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『電車を待ちながら』」(2007/05/31 (木) 21:22:15) の最新版変更点

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<p><br /> 『電車を待ちながら』<br /> <br />  春が立って最初の休日である。<br />  駅のホームのベンチに座っている柏葉巴は、冷えた駅のホームに寒さを吐き<br /> 出した。吐く息の白さが、立春を過ぎたと言いじょう今はまだ冬なのだと、巴に教<br /> えているようだった。<br />  巴はひとりで電車を待っているのではない。連れがいる。桑田由奈という。同じ<br /> 中学のクラスメイトで、巴ともっとも仲の良い友人である。彼女はベンチのすぐ横<br /> の自販機で、ホットドリンクを物色しているところだった。コーヒーか、ココアか、あ<br /> るいは巴と同じコーンスープか、ということを、彼女は悩んでいるらしかった。<br />  時々風が起こって巴の耳をつんざく以外は、いたって静かなホームだった。少<br /> し視線をずらすだけで、中途半端に切り取られた空が見える。そうした時に見え<br /> る空は、冬の空のようであり、また春の空のようでもあった。<br />  巴は、腿のあいだにうめるかっこうで持っていたスチール缶の口から、コーンス<br /> ープを飲んだ。由奈がただ今目前にしている自販機ではなく、改札口前の自販<br /> 機で買ったものである。<br />  由奈がもどって来た。いかにも熱そうな感じに、ホットコーヒーの缶のふちを二<br /> 本の指で持っている。<br />  巴は由奈を見るついでに、そこから少し視線を上げ、屋根から吊り下げられて<br /> いる時計で時刻を確認した。<br /> 「あと、一二分か、一三分くらい」<br /> 「けっこうあるのね」<br />  と、由奈も時計を見て言い、ベンチに座った。プルタブを開け、小さな口へ何度<br /> か息を吹きかけると、少しだけ飲んだ。それから、大きなため息を一つ吐いた。あ<br /> と一〇分強のあいだ、この寒気の中でじっとして電車を待っていなければならな<br /> い。<br /> 「また、遅くまでしていたんでしょう」<br />  と、由奈は巴に言った。巴が視線を移して来たので、自分の目をそれに合わ<br /> せ、<br /> 「受験勉強。さっきから、すごく眠そうにしているから」<br />  と言った。巴は、自分では気づかなかったが、先ほどから頻繁にあくびをしてい<br /> る。由奈はそのことを指摘した。自分の持っているコーヒー缶を差し出し、これで<br /> も飲んで眠気を覚ましたら? そういうふうに言った。巴はにべもなく断わった。<br /> 由奈は肩をすくめた。<br /> 「まだ、二年なのに」<br /> 「もう二年だから。というより、もうすぐ三年でしょう」<br />  と、巴は言った。<br /> 「遊びに行く前日くらい、早く眠ればいいのに&hellip;&hellip;」<br />  と、由奈はぼやいた。今の時期から、このようにして時間を詰め・身を追い詰め<br /> ていては、そのうち身がもたなくなるのではないかと思う。来年度の夏頃から受<br /> 験勉強をはじめ、それで通る程度の高校を受けるつもりでいる由奈としては、巴<br /> の在り方は、ちょっと理解のとどかないところにあった。<br />  巴は剣道部に所属していた。部では期待されていた方の部員だった。由奈の<br /> 憶えているかぎりでは、巴はひじょうに熱心に部活動に参加していた。だのに、<br /> 今年の夏、突然やめてしまった。<br />  由奈は時々、巴の部活をのぞきにいった。剣道をしている時の巴が好きだった。<br /> それだけに、残念でならなかった。<br />  巴からすれば、悩みに悩んだ末にようやく決断したことであって、突然でもなん<br /> でもなかったが、誰にも相談せずに実行したものだから、周囲の者には、やはり<br /> 突然のことに思えた。<br /> 「柏葉さん、頭がいいんだから、そんなに根詰めてやらなくても、だいじょうぶだと<br /> 思うんだけれど」<br />  と、由奈は言った。巴の志望校は進学校に違いなかったが、彼女ほどの優等<br /> 生であれば、多少気を抜いても、余裕をもって合格できる程度の高校と思われ<br /> た。<br />  しかし、巴は、<br /> 「まだ、全然足りない」<br />  と、言う。<br /> 「そうかな」<br /> 「うん、そう」<br />  こんなやりとりを、もう何度くりかえしたのか、わからない。<br /> 「そうかな」<br />  と、由奈はもう一度言った。巴はそれには言葉をかえさなかった。<br /> 「なんとなくなんだけれどね、柏葉さんって、一所懸命がんばりすぎて、かんじん<br /> の当日に風邪とかこじらせちゃうタイプだと思うの」<br />  と、由奈は言い、くすりと笑った。つられて巴も笑った。そのとおりだろう。由奈<br /> の言ったことは、巴にはずいぶんと身に憶えのあることだった。<br /> 「休んだほうがいいよ」<br />  と、由奈は言った。巴は笑ったまま、ゆるゆると首を振り、<br /> 「でも、わたしは、休んだら、たぶんもっとだめになる」<br />  と言った。この言い方は由奈には不快だった。遊びに誘ったのは由奈である。<br /> しかし、由奈はなにも言わなかった。巴も嫌味でそう言ったのではないとわかりき<br /> っていた。たとえそうであっても、嫌味に嫌味をかえすのは、あまりに無粋だろ<br /> う。<br />  それにしても、<br />  ――どうしてこう、なにかにつけて、自信がないんだろう。<br />  と、由奈はつねづね思う。べつにそれを嫌っているわけでも、疎んじているわけ<br /> でもなかったが、しかし、ふしぎに感じていた。<br />  由奈はどちらかと言えば顕揚欲のつよい性格だろう。自己を虚しくできる巴の<br /> 性格は、由奈の鋭さと衝突せずにすんだ。うまい具合に互いの美点をつきあわ<br /> せ、欠点を隠しながら、ふたりは今の良好な関係を得ている。<br />  が、けっきょくのところ、由奈は、巴の自己不信を含んだ謙虚さを愛しているの<br /> である。巴も巴で、由奈の陽気な自己顕揚を愛しているのだった。<br /> 「今日一日くらいは、いいでしょう」<br />  由奈がそう言って、<br /> 「うん」<br />  巴がそうかえして、ふたりはそれきり会話をしなくなった。<br />  いつか、ホームにはひとが増えていた。巴と由奈以外にも、四、五人はいるよう<br /> である。ひとが増えると会話する気になれないのは、巴と由奈に共通しているこ<br /> とだった。<br />  スチール缶の口から立ち上る湯気は、逐次消えていった。由奈のそれは飲み<br /> きってしまったからで、巴のそれは冷えたためである。<br />  ベンチに座ったまま静かに電車の到着を待つふたりに、時間の流れは、ひどく<br /> ゆったりとした・長い・遠いものに感じられた。一〇分強とは、はたしてこれほどの<br /> 長時間だったかと思うくらいだった。<br />  巴は熱を失ったスープを飲みきった。口から少しコーンが見える。缶を持ち上げ<br /> て、さらに目をこらすと、底のほうにも、けっこうな量が残っているようだった。<br /> 「指なんて入れちゃだめよ。舌も」<br />  と、由奈がからかうような言い方で言ってきた。巴は、ふっと笑って、缶を持って<br /> いた手を下ろした。そんな品のないことをする気はちょっともなかったが、そう言<br /> われてはじめて、巴は缶に残っているコーンに、わずかながらも未練をもった。<br />  ようやくにして、待っていた電車が、けたたましい音を鳴らしながらやって来た。<br /> 巴たちを繁華街まで乗せてゆく電車である。視認して、じっさいにホームまで入っ<br /> て来るまでの時間は、一二、三分ではきかないほど長く感じられた。巴と由奈は<br /> じれた。<br />  電車がホームに入って来た。空気の抜ける音がして、ドアが開かれた。<br />  巴は由奈に肩を押された。つよい力は込められておらず、押すというより、撫で<br /> るような手つきだった。なんにせよ、そのために巴は由奈より先に乗車することに<br /> なった。<br />  車内は暖房がよく効いていた。すぐにその暖かさが、ふたりの冷えた体にかよ<br /> ってきた。<br />  座席を確保して一息吐いたところで、巴は、となりに座る由奈の顔をうかがった。<br /> 妙なことをすると思ったからである。<br />  それについては、由奈も同感だった。どうして自分がそんなことをしたのか、考<br /> えてもわからなかった。なんらかの意図を込めた気がするが、なんの意図もなく<br /> やったことのような気もした。<br /> 「んん、たぶん、なんとなく」<br />  と、由奈は言った。由奈はもうそれ以上そのことを聞かれたくないのか、巴とは<br /> 反対の方向へ首を回して、肩口に車窓を見た。電車はまだ出ていない。車窓か<br /> らはホームが見える。<br /> 「ね、桑田さん」<br />  と、巴は由奈に声をかけた。声が由奈の背にふれると、彼女は巴をふりかえっ<br /> た。<br /> 「今日は、思いっきり気を抜こうと思う」<br />  と、巴は少しも表情をうごかさずに言った。<br /> 「うん、それがいい」<br />  と、由奈は巴に言った。<br /> 「今日だけじゃなくて――」<br /> 「うん」<br /> 「時々、そうする」<br />  と、巴は言った。ずいぶんと急な心変わりだった。<br /> 「どうしてまた、急にそんな気になったの」<br /> 「なんとなく」<br />  と、巴は答えた。<br /> 「なんとなく、で気を抜いちゃうんだ」<br />  由奈はほのかに笑った。<br /> 「そう、なんとなくで、決めちゃった」<br />  と、巴も笑って言った。<br />  巴は由奈から目をそらせた。由奈の顔を見たくなかったからである。巴はにわ<br /> かにそういう気になってしまった。理由は判然としないが、おそらくは羞恥の気持<br /> ちから、目をそらせたのだろうと思われた。<br />  なんとなく、と巴は由奈に言った。なんとなく、休んだところで、どこまでもだめに<br /> なることはない。前進しないが、後退もしないだろう、と。<br />  暖房と、羞恥と、肩にのこる由奈の手の感触で、やたらと熱っぽくなった心が言<br /> わせたことだった。<br /> <br /> <br /> <br />  おしまい。</p>

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