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「褪めた恋より 熱い恋」(2006/12/09 (土) 01:48:59) の最新版変更点
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※おことわり : 一部、bieroかも知れません。<br>
<br></p>
<hr>
<br>
<br>
レースのカーテンを擦り抜けてきた朝日に頬を撫でられ、彼は目を覚ます。<br>
スプリングの効いたベッドの中で、可能な限り、小さく身を捩る。<br>
あまりゴソゴソと動いては、いけない。<br>
なぜならば、それが毎朝の約束事なのだから。<br>
<br>
そぉ……っと、ベッドランプの下に腕を伸ばす。<br>
手探りで求めるのは、この間、新調したばかりのメガネ。<br>
程なく、冷たい金属のフレームに指が触れた。<br>
再び、静かに手繰り寄せたソレを耳に掛けて、首を僅かに傾けると――<br>
<br>
<br>
そこには、いつもどおり、愛しい人の寝顔があった。<br>
彼は、三度、吐息する。<br>
<br>
ひとつは、起き抜けの小さな欠伸。<br>
ふたつめは、今朝も隣に彼女が居てくれたことへの安堵。<br>
そして、みっつめは――<br>
<br>
「おはよう……今日も素敵だよ」<br>
<br>
彼女の寝顔の美しさに魅せられた、感嘆の溜息だった。<br>
<br>
<br>
<br>
『褪めた恋より 熱い恋』<br>
<br>
<br>
<br>
柔らかな朝日の中で、彼女は幸せそうに微睡んでいる。<br>
メガネを外した素顔は、いつもながら息を呑む可愛らしさだ。<br>
昔のアニメソングではないが、彼女の目元を飾るそばかすだって、彼のお気に入り。<br>
普段は結い上げているストレートの黒髪も、今は解かれ、彼女の背中へと流れていた。<br>
<br>
まだ充分に瑞々しい肌の一点……<br>
胸元には、昨夜、彼が付けた愛のあかしが、幾つもアザとなって残っている。<br>
<br>
<br>
彼は時計を一瞥して、彼女の肩に触れて、そっ……と揺り起こした。<br>
<br>
「んっ…………あ、ジュンジュン……おはよ~」<br>
「おはよう」<br>
<br>
ねぼけ眼を、こすりこすり。<br>
欠伸を堪えながら、草笛みつはムニャムニャと挨拶して、また眠ろうとする。<br>
彼――桜田ジュンは、そんな彼女に優しい眼差しと苦笑を向けて、肩を竦めた。<br>
毎朝の事ながら、彼女は寝起きが悪い。<br>
週末ならば、そのまま眠らせてあげるのだが、今日は平日。<br>
<br>
だから、ジュンはいつもどおりに、彼女を叩き起こす。<br>
滑らかな頬を両手で包み込んでの、フレンチキス。<br>
これで彼女が起きなかったことは、一度としてない。<br>
<br>
今朝も例外なく、みつはパッチリと目を覚ましてくれた。<br>
<br>
<br>
<br>
二人が同棲を始めてから、早くも半年が過ぎていた。<br>
高校を卒業した彼と、念願かなって自分の店を開いた彼女。<br>
丁度いい契機とばかりに、よく考え、話し合って決めたことだった。<br>
<br>
以来、ジュンは彼女のマンションで家政夫のような生活を送る傍ら、<br>
服飾のデザインを独自に研究して、愛する彼女をバックアップしている。<br>
みつが店に行っている日中は独りきりだが、その程度の孤独は、<br>
引きこもり時代で慣れている。<br>
実際、ジュンは寂しさよりも、みつの為に尽くせる喜びを強く感じていた。<br>
<br>
<br>
<br>
朝食は、簡単なシリアル。<br>
向かい合って、雑談を交わしながら食事するのが、いつものスタイルだ。<br>
ジュンは、彼女の服装に目を留めて、わざとらしく首を傾げた。<br>
<br>
「今日は、10月にしてはあったかいのに、タートルネックのセーターなんだな」<br>
「…………バカ」<br>
<br>
みつは耳たぶまで真っ赤に染めて、もじもじと肩を竦めた。<br>
メガネの奥のつぶらな瞳には、咎めるような色が、ありありと浮かんでいる。<br>
<br>
<br>
「普通の服じゃあ、首筋の……が見えちゃうんだってば」<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
玄関で出勤する彼女を見送った後、ジュンは家事を始める。<br>
変遷の中の不変……全ては、いつもどおり。<br>
<br>
何かもが巧くいっていた。まさしく順風満帆。<br>
『人間万事、塞翁が馬』というけれど、今の彼らにとっては、<br>
遠い外国の他人事みたいに思えていた。不幸など無関係だ、と。<br>
仮に、ちょっとの不幸に見舞われたところで、二人なら乗り越えられる。<br>
そして、ずっと、このまま満ち足りた生活が続いていくのだと信じていた。<br>
<br>
<br>
――年が明けて、いろいろ落ち着いたらさ……籍、入れないか?<br>
<br>
昨夜、夕食を終えて、くつろいでいる時、ジュンは切り出した。<br>
今までだって新婚生活みたいなものだったし、あまり気にはしていなかったのだが、<br>
姉、桜田のりに「ちゃんとしなきゃダメよぅ!」と叱られたのだ。<br>
<br>
便宜上。ジュンにしてみれば、その程度だった。<br>
籍を入れようが入れまいが、みつと一緒に居られれば幸せだったのだから。<br>
<br>
けれど、それが男女の考え方の相違というものらしい。<br>
ジュンの言葉を聞いた彼女は、優に五分は呆然としていた。<br>
そして、いきなり泣き出してしまった。<br>
みつの嗚咽を聞いていたら、何故かジュンの胸も熱くなって……<br>
気付けば、彼女の肩を抱き寄せて、彼も涙していた。<br>
<br>
(幸せすぎて泣けるってこと、あるんだなぁ)<br>
<br>
カーペットに掃除機をかけつつ、昨夜のことを思い返す。<br>
嬉しくて、幸せすぎて、床に就いても眠れなかった。<br>
愛し合い、疲れ切って眠ったのは、午前五時くらいではなかったか。<br>
思い出すと、つい頬が緩む。しかし、それはすぐに引き締められた。<br>
<br>
こんなに全てが順調で、いいんだろうか? <br>
その内に、幸福の代償を請求されはしないか?<br>
<br>
今まで、こんなにも幸せを感じた試しがなかったジュンは、<br>
巧くいきすぎることが却って不安だった。<br>
ある日、突然に、この生活が破綻してしまうことを、何より恐れていた。<br>
<br>
「……バカだな、僕は。そんな映画みたいなコト、滅多に起きるわけないだろ」<br>
<br>
独りごちて、掃除機のスイッチを切った。<br>
これで、家事はあらかた終わり。洗濯は少ないから、明日、纏めてやればいい。<br>
ジュンは自室兼作業場に入って、スケッチブックを手に取った。<br>
閃くままに走り書きした数々のアイディアは、その殆どが具現されている。<br>
さながら、予言書といったところか。<br>
ページを捲る指が、真っ白な紙面を引き当てて、止まる。奇しくも最終ページだった。<br>
<br>
(今は、彼女のためにドレスを創ろう。<br>
この不安を焼き尽くすほどの、熱い想いを込めて)<br>
<br>
ジュンは一心不乱に、スケッチブックにペンを走らせ始めた。<br>
<br>
<br>
<br>
一時間ほどデザインを考えていたが、どれもイマイチで、しっくりこない。<br>
描けば描くほど、マンネリに見えて苛立ちが募った。<br>
どれもこれも、既視感ばかりが目立ってしまう。<br>
<br>
<br>
「あー……ダメだ。ちょっと休憩するか」<br>
<br>
睡眠不足による為か、それとも気負い過ぎなのか。<br>
とんと素晴らしいアイディアが湧いてこない。<br>
こう言うときは、気分転換が1番の妙薬だ。<br>
<br>
<br>
「ひと眠りしてもいいけど……シリアルとか、いろいろ切らしてたよな。<br>
散歩がてら、近くのコンビニでも行ってくるか」<br>
<br>
小腹も空いたし、ついでに菓子パンと、栄養ドリンクでも買ってこよう。<br>
ジュンは外出着に着替えて、玄関に向かった。<br>
ドアノブを回して、きちんと施錠されているのを確かめ、エレベータまで歩を進める。<br>
<br>
午前10時過ぎ。<br>
この時間、大概の家庭では夫や子供を送り出して、主婦が家事に勤しんでいる頃だ。<br>
ドアが並ぶ通路に、擦れ違う者は居ない。<br>
秋の陽気の下、遠くからゴミ収集車の暢気なメロディが聞こえてくる。<br>
体育祭シーズンも過ぎたし、この分だと年末なんて、あっと言う間だろう。<br>
そんな取り留めないことを考えている内に、エレベータに辿り着いた。<br>
しかし、その扉はピッタリと閉ざされ、貼り紙がしてある。<br>
<br>
「定期点検中? しまった、今日だったか」<br>
<br>
みつの部屋にも、エレベータの点検作業を報せる紙片が投函されていた。<br>
それは、ジュンも目にしていたし、承知しているつもりだった。<br>
けれども、あくせくと時間に追われない生活を送っている彼は、<br>
規則正しく暮らしている人たちに比べて、曜日や日付の感覚がルーズになっている。<br>
ゴミ出しの曜日を間違えることも、しばしばだった。<br>
<br>
<br>
とにかく、ここで文句を呟いていたところで、定期点検が早く終わるワケでもない。<br>
ジュンは動かないエレベータの前を離れ、階段まで歩くことにした。<br>
前方から歩いてくる人影が目に映ったのは、その時だった。<br>
向こうも彼に気付いたらしく、あ……と微かな声をあげて、口元に手を翳した。<br>
<br>
<br>
「……よ……よお」<br>
「あ……えと…………おはよう、かしら」<br>
<br>
ジュンのぎこちない挨拶に答えるのは、同じ階の住人にして、高校時代の級友。<br>
彼の下駄箱に、ラブレターを投函したこともある娘だった。<br>
<br>
あの頃の自分は、精神的に幼かったと、ジュンは思う。<br>
疎ましく思うあまり、彼女の想いを拒絶することに、罪悪感など抱かなかった。<br>
みつと過ごしてきた時間が、ジュンを良い方に変えてくれたのだろう。<br>
恋愛の対象とは見なしていないのは、今も変わらないけれど、<br>
以前のように、目の前に佇んでいる娘を否定するつもりは無かった。<br>
<br>
「こんな時間に逢うなんて、珍しいな。寝坊したのか、金糸雀」<br>
「なっ! 違うかしら。今日は講義が無いから、二度寝してただけかしら」<br>
「二度寝と寝坊って、違うものなのか?」<br>
「似て非なるものかしら。トカゲとイモリみたいなものかしら」<br>
「例えがミョーだけど……ま、いいや。僕はコンビニ行くから……じゃ、またな」<br>
<br>
「ええ、また――」と、いかにも名残惜しそうに、金糸雀は寂しげに目を伏せる。<br>
そんな彼女の脇を、ジュンは大きな欠伸をしながら擦り抜けて、階段を目指した。<br>
今日は、いつになく眠気が強い。やはり、早めに買い物を済ませ、仮眠しよう。<br>
ドレスのデザインは、納得がいくまで、じっくり仕上げればいいのだ。<br>
<br>
そう思った直後、ジュンは突如、急激な墜落感に襲われて、思案を中断した。<br>
世界が目まぐるしく回り、腕と言わず足と言わず、身体中に激痛が走る。<br>
そして、トドメと言わんばかりに、ジュンの後頭部が強打された。<br>
自分の身に起きた事を理解しようと目を見開くが、視界が霞んで何も判らない。<br>
徐々に暗転してゆく視界に、黒い人影が駆け込んできた。<br>
<br>
「ジュンっ! しっかりするかしら、ジュンっ! いま救急車を――」<br>
<br>
懸命に呼びかける金糸雀の声も、彼の遠退く意識を引き戻すことは出来なかった。<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
気付いたときは、病院のベッドの上だった。<br>
目を覚ましたジュンの顔を、目を泣きはらした、みつの顔が覗き込む。<br>
彼女の後ろには、心配そうな金糸雀や、姉のりの泣き顔もあった。<br>
金糸雀から連絡を受けて、二人とも取るものも取り敢えず駆けつけたのだろう。<br>
みつに対しては店の経営が軌道に乗り始めていただけに、申し訳ない気持ちで胸が痛んだ。<br>
<br>
<br>
(ごめんな……心配かけちゃって)<br>
<br>
謝らなければいけない。<br>
そして、仕事の方を優先してくれと、頼まなければならない。<br>
今が大事な時だというのに、見舞いや看護で、店をなおざりにしては駄目だ。<br>
<br>
しかし、ジュンは返事を出来なくて、愕然とした。まったく声を出せない。<br>
ばかりか、身体を……指の一本も動かせなかった。<br>
一体、何がどうなったというのか。<br>
焦って全身を動かそうとするも、できるのは、せいぜい瞬きすることくらいだった。<br>
<br>
<br>
<br>
脊椎や頭部強打による、神経伝達系の損傷……医者は、そう言った。<br>
運動神経に障害があって、横紋筋の随意性が著しく疎外されているらしい。<br>
内臓器は不随意筋である平滑筋のため、影響が出ていないが、<br>
随意筋の方は、瞼など僅かな部分が、辛うじて動かせる状況とのことだった。<br>
<br>
みつはワナワナと震えながら医者に詰め寄り、治る見込みについて訊ねた。<br>
だが、返答は鉄槌の如く、彼女の希望を砕く。<br>
<br>
「あなた、医者でしょうっ?! なにか……なんとかしてよ!」<br>
「みっちゃん、落ち着いて! お願いだから、冷静になるかしらっ!」<br>
<br>
半狂乱になって喚く彼女の腕を、のりと金糸雀が両脇から抱え込んだ。<br>
みつは、そんな二人を突き飛ばしかねない勢いで捲し立てる。<br>
金糸雀は懸命にしがみつき、涙声を振り絞って、押し止めようとしていた。<br>
その騒ぎを聞きつけ、病室の入り口に、看護士や入院患者たちが集まりだす。<br>
<br>
(……止めてくれっ!)<br>
<br>
心の中で、ジュンは叫ぶ。<br>
苦痛に歪む、みつの顔を見るのが辛かった。<br>
悲痛に打ち震える彼女の嗚咽を聞くのが、すごく苦しかった。<br>
自分のせいで、親しい人たちの人生を狂わせてしまうことが、とても悲しかった。<br>
<br>
(お願いだ! みんな…………もう止めてくれよっ!)<br>
<br>
胸に渦巻く、やるせない想いを、声に出したい。<br>
大声で叫んで、この喧噪を鎮めたい。<br>
<br>
なのに、ジュンは唇を開くどころか、身体を起こす事すらできなかった。<br>
涙さえ、溢れることはなかった。<br>
<br>
<br>
<br>
それからの日々は――<br>
ジュンにとって、絶望の連続だった。<br>
<br>
<br>
――僕は、人形になってしまったんだ。<br>
<br>
<br>
いや……人形ならば、まだマシだ。食事も、排泄の心配も、しないでいいのだから。<br>
呼吸をする必要もなければ、眠らなくたっていい。<br>
誰も居ない部屋で独り、日当たりの良い窓辺に座って過ごす日常。<br>
移ろう季節を横目に、ぼんやりと主人の帰りを待っているだけが、生活の全て。<br>
<br>
<br>
……ああ。<br>
いっそ、そうなれたなら、どれ程か幸せだろう。<br>
今の状態は、苦痛しか生み出さない。<br>
生きる上で必要不可欠な食事ひとつとっても、そう。<br>
内臓に問題が無いため、点滴だけに頼らず、流動食も摂らされるのだ。<br>
自分の意志で顎を動かせないから、喉にチューブを押し込まれて、流し込まれる。<br>
<br>
それは食事ではなく、餌付け。無理矢理に、エサを食べさせられているに等しい。<br>
ジュンの心は屈辱にまみれ、自由にならない身体に憤った。<br>
鬱積した黒くドロドロした感情は、彼の理性を、光の射さぬ深淵に引き込んでいく。<br>
そして、彼の精神は闇の中で縮こまり、例えようのない深い哀しみに啜り泣くのだった。<br>
<br>
<br>
<br>
そんな、ある日のこと。<br>
茫乎とした眼差しを、秋晴れの空に彷徨わせていたジュンの耳に、<br>
どこからか、女の人の澄んだ歌声が流れ込んできた。<br>
筋肉は動かせずとも、鼓膜さえ震えれば音は聞こえる。<br>
どうやら、開け放した窓の外から、届いてくるようだった。<br>
<br>
<br>
(歌か……いいな。歌えるほど元気なら、もう退院が近いんだろう)<br>
<br>
そう思った直後、不意に歌声は止み、程なく、言い争う声に変わった。<br>
どうしたと言うのだろう?<br>
気になって耳を澄ましたジュンは、なんとか、幾つかの単語を拾う事ができた。<br>
<br>
(めぐ……って名前なのか? 治らないとか……死ぬとか言ってたな)<br>
<br>
病院とは、なんとも厭な空間だ。死が日常的すぎて、現実よりも身近に感じられる。<br>
ジュンもまた、めぐという女性の言葉に感化され始めていた。<br>
<br>
(このまま治らないなら…………いっそ、死にたいな)<br>
<br>
生きていながら、死んでいるに等しい今の状態は、自分のみならず、<br>
周囲の人々も不幸に陥れている。<br>
心から愛している彼女――草笛みつを苦しめている。<br>
自分が彼女の幸せな未来を遮る壁になっているのだと思うと、死んで詫びたくなる。<br>
けれども、今のジュンは、自分の舌を噛み切ることすら出来ない、無力な人形。<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
みつは毎日、欠かすことなく病院を訪れては、ジュンの世話をしていく。<br>
時に、汚物の付着したおむつさえも、彼女は厭な顔ひとつせずに変えてくれる。<br>
その度に、嬉しさと同時に、自分の存在が足枷でしかない事実を思い知らされ、<br>
ジュンは気が狂いそうになった。<br>
<br>
――悔しかった。ただただ、口惜しかった。<br>
死にたいとすら思うのに、麻痺した身体では、自殺も叶わない。<br>
自力で彼女の元から離れていけない自分がもどかしくて、呪わしくて――<br>
<br>
それなのに、ジュンの双眸から感情が溢れることはない。<br>
相も変わらず、電池じかけの人形みたいに、瞬きと呼吸を繰り返すだけ。<br>
口内に溜まる唾液すら自力で飲み込めず、機械で吸い出していなければ窒息する。<br>
人間としての尊厳もない、この状況は、はたして生きていると言えるのだろうか。<br>
<br>
<br>
(僕は、いつになったら……死ねるんだ。早く死なせてくれよ)<br>
<br>
生気のない目を外の景色に向けていたジュンの耳に、めぐの歌声が忍び込んできた。<br>
いつもながら綺麗な声だ。最近では、この歌を聴くのが心の慰めになっている。<br>
死にたがりの女性が、気紛れで奏でる歌。<br>
そこに癒しを求めるのは、同病相憐れむ、というやつかも知れない。<br>
<br>
ジュンが瞼を閉じて聞き入っていると、不意に、歌声が止んだ。<br>
だが、いつものような苛立ちの声は聞こえない。<br>
代わりに、驚くほど優しい声が、誰かに話しかけていた。<br>
<br>
「いらっしゃい、水銀燈。<br>
ねえ……知ってる? この病院の10階に、眠り姫が居るんだって。<br>
死んだら鳥になりたいと思っていたけど……ずぅっと眠り続けるのも素敵よね」<br>
<br>
聞いて、ジュンは『本当に、そうなのか?』と思った。<br>
楽しい夢を、終わることなく見続けていられるのなら、そんなに幸せなことはない。<br>
だが……その夢が、耐え難い悪夢だったとしたら?<br>
丁度、彼が置かれているような、酷い状況だったなら、同じ事が言えるだろうか。<br>
<br>
ジュンは心の中で、声しか知らない女性に、話しかけた。<br>
<br>
<br>
(傲慢だな、君は――<br>
綺麗な声で歌うことが出来る。自由に動き回ることが出来る。<br>
今みたいに、親しい誰かと言葉を交わして、笑い合うことも出来る。<br>
その気になりさえすれば、僕の首を絞めて、殺してくれることだって出来るのに。<br>
<br>
なのに! 君は『死にたい』だなんて言う! 傲慢すぎるよ!)<br>
<br>
めぐに向けた憤りは、深い哀しみとなって彼自身に跳ね返ってくる。<br>
そして、ジュンは誰にともなく祈った。<br>
<br>
<br>
(お願いだ――せめて、涙を流させてくれ。行き場のない感情を、吐き出させてくれ)<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
店の定休日を翌日に控えた夕方、みつがジュンの集中治療室を訪れた。<br>
宿泊の許可を得たらしい。結構な荷物を持参している。<br>
<br>
「今日は久しぶりに、ずっと一緒だね、ジュンジュン」<br>
<br>
陽気に軽口を叩いて、少女のように屈託なく笑う彼女を見ていると、<br>
ジュンの心は幸福感よりも、罪悪感で満たされていった。<br>
気苦労の欠片も表さず、献身的に世話を続ける姿は、彼に苦痛しかもたらさない。<br>
惨めだ、と思う。何もかも、みつに頼り切りの自分が。<br>
そして、そんな無力な自分を見られるのが、筆舌に尽くしがたいほど恥ずかしかった。<br>
<br>
<br>
――もう、来ないでくれ。<br>
<br>
一言だけでも伝えたい。<br>
いっそ、胸に積もり積もった憂鬱を声にできたら、どれほど気楽だろう。<br>
<br>
「この間、ジュンジュンにデザインを頼みたいってお客さんが、お店に来たの。<br>
最近、めきめきと知名度あがってるんだよー」<br>
<br>
我が事のように、嬉しそうに語る。<br>
ジュンの話をする時、みつはいつも幸せそうだった。<br>
こんな状態になった今でも、それは変わらない。<br>
<br>
何故なんだ? ジュンには、彼女の心境が理解できなかった。<br>
知名度が上がろうと、客から依頼があろうと、彼には何もできない。<br>
家や店に居たって邪魔なだけ。招き猫でも置いた方が、よほど店の看板になる。<br>
つまりは、ただのガラクタ野郎なのだ。<br>
こんな足手まといのジャンクなんか、さっさと見限ってしまえばいいのに。<br>
何を好き好んで、この人は苦労を背負い込むのだろう。<br>
意志の疎通もままならない二人を残して、時間は滔々と流れゆく。<br>
<br>
<br>
午後になって、のりが病室に顔を覗かせた。みつと同様、姉も毎日、彼の元を訪れる。<br>
普段どおりの、どこか間の抜けているような、朗らかな笑顔。<br>
のりが振りまく雰囲気は、病室の重く沈んだ気配を和ませてくれる。<br>
<br>
「あらぁ……草笛さん、お疲れみたい」<br>
<br>
彼女は、みつが欠伸を堪えて目をショボショボさせている様子を見て、<br>
心配そうに表情を曇らせた。<br>
ハッと我に返り、みつが「平気よ、これくらい」と気丈に微笑む。<br>
けれど、のりは不安げな顔を崩さなかった。<br>
<br>
「ダメよぅ、無茶したら。あなたまで病気になったら、どうするの?<br>
ジュン君だって、きっと悲しむわ。ここは私に任せて……仮眠してきて。ね?」<br>
「…………それじゃあ、お言葉に甘えておくわ。ちょっとの間、お願い。<br>
ロビーに居るから、何かあったら遠慮なく呼んでね」<br>
<br>
のりの細やかな配慮に感謝の意を示して、みつは財布だけを手に、病室から出て行った。<br>
<br>
<br>
扉が閉ざされ、足音が充分に遠ざかると、のりは微笑みを貼り付かせたまま、<br>
ジュンのベッド脇に置かれた椅子に座った。<br>
そして、慈愛に満ちた眼差しで、無表情の彼の顔を、穴が空くほど見つめる。<br>
優に五分は、そうしていただろうか。<br>
徐に、のりの唇が動き出した。<br>
<br>
「ねえ……ジュン君は今、幸せ?」<br>
<br>
幸せなもんか! ふざけたこと言うな、お茶漬けのり!<br>
お見舞いに来てくれた人に対して、とんでもなく無礼だと承知しつつも、<br>
ジュンは胸裏で毒突かずにはいられなかった。<br>
彼の心境を知ってか知らずか、のりは小さく吐息して、言葉を続ける――<br>
<br>
<br>
「そんなワケないわよねぇ。だって……何も、出来ないんだもの。<br>
お姉ちゃんね、ジュン君の身体を元どおりに戻せるなら、何でもしてあげたい。<br>
そう思って、ずぅっと頑張ってきたの」<br>
<br>
姉の朗らかな笑顔に、ふぅ……っと、悲しげな影が差した。<br>
<br>
「……でもね、もうダメなの。ごめんね、ジュン君。<br>
お姉ちゃん……もう疲れちゃった。ジュン君の姿を見ているのが、辛いのよぅ」<br>
<br>
寂しそうな呟きを放つのは、思い詰めた表情の、のり。<br>
ジュンはいまだ嘗て、そこまで悲壮に満ちた姉の顔を、見たことがなかった。<br>
<br>
<br>
「ジュン君も……楽になりたいでしょ?<br>
これ以上、苦しむのはイヤでしょ? だから……ね」<br>
<br>
おずおずと差し伸べられる姉の両手が、ジュンの肌に触れる。<br>
秋の風で冷やされた指が、ジュンの首に絡み付いてくる。<br>
そして――<br>
<br>
<br>
「お姉ちゃんが、ジュン君の望みを……叶えてあげるから」<br>
<br>
肩で荒い呼吸を繰り返す姉の両手に、じわじわと力が込められた。<br>
気道と頸動脈が圧迫されて、苦しさが増していく。<br>
けれど、ジュンは何故か、嬉しかった。<br>
自分の本音を理解してくれた姉に、心から感謝していた。<br>
<br>
うれしい! 嬉しい!<br>
やっと楽になれる。苦痛でしかない毎日から、解放してもらえる。<br>
<br>
<br>
(……ありがとう、姉ちゃん。<br>
これで、僕は望みどおり死ねる。もう、誰にも迷惑かけずに済むんだ)<br>
<br>
望みが叶うというのは、こんなにも幸せなことなんだな。<br>
ジュンは、段々と薄れゆく意識の中で、漠然と思った。<br>
<br>
のりの両手から、力が抜けることはなかった。<br>
衝動的な行為ではなく、散々に悩み、葛藤した末の決断だから躊躇がない。<br>
ジュンとしても、それは望むところ。<br>
中途半端に絞められる方が、死を迎えるまで、苦しみが長続きしてしまう。<br>
<br>
<br>
「ごめんね……ジュン君。ごめ……んね、ごめんね……」<br>
<br>
のりの声は、震えていた。<br>
顔に合わない大きさの丸メガネの奥で、つぶらな瞳が絶え間なく涙を溢れさせている。<br>
譫言のように謝り続けながら、眼は真っ直ぐに、弟の最後を見届けようとしていた。<br>
<br>
そんな健気な姉に、ジュンは心の中で呟く。恨みっこないだろ、と。<br>
子供の頃から、のりは甲斐甲斐しく面倒を見てくれた。<br>
引きこもっていた時ですら、決して諦めずに、根気よく見守ってくれた。<br>
そして今も、ジュンの願いを見抜き、叶えようとしてくれている。<br>
<br>
――伝えたい。今まで言葉にしてこなかった、この気持ちを。<br>
<br>
鬱血で顔が破裂しそうだったが、ジュンは姉に向けて、瞬きをした。<br>
まだ、自分の意志で動かせる瞼で、ありったけの感情を表現した。<br>
正しく通じるかなんて解らないけれど、どうしても――伝えたかったから。<br>
<br>
ぱちぱちと、一定間隔で、五回のまばたき。<br>
『ア リ ガ ト ウ』の想いを込めた、ラストレター。<br>
<br>
<br>
(姉ちゃん、気付いたかな。いや……気付くわけないか。昔っからニブいもんな)<br>
<br>
もしも笑えたなら、ジュンは声をあげて笑っただろう。<br>
首を絞められて、声が出なくとも、満面に笑顔を湛えただろう。<br>
だが、そう出来なくても、彼は満足だった。<br>
この魂の器を捨てることで姉や、みつ、金糸雀を辛苦の縛鎖から解き放ち、<br>
自分も楽になれる。<br>
なぁんだ、良いことずくめじゃないか……と。<br>
<br>
(あれ? なんだか……楽になってきた。あと……十秒も保たないな)<br>
<br>
命のカウントダウンを始めたジュンの脳裏に、みつの微笑みが過ぎる。<br>
とても、とても、幸せそうに笑っている――<br>
念願の店を開いた時だったか、あれは。<br>
<br>
自分だけの宇宙を創る<br>
<br>
それが、出会った日に聞かされた、彼女の目標だった。<br>
ただひたすらに突き進んで、多少どころではない痛みを味わい続けて、漸く手にした幸福。<br>
自分が死ぬことで、あの笑顔を、彼女の幸せを守ることができる。<br>
ジュンにとっては、それが何よりの手向けだった。<br>
<br>
(ああ、そうだ。彼女に『さよなら』言うの忘れてたな。<br>
今頃になって思い出すなんて、つくづくタイミング悪いな、僕も)<br>
<br>
もう……間に合わない。カウントは、残り4。<br>
カウント3。ジュンの頭の中で、諦念が溶けていく。<br>
意識が失われていき、何もかもが真っ白になっていく。カウント2。<br>
そして……。<br>
<br>
カウント1を切った直後、病室の扉が、勢いよく開かれた。<br>
間髪いれず、なにか重たい物が、下半身に落下した感触。<br>
解放される気道。急速に薄れゆく窒息感。<br>
頭部に停滞していた血液が、ありとあらゆる血路を迸り、全身に駆け巡っていく。<br>
血管が、ちくちくと痛んだ。<br>
<br>
「馬鹿っ! なんてコトしてるのよっ!?」<br>
<br>
激しい怒気を含んだ声が、病室に轟いた。<br>
鬱血により暗転していた視界がクリアになるにつれて、ジュンは状況を悟った。<br>
みつに突き飛ばされて、のりは彼のベッドに倒れ込んでいた。<br>
弱々しく嗚咽して、肩を震わす姉を、みつが力任せに引き剥がす。<br>
<br>
「出てって! もう帰って!」<br>
<br>
ああ、まただ……。<br>
反論もせず、ただ謝りながら、みつに追い立てられる姉の弱々しい姿を見て、<br>
ジュンは悲しみのあまり、胸が張り裂けそうだった。<br>
愛する人と、愛する姉が、醜く啀み合う世界なんか欲しくなかったのに。<br>
<br>
(どうして僕を苦しめ続けるんだ。いい加減にしてくれよ!)<br>
<br>
病室の扉を閉ざすバシンという大きな音は、みつの怒りの具現だった。<br>
出会ってからこの方、こんなにも彼女が激憤した様は見たことがなかった。<br>
みつは何時だって、おおらかで優しく、大人の余裕を備えていたから。<br>
<br>
だが、今の彼女は違う。彼女自身、暴走しそうな感情を持て余している。<br>
辛うじて、理性で押し止めている様にみえた。<br>
ドアに鍵をかけた姿勢のまま、ジュンに背を向け、立ち尽くしているのも、<br>
怒りに歪んだ醜い顔を見せたくないが為だろう。<br>
<br>
<br>
「ゴメン…………ね」<br>
<br>
消え入りそうな頼りない声が、ジュンの耳朶を打つ。<br>
<br>
「取り乱したりして、本当に……ごめんなさい。でも、私――<br>
さっきは、どうしても自分が抑えられなかった。<br>
ジュンジュンを奪われると思った途端、アタマに血が昇って……<br>
考えるより先に、身体が動いていたの」<br>
<br>
ゆっくり、ゆっくりと――<br>
「私には、もう……」<br>
<br>
みつは、肩越しに振り返った。止めどなく、涙を溢れさせながら。<br>
「あなたの居ない人生なんて……考えられないんだもの」<br>
<br>
<br>
泣きながら微笑み、覚束ない足取りでベッドに歩み寄ったみつは、<br>
ジュンの身体にのしかかって、彼の頬を両手で挟み込んだ。<br>
<br>
「あなたは、私の夢。たくさんの希望が詰め込まれた、宝箱みたいな存在なの。<br>
自分のセンスを磨くことも、お店を持つことも、全ての目標は通過点でしかないわ。<br>
私は、ジュンジュンと一緒に、どこまでも歩いて行きたい。<br>
一生かけても辿り着けないかも知れないけど、あなたと手を取り合って、<br>
遙か彼方にある何かを追いかけ、ガムシャラに生きていきたいのよ」<br>
<br>
続く言葉を紡ぐ直前、みつは物言わぬジュンの額に、キスをした。<br>
そっと触れた合うだけの唇から、微かに震えが伝わってくる。<br>
潤んだみつの瞳が、真っ直ぐにジュンを見つめていた。<br>
<br>
<br>
「夢って、そういうものでしょう?」<br>
<br>
<br>
――夢。<br>
それは儚くも美しくて、虚しくも縋ってしまう、哀しい響き。<br>
けれど、それなくしては、誰も明日への希望を見出せはしない。<br>
ジュンの心もまた、同じだった。<br>
いや……誰よりも夢を欲していたのだと、気付かされた。<br>
<br>
(――バカだ! 僕は、なんてバカだったんだ。<br>
みんなの為だなんて物分かりのいいフリして、苦痛から逃げようとしていた。<br>
彼女の夢を邪魔しないように、死のうと思っていたなんて、何も解ってなかったんだ!) <br>
<br>
<br>
ジュンが自殺することは即ち、みつの夢を奪うことに等しかった。<br>
守りたくて、良かれと思っていた事は、皮肉にも彼女の未来を閉ざすことだった。<br>
馬鹿げている。筆舌に尽くしがたいほど馬鹿げている。<br>
<br>
過ちに気付いた途端、ジュンの胸に蟠っていた黒い情念が消えていった。<br>
空を覆い尽くす暗雲も、風が吹けば切れ間が生まれ、太陽の眩しい光が射し込んでくる。<br>
風は、変化を表す詞。たかが微風でも、集い合わされば竜巻にすら姿を変える。<br>
人の心も、同じことだ。<br>
僅かな心境の変化が、漆黒の闇に希望という光明をもたらし、夢を見出す契機を与え得る。<br>
<br>
(もう一度、生き直したい。今度は僕だけの為じゃなく、みんなの夢として。<br>
転んでも立ちあがり、醜態を晒しても、立ち止まらずに歩いていこう。<br>
彼女の幸せを守るためなら――――僕は、何だって出来るんだから)<br>
<br>
<br>
<br>
夜も更け、消灯時間がやってくる。<br>
みつはジュンの世話をした後、彼のベッドに突っ伏して、すぐに寝息を立て始めた。<br>
病院のこと、店のこと、家に帰れば家事もこなさねばならない。<br>
線の細い彼女の体躯には、想像を絶する疲労が蓄積されていたのだろう。<br>
<br>
肩に掛けたカーディガンが、ずれて落ちそうになっている。<br>
今はまだ、それを掛け直してあげることすら出来ないけれど――<br>
ジュンは心の中で、みつの寝顔に囁きかけた。<br>
<br>
(二人で、夢を追いかけていこう。もう、置き去りになんてしないよ……絶対に)<br>
<br>
<br>
その日から、ジュンは生まれ変わった。彼の瞳には、強い意志が宿っていた。<br>
もう、茫乎とした視線を彷徨わせることは無い。<br>
生きていくために不可欠な夢を、手に入れたのだから。<br>
<br>
この身体を、もう一度、動かしたい。<br>
そして、彼女に触れたい。力強く、抱き締めてあげたい。<br>
二人の恋は、この程度で褪めてしまう脆弱なものじゃないと証明する為に。<br>
そして、熱く恋を燃えたたせて、愛へと昇華させる為に、今一度――<br>
<br>
(僕はまだ、死んじゃいない。身体だって、全部が壊れたわけじゃない。<br>
回路の一部が損傷したって、バイパス回路を繋げれば、また動かせる筈だ)<br>
<br>
かつて、錬金術におけるヘルメス思想では、人体を宇宙と対比して、ミクロコスモスと呼んだ。<br>
抽象的だけれど、神秘性を表す言葉として、深遠なる宇宙は最適だろう。<br>
人間の可能性は、無限大。<br>
どれほどの偉人であれ、自己の可能性を完璧に把握することなど出来ない。<br>
ジュンにだって、奇跡を起こす能力が眠っているかも知れないのだ。<br>
以前ならば、端から諦めて努力を放棄しただろうが、今の彼は違う。<br>
<br>
(医者は、治療の手助けをしてくれるだけ。<br>
結局のところ、僕の身体は、僕にしか治せないんだ)<br>
<br>
元通りに動けるようになれるのか。それとも、一生このままか。<br>
答えは、希望という扉の向こうにある。その扉を開く鍵は、ジュンの手の中にある。<br>
みつに教えられて見つけた、夢という名の、小さな鍵が。<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
三ヶ月後――<br>
年も明け、正月の忙しなさを人々が忘れ始めた頃の、夕方。<br>
<br>
「来たわよー、ジュンジュン。調子は、どうかなー?」<br>
<br>
今日も病室に顔を見せた彼女に、ジュンは俯いていた顔を上げ、頷く。<br>
彼の手元には、広げられたスケッチブック。<br>
まだ思うようには手指を動かせないけれど、入院生活の退屈な時間を、<br>
デザインの研究へと割り当てているのだった。<br>
手を動かしながらの方が、脳がより多くの刺激を受けるので、アイディアも閃く。<br>
おまけに、運動神経のリハビリにもなるとあっては、正に一石二鳥というものだ。<br>
一週間前まで呂律が回らなかった口調も、今では会話に困らないほど回復していた。<br>
<br>
「……今日は、寒かっただろ」<br>
<br>
窓の外に広がる、どんよりと暗い冬の空を一瞥して、ジュンが問いかける。<br>
みつは「そりゃあ冬だもの」と口の端を上げて、彼のベッドに腰を掛けた。<br>
<br>
「ほぉら……ね」<br>
<br>
と、差し出された手が、ジュンの頬を撫でる。<br>
ジュンはペンを置き、スケッチブックを閉じて、みつの冷え切った手を握った。<br>
少し、ガサついた感触。気のせいではなく、彼女の手は以前より痩せ、肌荒れしていた。<br>
朗らかに笑って見せていても、疲れは健康状態となって、如実に現れるものだ。<br>
<br>
<br>
ジュンは、不意を衝いて、彼女の細腕を手繰り寄せた。<br>
みつが、小さな驚きの声をあげて、前のめりに倒れ込んでくる。<br>
年上で、自分より背の高い彼女だけれど、ジュンは真っ正面から抱き留めた。<br>
<br>
<br>
「……寒いなら、こうして、汗ばむくらいに温めてやるよ。<br>
疲れたなら、いつだって寄りかかれば良いよ。どんな時も、僕が支えてやるから」<br>
<br>
彼女の背に腕を回して、ジュンは自らの言葉を、実行に移した。<br>
いつか抱いた願望のままに、力強く抱き寄せる。<br>
彼の腕の中で、みつは、ちょっとだけ息苦しそうに呻いた。<br>
<br>
「ずっと側にいるから……ずっと側にいてくれ」<br>
<br>
耳元で囁いた言葉への返答は、ジュンの耳元にかかる、優しい微笑み。<br>
<br>
「変わったね、ジュンジュン」<br>
「……そうか?」<br>
「うん。以前は、少しあどけなくて……恋人とはいえ、弟に近い存在だった。<br>
でもね、今は逞しく見える。ボーイフレンドから、頼れる男性に成長した感じかな」<br>
「子供扱いされてたなんて、ちょっと気に入らないな」<br>
「まあまあ。拗ねない拗ねない」<br>
<br>
ぎゅっ……と、みつの腕が、ジュンの身体を抱き締める。<br>
<br>
「――私に夢を見せてくれるのは、あなただけなの。<br>
だから、離れたくない。このまま――」<br>
<br>
<br>
私を離さないでね。<br>
まるで幼子の様にしがみつく彼女の頬に口付けて、ジュンはみつの髪を撫でた。<br>
<br>
「イヤだと言ったって、離してやるもんか。<br>
どんな不幸も、困難も、僕らの絆を深めるキッカケにしてやるだけさ。<br>
全ては目標。夢への通過点に過ぎないんだから。そうだろ?」<br>
「…………ええ。私たちの夢は、まだまだ遠くにあるけど」<br>
「歩いていけば良いさ。二人で手を繋いで――<br>
差し当たっては、姉ちゃんとの仲直りが、記念すべき第一歩だな」<br>
「そうね。私は、とっくに彼女を許しているんだけどなぁ」<br>
「姉ちゃんの方は……どうだろう?<br>
愚行を悔いて、早まった真似してなきゃいいけど」<br>
「彼女は見た目よりずっと強い人だから、大丈夫だと思うよ。<br>
なーんか解るのよ。私と彼女って、性格的に似てるのね、きっと」<br>
<br>
「心配なら、電話してみる?」言って、みつが自分の携帯電話を取り出す。<br>
それを受け取ったジュンは、御礼がわりにと彼女の唇を奪って、自宅にダイヤルした。<br>
<br>
<br>
「…………もしもし。姉ちゃん?<br>
<br>
あ、あのさ……会えないか…………うん。<br>
<br>
これから――――僕たちと」<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
『醒めた恋より 熱い恋』 完<br>
<br>
<p><br>
※おことわり : 一部、bieroかも知れません。<br>
<br></p>
<hr>
<br>
<br>
レースのカーテンを擦り抜けてきた朝日に頬を撫でられ、彼は目を覚ます。<br>
スプリングの効いたベッドの中で、可能な限り、小さく身を捩る。<br>
あまりゴソゴソと動いては、いけない。<br>
なぜならば、それが毎朝の約束事なのだから。<br>
<br>
そぉ……っと、ベッドランプの下に腕を伸ばす。<br>
手探りで求めるのは、この間、新調したばかりのメガネ。<br>
程なく、冷たい金属のフレームに指が触れた。<br>
再び、静かに手繰り寄せたソレを耳に掛けて、首を僅かに傾けると――<br>
<br>
<br>
そこには、いつもどおり、愛しい人の寝顔があった。<br>
彼は、三度、吐息する。<br>
<br>
ひとつは、起き抜けの小さな欠伸。<br>
ふたつめは、今朝も隣に彼女が居てくれたことへの安堵。<br>
そして、みっつめは――<br>
<br>
「おはよう……今日も素敵だよ」<br>
<br>
彼女の寝顔の美しさに魅せられた、感嘆の溜息だった。<br>
<br>
<br>
<br>
『褪めた恋より 熱い恋』<br>
<br>
<br>
<br>
柔らかな朝日の中で、彼女は幸せそうに微睡んでいる。<br>
メガネを外した素顔は、いつもながら息を呑む可愛らしさだ。<br>
昔のアニメソングではないが、彼女の目元を飾るそばかすだって、彼のお気に入り。<br>
普段は結い上げているストレートの黒髪も、今は解かれ、彼女の背中へと流れていた。<br>
<br>
まだ充分に瑞々しい肌の一点……<br>
胸元には、昨夜、彼が付けた愛のあかしが、幾つもアザとなって残っている。<br>
<br>
<br>
彼は時計を一瞥して、彼女の肩に触れて、そっ……と揺り起こした。<br>
<br>
「んっ…………あ、ジュンジュン……おはよ~」<br>
「おはよう」<br>
<br>
ねぼけ眼を、こすりこすり。<br>
欠伸を堪えながら、草笛みつはムニャムニャと挨拶して、また眠ろうとする。<br>
彼――桜田ジュンは、そんな彼女に優しい眼差しと苦笑を向けて、肩を竦めた。<br>
毎朝の事ながら、彼女は寝起きが悪い。<br>
週末ならば、そのまま眠らせてあげるのだが、今日は平日。<br>
<br>
だから、ジュンはいつもどおりに、彼女を叩き起こす。<br>
滑らかな頬を両手で包み込んでの、フレンチキス。<br>
これで彼女が起きなかったことは、一度としてない。<br>
<br>
今朝も例外なく、みつはパッチリと目を覚ましてくれた。<br>
<br>
<br>
<br>
二人が同棲を始めてから、早くも半年が過ぎていた。<br>
高校を卒業した彼と、念願かなって自分の店を開いた彼女。<br>
丁度いい契機とばかりに、よく考え、話し合って決めたことだった。<br>
<br>
以来、ジュンは彼女のマンションで家政夫のような生活を送る傍ら、<br>
服飾のデザインを独自に研究して、愛する彼女をバックアップしている。<br>
みつが店に行っている日中は独りきりだが、その程度の孤独は、<br>
引きこもり時代で慣れている。<br>
実際、ジュンは寂しさよりも、みつの為に尽くせる喜びを強く感じていた。<br>
<br>
<br>
<br>
朝食は、簡単なシリアル。<br>
向かい合って、雑談を交わしながら食事するのが、いつものスタイルだ。<br>
ジュンは、彼女の服装に目を留めて、わざとらしく首を傾げた。<br>
<br>
「今日は、10月にしてはあったかいのに、タートルネックのセーターなんだな」<br>
「…………バカ」<br>
<br>
みつは耳たぶまで真っ赤に染めて、もじもじと肩を竦めた。<br>
メガネの奥のつぶらな瞳には、咎めるような色が、ありありと浮かんでいる。<br>
<br>
<br>
「普通の服じゃあ、首筋の……が見えちゃうんだってば」<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
玄関で出勤する彼女を見送った後、ジュンは家事を始める。<br>
変遷の中の不変……全ては、いつもどおり。<br>
<br>
何かもが巧くいっていた。まさしく順風満帆。<br>
『人間万事、塞翁が馬』というけれど、今の彼らにとっては、<br>
遠い外国の他人事みたいに思えていた。不幸など無関係だ、と。<br>
仮に、ちょっとの不幸に見舞われたところで、二人なら乗り越えられる。<br>
そして、ずっと、このまま満ち足りた生活が続いていくのだと信じていた。<br>
<br>
<br>
――年が明けて、いろいろ落ち着いたらさ……籍、入れないか?<br>
<br>
昨夜、夕食を終えて、くつろいでいる時、ジュンは切り出した。<br>
今までだって新婚生活みたいなものだったし、あまり気にはしていなかったのだが、<br>
姉、桜田のりに「ちゃんとしなきゃダメよぅ!」と叱られたのだ。<br>
<br>
便宜上。ジュンにしてみれば、その程度だった。<br>
籍を入れようが入れまいが、みつと一緒に居られれば幸せだったのだから。<br>
<br>
けれど、それが男女の考え方の相違というものらしい。<br>
ジュンの言葉を聞いた彼女は、優に五分は呆然としていた。<br>
そして、いきなり泣き出してしまった。<br>
みつの嗚咽を聞いていたら、何故かジュンの胸も熱くなって……<br>
気付けば、彼女の肩を抱き寄せて、彼も涙していた。<br>
<br>
(幸せすぎて泣けるってこと、あるんだなぁ)<br>
<br>
カーペットに掃除機をかけつつ、昨夜のことを思い返す。<br>
嬉しくて、幸せすぎて、床に就いても眠れなかった。<br>
愛し合い、疲れ切って眠ったのは、午前五時くらいではなかったか。<br>
思い出すと、つい頬が緩む。しかし、それはすぐに引き締められた。<br>
<br>
こんなに全てが順調で、いいんだろうか? <br>
その内に、幸福の代償を請求されはしないか?<br>
<br>
今まで、こんなにも幸せを感じた試しがなかったジュンは、<br>
巧くいきすぎることが却って不安だった。<br>
ある日、突然に、この生活が破綻してしまうことを、何より恐れていた。<br>
<br>
「……バカだな、僕は。そんな映画みたいなコト、滅多に起きるわけないだろ」<br>
<br>
独りごちて、掃除機のスイッチを切った。<br>
これで、家事はあらかた終わり。洗濯は少ないから、明日、纏めてやればいい。<br>
ジュンは自室兼作業場に入って、スケッチブックを手に取った。<br>
閃くままに走り書きした数々のアイディアは、その殆どが具現されている。<br>
さながら、予言書といったところか。<br>
ページを捲る指が、真っ白な紙面を引き当てて、止まる。奇しくも最終ページだった。<br>
<br>
(今は、彼女のためにドレスを創ろう。<br>
この不安を焼き尽くすほどの、熱い想いを込めて)<br>
<br>
ジュンは一心不乱に、スケッチブックにペンを走らせ始めた。<br>
<br>
<br>
<br>
一時間ほどデザインを考えていたが、どれもイマイチで、しっくりこない。<br>
描けば描くほど、マンネリに見えて苛立ちが募った。<br>
どれもこれも、既視感ばかりが目立ってしまう。<br>
<br>
<br>
「あー……ダメだ。ちょっと休憩するか」<br>
<br>
睡眠不足による為か、それとも気負い過ぎなのか。<br>
とんと素晴らしいアイディアが湧いてこない。<br>
こう言うときは、気分転換が1番の妙薬だ。<br>
<br>
<br>
「ひと眠りしてもいいけど……シリアルとか、いろいろ切らしてたよな。<br>
散歩がてら、近くのコンビニでも行ってくるか」<br>
<br>
小腹も空いたし、ついでに菓子パンと、栄養ドリンクでも買ってこよう。<br>
ジュンは外出着に着替えて、玄関に向かった。<br>
ドアノブを回して、きちんと施錠されているのを確かめ、エレベータまで歩を進める。<br>
<br>
午前10時過ぎ。<br>
この時間、大概の家庭では夫や子供を送り出して、主婦が家事に勤しんでいる頃だ。<br>
ドアが並ぶ通路に、擦れ違う者は居ない。<br>
秋の陽気の下、遠くからゴミ収集車の暢気なメロディが聞こえてくる。<br>
体育祭シーズンも過ぎたし、この分だと年末なんて、あっと言う間だろう。<br>
そんな取り留めないことを考えている内に、エレベータに辿り着いた。<br>
しかし、その扉はピッタリと閉ざされ、貼り紙がしてある。<br>
<br>
「定期点検中? しまった、今日だったか」<br>
<br>
みつの部屋にも、エレベータの点検作業を報せる紙片が投函されていた。<br>
それは、ジュンも目にしていたし、承知しているつもりだった。<br>
けれども、あくせくと時間に追われない生活を送っている彼は、<br>
規則正しく暮らしている人たちに比べて、曜日や日付の感覚がルーズになっている。<br>
ゴミ出しの曜日を間違えることも、しばしばだった。<br>
<br>
<br>
とにかく、ここで文句を呟いていたところで、定期点検が早く終わるワケでもない。<br>
ジュンは動かないエレベータの前を離れ、階段まで歩くことにした。<br>
前方から歩いてくる人影が目に映ったのは、その時だった。<br>
向こうも彼に気付いたらしく、あ……と微かな声をあげて、口元に手を翳した。<br>
<br>
<br>
「……よ……よお」<br>
「あ……えと…………おはよう、かしら」<br>
<br>
ジュンのぎこちない挨拶に答えるのは、同じ階の住人にして、高校時代の級友。<br>
彼の下駄箱に、ラブレターを投函したこともある娘だった。<br>
<br>
あの頃の自分は、精神的に幼かったと、ジュンは思う。<br>
疎ましく思うあまり、彼女の想いを拒絶することに、罪悪感など抱かなかった。<br>
みつと過ごしてきた時間が、ジュンを良い方に変えてくれたのだろう。<br>
恋愛の対象とは見なしていないのは、今も変わらないけれど、<br>
以前のように、目の前に佇んでいる娘を否定するつもりは無かった。<br>
<br>
「こんな時間に逢うなんて、珍しいな。寝坊したのか、金糸雀」<br>
「なっ! 違うかしら。今日は講義が無いから、二度寝してただけかしら」<br>
「二度寝と寝坊って、違うものなのか?」<br>
「似て非なるものかしら。トカゲとイモリみたいなものかしら」<br>
「例えがミョーだけど……ま、いいや。僕はコンビニ行くから……じゃ、またな」<br>
<br>
「ええ、また――」と、いかにも名残惜しそうに、金糸雀は寂しげに目を伏せる。<br>
そんな彼女の脇を、ジュンは大きな欠伸をしながら擦り抜けて、階段を目指した。<br>
今日は、いつになく眠気が強い。やはり、早めに買い物を済ませ、仮眠しよう。<br>
ドレスのデザインは、納得がいくまで、じっくり仕上げればいいのだ。<br>
<br>
そう思った直後、ジュンは突如、急激な墜落感に襲われて、思案を中断した。<br>
世界が目まぐるしく回り、腕と言わず足と言わず、身体中に激痛が走る。<br>
そして、トドメと言わんばかりに、ジュンの後頭部が強打された。<br>
自分の身に起きた事を理解しようと目を見開くが、視界が霞んで何も判らない。<br>
徐々に暗転してゆく視界に、黒い人影が駆け込んできた。<br>
<br>
「ジュンっ! しっかりするかしら、ジュンっ! いま救急車を――」<br>
<br>
懸命に呼びかける金糸雀の声も、彼の遠退く意識を引き戻すことは出来なかった。<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
気付いたときは、病院のベッドの上だった。<br>
目を覚ましたジュンの顔を、目を泣きはらした、みつの顔が覗き込む。<br>
彼女の後ろには、心配そうな金糸雀や、姉のりの泣き顔もあった。<br>
金糸雀から連絡を受けて、二人とも取るものも取り敢えず駆けつけたのだろう。<br>
みつに対しては店の経営が軌道に乗り始めていただけに、申し訳ない気持ちで胸が痛んだ。<br>
<br>
<br>
(ごめんな……心配かけちゃって)<br>
<br>
謝らなければいけない。<br>
そして、仕事の方を優先してくれと、頼まなければならない。<br>
今が大事な時だというのに、見舞いや看護で、店をなおざりにしては駄目だ。<br>
<br>
しかし、ジュンは返事を出来なくて、愕然とした。まったく声を出せない。<br>
ばかりか、身体を……指の一本も動かせなかった。<br>
一体、何がどうなったというのか。<br>
焦って全身を動かそうとするも、できるのは、せいぜい瞬きすることくらいだった。<br>
<br>
<br>
<br>
脊椎や頭部強打による、神経伝達系の損傷……医者は、そう言った。<br>
運動神経に障害があって、横紋筋の随意性が著しく疎外されているらしい。<br>
内臓器は不随意筋である平滑筋のため、影響が出ていないが、<br>
随意筋の方は、瞼など僅かな箇所が、辛うじて動かせる状況とのことだった。<br>
<br>
みつはワナワナと震えながら医者に詰め寄り、治る見込みについて訊ねた。<br>
だが、返答は鉄槌の如く、彼女の希望を砕く。<br>
<br>
「あなた、医者でしょうっ?! なにか……なんとかしてよ!」<br>
「みっちゃん、落ち着いて! お願いだから、冷静になるかしらっ!」<br>
<br>
半狂乱になって喚く彼女の腕を、のりと金糸雀が両脇から抱え込んだ。<br>
みつは、そんな二人を突き飛ばしかねない勢いで捲し立てる。<br>
金糸雀は懸命にしがみつき、涙声を振り絞って、押し止めようとしていた。<br>
その騒ぎを聞きつけ、病室の入り口に、看護士や入院患者たちが集まりだす。<br>
<br>
(……止めてくれっ!)<br>
<br>
心の中で、ジュンは叫ぶ。<br>
苦痛に歪む、みつの顔を見るのが辛かった。<br>
悲痛に打ち震える彼女の嗚咽を聞くのが、すごく苦しかった。<br>
自分のせいで、親しい人たちの人生を狂わせてしまうことが、とても悲しかった。<br>
<br>
(お願いだ! みんな…………もう止めてくれよっ!)<br>
<br>
胸に渦巻く、やるせない想いを、声に出したい。<br>
大声で叫んで、この喧噪を鎮めたい。<br>
<br>
なのに、ジュンは唇を開くどころか、身体を起こす事すらできなかった。<br>
涙さえ、溢れることはなかった。<br>
<br>
<br>
<br>
それからの日々は――<br>
ジュンにとって、絶望の連続だった。<br>
<br>
<br>
――僕は、人形になってしまったんだ。<br>
<br>
<br>
いや……人形ならば、まだマシだ。食事も、排泄の心配も、しないでいいのだから。<br>
呼吸をする必要もなければ、眠らなくたっていい。<br>
誰も居ない部屋で独り、日当たりの良い窓辺に座って過ごす日常。<br>
移ろう季節を横目に、ぼんやりと主人の帰りを待っているだけが、生活の全て。<br>
<br>
<br>
……ああ。<br>
いっそ、そうなれたなら、どれ程か幸せだろう。<br>
今の状態は、苦痛しか生み出さない。<br>
生きる上で必要不可欠な食事ひとつとっても、そう。<br>
内臓に問題が無いため、点滴だけに頼らず、流動食も摂らされるのだ。<br>
自分の意志で顎を動かせないから、喉にチューブを押し込まれて、流し込まれる。<br>
<br>
それは食事ではなく、餌付け。無理矢理に、エサを食べさせられているに等しい。<br>
ジュンの心は屈辱にまみれ、自由にならない身体に憤った。<br>
鬱積した黒くドロドロした感情は、彼の理性を、光の射さぬ深淵に引き込んでいく。<br>
そして、彼の精神は闇の中で縮こまり、例えようのない深い哀しみに啜り泣くのだった。<br>
<br>
<br>
<br>
そんな、ある日のこと。<br>
茫乎とした眼差しを、秋晴れの空に彷徨わせていたジュンの耳に、<br>
どこからか、女の人の澄んだ歌声が流れ込んできた。<br>
筋肉は動かせずとも、鼓膜さえ震えれば音は聞こえる。<br>
どうやら、開け放した窓の外から、届いてくるようだった。<br>
<br>
<br>
(歌か……いいな。歌えるほど元気なら、もう退院が近いんだろう)<br>
<br>
そう思った直後、不意に歌声は止み、程なく、言い争う声に変わった。<br>
どうしたと言うのだろう?<br>
気になって耳を澄ましたジュンは、なんとか、幾つかの単語を拾う事ができた。<br>
<br>
(めぐ……って名前なのか? 治らないとか……死ぬとか言ってたな)<br>
<br>
病院とは、なんとも厭な空間だ。死が日常的すぎて、現実よりも身近に感じられる。<br>
ジュンもまた、めぐという女性の言葉に感化され始めていた。<br>
<br>
(このまま治らないなら…………いっそ、死にたいな)<br>
<br>
生きていながら、死んでいるに等しい今の状態は、自分のみならず、<br>
周囲の人々も不幸に陥れている。<br>
心から愛している彼女――草笛みつを苦しめている。<br>
自分が彼女の幸せな未来を遮る壁になっているのだと思うと、死んで詫びたくなる。<br>
けれども、今のジュンは、自分の舌を噛み切ることすら出来ない、無力な人形。<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
みつは毎日、欠かすことなく病院を訪れては、ジュンの世話をしていく。<br>
時に、汚物の付着したおむつさえも、彼女は厭な顔ひとつせずに変えてくれる。<br>
その度に、嬉しさと同時に、自分の存在が足枷でしかない事実を思い知らされ、<br>
ジュンは気が狂いそうになった。<br>
<br>
――悔しかった。ただただ、口惜しかった。<br>
死にたいとすら思うのに、麻痺した身体では、自殺も叶わない。<br>
自力で彼女の元から離れていけない自分がもどかしくて、呪わしくて――<br>
<br>
それなのに、ジュンの双眸から感情が溢れることはない。<br>
相も変わらず、電池じかけの人形みたいに、瞬きと呼吸を繰り返すだけ。<br>
口内に溜まる唾液すら自力で飲み込めず、機械で吸い出していなければ窒息する。<br>
人間としての尊厳もない、この状況は、はたして生きていると言えるのだろうか。<br>
<br>
<br>
(僕は、いつになったら……死ねるんだ。早く死なせてくれよ)<br>
<br>
生気のない目を外の景色に向けていたジュンの耳に、めぐの歌声が忍び込んできた。<br>
いつもながら綺麗な声だ。最近では、この歌を聴くのが心の慰めになっている。<br>
死にたがりの女性が、気紛れで奏でる歌。<br>
そこに癒しを求めるのは、同病相憐れむ、というやつかも知れない。<br>
<br>
ジュンが瞼を閉じて聞き入っていると、不意に、歌声が止んだ。<br>
だが、いつものような苛立ちの声は聞こえない。<br>
代わりに、驚くほど優しい声が、誰かに話しかけていた。<br>
<br>
「いらっしゃい、水銀燈。<br>
ねえ……知ってる? この病院の10階に、眠り姫が居るんだって。<br>
死んだら鳥になりたいと思っていたけど……ずぅっと眠り続けるのも素敵よね」<br>
<br>
聞いて、ジュンは『本当に、そうなのか?』と思った。<br>
楽しい夢を、終わることなく見続けていられるのなら、そんなに幸せなことはない。<br>
だが……その夢が、耐え難い悪夢だったとしたら?<br>
丁度、彼が置かれているような、酷い状況だったなら、同じ事が言えるだろうか。<br>
<br>
ジュンは心の中で、声しか知らない女性に、話しかけた。<br>
<br>
<br>
(傲慢だな、君は――<br>
綺麗な声で歌うことが出来る。自由に動き回ることが出来る。<br>
今みたいに、親しい誰かと言葉を交わして、笑い合うことも出来る。<br>
その気になりさえすれば、僕の首を絞めて、殺してくれることだって出来るのに。<br>
<br>
なのに! 君は『死にたい』だなんて言う! 傲慢すぎるよ!)<br>
<br>
めぐに向けた憤りは、深い哀しみとなって彼自身に跳ね返ってくる。<br>
そして、ジュンは誰にともなく祈った。<br>
<br>
<br>
(お願いだ――せめて、涙を流させてくれ。行き場のない感情を、吐き出させてくれ)<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
店の定休日を翌日に控えた夕方、みつがジュンの集中治療室を訪れた。<br>
宿泊の許可を得たらしい。結構な荷物を持参している。<br>
<br>
「今日は久しぶりに、ずっと一緒だね、ジュンジュン」<br>
<br>
陽気に軽口を叩いて、少女のように屈託なく笑う彼女を見ていると、<br>
ジュンの心は幸福感よりも、罪悪感で満たされていった。<br>
気苦労の欠片も表さず、献身的に世話を続ける姿は、彼に苦痛しかもたらさない。<br>
惨めだ、と思う。何もかも、みつに頼り切りの自分が。<br>
そして、そんな無力な自分を見られるのが、筆舌に尽くしがたいほど恥ずかしかった。<br>
<br>
<br>
――もう、来ないでくれ。<br>
<br>
一言だけでも伝えたい。<br>
いっそ、胸に積もり積もった憂鬱を声にできたら、どれほど気楽だろう。<br>
<br>
「この間、ジュンジュンにデザインを頼みたいってお客さんが、お店に来たの。<br>
最近、めきめきと知名度あがってるんだよー」<br>
<br>
我が事のように、嬉しそうに語る。<br>
ジュンの話をする時、みつはいつも幸せそうだった。<br>
こんな状態になった今でも、それは変わらない。<br>
<br>
何故なんだ? ジュンには、彼女の心境が理解できなかった。<br>
知名度が上がろうと、客から依頼があろうと、彼には何もできない。<br>
家や店に居たって邪魔なだけ。招き猫でも置いた方が、よほど店の看板になる。<br>
つまりは、ただのガラクタ野郎なのだ。<br>
こんな足手まといのジャンクなんか、さっさと見限ってしまえばいいのに。<br>
何を好き好んで、この人は苦労を背負い込むのだろう。<br>
意志の疎通もままならない二人を残して、時間は滔々と流れゆく。<br>
<br>
<br>
午後になって、のりが病室に顔を覗かせた。みつと同様、姉も毎日、彼の元を訪れる。<br>
普段どおりの、どこか間の抜けているような、朗らかな笑顔。<br>
のりが振りまく雰囲気は、病室の重く沈んだ気配を和ませてくれる。<br>
<br>
「あらぁ……草笛さん、お疲れみたい」<br>
<br>
彼女は、みつが欠伸を堪えて目をショボショボさせている様子を見て、<br>
心配そうに表情を曇らせた。<br>
ハッと我に返り、みつが「平気よ、これくらい」と気丈に微笑む。<br>
けれど、のりは不安げな顔を崩さなかった。<br>
<br>
「ダメよぅ、無茶したら。あなたまで病気になったら、どうするの?<br>
ジュン君だって、きっと悲しむわ。ここは私に任せて……仮眠してきて。ね?」<br>
「…………それじゃあ、お言葉に甘えておくわ。ちょっとの間、お願い。<br>
ロビーに居るから、何かあったら遠慮なく呼んでね」<br>
<br>
のりの細やかな配慮に感謝の意を示して、みつは財布だけを手に、病室から出て行った。<br>
<br>
<br>
扉が閉ざされ、足音が充分に遠ざかると、のりは微笑みを貼り付かせたまま、<br>
ジュンのベッド脇に置かれた椅子に座った。<br>
そして、慈愛に満ちた眼差しで、無表情の彼の顔を、穴が空くほど見つめる。<br>
優に五分は、そうしていただろうか。<br>
徐に、のりの唇が動き出した。<br>
<br>
「ねえ……ジュン君は今、幸せ?」<br>
<br>
幸せなもんか! ふざけたこと言うな、お茶漬けのり!<br>
お見舞いに来てくれた人に対して、とんでもなく無礼だと承知しつつも、<br>
ジュンは胸裏で毒突かずにはいられなかった。<br>
彼の心境を知ってか知らずか、のりは小さく吐息して、言葉を続ける――<br>
<br>
<br>
「そんなワケないわよねぇ。だって……何も、出来ないんだもの。<br>
お姉ちゃんね、ジュン君の身体を元どおりに戻せるなら、何でもしてあげたい。<br>
そう思って、ずぅっと頑張ってきたの」<br>
<br>
姉の朗らかな笑顔に、ふぅ……っと、悲しげな影が差した。<br>
<br>
「……でもね、もうダメなの。ごめんね、ジュン君。<br>
お姉ちゃん……もう疲れちゃった。ジュン君の姿を見ているのが、辛いのよぅ」<br>
<br>
寂しそうな呟きを放つのは、思い詰めた表情の、のり。<br>
ジュンはいまだ嘗て、そこまで悲壮に満ちた姉の顔を、見たことがなかった。<br>
<br>
<br>
「ジュン君も……楽になりたいでしょ?<br>
これ以上、苦しむのはイヤでしょ? だから……ね」<br>
<br>
おずおずと差し伸べられる姉の両手が、ジュンの肌に触れる。<br>
秋の風で冷やされた指が、ジュンの首に絡み付いてくる。<br>
そして――<br>
<br>
<br>
「お姉ちゃんが、ジュン君の望みを……叶えてあげるから」<br>
<br>
肩で荒い呼吸を繰り返す姉の両手に、じわじわと力が込められた。<br>
気道と頸動脈が圧迫されて、苦しさが増していく。<br>
けれど、ジュンは何故か、嬉しかった。<br>
自分の本音を理解してくれた姉に、心から感謝していた。<br>
<br>
うれしい! 嬉しい!<br>
やっと楽になれる。苦痛でしかない毎日から、解放してもらえる。<br>
<br>
<br>
(……ありがとう、姉ちゃん。<br>
これで、僕は望みどおり死ねる。もう、誰にも迷惑かけずに済むんだ)<br>
<br>
望みが叶うというのは、こんなにも幸せなことなんだな。<br>
ジュンは、段々と薄れゆく意識の中で、漠然と思った。<br>
<br>
のりの両手から、力が抜けることはなかった。<br>
衝動的な行為ではなく、散々に悩み、葛藤した末の決断だから躊躇がない。<br>
ジュンとしても、それは望むところ。<br>
中途半端に絞められる方が、死を迎えるまで、苦しみが長続きしてしまう。<br>
<br>
<br>
「ごめんね……ジュン君。ごめ……んね、ごめんね……」<br>
<br>
のりの声は、震えていた。<br>
顔に合わない大きさの丸メガネの奥で、つぶらな瞳が絶え間なく涙を溢れさせている。<br>
譫言のように謝り続けながら、眼は真っ直ぐに、弟の最後を見届けようとしていた。<br>
<br>
そんな健気な姉に、ジュンは心の中で呟く。恨みっこないだろ、と。<br>
子供の頃から、のりは甲斐甲斐しく面倒を見てくれた。<br>
引きこもっていた時ですら、決して諦めずに、根気よく見守ってくれた。<br>
そして今も、ジュンの願いを見抜き、叶えようとしてくれている。<br>
<br>
――伝えたい。今まで言葉にしてこなかった、この気持ちを。<br>
<br>
鬱血で顔が破裂しそうだったが、ジュンは姉に向けて、瞬きをした。<br>
まだ、自分の意志で動かせる瞼で、ありったけの感情を表現した。<br>
正しく通じるかなんて解らないけれど、どうしても――伝えたかったから。<br>
<br>
ぱちぱちと、一定間隔で、五回のまばたき。<br>
『ア リ ガ ト ウ』の想いを込めた、ラストレター。<br>
<br>
<br>
(姉ちゃん、気付いたかな。いや……気付くわけないか。昔っからニブいもんな)<br>
<br>
もしも笑えたなら、ジュンは声をあげて笑っただろう。<br>
首を絞められて、声が出なくとも、満面に笑顔を湛えただろう。<br>
だが、そう出来なくても、彼は満足だった。<br>
この魂の器を捨てることで姉や、みつ、金糸雀を辛苦の縛鎖から解き放ち、<br>
自分も楽になれる。<br>
なぁんだ、良いことずくめじゃないか……と。<br>
<br>
(あれ? なんだか……楽になってきた。あと……十秒も保たないな)<br>
<br>
命のカウントダウンを始めたジュンの脳裏に、みつの微笑みが過ぎる。<br>
とても、とても、幸せそうに笑っている――<br>
念願の店を開いた時だったか、あれは。<br>
<br>
自分だけの宇宙を創る<br>
<br>
それが、出会った日に聞かされた、彼女の目標だった。<br>
ただひたすらに突き進んで、多少どころではない痛みを味わい続けて、漸く手にした幸福。<br>
自分が死ぬことで、あの笑顔を、彼女の幸せを守ることができる。<br>
ジュンにとっては、それが何よりの手向けだった。<br>
<br>
(ああ、そうだ。彼女に『さよなら』言うの忘れてたな。<br>
今頃になって思い出すなんて、つくづくタイミング悪いな、僕も)<br>
<br>
もう……間に合わない。カウントは、残り4。<br>
カウント3。ジュンの頭の中で、諦念が溶けていく。<br>
意識が失われていき、何もかもが真っ白になっていく。カウント2。<br>
そして……。<br>
<br>
カウント1を切った直後、病室の扉が、勢いよく開かれた。<br>
間髪いれず、なにか重たい物が、下半身に落下した感触。<br>
解放される気道。急速に薄れゆく窒息感。<br>
頭部に停滞していた血液が、ありとあらゆる血路を迸り、全身に駆け巡っていく。<br>
血管が、ちくちくと痛んだ。<br>
<br>
「馬鹿っ! なんてコトしてるのよっ!?」<br>
<br>
激しい怒気を含んだ声が、病室に轟いた。<br>
鬱血により暗転していた視界がクリアになるにつれて、ジュンは状況を悟った。<br>
みつに突き飛ばされて、のりは彼のベッドに倒れ込んでいた。<br>
弱々しく嗚咽して、肩を震わす姉を、みつが力任せに引き剥がす。<br>
<br>
「出てって! もう帰って!」<br>
<br>
ああ、まただ……。<br>
反論もせず、ただ謝りながら、みつに追い立てられる姉の弱々しい姿を見て、<br>
ジュンは悲しみのあまり、胸が張り裂けそうだった。<br>
愛する人と、愛する姉が、醜く啀み合う世界なんか欲しくなかったのに。<br>
<br>
(どうして僕を苦しめ続けるんだ。いい加減にしてくれよ!)<br>
<br>
病室の扉を閉ざすバシンという大きな音は、みつの怒りの具現だった。<br>
出会ってからこの方、こんなにも彼女が激憤した様は見たことがなかった。<br>
みつは何時だって、おおらかで優しく、大人の余裕を備えていたから。<br>
<br>
だが、今の彼女は違う。彼女自身、暴走しそうな感情を持て余している。<br>
辛うじて、理性で押し止めている様にみえた。<br>
ドアに鍵をかけた姿勢のまま、ジュンに背を向け、立ち尽くしているのも、<br>
怒りに歪んだ醜い顔を見せたくないが為だろう。<br>
<br>
<br>
「ゴメン…………ね」<br>
<br>
消え入りそうな頼りない声が、ジュンの耳朶を打つ。<br>
<br>
「取り乱したりして、本当に……ごめんなさい。でも、私――<br>
さっきは、どうしても自分が抑えられなかった。<br>
ジュンジュンを奪われると思った途端、アタマに血が昇って……<br>
考えるより先に、身体が動いていたの」<br>
<br>
ゆっくり、ゆっくりと――<br>
「私には、もう……」<br>
<br>
みつは、肩越しに振り返った。止めどなく、涙を溢れさせながら。<br>
「あなたの居ない人生なんて……考えられないんだもの」<br>
<br>
<br>
泣きながら微笑み、覚束ない足取りでベッドに歩み寄ったみつは、<br>
ジュンの身体にのしかかって、彼の頬を両手で挟み込んだ。<br>
<br>
「あなたは、私の夢。たくさんの希望が詰め込まれた、宝箱みたいな存在なの。<br>
自分のセンスを磨くことも、お店を持つことも、全ての目標は通過点でしかないわ。<br>
私は、ジュンジュンと一緒に、どこまでも歩いて行きたい。<br>
一生かけても辿り着けないかも知れないけど、あなたと手を取り合って、<br>
遙か彼方にある何かを追いかけ、ガムシャラに生きていきたいのよ」<br>
<br>
続く言葉を紡ぐ直前、みつは物言わぬジュンの額に、キスをした。<br>
そっと触れた合うだけの唇から、微かに震えが伝わってくる。<br>
潤んだみつの瞳が、真っ直ぐにジュンを見つめていた。<br>
<br>
<br>
「夢って、そういうものでしょう?」<br>
<br>
<br>
――夢。<br>
それは儚くも美しくて、虚しくも縋ってしまう、哀しい響き。<br>
けれど、それなくしては、誰も明日への希望を見出せはしない。<br>
ジュンの心もまた、同じだった。<br>
いや……誰よりも夢を欲していたのだと、気付かされた。<br>
<br>
(――バカだ! 僕は、なんてバカだったんだ。<br>
みんなの為だなんて物分かりのいいフリして、苦痛から逃げようとしていた。<br>
彼女の夢を邪魔しないように、死のうと思っていたなんて、何も解ってなかったんだ!) <br>
<br>
<br>
ジュンが自殺することは即ち、みつの夢を奪うことに等しかった。<br>
守りたくて、良かれと思っていた事は、皮肉にも彼女の未来を閉ざすことだった。<br>
馬鹿げている。筆舌に尽くしがたいほど馬鹿げている。<br>
<br>
過ちに気付いた途端、ジュンの胸に蟠っていた黒い情念が消えていった。<br>
空を覆い尽くす暗雲も、風が吹けば切れ間が生まれ、太陽の眩しい光が射し込んでくる。<br>
風は、変化を表す詞。たかが微風でも、集い合わされば竜巻にすら姿を変える。<br>
人の心も、同じことだ。<br>
僅かな心境の変化が、漆黒の闇に希望という光明をもたらし、夢を見出す契機を与え得る。<br>
<br>
(もう一度、生き直したい。今度は僕だけの為じゃなく、みんなの夢として。<br>
転んでも立ちあがり、醜態を晒しても、立ち止まらずに歩いていこう。<br>
彼女の幸せを守るためなら――――僕は、何だって出来るんだから)<br>
<br>
<br>
<br>
夜も更け、消灯時間がやってくる。<br>
みつはジュンの世話をした後、彼のベッドに突っ伏して、すぐに寝息を立て始めた。<br>
病院のこと、店のこと、家に帰れば家事もこなさねばならない。<br>
線の細い彼女の体躯には、想像を絶する疲労が蓄積されていたのだろう。<br>
<br>
肩に掛けたカーディガンが、ずれて落ちそうになっている。<br>
今はまだ、それを掛け直してあげることすら出来ないけれど――<br>
ジュンは心の中で、みつの寝顔に囁きかけた。<br>
<br>
(二人で、夢を追いかけていこう。もう、置き去りになんてしないよ……絶対に)<br>
<br>
<br>
その日から、ジュンは生まれ変わった。彼の瞳には、強い意志が宿っていた。<br>
もう、茫乎とした視線を彷徨わせることは無い。<br>
生きていくために不可欠な夢を、手に入れたのだから。<br>
<br>
この身体を、もう一度、動かしたい。<br>
そして、彼女に触れたい。力強く、抱き締めてあげたい。<br>
二人の恋は、この程度で褪めてしまう脆弱なものじゃないと証明する為に。<br>
そして、熱く恋を燃えたたせて、愛へと昇華させる為に、今一度――<br>
<br>
(僕はまだ、死んじゃいない。身体だって、全部が壊れたわけじゃない。<br>
回路の一部が損傷したって、バイパス回路を繋げれば、また動かせる筈だ)<br>
<br>
かつて、錬金術におけるヘルメス思想では、人体を宇宙と対比して、ミクロコスモスと呼んだ。<br>
抽象的だけれど、神秘性を表す言葉として、深遠なる宇宙は最適だろう。<br>
人間の可能性は、無限大。<br>
どれほどの偉人であれ、自己の可能性を完璧に把握することなど出来ない。<br>
ジュンにだって、奇跡を起こす能力が眠っているかも知れないのだ。<br>
以前ならば、端から諦めて努力を放棄しただろうが、今の彼は違う。<br>
<br>
(医者は、治療の手助けをしてくれるだけ。<br>
結局のところ、僕の身体は、僕にしか治せないんだ)<br>
<br>
元通りに動けるようになれるのか。それとも、一生このままか。<br>
答えは、希望という扉の向こうにある。その扉を開く鍵は、ジュンの手の中にある。<br>
みつに教えられて見つけた、夢という名の、小さな鍵が。<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
三ヶ月後――<br>
年も明け、正月の忙しなさを人々が忘れ始めた頃の、夕方。<br>
<br>
「来たわよー、ジュンジュン。調子は、どうかなー?」<br>
<br>
今日も病室に顔を見せた彼女に、ジュンは俯いていた顔を上げ、頷く。<br>
彼の手元には、広げられたスケッチブック。<br>
まだ思うようには手指を動かせないけれど、入院生活の退屈な時間を、<br>
デザインの研究へと割り当てているのだった。<br>
手を動かしながらの方が、脳がより多くの刺激を受けるので、アイディアも閃く。<br>
おまけに、運動神経のリハビリにもなるとあっては、正に一石二鳥というものだ。<br>
一週間前まで呂律が回らなかった口調も、今では会話に困らないほど回復していた。<br>
<br>
「……今日は、寒かっただろ」<br>
<br>
窓の外に広がる、どんよりと暗い冬の空を一瞥して、ジュンが問いかける。<br>
みつは「そりゃあ冬だもの」と口の端を上げて、彼のベッドに腰を掛けた。<br>
<br>
「ほぉら……ね」<br>
<br>
と、差し出された手が、ジュンの頬を撫でる。<br>
ジュンはペンを置き、スケッチブックを閉じて、みつの冷え切った手を握った。<br>
少し、ガサついた感触。気のせいではなく、彼女の手は以前より痩せ、肌荒れしていた。<br>
朗らかに笑って見せていても、疲れは健康状態となって、如実に現れるものだ。<br>
<br>
<br>
ジュンは、不意を衝いて、彼女の細腕を手繰り寄せた。<br>
みつが、小さな驚きの声をあげて、前のめりに倒れ込んでくる。<br>
年上で、自分より背の高い彼女だけれど、ジュンは真っ正面から抱き留めた。<br>
<br>
<br>
「……寒いなら、こうして、汗ばむくらいに温めてやるよ。<br>
疲れたなら、いつだって寄りかかれば良いよ。どんな時も、僕が支えてやるから」<br>
<br>
彼女の背に腕を回して、ジュンは自らの言葉を、実行に移した。<br>
いつか抱いた願望のままに、力強く抱き寄せる。<br>
彼の腕の中で、みつは、ちょっとだけ息苦しそうに呻いた。<br>
<br>
「ずっと側にいるから……ずっと側にいてくれ」<br>
<br>
耳元で囁いた言葉への返答は、ジュンの耳元にかかる、優しい微笑み。<br>
<br>
「変わったね、ジュンジュン」<br>
「……そうか?」<br>
「うん。以前は、少しあどけなくて……恋人とはいえ、弟に近い存在だった。<br>
でもね、今は逞しく見える。ボーイフレンドから、頼れる男性に成長した感じかな」<br>
「子供扱いされてたなんて、ちょっと気に入らないな」<br>
「まあまあ。拗ねない拗ねない」<br>
<br>
ぎゅっ……と、みつの腕が、ジュンの身体を抱き締める。<br>
<br>
「――私に夢を見せてくれるのは、あなただけなの。<br>
だから、離れたくない。このまま――」<br>
<br>
<br>
私を離さないでね。<br>
まるで幼子の様にしがみつく彼女の頬に口付けて、ジュンはみつの髪を撫でた。<br>
<br>
「イヤだと言ったって、離してやるもんか。<br>
どんな不幸も、困難も、僕らの絆を深めるキッカケにしてやるだけさ。<br>
全ては目標。夢への通過点に過ぎないんだから。そうだろ?」<br>
「…………ええ。私たちの夢は、まだまだ遠くにあるけど」<br>
「歩いていけば良いさ。二人で手を繋いで――<br>
差し当たっては、姉ちゃんとの仲直りが、記念すべき第一歩だな」<br>
「そうね。私は、とっくに彼女を許しているんだけどなぁ」<br>
「姉ちゃんの方は……どうだろう?<br>
愚行を悔いて、早まった真似してなきゃいいけど」<br>
「彼女は見た目よりずっと強い人だから、大丈夫だと思うよ。<br>
なーんか解るのよ。私と彼女って、性格的に似てるのね、きっと」<br>
<br>
「心配なら、電話してみる?」言って、みつが自分の携帯電話を取り出す。<br>
それを受け取ったジュンは、御礼がわりにと彼女の唇を奪って、自宅にダイヤルした。<br>
<br>
<br>
「…………もしもし。姉ちゃん?<br>
<br>
あ、あのさ……会えないか…………うん。<br>
<br>
これから――――僕たちと」<br>
<br>
<br>
<br>
<br>
『醒めた恋より 熱い恋』 完<br>
<br>