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『山桜の下で・・・』」(2007/04/26 (木) 01:14:09) の最新版変更点

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その山桜は一本だけ、周囲の緑に溶け込みながら、ひっそりと咲き誇っていた。 満開の白い花と赤褐色の新芽に染まる枝を、私はただ、茫然と見上げているだけ。 時折、思い出したように花弁が降ってくる。青空との色合いが、とっても良い。 いつもなら、衝動的にスケッチブックを開いて、ペンを走らせているところだ。 でも、今は何も持っていない。持っていたとしても、描く気が湧かなかった。 そのときの私は、小学校低学年くらいの小さな女の子で―― どうしてなのか思い出せないけれど、泣いていた。 『…………』 ふと、誰かが私の名前を呼んだ。男の子と、女の子の声。 二人の声が重なって、なんだか奇妙な余韻を、私の胸に刻みつけた。 だぁれ? 止まっていた私のココロが、静かに動きだす。 身体を揺さぶられる感覚。そして―― 気付けば、レールの継ぎ目を踏む車輪の音が、規則正しく私の耳を叩いていた。 うたた寝してたらしい。俯いたまま列車に揺られていたせいか、首が痛い。 それに、なんだか変な夢を見ていたせいで、寝覚めも良くなかった。 汗でまとわりつく後ろ髪を掻き上げたついでに、首の後ろを揉みほぐすと、 いくらか、凝り固まっていた痛みと眠気は和らいだ。 いま、私は何年かぶりで、故郷に帰ろうとしている。 高校を卒業して以来だから、もう十年近く離れていた計算だ。 遠く眺める山並みは、あの頃のまま……時の流れを忘れてしまったみたい。 でも、よく見れば僅かずつ、私の知らない顔を見せ始めていた。 こんなにも長く帰郷しなかったのには、理由がある。 都会の美術大に進んだ私は、そこで雪華綺晶という女の子と出会い、意気投合した。 大学卒業後、彼女の熱心な誘いに負けて、絵を描きながら世界中を回る旅に出たのだ。 多くの都市、様々な景色、たくさんの人々―― 何もかもが初めて見るモノばかりで。刺激にまみれた日々ばかりで。 旅費を稼ぐために絵を売ったり、アルバイトしたり、辛いコトもあったけど、 それでも私たちの創作意欲は、そんな苦労すらも燃料にしていた。 そして、ふと気付けば、こんなにも時間が過ぎて…… 異常なまでの孤独感と郷愁に駆られ、ぼんやり車窓を眺めている自分が居た。 行き詰まって、燃えカスみたいになった、私が。 列車を降りて、駅の改札を出ると、4月の穏やかな日射しが満ち溢れていた。 思いっ切り吸い込んだ空気の匂いが、スッと身体に馴染んでくる。 ああ、やっぱり。すぐに、そう思った。 どれだけ世界中を渡り歩いてても、私の帰る場所は、ここしか無いのね……と。 飾りっ気のないデイバッグを肩に下げて、かつて友人たちと歩いた道を辿る。 なんだか街が縮んだように見えるのは、目の錯覚なのかな。 それとも、世界の広さを体感して、精神面で成長したため? ただ単に身体が大きくなっただけ……なんてオチは、勘弁してほしい。 私だって、子供のまま歳を取ってるワケじゃないんだから。 駅前の商店街を懐かしく眺めながら、住宅街に脚を向ける。 (お父さん、お母さん、元気なのかなぁ?) 実家への道すがら、久しく会ってない両親を想う。 お父さんはフランス人。お母さんは日本人。私が三歳の頃、この街に移り住んだ。 この通信手段の発達した時代に、たまの絵葉書でしか息災を告げなかった放蕩娘が、 事前の連絡もなく、ふらりと帰ってきたら……まず最初に、怒るよね。うん、絶対。 背後から呼び止められたのは、そんな風に気後れして、歩が鈍った時だった。 「ひょっとして…………雛苺じゃないのか?」 「うよ?」 いつもの口癖と共に振り返った先には、ツンツン頭で、メガネをかけた青年の姿。 その、どこかオドオドした風情が、記憶を検索するキーワードとなり、 私は三秒の後に、彼のことを思いだしていた。 子供の頃から、ずっと親しくしてきた男の子のことを。 「あっ! あぁーっ! もしかして、ジュン? ジュンなの?」 「……やっぱりな。その髪とリボンを見てさ、もしやと思ったんだ。  懐かしいなぁ、高校以来か。ずっと海外に行ってたんだろ? そう聞いてるよ」 「うん。今までロクに連絡もしないで、ごめんなさいなの」 「別にいいよ。僕たちは、幼なじみってだけだし。  とりあえず、久々にお前の元気な顔を見られて、良かったよ」 彼の中には、いまだに幼なじみの私しか居ない。 それは至って当然のことだし、虫がいいのも解ってるけど……やっぱり寂しいの。 今からでも、あの頃の続きを、始められたらいいのに。 逢えなかった時間の分だけ、いっぱいお話しして、いっぱい触れ合いたい。 そんな熱望が胸の奥から溢れてきて、溺れてしまいそうになる。 「ジュンも、元気そうなのね。それに、あんまり変わってないの。  こんなこと言える義理じゃないけど、安心したのよ」 他愛ない社交辞令を口にしつつ、知らず、彼の左手を盗み見ていた。 そして、薬指に填められた指輪を目にしてしまって…… 胸の疼きと、後悔の念を覚えた。 (結婚……したのね) 高校の頃、彼には私を含めて仲のいいガールフレンドが、たくさん居た。 もう適齢期だし、ジュンが家庭を持っていたって、何の不思議もない。 そう。至って普通のコト。アタマでは理解できるのに、どうも面白くない。 なんだか裏切られたような気持ちで、胸がチクチク痛かった。 相手は、誰なのかな? 彼と話をしながら、浮かべた笑顔の裏で、そればかり気になってしまう。 真紅? 巴? 銀ちゃん? 翠ちゃんかな? 案外、蒼ちゃんとか。 金糸雀や、薔薇しーって線も濃厚だし。もっと他の娘ってコトも―― 「おい、どうしたんだ? ボケーっとして」 「えっ? ちゃ……あぅ~」 ついつい、取り留めない詮索に、没頭していたらしい。 意味もなく、あたふた狼狽えた私を、ジュンは気遣ってくれた。 「長旅で疲れてるんじゃないのか? 良かったら、ウチに寄って休んでけよ」 ジュンの家に行けば、必然的に、彼の奥さんと顔を突き合わせるコトになる。 もしかしたら、子供も何人か、居るかも知れない。 私が持っていない幸せを享受している家族の前で、私は平然と笑っていられるの? かつての級友同士が、仲睦まじく寄り添う様を見て、嫉妬せずにいられる? 私は……そこまで【大人】を演じきれる? 事実を知るのは、怖い。自分の本性と向き合うのは、もっと恐い。 でも、幼稚で浅はかな興味はいつだって、足場の悪い道を選ばせる。 ――結局、私はジュンのお誘いを受けていた。 もしかしたら、現実を目の当たりにして、傷つきたかったのかも知れない。 その傷を引き裂いて、胸に蟠る未練を、えぐり出してしまいたくて。 郷愁なんて口実。過去にケジメをつけるコトこそが、帰省したホントの理由……。 久方ぶりに見るジュンの実家は、以前より薄汚れて、寂れた感があった。 私が僅かに眉を顰めたのを、見て取ったのだろう。ジュンは言った。 「姉ちゃんが嫁に行ってからさ、なかなか手入れが行き届かなくって」 「のりさん、結婚したの?」 「もう5年くらいかな。別の街で、ダンナと子供に囲まれて暮らしてるよ」 「…………ジュンも?」 「ん? なんだよ、『僕も』って」 「ジュンも、この家で誰かと一緒に暮らしてるの?」 そう訊ねた途端、彼の表情が僅かに曇るのを、私は見逃さなかった。 ひょっとして、聞いちゃいけないコトだったのかな? 悪い想像をしようと思えば、いくらだって膨らませられる。 たとえば、奥さんと離婚したとか…… もっと悪いことに、出産の際、難産で母子共に亡くなったとか。 どうあれ、いきなり立ち入ったコトを訊いたのは、礼儀を欠いていただろう。 謝ろうとした私に先んじて、ジュンが言い辛そうに口を開いた。 「いや……実は、独り暮らしでさ」 私の方を見ようともせず、彼はモゴモゴと口の中で話し続ける。 「カッコ悪いよな。この歳まで独身なんて」 「どうして?」 本気で解らない。なぜ、そんな小さいメンツに拘っているの? いつ結婚するかなんて、人それぞれ。人生に杓子定規なんて無いのに。 「ヒナだって、まだ独身なのよ?」 「いや、だけどさ……男と女じゃ、やっぱり周囲の見る目が違うよ」 「そんな風に、悪い方へ悪い方へ考えるのは、ジュンの悪い癖なの。  昔っから、そうだわ。周りの人の眼を気にし過ぎて、鬱ぎ込んでしまうの」 「……悪かったな。性格なんだよ」 性格だから、で片づけてしまうのは、違うと思う。 ジュンはただ、自分に自信が持てないだけ。 本当は素晴らしい才能を秘めているのに、表現するのが下手なだけ。 私は、ちゃーんと、それを知ってるのよ? だって――いつも、ジュンを見つめてきたんだもの。 だらりと下げられた彼の手に、そっと指を絡ませて……しっかりと握った。 ジュンが目を真ん丸にして、こっちを見たけど、キニシナイ。 「ねえ、ジュン。お茶するなら、お外でするのっ!」 「お、おい。外でって、どこ行くんだよ」 「それは着いてのお楽しみなのよー」 言って、グイグイ手を引っ張る。 彼は小さな吐息を漏らして「ま、いいか」と、おとなしく着いてきた。 こういうところも、昔っから全然、変わらないのね。 強引な相手には、ペースを乱されて自分らしさを出せないの。 そんな、不器用で繊細な貴方だから、私は―― 途中、コンビニでペットボトルのお茶と、ちょっとしたお菓子を買った。 イチゴ大福は必需品。新鮮フルーツのイチゴも売ってたから、迷わずゲット。 気温が20度近い暖かさなので、カップアイスもお持ち帰りぃ~。 もちろん、アンマァ~なストロベリー味なのよ♪ それらを手に、私はジュンの腕を引いて、ウキウキと郊外の山を目指した。 何故って? そこに、子供の頃よく行ったヒミツの場所が在るからよ。 今の時期なら、きっとステキな思い出になるに違いない。 「お前、あそこに行こうとしてるのか?」 「さっすがジュンなの~。よく分かってるのよ」 「そりゃあ、子供の時分には、よく遊びに行ってたからな。  お前は極度の泣き虫だったよな。いつも、あの場所でイジケてたっけ」 「だって、引っ越してきたばっかりで、友達も少なかったし……。  でも、ジュンはいつも来てくれて、慰めてくれたの。とっても嬉しかったのよ」 「たまたま僕が行くときに限って、お前が先に居ただけだろ」 ぶっきらぼうに吐き出された声に滲む、微かな照れ隠し。 二人っきりの時くらい、強がらなくたって良いのに。ホント、ひねくれてるのよ。 なだらかな勾配に設けられた、緩やかな登山道を辿り、 途中でロープを張っただけの柵を踏み越え、獣道へと分け入る。 広がる藪は深くて、子供の頃は、よくスイスイ通り抜けられたものだと感心した。 身体が小さかったから、トンネル状になった根元を、潜っていけたのかもね。 茂みに悪戦苦闘しながら、私たちは思い出の場所へと向かった。 もう、そろそろ着くハズ……と思った直後、目の前がパッと開けて―― 大きな山桜の木が、満開の白い花と赤褐色の新芽で飾られていた。 周囲が新緑一色に染まる中で、そこだけが別世界。 白と紅のコントラストは、子供のとき、見上げた光景そのままに。 それとも本当に、あの頃から時間が止まっているのだろうか。 「やあ、今年も見事に咲いてるな」 額に汗を滲ませ、肩で息してるのに、ジュンは微笑みを浮かべた。 そんな彼の、ちょっとした心遣いに応えるために、私も笑った。 「久しぶりの再会だもん。ここで、ジュンとお花見したかったの」 「いいねえ。高校を卒業するまでは、僕らの恒例行事だったもんな」 そう。ジュンと私は毎年、この時期になると二人きりで、ここを訪れていた。 不思議なコトだけど、地元の人でも、この山桜を知る者は少ない。 だから、滅多に邪魔は入らなかった。思う存分、二人だけの時間を満喫できたの。 「とりあえず、座ろうか」 「うんっ!」 木の根元にコンビニのレジ袋を敷いて、私たちは腰を降ろした。 私も結構な汗を掻いていたから、ちょっと自分のニオイが気になる。 そんな心配を余所に、ジュンは以前と変わらず、私の髪を優しく撫でて…… 徐に、肩を抱き寄せてくれた。懐かしい彼の手の温もりに、背筋がゾクッとする。 だけど――ついさっきまで、この温もりを感じてた気もするのは、何故なの? 「アイス、溶けない内に食おうぜ」 「そうね。あはっ♪ いっただきまーす、なの~」 「……相変わらず、子供っぽいよな、お前って」 「いいんだもん。ジュンと、こうしている時だけは、あの頃の続きだから」 「あの頃の続き……か。そうだな。それも良いか」 童心に還ってアイスを舐めながら、風に揺れる白い花の残像に酔う。 二人、黙ったまま。たまに舞い落ちてくる花弁の軌跡を目で追いながら、 気付けば、すっかりアイスを食べ尽くしていた。 「うゆ。もう無くなっちゃったの」 「そりゃ、こんな小さいカップじゃ当然だろ。ほら」 と、ジュンはペットボトルを差し出してくれる。 受け取った私は、口に残る甘味をお茶で洗い流して、また、山桜の枝を見上げた。 同じ仕種をなぞる彼の横顔に、私は本来の目的を訊ねてみた。 「ねぇ……ジュンは、憶えてる? あの日のコト」 「なんだ、それ?」 「忘れちゃったの? ヒドイのよ……約束したのにぃ~」 「したっけ? どんな約束だ?」 高校を卒業する日に交わした、あまりにもベタで、幼すぎる口約束。 この歳で、それを言うのは、ちょっと度胸が要る。 喉元まで出かかっているのに、言葉が詰まって、やけに息苦しい。 喘ぐように「その」「あの」を繰り返すのが、やっと。 「なんだよ、ハッキリしないなぁ」 しかも、ジュンが苛立ったような声を出すから、余計に言い辛くなって、 私は口ごもったまま、瞼を熱くすることしか出来なかった。 ――でも、これでいいのかも知れない。 こうしてジュンと再会できただけで……話が出来ただけでも、充分だもの。 「……ううん。やっぱり、いいの。何でもないのよ」 青春の、ほんのり甘い想い出は、この胸にしまっておけばいい。 無理矢理、笑った。自分に言い聞かせるように、私は「何でもないの」と繰り返した。 「そうか」と返される彼の声が、なんだか残念そうに聞こえたのは、気のせい? 彼と眼を合わせるのが辛くて、私は顔を背け、お茶を飲むフリをした。 ジュンはジュンで、なにやら脇でゴソゴソしている。 きっと、私と同じくバツが悪くなって、お茶を飲んでいるのだろう。 ぽーっと、風に揺れる白い花を見上げていた私の視界を、彼の手が、徐に遮った。 意表を突かれて、ちょっと顎を引く。彼は指先に、ナニか摘んでいた。 よく見れば、それはジュンがさっきまで填めていた指輪だった。 「これ、さ……お前にやるよ」 「うゆ?」 「その……アレだ。一応、約束……だったからな」 ここに至って、やっと事態が把握できた。からかわれていたのだ、と。 「ひ、ヒドイのっ! ちゃんと憶えてたクセに、しらばっくれてたのね!  しかも、ワザと思わせぶりに指輪を填めて、ヒナに誤解させるなんて悪質なのよっ!  バカバカっ! ジュンのバカぁっ!」 「すまんすまん。トボケたのは悪かったよ」 「ふーんだ!」 謝られたって、許せるコトと、そうでないコトがある。 今度の場合は後者。ぜーったいに許せない。 私が、どんな気持ちで帰ってきたかも知らないで、意地悪するなんて酷すぎる。 さて、この怒りを鎮めるために、どんな仕返しをしてやろうか。 あれこれ画策していたから、暫しの間、注意が散漫になった。 そんな時に、いきなり手を掴まれ、ビックリするあまり頭の中が真っ白に―― 数秒が経って我に返ると、私の左手の薬指には、指輪が填められていた。 ソレは春の日射しを受けて、刺さるほど目映い輝きを放っている。 見つめる先で、その煌めきは水の膜に包まれたように、ボヤけていく。 指輪が、よく見えない。そう思ったのと同時、ジュンが溜息混じりに言った。 「お前、なにボロボロ泣いてんだよ。子供じゃあるまいし」 「だって…………ジュンが……ジュンがぁ……」 「あー、はいはい。僕が悪かったから、もう泣くなって」 鼻白んだような口振りだけど、彼の表情は、優しい笑みを湛えている。 だから、せめてもの意趣返しに、私も彼の真似をした。 「ジュンなんか、大っ嫌いなのっ!」 口では、ココロにもない悪態を。仕種は、ココロの望むまま……素直に。 泣きながら、私は彼の腕の中に飛び込んだ。「ジュンのバカぁ~」 そして、ジュンの胸に濡れた頬を擦りつけ、泣き続けた。 彼はただ無言で、私の丸めた背中を、温かい手で撫でてくれた。とても優しく、愛おしげに。 かなり長いこと、ジュンの腕に抱かれながら泣いていた……と思う。 なんだか感情がぐちゃぐちゃで、いろんなコトが、よく解らない。 唯一、ハッキリ解るのは、今もジュンの温もりを感じてる、という事実だけ。 「なんで――」私は、泣き腫らした瞼を見られたくなくて、顔を伏せたまま訊いた。 「ジュンは左手の薬指なんかに、指輪を填めてたの?」 「なんで……って。うん…………ちょっとばかり、見栄を張ってたかも。  けど、それだけじゃないんだからな」 「じゃあ、なんなの?」 「ソレを渡したい女の子が居たんだけど、その子はずっと、外国に行っててさ。  だから、彼女が帰ってくるまで、無くさないように肌身離さず持ってたんだよ」 「……それなら、わざわざ左手の薬指じゃなくても良いのよ?」 「だから、そこは世間体とか……だぁーっ! どうでもいいだろ、もうっ!」 あーあ、ヘソ曲げちゃった。ちょっと、からかい過ぎたかな。 「もぉー、怒っちゃイヤなの。大きな声を出さないで。  ヒナはね、ジュンが約束を憶えててくれたコトが、とっても嬉しいのよ」 正直、何年も前の口約束を、律儀に守ってくれるなんて期待してなかった。 忘れられてても仕方ない。そんな覚悟でいたのに。 彼が独身を貫いているのも、ひょっとして、私との約束を果たすために――? 私で……いいの? 貴方を信じても、いいのね? 顔を上げて、目で訴えかけると、ジュンは赤面して、そっぽを向いてしまった。 「どうでもいいと思ってる子との約束なら……守ったりしないんだからな」 また、持って回った言い方をしてくれる。 ジュンらしいと言えば、まあ、そうなんだけど…… 女の子としては、やっぱり素直なひと言が欲しいのよ。ひと言だけでいいの。 変に飾り立てた言葉は、却って本音の気持ちが見えなくて、戸惑ってしまうから。 ここは、ひとつ……こっちからアプローチしてみよう。 「ヒナはいつだって、ジュンのことを見つめてきたわ。ずっと、大好きだったのよ♪  ジュンも、ヒナと同じ気持ち? ヒナだけを見つめてくれる?」 「…………まぁ、な」 「ぶー。それじゃダメなの~。ちゃんと言って」 「……き……だよ」 「もぉ~、声が小さいのよー」 「だっ……大好きだよっ! 何度も言わせんなっ!」 また拗ねちゃった。まったく、どっちが子供っぽいのやら。 でもまあ、少しくらいダメな男の子の方が、気になるものなのよね。 母性をくすぐるというか。面倒みてあげなきゃ……って気持ちになるから。 私は、すっかり買ったことを忘れていた新鮮フルーツのイチゴを手にした。 「すぐカッとしないの。機嫌なおして、一緒にイチゴ食べよ? あーんして」 ジュンが躊躇いがちに口を開いた拍子に、ホイ! とイチゴを放り込む。 彼はモゴモゴ頬張って、ちょっと酸っぱかったのか、目を窄めた。 「うん……そこそこ甘くて、美味いよ。それじゃあ、今度は僕が――」 言って、ジュンはイチゴを摘んで、私の口元に差し出す。 まあ、このまま食べてもいいんだけど……もうちょっと刺激が欲しいかも。 私はやや上目遣いに、挑発的な微笑みを浮かべて、下唇を指でひと撫でした。 「ヒナにはぁ~、口移しで食べさせて?」 「はぁ?! ばっ……バカじゃないか?! そんなこと出来るかっ!」 途端に、ジュンはイチゴみたいに真っ赤になって、狼狽える。 そんなに恥ずかしがられると、こっちまで恥ずかしくなるのよ。 「ダメなの~?」 「う……って言うか……して……みたい……けど……でも……ううぅ……  うが――っ! ダメだダメだっ! 色即是空っ、煩悩退散っ、ドーマンセーマンっ」 「も~! なんでなのー。誰も見てないのよ? ね、1回だけ。1回だけ~」 怒濤の駄々コネ攻撃で押しまくる。とにかく、イヤと言わせる隙を与えちゃダメ。 ペースさえ握ってしまえば、こっちのもの。あとは野となれ山となれなのっ! 「…………1回だけ……だからな」 そして、私の策略どおり、押しに弱いジュンは陥落した。 小粒のイチゴを唇で挟むと、「んっ」と突き出す。涙目で、すごく情けない顔してる。 貴方は、餌を運んできた親鳥。私は、餌をねだるヒナ。 「やん……そんなに見つめられてたら、食べにくいのよ?」 彼が、目を閉ざす。それを確かめて、私も瞼を細めながら、顔を近付けてゆく。 彼の吐息を感じて、唇にイチゴが触れた瞬間、私も完全に目を閉じた。 そのまま、紅い果実を啄みながら、もっと近付いて―― 二人の唇が、初めて重ねられようとした矢先、無粋な妨害が入った。 「ヒナっ! 起きろよ。ヒナってば!」 「あらあらぁ、ヒナちゃんったらぁ」 私の名を呼ぶ、男の子と女の子の声。揺さぶられる感覚。 デジャビュ。この展開は、どこかで……。 思い出そうとするのに、誰かが私の身体を激しく揺らすから、気が散ってしまう。 「ダメよぅ、こんなところでお昼寝してちゃあ」 こんな間延びした喋り方をする人に、憶えがあった。 瞼を開くと……真ん丸メガネの女の子が、私の肩を掴んで揺すっていた。 その横には、いたいけな男の子の姿。彼らの背後には、満開の山桜―― 「……のりねーちゃん……ジュン」 二人の名前を呼ぶ私の口調は、舌足らず。 私たちは三人とも、同じ幼稚園のスモックを着ていた。 「ヒナ。おまえ、きょうも、すいせーせきに泣かされてただろ」 「それで、ここに来て泣いてるうちに、疲れて寝ちゃったのねぇ?」 「うゅ……」 今までのは、すべて夢だったの? どうも、そういうコトらしい。 ごしごしと手の甲で擦った瞼は、ちょっとだけ腫れぼったくて、痛かった。 ジュンの言うように、虐められて、泣きながらここまで走ってきたみたい。 あんまり、よく憶えてないんだけど―― 「さぁ。もう夕方だし、寒くなってきたから帰りましょうねぇ」 「おまえんちのママも、きっと心配してるぞ。ほら、立てるか?」 「……ん。へーきなの。えへへぇ……」 のりねーちゃんとジュンは、私の手を握って、起こしてくれた。 それが何故か、無性に嬉しくって、自然と笑顔が浮かんでくる。 「ねえねえ、ジュン~」 「ん? なんだよー」 「あのね、ヒナがおっきくなったらね、ヒナと『けっこんしき』して?」 「……やだよ。おまえ、泣き虫だし、チビだし、うにゅーキチガイだし」 私が泣きそうな顔をした途端、のりねーちゃんがジュンを叱ってくれた。 「こら! ダメよぅ、ジュンくん。女の子に、ヒドイこと言っちゃあ」 「ちぇっ。うるさいなぁ……わかったよ。僕のおよめさんにしてやるよっ」 「ほんとっ? わー♪ ヒナ、はやく、おっきくなりたいの~」 なんてことない、無邪気な口約束。 でも、この約束を思い出すコトが、私にとって2番目に嬉しい時間となった。 1番? それはモチロン『うにゅー』を食べてる時間なのよ。 私たちは手を繋いで、夕暮れの中、楽しくお喋りしながら家路に就く。 さっきまで見ていた夢のコトは、もう――思い出しもしなかった。  【エピローグ】 暮れなずむ街へと遠ざかる、三つの影。その後ろで、山桜の枝が風に揺れる。 ざわざわ……。葉擦れは、声ならぬ声で囁かれた別れの詞。   さようなら。おマセな、おチビさん。   お望みどおりの、楽しい夢は見られましたか? 夜の訪れ。白々した月明かりが、夜陰の中、山桜の巨木を浮かび上がらせる。 冷えてきた夜風が揺らす枝に――花の色と同じ、白い人影が、ひとつ。 それは、長い長い髪を靡かせた、隻眼の乙女だった。 枝に腰掛け、両脚をぷらぷらさせながら、琥珀色の瞳を虚空に彷徨わせている。 端正なその顔は、無表情。人間らしい一切の感情を、映していなかった。 まるで、精巧に造られた人形のように。   悲しくなったら、またいらっしゃい。ひとときの夢を差し上げましょう。   この山桜の下で……思う存分、惰眠を貪り、午睡に溺れなさい。   夢のまま終わらせるも、ユメを見続けるも、あなた次第ですけど。 不意に、白い乙女が、月光を受けて金色に輝く左眼を細めた。 瑞々しく張りのある唇から零れた微笑は、息を呑むほどに美しく…… 女神とも、妖怪変化ともつかない艶麗さを湛えていた。   夢の中で見つけたユメ(希望)は、いつか正夢に化けるかも知れませんね。   それでは、おチビさん。ごきげんよう―― 直後、一陣の突風が吹き、山桜の花を一斉に吹き散らした。 そして…… 花吹雪が落ち着いたとき、白い乙女の姿も、春霞のごとく夜風の中に溶けていた。   『山桜の下で…』 これにて、おしまい。

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