろうと思われる造りであった。<br>  一葉は、退室しようとしている老給仕に、明日の朝いちばんで花を買ってくるように言い、彼が退いて足音が聞こえなくなってから、部屋の真ん中に立って、うつむき目をつむった。<br> 「二葉よ、おまえは……」一葉は幻の二葉に話しかけた。「おまえの青春は、こんなものでよかったのか」と。<br>  そんなわけがない。幻の声はそう言った。<br> <br>  翌日のことである。<br>  一葉はめぐに会いにいった。<br>  めぐは庭に出ていた。ふだんの彼女は、一日のほとんどを畳の上ですごしている。ところが今日は、ふとんから出て、下駄履きで小さな庭を散策していた。<br>  女中に案内されて庭まで入って来た一葉に、めぐはふりかえり、にこりと笑った。頬はこけ、膚肌は蒼く、骨ばっている。しかし、よく見ると、まなじりは涼やかで、長い髪には漆を塗ったような艶があり、そこだけを見れば健常者と勘違いしそうなほどであった。<br>  ほう、と一葉は口の中で驚いた。一葉はひとの美醜にうるさいほうであろう。そのうるさい目が感動している。めぐはまだ二十歳になるまい。が、すでに円熟した芳香をもっている、と見た。<br> 「女童に会う、玉の如し、天女なり」<br>  と、一葉は二葉の信書の一文を、めぐに聞こえないように小声で言った。<br> 「このところ、とても体調がいいんですよ」<br>  先にそう言われると、一葉としては、むりに気遣って部屋にもどることをすすめるかどうか迷う。<br>  縁側がある。座りませんか、と一葉は逆にすすめられた。一葉をここまで連れて来た女中は、いつのまにかいなくなっている。茶の用意でもしているのかもしれない。<br> 「あなたのお子は、わが家におります。あなたの分家にひきとられたあと、柏葉氏にあずけられ、うちに来ました。健勝ですよ」<br>  と、一葉はめぐを見ず、庭を見てきりだした。<br> 「わたしの子じゃありませんよ」<br>  と、めぐもまた一葉を見ずに言った。一葉は彼女の横顔に視線をあわせた。<br>  ローゼンが最初に柏葉本邸にあらわれた時、彼は柿崎の分家方の紹介状を持って来ていたらしいから、ローゼンの消息については、当然この長野本家にも伝わっているはずで、あるいはローゼンはまずこちらに来たのかも知れず、どちらにせよ、めぐもあるていどの情報をすでにおさめている、と一葉は考えていたが、どうやら、そのとおりのようである。<br>  一葉はまた、<br> 「でも、妹でもない。父も母も違う」<br> 「母は同じです。血のつながりはなくても、父のつれあいであれば、みんなわたしの母です」<br>  彼女のことは大嫌いですけれど、と言って、ぺろりと舌を出した。そこには、亡母に対する敬意は少しもない。<br> 「父親のこともお嫌いでしょう」<br>  と、一葉が唇のはしをわずかにあげて言うと、めぐはくすくすと笑った。<br> 「ええ、嫌いですよ。それはもう、くびり殺してやりたいくらい」<br>  めぐはそう言って両手をくみ、こね回した。自分が生ませた子を二度も棄てた男である。その子というのは、めぐにとってかけがえのない妹なのである。最初の子はシラコであった。次に生まれた双子も身体的な異常をもっていることはあきらかで、しかし母はその異常を遠ざけ、父は去った。三人の子はいずれも両親のぬくもりにくるまれたことがない。嫌って当然であった。<br>  柿崎家は名家である。土地の実力者であり、声望がある。したがって、その三人の子にそそげる同情には限界があり、その限界を超えたところで、めぐはせいいっぱいその不遇の子を愛したと言える。<br> 「シラコの子というのは、石神井の分家にひきとられた子ですね。たしか名は、水銀燈と言いましたか」<br> 「そうです。ローゼンが付けました。でも、名前だけですよ。それに一回きり。翠星石と蒼星石は、水銀燈が名前を考えたんです。その時だって、水銀燈はまだ本家にいたのに、けっきょく彼女とは顔もあわせなかったんですから。なのに、なんで今頃……」<br>  めぐの声がしぼんでいった。<br>  一葉は無言でめぐから視線をはずし、黙ったまま思考をはじめた。<br>  ――ローゼンは、その妾女を本気で愛していたのではないか。<br>  と、思った。しかし、その愛情は女のみにむけられ、生まれた子に対しては、底の浅いところできりあげられていた。それが、女の死によって、女を投影して子にまでむけられるようになったとしたら、どうであろう。<br>  一葉は鼻哂した。そして、<br>  ――今の保護者はぼくだ。そのぼくに対してふざけたことを言った時には、思いきり蹴り飛ばしてやろう。<br>  と、めぐほどでないにしろ、いささか物騒なことを心の中でうそぶいた。<br> 「上京しませんか。ここに来て、東京のほうが医療設備がととっていますから、などと言ってさそいません。ただ、東京にも静かな場所はありますし、四人一緒に暮らせるのなら、そのほうがよいでしょう。それを援助するのはやぶさかではありません」<br>  と、一葉は言ってみた。<br>  めぐは一葉を見て笑った。大声を出して笑いたいのを、必死でこらえているというふうである。<br> 「それを本気でおっしゃってくれたら、喜んで上京しますよ」<br>  と、めぐは言い、こけた頬を撫でた。<br>  一葉は、かすかに笑ってかえすだけであった。<br>  たしかに一葉は、本気でそれを提案したわけではなかった。一葉は、めぐこそが、翠星石と蒼星石を分家にひきとらせるように言った張本人ではないか、と思いはじめていた。<br>  病に痩せたからだというのを、女はとくに見せたがらないものだ。それゆえ、めぐは、自分と親しい者を遠ざけ、その者たちの中に綺麗なままの自分を保存させ、病院の世話になってまで病を治そうとはせず、女中とふたりきりで暮らしているのではないか。<br>  一葉は、そういう想像をはたらかせたのである。その想像どおりなら、よほどのことがないかぎり、いくら上京せよと言ったところで、めぐはうべなうまい。<br> 「妹さんたちが、恋しがっている・会いたがっている、あるいはあなたを思って泣いている、と言ったら……」<br> 「ふふ。どうしましょう。逃げようかな」<br> 「どこに?」<br>  めぐは右の人さし指を立てた。指先は天上を示している。</span></p>

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