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『真夏の夜の夢想』」(2006/03/01 (水) 00:17:29) の最新版変更点

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<p><a title="manatu" name="manatu"></a><br>   『真夏の夜の夢想』</p> <p>――七月下旬。</p> <p>今日も、ぎらぎらと照りつける日差しが強い。<br> 焼けたアスファルトから立ち上る熱気で、冷房の効いた講堂から出て三分と経たず、<br> 蒼星石の額に汗が浮かんできた。</p> <p> 蒼「ふわぁ…………暑い」</p> <p> 講堂では、カーディガンを羽織らなければ震えが走るほどだったのに……。<br> この急激な寒暖の差は、つくづく身体に悪い。<br> 蒼星石は木陰のベンチにバッグを降ろして溜息を吐くと、脱いだカーディガンを<br> 綺麗にたたんで、バッグに放り込んだ。</p> <p>♪マダ-イワナ-イデ-♪</p> <p> その直後、バッグの中で鳴り出す着信音。電話だ。誰からだろう?<br> ごそごそ……手探りで探し当てると、蒼星石はベンチに座って、携帯を耳に当てた。</p> <p> 蒼「はい、もしもし……」<br>  ?『やあ、蒼星石。僕だけど――いま時間、平気かな?』</p> <p> 受話器から流れ出す聞き慣れた声に、蒼星石の表情がほころんだ。<br> 同じ大学に通うようになってから、交際を始めた彼の声だった。<br>  <br>  蒼「うん、大丈夫。丁度、試験が終わったところだから」</p> <p> 現在、明伝大学は前期試験の真っ最中。これを終えない限り、学生達に夏休みは来ない。<br> 蒼星石とジュンは専攻した学科が異なるため、試験の日程も必然的に食い違っていた。</p> <p> ジ「そっか。どうだった、出来の方は?」<br>  蒼「まあまあ……かな。今日は一科目だけだったから、集中的に勉強できたし」<br>  ジ「そりゃ羨ましい。僕なんか、今日は一科目も入ってなくて、<br>    明日に三科目も重なってるんだぜ。堪んないよ」<br>  蒼「ふふふっ……それは災難だね」</p> <p> その後、暫しの雑談を楽しんでから、ジュンが本題を切り出してきた。</p> <p>  ジ「ところでさぁ……蒼星石は、夏休みの予定って入ってる?」<br>  蒼「えっ? う、ううん。今のところは、何も――」</p> <p> 大学に入ってからは、部や同好会には所属していない。<br> 気に入ったサークルが無いというのが理由だけれど、それ以外にもバイトをしたり、<br> 授業に付いていくので大変だったりと、なかなか時間が作れないのが現実だった。<br> それに、学費も馬鹿にならないから、夏や春の長期休暇はバイトに精を出さないと。</p> <p> ――でも、出来ることならジュンと居る時間を増やしたかった。<br> 折角の夏休み、一緒に海へ遊びに行きたいし、夏祭りや花火大会にも行きたい。<br> だって、ボク達は『カノジョとカレシ』の関係なんだから。<br> 常日頃そう思っていた蒼星石には、ジュンの言葉が願ってもない福音に聞こえた。</p> <p>  ジ「実はさぁ……夏休み中、一緒にバイトしてくれないかなぁって」<br>  蒼「そ、それは勿論、構わないよ。でも、どこで?」<br>  ジ「詳しいことは、メールで説明するよ。地図とか添付したいし」</p> <p> なんだろう? 通話を切った蒼星石は、足早に帰途に就いた。<br> 地図を添付するという以上は、もう勤め先が決まっていると見ていい。<br> 早く帰って、確認しなくっちゃ。</p> <p> 自宅に帰り着くと、蒼星石はPCを立ち上げ、メールを確認した。</p> <p> 蒼「あ、来てる。これかぁ…………えっと」</p> <p> ジュンからのメールには、バイト先の住所や仕事の内容が記されていた。<br> なんでも、ジュンの叔父さんが所有するペンションの管理を、夏の間だけ<br> 住み込みで手伝って欲しい……という事らしい。</p> <p> 蒼「すす、住み込みぃ~?! 聞いてないよぉ」</p> <p>――避暑地のペンションで送る、二人の生活。<br> 想像して、蒼星石は耳まで真っ赤にした。<br> 思えば、付き合い始めてから、まだ二人っきりの旅行すらした事がなかった。</p> <p> しかし、いつまでも今の関係を続ける訳にはいかない。<br> 蒼星石だって女の子。いつかはジュンと二人で家庭を持ちたいと夢見ていた。<br> それに、よくよく見ると日給は良いし、待遇だって悪くない。<br> 仕事の内容も、ペンションの庭園管理だ。翠星石も一緒に……との追記もある。</p> <p>  蒼「な、なぁんだ……ちょっと残念。でも、これなら頑張れそうかな」</p> <p> 蒼星石は、その場でジュンに了解の返事をしておいた。</p> <p><br>  翠「いきなり、そんな話をされても困るです! 勝手に決めるなです!」</p> <p> 夕食後、バイトの件を伝えた途端、翠星石は猛反発した。<br> 了承してくれるものと高を括っていた蒼星石は、思いがけない姉の反応に言葉を失った。</p> <p>  翠「私は、もうバイト先が決まってるです。今更、変えられないです」<br>  蒼「そ、そう……なんだ。ごめん。姉さんの都合も聞かずに勝手なコトして」<br>  翠「解ればいいです。ともかく、引き受けたからには、蒼星石ひとりで行って来るですよ」<br>  蒼「残念だけど、そうするよ。じゃあ……おやすみ、姉さん」</p> <p> ぱたん……と、ドアが閉められると、翠星石は溜息を吐くと同時に頭を降った。</p> <p>  翠「まったく…………いつまで経っても、世話の焼ける妹ですね」</p> <p><br> ――数日後。</p> <p> 試験は全て終わり、ジュンも蒼星石も、幸いにして補習を受けずに済んだ。<br> これで、心置きなく夏休みを堪能できる。<br> ジュンの運転するRV車に荷物や庭仕事の道具を積み終え、ペンションに向かった。</p> <p>しかぁし……。</p> <p>  蒼「道、混んでるね。遅くなると、道が解らなくなっちゃわないかな」<br>  ジ「ナビに登録してあるよ。管理人さんには、遅くなるって電話しといた」<br>  蒼「そうなの? じゃあ、安全運転で行こうね」<br>  ジ「うん。のんびり、ドライブを楽しみながら行こう」</p> <p><br> 湖畔のペンションに到着したのは、とっぷりと日が暮れた頃のことだった。<br> ここまで一人で運転し続けてきたジュンは、すっかり疲労困憊していた。</p> <p>  ジ「なんとか、辿り着けたな。途中で、焦った焦った」<br>  蒼「ホントだよね。道がどんどん細くなっていくし」</p> <p> 談笑しながら車を降りて、ペンションを見上げる。だいぶ老朽化している。<br> 仄明るい空の下で、蔦の絡まった建物は、とても不気味に見えた。<br> 二人は互いに顔を見合わせ、ごくり……と、唾を呑み込んだ。</p> <p>  蒼「ねえ……ジュン。ここって、お化け屋敷じゃないよね?」<br>  ジ「な、なに言ってるんだよ、蒼星石。管理人さんだって居る筈だし」<br>  蒼「でも、電気だって点いてないし」</p> <p> 実際、ジュンは叔父の手紙に書かれたこと以外、何も知らされていなかった。<br> 叔父とは面識が無かったから、差出人を見ても、誰なのか解らなかったくらいだ。<br> なんで僕に頼むんだよと、訝ったりもした。<br> 引き受けたのだって、ペンションの鍵が同封されていたからだ。半ば強制だった。</p> <p>  ジ「管理人さんは、帰っちゃったのかもな。取り敢えず、入ろう」<br>  蒼「うん……手荷物だけ持って、残りは車に載せたままで良いよね」</p> <p> 蒼星石に懐中電灯で手元を照らして貰いながら、ジュンはドアの鍵を開けようとした。<br> その寸前、ドアが嫌な軋みを上げた。黴臭く、埃っぽい空気が流れだしてくる。<br> 開かれた扉から、一人の女性が姿を現した。</p> <p> ?「いらっしゃい、お二人さん。ようこそ――」</p> <p> その女性は、雪華綺晶と名乗った。叔父に雇われた管理人だと言う。<br> 年の頃は、自分達と同じくらい。<br> 右の目に洒落た眼帯をしていて、なんだか威圧感を覚えた。</p> <p>  雪「もう少し早く、いらっしゃると思っていましたわ」<br>  ジ「すみません。予想外に道が混んでて」<br>  蒼「ごめんなさい……」<br>  雪「いいえ、お気になさらず。それより、長旅で疲れたでしょう。<br>    お食事の支度は、これからですので……先に、お風呂の方へ――」</p> <p> それでは……と、二人は雪華綺晶の好意を受けることにした。</p> <p>――ところが。<br> バスタオルと着替えを手に、浴場に着くなり、絶句するジュンと蒼星石。<br> ペンションの風呂は狭い露天風呂で、しかも混浴だった。</p> <p>  ジ「あ、あのさ……先に、蒼星石が入んなよ。僕は次に入るからさ」<br>  蒼「別に……ボクは構わないよ。一緒に、入ろうか?」<br>  ジ「ま、また今度な。僕は管理人さんを手伝いがてら、<br>    仕事の詳しい話とかを聞いてくるよ」</p> <p> そう告げて、足早に立ち去るジュンの背を見詰めながら、蒼星石は呟いた。</p> <p> 蒼「――意気地なし」</p> <p><br> 夕食の支度を終えると、雪華綺晶は帰っていった。<br> 食器や冷蔵庫の中身など、ペンションの備品は、自由に使って構わないそうだ。<br> 勿論、電気や、ガスや、水道も…………。</p> <p> 楽しい夕食のひとときを終え、二人で食器を片付ける。<br> ジュンは蒼星石の入れてくれたお茶を啜りながら、<br> さっき雪華綺晶に訊いておいた仕事内容を、蒼星石に伝えた。</p> <p>  ジ「周りに巻き付いた蔦の除去と、外壁や館内の補修は、僕がやるよ。<br>    蒼星石には、庭園の管理と、周囲の木々の剪定を頼みたいんだ」<br>  蒼「解った、任せといてよ。雪華さんは、何時頃に来るの?」<br>  ジ「就業時間は午前九時から、昼休み一時間を挟んで、午後六時までなんだって。<br>    基本的に、昼間だけだな。館内の掃除と、食事の支度をしてくれるってさ」<br>  蒼「ふぅん。じゃあ、朝食だけは自分達で用意しないといけないんだね」<br>  ジ「だね。当番制にしようか」<br>  蒼「ううん。それなら、ボクが作ってあげるよ」</p> <p> 「いいの?」と訊ねるジュンに、蒼星石は「いつもの事だから」と笑った。<br> どうやら、蒼星石が『作る人』で、翠星石は『食べる人』という図式らしい。<br> この一ヶ月、翠星石は外食ばかりになるのかな……と、ジュンは思った。</p> <p>  ジ「取り敢えず、今日はゆっくりと休もう。明日から忙しくなるから」<br>  蒼「そうだね。おやすみ、ジュン。戸締まりは宜しくね」<br>  ジ「ああ、解った明日の朝食、楽しみにしてるから」</p> <p> ジュンがそう言うと、蒼星石は少しだけ恥ずかしそうに微笑み、階段を駆け上っていった。</p> <p><br> ――その日の真夜中。</p> <p> 蒼星石は、ふかふかのベッドの中で、まんじりともせず天井を眺めていた。<br> 疲れてはいるのだが、普段と違う環境に来たせいか目が冴えて眠れない。<br> なんだか喉も乾いたし、ちょっと水でも飲んでこよう。<br> そう思ってベッドを起き出した蒼星石は、ふと、窓の外に目を向けてギクリとした。</p> <p>誰かが――――庭に居た。</p> <p> 時計を見ると、午前一時を回ったところだった。こんな深夜に、誰が?<br> ごくり……。固唾を呑み込んで、静かに窓際へ近付く蒼星石。<br> 覗き見する様に、そっと窺う。</p> <p> 蒼(あれ……は…………雪華さん?)</p> <p> 暗くてハッキリと見えた訳ではないが、間違いなかった。<br> とっくに帰った筈の雪華綺晶が、明かりも点けず、闇の中で頻りに土を掘り返していた。<br> その不気味な姿に、蒼星石は言い知れない恐怖を感じた。<br> 気持ちが悪い。</p> <p> これ以上は見るに堪えず、蒼星石が後ずさった直後――<br> 蒼星石の恐怖を感じ取ったかの様に、雪華綺晶が、ゆっくりと振り返り、二階の窓を見上げた。<br> 狂気を宿した金色の隻眼が、ひた……と、蒼星石を射抜く。<br> そして、彼女は――――ニタリと嗤った。</p> <p> 蒼(――っ!!)</p> <p> ベッドに潜り込んだ蒼星石は、布団を被ったまま、朝まで一睡もできなかった。</p> <p><br> 翌朝、朝食の支度をしながら、蒼星石は昨夜の事を考え続けていた。<br> あれは、なんだったのだろう? 雪華さんは、何をしていたの?<br> 夜が明けてから庭を見に行ったが、特に何の変化も見付けられなかった。<br> 確かに、掘り返している現場を目の当たりにしたのに。</p> <p> 蒼「やっぱり、夢…………だったのかなぁ」<br>  雪「楽しい夢でも、見られたのですか?」</p> <p> 独り言のつもりが背後から話しかけられて、蒼星石はビクン! と肩を震わせた。<br> 弾みで手を滑らせ、包丁で指を切ってしまった。</p> <p> 蒼「あ、痛っ!」<br>  雪「あらあら……ごめんなさい。驚かせてしまったわね」<br>  蒼「いえ、このくらい……平気だから」<br>  雪「ダメですわ。きちんと手当しないと。丁度、絆創膏を持っていますから」</p> <p> 言って、雪華綺晶は財布から絆創膏を抜き出すと、蒼星石の傷を口に銜えた。<br> ひやりとした雪華綺晶の舌が、血を舐め取る。<br> 蒼星石の背筋に、ぞくぞくと寒気が走った。</p> <p>  雪「さあ、終わりましたわ。これからは、気を付けて下さいね」<br>  蒼「あ、ありがとう……。あの、ちょっと――」<br>  雪「はい? なにか、問題がありました?」<br>  蒼「い、いえ、なんでも」</p> <p> にこやかに微笑む雪華綺晶からは、昨夜の狂気が感じられない。<br> やっぱり、寝惚けていたのかも。蒼星石は、口を噤んだ。</p> <p> 日中は、それぞれの仕事に追われて、顔を合わせる機会が少なくなった。<br> 今まで庭の手入れは、雪華綺晶が独りで細々と行っていたのだろう。<br> けれど、屋内の保守管理に比べれば、どうしても片手間な印象が拭いきれない。<br> 庭園の荒廃ぶりは、蒼星石の目に余る状況だった。</p> <p> 庭園に覆い被さる様に伸びる木々の枝が、全体的に薄暗さを強調している。<br> もう少し日当たりを良くしないと、丈の低い草花が育ちにくい。<br> 奇麗な花を咲かせるのは、そういった草花たちなのに――</p> <p> 蒼「よ~し。まずは、枝の剪定から始めようっと」</p> <p> 車から脚立と高枝切り鋏を持ってきて、蒼星石は周囲の木々から剪定していった。<br> 足場が凸凹しているため、脚立の座りが悪く、思った以上に作業し辛い。<br> 少し高いところの枝を切ろうと背伸びした瞬間、脚立がぐらりと揺れた。</p> <p> 蒼「ひゃっ!」</p> <p>ヤバい、倒れる! <br> 蒼星石はぎゅっと目を閉じて、歯を食いしばった。</p> <p>――がくん。</p> <p> 不意に、脚立の傾きが止まり、蒼星石はバランスを取り直した。<br> おそるおそる瞼を開いた蒼星石の目に、脚立を支えるジュンの姿が飛び込んできた。</p> <p> ジ「危ないトコだったな、蒼星石」<br>  蒼「う、うん…………ありがとう、ジュン」<br>  ジ「独りじゃ危なそうだ。今日は、僕もこっちを手伝うよ」<br>  蒼「それは嬉しいんだけど、ジュンの方は大丈夫なの?」<br>  ジ「室内は雪華さんがよく管理してくれてるから、それほど補修しなくて良さそうだ。<br>    外壁の蔦を剥がす時には、蒼星石の助けが必要だけどさ」<br>  蒼「解った。それじゃあ、今は、こっちを手伝ってね」<br>  ジ「ああ。早いトコ、終わらせちゃおう」</p> <p>それから一日中、二人で周辺の枝打ちをしていった。<br> 膨大な量の枝を切り落として、夕方にはペンション全体の雰囲気が明るくなっていた。<br> 昨日の夜に見た、お化け屋敷みないな感じは薄らいだ。<br> 蔦を剥がし、必要ならば塗装し直せば、充分に見違えるだろうと思えた。</p> <p><br> ――その夜。蒼星石は再び、深夜の中庭で何事かしている雪華綺晶を目撃した。</p> <p>  蒼(昨晩と、同じ場所だ。一体、彼女は何をしているの?)</p> <p> 目を凝らしても、やはり暗くて、よく解らない。ジュンを起こして、一緒に見に行く?<br> でも、ジュンだって疲れている。叩き起こすのは躊躇われた。</p> <p>暫し逡巡。<br> 窓から見下ろすと、雪華綺晶は依然として、憑かれた様に地面をほじくっていた。<br> ……やっぱり、ジュンに話そう。<br> 踵を返した蒼星石は、一歩と進まない内に、どん! と何かにぶつかって転んだ。<br> こんな所に、何か置いてたっけ? <br> 訳が解らず仰ぎ見た蒼星石の瞳に映ったのは、冷笑を浮かべた雪華綺晶の姿だった。</p> <p> 雪「私の邪魔は、させませんわよ」</p> <p><br> ――がばっ!<br> 蒼星石が飛び起きると、普段どおりの朝が広がっていた。<br> 夢? それにしては、リアルすぎた。<br> 思い返すと二の腕が粟立ち、蒼星石はパジャマの上から腕をさすった。</p> <p> 蒼「朝食…………作ってあげなきゃ」</p> <p> 気を取り直す為に、声に出して呟く。たったそれだけでも、だいぶ気分が楽になった。<br> 階下に降りて、台所へ向かう。<br> 廊下を歩いていると、洗面所から出てくる雪華綺晶を見掛けた。<br> 彼女は蒼星石の姿を認めると、にっこりと優しげに微笑んだ。</p> <p>  雪「おはようございます。今日も、いいお天気ですわ」<br>  蒼「おはよう……ございます。まだ七時なのに、出勤してるんですね」</p> <p> ごく当たり前の挨拶を交わす。そこに、白々しさは微塵も感じられない。<br> やはり、慣れない環境に来たせいで、自分が訳の解らない夢を見ただけなのか?<br> それとも、目の前の女性が、よほどの演技上手なのか……。<br> 朝という事もあって、蒼星石は意を決して、話を切りだした。</p> <p>  蒼「あんな夜遅くに…………庭で、何をしてるんですか?」<br>  雪「? 何……の、ことかしら?」</p> <p> 小首を傾げる雪華綺晶。けれど、不自然な間があったことを、蒼星石は感じ取っていた。</p> <p> 蒼「惚けないで。ボクは、確かに見たんだから」</p> <p> 雪華綺晶は、すうっ……と、隻眼を細めた。口元に浮かぶのは嘲り。</p> <p> 雪「何を仰っているのか、理解に苦しみますわ。<br>    今日は早起きしたものですから、朝食の準備を……と思いまして」</p> <p>あくまで白を切るつもり? <br> しかし、確証を持たない蒼星石に、これ以上の追求は無理だった。</p> <p> 蒼「朝食の支度なら、ボクがするよ」<br>  雪「では、お任せしますわね」</p> <p> 蒼星石の脇を擦り抜け様に、雪華綺晶は小声で囁いた。</p> <p> 雪「お仕事の方も、お願いしますわよ。<br>    途中で放り出して逃げたりしたら…………承知しませんわ」<br>  蒼「ご心配なく。引き受けた以上、完遂してみせるから」   </p> <p> 蒼星石が語気強く応じると、雪華綺晶は満足そうに微笑み、立ち去った。</p> <p><br> 今日は壁を覆っていた蔦を取り除き、生い茂っていた雑草を刈った。<br> 見栄えは一層よくなった。屋根の方も、早急に補修を要するほど傷んではいない。<br> 残るは、垣根や庭園の修復くらいか――それが一番の大仕事だ。<br> ジュンと二人で刈った雑草を集めている時に、蒼星石は徐に切り出した。</p> <p>  蒼「ねえ…………今夜、ジュンの部屋に行っても良い?」 </p> <p> ジュンに雪華綺晶の事を話して、一緒に確かめてもらおうと思っていた。<br> 我ながら大胆な事を言ったと気付いたのは、ジュンの反応を目にした後だった。</p> <p> ジ「なっ……それって、まさか」<br>  蒼「あ、そう言う意味じゃなくて、ちょっと話をしたいかなって」<br>  ジ「なんだ、そうか。いきなりだから、ビックリしたよ」</p> <p> 自分の誤解を恥じるように笑うジュンを眺めながら、蒼星石は少しだけ、寂しくなった。<br> ――別に、それでもいいのに。<br> ボク達、付き合ってるんだよね? だったら、もう少し気兼ねなく振る舞ったって良いじゃない。<br> ジュンが望むことなら、ボクは何だってしてあげたいのに。</p> <p> そんな蒼星石の気持ちを知ってか知らずか、ジュンは優しい口調で話しかけた。</p> <p>  ジ「最近、忙しくて話す機会も減ってたな。今夜は、いろいろと話をしよう」<br>  蒼「うん。いろいろと……ね」</p> <p>蒼星石は、陽気に笑った。<br> 今は、焦らなくてもいい。もっと話し合って、自分の気持ちを伝えていこう。<br> だって、二人の言葉はまだ、一方通行じゃないから。</p> <p><br> ジュンと蒼星石は、その後も雑談を交えながら、ペンション周辺を整理していった。<br> 二人の仲睦まじい様子を、雪華綺晶がペンションの中から見詰めていたとも知らずに。</p> <p><br> その晩、夕食の後片付けを済ませると、飲み物を手にジュンの部屋に集った。<br> 雪華綺晶は帰って、ペンションには居ない……筈だ。<br> 本来なら良いムードに持っていく努力をすべきところだが、蒼星石は敢えて、<br> 深夜の件について語った。</p> <p>  ジ「そんな事が、あったのか。最近、早く寝てたから気付かなかった」<br>  蒼「ボクも偶然に知ったんだよ。それで、ね」<br>  ジ「うん。今夜にでも、確かめてみよう。なんだか落ち着かないし」</p> <p>真実は、時に知らない方がいいこともある。<br> けれど、今回は真相を究明すべきだと、二人は思った。</p> <p><br> ――そして、深夜二時。</p> <p> つい、うとうとと船を漕いでいたジュンを、蒼星石が揺り起こした。<br> 身振りで促されて窓辺に行くと、確かに、雪華綺晶が闇の中で何かをしていた。<br> 懐中電灯を握り締め、互いの顔を見合って頷く。</p> <p> 打ち合わせどおりに、足音を忍ばせて階下に降りて、玄関をでた。<br> そして、徐に彼女の背に光を向け、ジュンが呼びかけた。</p> <p> ジ「こんな時間に、何をしてるんだい。雪華さん」</p> <p>地面を掘り返していた雪華綺晶の手が、止まった。<br> 屈んだ姿勢のまま、ゆっくりと、肩越しに振り返る。</p> <p> 蒼星石の予想に反して、彼女は涙に頬を濡らしていた。<br> 見付けられないの。口を開くなり、雪華綺晶は寂しげに呟いた。</p> <p>  雪「この庭のどこかに、大切な物を埋めたのに――」<br>  <br> 何を言っているのだろう。<br> 怖々と彼女の側に歩み寄った蒼星石とジュンは、雪華綺晶の手元を照らした。<br> その地面には、何の変化も見られない。<br> 雪華綺晶は必死に土を掘り返そうとするが、彼女の指は、虚しく通り抜けるだけだった。</p> <p> ジ「! 雪華さん、貴女は――」<br>  蒼「こんな……ことって」</p> <p>彼女は、幽霊だった。<br> 目の前に現実を突き付けられて、二人は続ける言葉を見付けられなかった。<br> 食事を作ってくれたり、部屋の掃除をしてくれた彼女が、まさか幽霊だったなんて。</p> <p>それでも、ジュンは掠れた声を、喉から絞り出した。</p> <p>  ジ「雪華さん。中で、詳しい話を聞かせてもらえないかな」<br>  蒼「ボクも、聞きたいな。お願い、雪華さん」</p> <p> 二人の言葉に、雪華綺晶は再び振り返って、泣きながら頷いた。</p> <p><br> ペンションの居間で、雪華綺晶は訥々と語った。</p> <p>――ジュンの叔父とは、将来を誓った仲だったこと。<br> ――この庭に、大切な思い出を埋めたこと。<br> ――叔父が事故で急逝し、衝動的に、自ら命を絶ったこと。<br> ――それでも、このペンションを奇麗にしておきたかったこと。</p> <p> 蒼星石とジュンは、ただ黙って、彼女の話に聞き入っていた。<br> 正確には、驚愕のあまり言葉を失っていたのだ。</p> <p> 雪「貴方に手紙を出したのは、私なのです」<br>  ジ「それで、ここの鍵が同封されてたのか。でも、どうして僕なんだ?」<br>  雪「貴方なら、此処に来てくれると思えたからですわ。<br>    誰よりも優しい心を持った、貴方なら――」<br>  蒼「確かに、ジュンは誰にでも優しいよねぇ」</p> <p> 少しだけ嫉妬深い目を向ける蒼星石を笑顔で宥めながら、ジュンは雪華綺晶に訊ねた。</p> <p>  ジ「それで……大切な物って、どんなものなんだ?」<br>  雪「探して、もらえるのですか?」<br>  蒼「ここまで話を聞いちゃったら、手伝わない訳にはいかないよね」<br>  雪「二人とも……ありがとうございます」</p> <p> 雪華綺晶は、さめざめと泣いた。嬉し涙、続いて、寂しげな涙。</p> <p>  雪「だけど、私は……それすらも忘れてしまったのです」</p> <p>語っている内に、夜が明けていた。<br> けれど、眠気は無い。あんな話を聞かされては、眠れる筈がなかった。</p> <p> 蒼「取り敢えず、朝食を済ませてから探そうよ」</p> <p>蒼星石の提案で、三人は一緒に朝食を摂った。<br> 幽霊でも食べ物の味が解るのか、なんて無粋なことは訊かない。<br> だって、彼女は生きているのだから。<br> 思い出を大切にしながら、今も恋をし続けている乙女なのだから。<br> 夢も希望もなく自堕落な生活を思っている人々よりも、彼女の方が、よっぽど人間らしかった。</p> <p><br> 食事を終えて外に出た三人は、広い庭を眺め回して、途方に暮れた。<br> この数日で雑草を刈ったりしたこともあって、庭園はとても広く感じられる。<br> いや、実際……広い。<br> 雪華綺晶が、いつまで経っても見付かられない筈だ。</p> <p>  ジ「これは、確かに目印とか無いと探しきれないな」<br>  雪「ごめんなさい。私は、それすらも忘れてしまったのです」<br>  蒼「目印かぁ…………ちょっと待ってよ」</p> <p> 意気消沈するジュンと雪華綺晶とは対照的に、蒼星石は庭の植物を眺め回した。<br> その視線が、一点で止まる。</p> <p> 蒼「もしかしたら――」</p> <p> 独り言を呟いたかと思った途端、蒼星石は足早に、庭の一点へと歩いていった。<br> 訳が解らず、顔を見合わせるジュンと雪華綺晶。<br> 釈然としないまま蒼星石の後に付いていくと、彼女は小さな花の前で脚を止めた。<br> 長い茎の上に、白い花が載っている。あまり、見慣れない花だった。</p> <p> ジ「これは、なんて花なんだ? 初めて見るけど」<br>  蒼「アンモビウムって花だよ、ジュン」<br>  雪「…………」<br>  蒼「花言葉は『不変の誓い』『永遠の悲しみ』なんだ」<br>  雪「!!!」</p> <p> 蒼星石が言ったのと殆ど同時に、雪華綺晶は声を上げていた。</p> <p>  雪「思い出しましたわ! それよ……それですわ!」<br>  蒼「ここね。解った……ちょっと待って」</p> <p> 蒼星石は両手でアンモビウムの花を掘り起こして移すと、その下を掘り返していった。<br> 暫くして、漆塗りの箱が出てきた。<br> 蒼星石が視線で確認すると、雪華綺晶は無言で頷いた。</p> <p> 慎重に、蓋を開ける。ふわり……と、過去の空気が匂った。</p> <p> ジ「それ全部、手紙か――」<br>  蒼「どれも、ジュンの叔父さんが差出人みたいだね」</p> <p>消印を見ると、およそ二十年前のものだった。</p> <p>  雪「ああ……ああ……これです。これを、探し続けていたのです」</p> <p> 雪華綺晶は、蒼星石に手渡された手紙の束を両手で抱き、涙を流した。<br> 二十年前に結ばれた『不変の誓い』を。<br> 二十年前、突然に訪れた『永遠の悲しみ』を。<br> そんな彼女を見詰めるジュンと蒼星石の目からも、涙が溢れていた。</p> <p> ひと頻り感情を溢れ出させた雪華綺晶は、徐に、手紙の束を蒼星石に手渡した。</p> <p> 蒼「? これ……は?」<br>  雪「貴女が、処分して下さい」<br>  蒼「ええっ?! でも、これは大切な思い出じゃないの?」<br>  雪「でも、それが私を、この世に縛り付けているのですわ。『不変の誓い』が。<br>    だから、貴女の鋏で断ち切って下さい。私の『永遠の悲しみ』を。お願い」</p> <p> 蒼星石に向けられた雪華綺晶の眼差しは、揺るぎない決意に満ち溢れていた。<br> これで、全てを終わらせる。その想いが漲っていた。</p> <p>  蒼「……解ったよ。ボクで、その大役が務まるのならば」<br>  雪「見付けてくれたのは、貴女。貴女にしか、その役は務まりませんわ」</p> <p> ひとつ頷き、蒼星石は腰のホルダーから鋏を取り出した。<br> 分厚い封筒の束に、刃を当てる。</p> <p> 蒼「じゃあ……行くよ」</p> <p> 蒼星石の言葉に、雪華綺晶は満足げに微笑みながら、こっくりと頷いた。</p> <p>――じゃきん!</p> <p>一切の躊躇無く、封筒の束は両断された。<br> その途端、雪華綺晶の輪郭が、ふわりと揺れた。<br> 二十年間、彼女を繋ぎ止めていた呪縛が断ち切られた証だった。</p> <p>  雪「お別れですね、お二人さん。今まで、本当にありがとう」<br>  ジ「雪華さん……こっちこそ、ありがとう。僕たちを、此処に呼んでくれて」<br>  蒼「安心して、雪華さん。庭園は、ボクが必ず奇麗に整備するから」</p> <p> ジュンと蒼星石は、夏の日射しに消えゆく雪華綺晶を、笑顔で見送った。<br> そして彼女――雪華綺晶もまた、幸せそうな表情で二人を見詰め返した。</p> <p> 雪「それじゃあ、お幸せにね。お二人さん♪」</p> <p> 悪戯っぽいウインクを残して、雪華綺晶は過去の世界へと戻っていった。</p> <p>  ジ「向こうでは、叔父さんと一緒になれると良いね」<br>  蒼「きっと、なれるよ。きっとね」</p> <p> 蒼星石は涙を堪え切れずに、ジュンの胸に顔を埋めた。<br> 小刻みに震える彼女の身体を抱き締めながら、ジュンも泣き続けた。</p> <p><br> ――さようなら、雪華さん。</p> <p><br> それから後、二人は夏休みの間中、ペンションの補修を続けた。<br> 蒼星石の尽力もあって、庭園は美しく変貌しつつある。</p> <p> 夏休み以降も、週末などに時間を作っては、二人で管理に来ている。<br> 苗から植えた植物は、奇麗に咲き誇っていた。</p> <p> 庭園の手入れをしていた彼女に、エプロンを着けたジュンが声を掛ける。</p> <p> ジ「おーい、蒼星石ぃ。昼飯、できたぞ~」<br>  蒼「あ、はいは~い。いま行くよ、ジュン♪」<br>  ジ「今日は、我ながら巧く出来たと思うんだけどな」<br>  蒼「ふふっ……楽しみだなぁ」</p> <p> あの一件を通じて、今や二人の絆は、しっかりと繋がっている。<br> 傍目に見れば、仲睦まじい若夫婦に映っていることだろう。</p> <p>実際、ジュンと蒼星石は将来を誓い合っていた。<br> 庭園の片隅に、二人で植えた紫色の花……センニチコウの前で。</p> <p>  花言葉は『変わらない愛情を永遠に』</p> <p><br> 二人が結婚し、産まれた娘に『雪華』と名付けたのは、また別のお話。</p> <p>  ~終わり~</p>
<div class="main_body"> <p> <br>  <br>   『真夏の夜の夢想』<br> <br> <br> ――七月下旬。<br> <br> 今日も、ぎらぎらと照りつける日差しが強い。<br> 焼けたアスファルトから立ち上る熱気で、冷房の効いた講堂から出て三分と経たず、<br> 蒼星石の額に汗が浮かんできた。<br> <br>  「ふわぁ…………暑い」<br> <br> 講堂では、カーディガンを羽織らなければ震えが走るほどだったのに……。<br> この急激な寒暖の差は、つくづく身体に悪い。<br> 蒼星石は木陰のベンチにバッグを降ろして溜息を吐くと、<br> 脱いだカーディガンを綺麗にたたんで、バッグに放り込んだ。<br> <br>   ♪マダ-イワナ-イデ-♪<br> <br> その直後、バッグの中で鳴り出す着信音。電話だ。誰からだろう?<br> ごそごそ……手探りで探し当てると、蒼星石はベンチに座って、携帯を耳に当てた。<br> <br>  「はい、もしもし……」<br>  『やあ、蒼星石。僕だけど――いま時間、平気かな?』<br> <br> 受話器から流れ出す聞き慣れた声に、蒼星石の表情がほころんだ。<br> 同じ大学に通うようになってから交際を始めた、彼の声だった。<br>  <br>  「うん、大丈夫。丁度、試験が終わったところだから」<br> <br> 現在、明伝大学は前期試験の真っ最中。これを終えない限り、学生達に夏休みは来ない。<br> 蒼星石とジュンは専攻した学科が異なるため、試験の日程も必然的に食い違っていた。<br> <br>  「そっか。どうだった、出来の方は?」<br>  「まあまあ……かな。今日は一科目だけだったから、集中的に勉強できたし」<br>  「そりゃ羨ましい。僕なんか、今日は一科目も入ってなくて、<br>   明日に三科目も重なってるんだぜ。堪んないよ」<br>  「ふふふっ……それは災難だね」<br> <br> その後、暫しの雑談を楽しんでから、ジュンが本題を切り出してきた。<br> <br>  「ところでさぁ……蒼星石は、夏休みの予定って入ってる?」<br>  「えっ? う、ううん。今のところは、何も――」<br> <br> 大学に入ってからは、部や同好会には所属していない。<br> 気に入ったサークルが無いというのが理由だけれど、それ以外にもバイトをしたり、<br> 授業に付いていくので大変だったりと、なかなか時間が作れないのが現実だった。<br> それに、学費も馬鹿にならないから、夏や春の長期休暇はバイトに精を出さないと。<br> <br> ――でも、出来ることならジュンと居る時間を増やしたかった。<br> 折角の夏休み、一緒に海へ遊びに行きたいし、夏祭りや花火大会にも行きたい。<br> だって、ボク達は『カノジョとカレシ』の関係なんだから。<br> 常日頃そう思っていた蒼星石には、ジュンの言葉が願ってもない福音に聞こえた。<br> <br>  「実はさぁ……夏休み中、一緒にバイトしてくれないかなぁって」<br>  「そ、それは勿論、構わないよ。でも、どこで?」<br>  「詳しいことは、メールで説明するよ。地図とか添付したいし」<br> <br> なんだろう? 通話を切った蒼星石は、足早に帰途に就いた。<br> 地図を添付するという以上は、もう勤め先が決まっていると見ていい。<br> 早く帰って、確認しなくっちゃ。<br> <br> <br> <br> <br> 自宅に帰り着くと、蒼星石はPCを立ち上げ、メールを確認した。<br> <br>  「あ、来てる。これかぁ…………えっと」<br> <br> ジュンからのメールには、バイト先の住所や仕事の内容が記されていた。<br> なんでも、ジュンの叔父さんが所有するペンションの管理を、夏の間だけ<br> 住み込みで手伝って欲しい……という事らしい。<br> <br>  「すす、住み込みぃ~?! 聞いてないよぉ」<br> <br> ――避暑地のペンションで送る、二人の生活。<br> 想像して、蒼星石は耳まで真っ赤にした。<br> 思えば、付き合い始めてから、まだ二人っきりの旅行すらした事がなかった。<br> <br> しかし、いつまでも今の関係を続ける訳にはいかない。<br> 蒼星石だって女の子。いつかはジュンと二人で家庭を持ちたいと夢見ていた。<br> それに、よくよく見ると日給は良いし、待遇だって悪くない。<br> 仕事の内容も、ペンションの庭園管理だ。翠星石も一緒に……との追記もある。<br> <br>  「な、なぁんだ……ちょっと残念。でも、これなら頑張れそうかな」<br> <br> 蒼星石は、その場でジュンに了解の返事をしておいた。<br> <br> <br> <br> <br>  「いきなり、そんな話をされても困るです! 勝手に決めるなです!」<br> <br> 夕食後、バイトの件を伝えた途端、翠星石は猛反発した。<br> 了承してくれるものと高を括っていた蒼星石は、思いがけない姉の反応に言葉を失った。<br> <br>  「私は、もうバイト先が決まってるです。今更、変えられないです」<br>  「そ、そう……なんだ。ごめん。姉さんの都合も聞かずに勝手なコトして」<br>  「解ればいいです。ともかく、引き受けたからには、蒼星石ひとりで行って来るですよ」<br>  「残念だけど、そうするよ。じゃあ……おやすみ、姉さん」<br> <br> ぱたん……と、ドアが閉められると、翠星石は溜息を吐くと同時に頭を降った。<br> <br>  「まったく…………いつまで経っても、世話の焼ける妹ですね」<br> <br> <br> <br> <br> ――数日後。<br> 試験は全て終わり、ジュンも蒼星石も、幸いにして補習を受けずに済んだ。<br> これで、心置きなく夏休みを堪能できる。<br> ジュンの運転するRV車に荷物や庭仕事の道具を積み終え、ペンションに向かった。<br> <br> しかぁし……。<br> <br>  「道、混んでるね。遅くなると、道が解らなくなっちゃわないかな」<br>  「ナビに登録してあるよ。管理人さんには、遅くなるって電話しといた」<br>  「そうなの? じゃあ、安全運転で行こうね」<br>  「うん。のんびり、ドライブを楽しみながら行こう」<br> <br> <br> 湖畔のペンションに到着したのは、とっぷりと日が暮れた頃のことだった。<br> ここまで一人で運転し続けてきたジュンは、すっかり疲労困憊していた。<br> <br>  「なんとか、辿り着けたな。途中で、焦った焦った」<br>  「ホントだよね。道がどんどん細くなっていくし」<br> <br> 談笑しながら車を降りて、ペンションを見上げる。だいぶ老朽化している。<br> 仄明るい空の下で、蔦の絡まった建物は、とても不気味に見えた。<br> 二人は互いに顔を見合わせ、ごくり……と、唾を呑み込んだ。<br> <br>  「ねえ……ジュン。ここって、お化け屋敷じゃないよね?」<br>  「な、なに言ってるんだよ、蒼星石。管理人さんだって居る筈だし」<br>  「でも、電気だって点いてないし」<br> <br> 実際、ジュンは叔父の手紙に書かれたこと以外、何も知らされていなかった。<br> 叔父とは面識が無かったから、差出人を見ても、誰なのか解らなかったくらいだ。<br> なんで僕に頼むんだよと、訝ったりもした。<br> 引き受けたのだって、ペンションの鍵が同封されていたからだ。半ば強制だった。<br> <br>  「管理人さんは、帰っちゃったのかもな。取り敢えず、入ろう」<br>  「うん……手荷物だけ持って、残りは車に載せたままで良いよね」<br> <br> 蒼星石に懐中電灯で手元を照らして貰いながら、ジュンはドアの鍵を開けようとした。<br> その寸前、ドアが嫌な軋みを上げた。黴臭く、埃っぽい空気が流れだしてくる。<br> 開かれた扉から、一人の女性が姿を現した。<br> <br> <br>  「いらっしゃい、お二人さん。ようこそ――」<br> <br> その女性は、雪華綺晶と名乗った。叔父に雇われた管理人だと言う。<br> 年の頃は、自分達と同じくらい。<br> 右の目に洒落た眼帯をしていて、なんだか威圧感を覚えた。<br> <br>  「もう少し早く、いらっしゃると思っていましたわ」<br>  「すみません。予想外に道が混んでて」<br>  「ごめんなさい……」<br>  「いいえ、お気になさらず。それより、長旅で疲れたでしょう。<br>   お食事の支度は、これからですので……先に、お風呂の方へ――」<br> <br> それでは……と、二人は雪華綺晶の好意を受けることにした。<br> <br> ――ところが。<br> バスタオルと着替えを手に、浴場に着くなり、絶句するジュンと蒼星石。<br> ペンションの風呂は狭い露天風呂で、しかも混浴だった。<br> <br>  「あ、あのさ……先に、蒼星石が入んなよ。僕は次に入るからさ」<br>  「別に……ボクは構わないよ。一緒に、入ろうか?」<br>  「ま、また今度な。僕は管理人さんを手伝いがてら、<br>   仕事の詳しい話とかを聞いてくるよ」<br> <br> そう告げて、足早に立ち去るジュンの背を見詰めながら、蒼星石は呟いた。<br> <br>  「――意気地なし」<br> <br> <br> <br> <br> 夕食の支度を終えると、雪華綺晶は帰っていった。<br> 食器や冷蔵庫の中身など、ペンションの備品は、自由に使って構わないそうだ。<br> 勿論、電気や、ガスや、水道も…………。<br> <br> 楽しい夕食のひとときを終え、二人で食器を片付ける。<br> ジュンは蒼星石の入れてくれたお茶を啜りながら、<br> さっき雪華綺晶に訊いておいた仕事内容を、蒼星石に伝えた。<br> <br>  「周りに巻き付いた蔦の除去と、外壁や館内の補修は、僕がやるよ。<br>   蒼星石には、庭園の管理と、周囲の木々の剪定を頼みたいんだ」<br>  「解った、任せといてよ。雪華さんは、何時頃に来るの?」<br>  「就業時間は午前九時から、昼休み一時間を挟んで、午後六時までなんだって。<br>   基本的に、昼間だけだな。館内の掃除と、食事の支度をしてくれるってさ」<br>  「ふぅん。じゃあ、朝食だけは自分達で用意しないといけないんだね」<br>  「だね。当番制にしようか」<br>  「ううん。それなら、ボクが作ってあげるよ」<br> <br> 「いいの?」と訊ねるジュンに、蒼星石は「いつもの事だから」と笑った。<br> どうやら、蒼星石が『作る人』で、翠星石は『食べる人』という図式らしい。<br> この一ヶ月、翠星石は外食ばかりになるのかな……と、ジュンは思った。<br> <br>  「取り敢えず、今日はゆっくりと休もう。明日から忙しくなるから」<br>  「そうだね。おやすみ、ジュン。戸締まりは宜しくね」<br>  「ああ、解った明日の朝食、楽しみにしてるから」<br> <br> ジュンがそう言うと、蒼星石は少しだけ恥ずかしそうに微笑み、階段を駆け上っていった。<br> <br> <br> <br> <br> ――その日の真夜中。<br> 蒼星石は、ふかふかのベッドの中で、まんじりともせず天井を眺めていた。<br> 疲れてはいるのだが、普段と違う環境に来たせいか目が冴えて眠れない。<br> なんだか喉も乾いたし、ちょっと水でも飲んでこよう。<br> そう思ってベッドを起き出した蒼星石は、ふと、窓の外に目を向けてギクリとした。<br> <br> 誰かが――――庭に居た。<br> <br> 時計を見ると、午前一時を回ったところだった。こんな深夜に、誰が?<br> ごくり……。固唾を呑み込んで、静かに窓際へ近付く蒼星石。<br> 覗き見する様に、そっと窺う。<br> <br>  (あれ……は…………雪華さん?)<br> <br> 暗くてハッキリと見えた訳ではないが、間違いなかった。<br> とっくに帰った筈の雪華綺晶が、明かりも点けず、闇の中で頻りに土を掘り返していた。<br> その不気味な姿に、蒼星石は言い知れない恐怖を感じた。<br> 気持ちが悪い。<br> <br> これ以上は見るに堪えず、蒼星石が後ずさった直後――<br> 蒼星石の恐怖を感じ取ったかの様に、雪華綺晶が、ゆっくりと振り返り、二階の窓を見上げた。<br> 狂気を宿した金色の隻眼が、ひた……と、蒼星石を射抜く。<br> そして、彼女は――――ニタリと嗤った。<br> <br>  (――っ!!)<br> <br> ベッドに潜り込んだ蒼星石は、布団を被ったまま、朝まで一睡もできなかった。<br> <br> <br> <br> <br> 翌朝、朝食の支度をしながら、蒼星石は昨夜の事を考え続けていた。<br> あれは、なんだったのだろう? 雪華さんは、何をしていたの?<br> 夜が明けてから庭を見に行ったが、特に何の変化も見付けられなかった。<br> 確かに、掘り返している現場を目の当たりにしたのに。<br> <br>  「やっぱり、夢…………だったのかなぁ」<br>  「楽しい夢でも、見られたのですか?」<br> <br> 独り言のつもりが背後から話しかけられて、蒼星石はビクン! と肩を震わせた。<br> 弾みで手を滑らせ、包丁で指を切ってしまった。<br> <br>  「あ、痛っ!」<br>  「あらあら……ごめんなさい。驚かせてしまったわね」<br>  「いえ、このくらい……平気だから」<br>  「ダメですわ。きちんと手当しないと。丁度、絆創膏を持っていますから」<br> <br> 言って、雪華綺晶は財布から絆創膏を抜き出すと、蒼星石の傷を口に銜えた。<br> ひやりとした雪華綺晶の舌が、血を舐め取る。<br> 蒼星石の背筋に、ぞくぞくと寒気が走った。<br> <br>  「さあ、終わりましたわ。これからは、気を付けて下さいね」<br>  「あ、ありがとう……。あの、ちょっと――」<br>  「はい? なにか、問題がありました?」<br>  「い、いえ、なんでも」<br> <br> にこやかに微笑む雪華綺晶からは、昨夜の狂気が感じられない。<br> やっぱり、寝惚けていたのかも。蒼星石は、口を噤んだ。<br> <br> 日中は、それぞれの仕事に追われて、顔を合わせる機会が少なくなった。<br> 今まで庭の手入れは、雪華綺晶が独りで細々と行っていたのだろう。<br> けれど、屋内の保守管理に比べれば、どうしても片手間な印象が拭いきれない。<br> 庭園の荒廃ぶりは、蒼星石の目に余る状況だった。<br> <br> 庭園に覆い被さる様に伸びる木々の枝が、全体的に薄暗さを強調している。<br> もう少し日当たりを良くしないと、丈の低い草花が育ちにくい。<br> 奇麗な花を咲かせるのは、そういった草花たちなのに――<br> <br>  「よ~し。まずは、枝の剪定から始めようっと」<br> <br> 車から脚立と高枝切り鋏を持ってきて、蒼星石は周囲の木々から剪定していった。<br> 足場が凸凹しているため、脚立の座りが悪く、思った以上に作業し辛い。<br> 少し高いところの枝を切ろうと背伸びした瞬間、脚立がぐらりと揺れた。<br> <br>  「ひゃっ!」<br> <br> ヤバい、倒れる! <br> 蒼星石はぎゅっと目を閉じて、歯を食いしばった。<br> <br>   ――がくん。<br> <br> 不意に、脚立の傾きが止まり、蒼星石はバランスを取り直した。<br> おそるおそる瞼を開いた蒼星石の目に、脚立を支えるジュンの姿が飛び込んできた。<br> <br>  「危ないトコだったな、蒼星石」<br>  「う、うん…………ありがとう、ジュン」<br>  「独りじゃ危なそうだ。今日は、僕もこっちを手伝うよ」<br>  「それは嬉しいんだけど、ジュンの方は大丈夫なの?」<br>  「室内は雪華さんがよく管理してくれてるから、それほど補修しなくて良さそうだ。<br>   外壁の蔦を剥がす時には、蒼星石の助けが必要だけどさ」<br>  「解った。それじゃあ、今は、こっちを手伝ってね」<br>  「ああ。早いトコ、終わらせちゃおう」<br> <br> それから一日中、二人で周辺の枝打ちをしていった。<br> 膨大な量の枝を切り落として、夕方にはペンション全体の雰囲気が明るくなっていた。<br> 昨日の夜に見た、お化け屋敷みないな感じは薄らいだ。<br> 蔦を剥がし、必要ならば塗装し直せば、充分に見違えるだろうと思えた。<br> <br> <br> <br> <br> ――その夜。<br> 蒼星石は再び、深夜の中庭で何事かしている雪華綺晶を目撃した。<br> <br>  (昨晩と、同じ場所だ。一体、彼女は何をしているの?)<br> <br> 目を凝らしても、やはり暗くて、よく解らない。ジュンを起こして、一緒に見に行く?<br> でも、ジュンだって疲れている。叩き起こすのは躊躇われた。<br> <br> 暫し逡巡。<br> 窓から見下ろすと、雪華綺晶は依然として、憑かれた様に地面をほじくっていた。<br> ……やっぱり、ジュンに話そう。<br> 踵を返した蒼星石は、一歩と進まない内に、どん! と何かにぶつかって転んだ。<br> こんな所に、何か置いてたっけ? <br> 訳が解らず仰ぎ見た蒼星石の瞳に映ったのは、冷笑を浮かべた雪華綺晶の姿だった。<br> <br>  「私の邪魔は、させませんわよ」<br> <br> <br> ――がばっ!<br> 蒼星石が飛び起きると、普段どおりの朝が広がっていた。<br> 夢? それにしては、リアルすぎた。<br> 思い返すと二の腕が粟立ち、蒼星石はパジャマの上から腕をさすった。<br> <br>  「朝食…………作ってあげなきゃ」<br> <br> 気を取り直す為に、声に出して呟く。たったそれだけでも、だいぶ気分が楽になった。<br> 階下に降りて、台所へ向かう。<br> 廊下を歩いていると、洗面所から出てくる雪華綺晶を見掛けた。<br> 彼女は蒼星石の姿を認めると、にっこりと優しげに微笑んだ。<br> <br>  「おはようございます。今日も、いいお天気ですわ」<br>  「おはよう……ございます。まだ七時なのに、出勤してるんですね」<br> <br> ごく当たり前の挨拶を交わす。そこに、白々しさは微塵も感じられない。<br> やはり、慣れない環境に来たせいで、自分が訳の解らない夢を見ただけなのか?<br> それとも、目の前の女性が、よほどの演技上手なのか……。<br> 朝という事もあって、蒼星石は意を決して、話を切りだした。<br> <br>  「あんな夜遅くに…………庭で、何をしてるんですか?」<br>  「? 何……の、ことかしら?」<br> <br> 小首を傾げる雪華綺晶。けれど、不自然な間があったことを、蒼星石は感じ取っていた。<br> <br>  「惚けないで。ボクは、確かに見たんだから」<br> <br> 雪華綺晶は、すうっ……と、隻眼を細めた。口元に浮かぶのは嘲り。<br> <br>  「何を仰っているのか、理解に苦しみますわ。<br>   今日は早起きしたものですから、朝食の準備を……と思いまして」<br> <br> あくまで白を切るつもり? <br> しかし、確証を持たない蒼星石に、これ以上の追求は無理だった。<br> <br>  「朝食の支度なら、ボクがするよ」<br>  「では、お任せしますわね」<br> <br> 蒼星石の脇を擦り抜け様に、雪華綺晶は小声で囁いた。<br> <br>  「お仕事の方も、お願いしますわよ。<br>   途中で放り出して逃げたりしたら…………承知しませんわ」<br>  「ご心配なく。引き受けた以上、完遂してみせるから」<br> <br> 蒼星石が語気強く応じると、雪華綺晶は満足そうに微笑み、立ち去った。<br> <br> <br> 今日は壁を覆っていた蔦を取り除き、生い茂っていた雑草を刈った。<br> 見栄えは一層よくなった。屋根の方も、早急に補修を要するほど傷んではいない。<br> 残るは、垣根や庭園の修復くらいか――それが一番の大仕事だ。<br> ジュンと二人で刈った雑草を集めている時に、蒼星石は徐に切り出した。<br> <br>  「ねえ…………今夜、ジュンの部屋に行っても良い?」<br> <br> ジュンに雪華綺晶の事を話して、一緒に確かめてもらおうと思っていた。<br> 我ながら大胆な事を言ったと気付いたのは、ジュンの反応を目にした後だった。<br> <br>  「なっ……それって、まさか」<br>  「あ、そう言う意味じゃなくて、ちょっと話をしたいかなって」<br>  「なんだ、そうか。いきなりだから、ビックリしたよ」<br> <br> 自分の誤解を恥じるように笑うジュンを眺めながら、蒼星石は少しだけ、寂しくなった。<br> ――別に、それでもいいのに。<br> ボク達、付き合ってるんだよね? だったら、もう少し気兼ねなく振る舞ったって良いじゃない。<br> ジュンが望むことなら、ボクは何だってしてあげたいのに。<br> <br> そんな蒼星石の気持ちを知ってか知らずか、ジュンは優しい口調で話しかけた。<br> <br>  「最近、忙しくて話す機会も減ってたな。今夜は、いろいろと話をしよう」<br>  「うん。いろいろと……ね」<br> <br> 蒼星石は、陽気に笑った。<br> 今は、焦らなくてもいい。もっと話し合って、自分の気持ちを伝えていこう。<br> だって、二人の言葉はまだ、一方通行じゃないから。<br> <br> <br> ジュンと蒼星石は、その後も雑談を交えながら、ペンション周辺を整理していった。<br> 二人の仲睦まじい様子を、雪華綺晶がペンションの中から見詰めていたとも知らずに。<br> <br> <br> <br> <br> その晩、夕食の後片付けを済ませると、飲み物を手にジュンの部屋に集った。<br> 雪華綺晶は帰って、ペンションには居ない……筈だ。<br> 本来なら良いムードに持っていく努力をすべきところだが、蒼星石は敢えて、<br> 深夜の件について語った。<br> <br>  「そんな事が、あったのか。最近、早く寝てたから気付かなかった」<br>  「ボクも偶然に知ったんだよ。それで、ね」<br>  「うん。今夜にでも、確かめてみよう。なんだか落ち着かないし」<br> <br> 真実は、時に知らない方がいいこともある。<br> けれど、今回は真相を究明すべきだと、二人は思った。<br> <br> <br> <br> <br> ――そして、深夜二時。<br> つい、うとうとと船を漕いでいたジュンを、蒼星石が揺り起こした。<br> 身振りで促されて窓辺に行くと、確かに、雪華綺晶が闇の中で何かをしていた。<br> 懐中電灯を握り締め、互いの顔を見合って頷く。<br> <br> 打ち合わせどおりに、足音を忍ばせて階下に降りて、玄関をでた。<br> そして、徐に彼女の背に光を向け、ジュンが呼びかけた。<br> <br>  「こんな時間に、何をしてるんだい。雪華さん」<br> <br> 地面を掘り返していた雪華綺晶の手が、止まった。<br> 屈んだ姿勢のまま、ゆっくりと、肩越しに振り返る。<br> <br> 蒼星石の予想に反して、彼女は涙に頬を濡らしていた。<br> 見付けられないの。口を開くなり、雪華綺晶は寂しげに呟いた。<br> <br>  「この庭のどこかに、大切な物を埋めたのに――」<br>  <br> 何を言っているのだろう。<br> 怖々と彼女の側に歩み寄った蒼星石とジュンは、雪華綺晶の手元を照らした。<br> その地面には、何の変化も見られない。<br> 雪華綺晶は必死に土を掘り返そうとするが、彼女の指は、虚しく通り抜けるだけだった。<br> <br>  「! 雪華さん、貴女は――」<br>  「こんな……ことって」<br> <br> 彼女は、幽霊だった。<br> 目の前に現実を突き付けられて、二人は続ける言葉を見付けられなかった。<br> 食事を作ってくれたり、部屋の掃除をしてくれた彼女が、まさか幽霊だったなんて。<br> <br> それでも、ジュンは掠れた声を、喉から絞り出した。<br> <br>  「雪華さん。中で、詳しい話を聞かせてもらえないかな」<br>  「ボクも、聞きたいな。お願い、雪華さん」<br> <br> 二人の言葉に、雪華綺晶は再び振り返って、泣きながら頷いた。<br> <br> <br> <br> <br> ペンションの居間で、雪華綺晶は訥々と語った。<br> <br> ――ジュンの叔父とは、将来を誓った仲だったこと。<br> ――この庭に、大切な思い出を埋めたこと。<br> ――叔父が事故で急逝し、衝動的に、自ら命を絶ったこと。<br> ――それでも、このペンションを奇麗にしておきたかったこと。<br> <br> 蒼星石とジュンは、ただ黙って、彼女の話に聞き入っていた。<br> 正確には、驚愕のあまり言葉を失っていたのだ。<br> <br>  「貴方に手紙を出したのは、私なのです」<br>  「それで、ここの鍵が同封されてたのか。でも、どうして僕なんだ?」<br>  「貴方なら、此処に来てくれると思えたからですわ。<br>   誰よりも優しい心を持った、貴方なら――」<br>  「確かに、ジュンは誰にでも優しいよねぇ」<br> <br> 少しだけ嫉妬深い目を向ける蒼星石を笑顔で宥めながら、ジュンは雪華綺晶に訊ねた。<br> <br>  「それで……大切な物って、どんなものなんだ?」<br>  「探して、もらえるのですか?」<br>  「ここまで話を聞いちゃったら、手伝わない訳にはいかないよね」<br>  「二人とも……ありがとうございます」<br> <br> 雪華綺晶は、さめざめと泣いた。嬉し涙、続いて、寂しげな涙。<br> <br>  「だけど、私は……それすらも忘れてしまったのです」<br> <br> 語っている内に、夜が明けていた。<br> けれど、眠気は無い。あんな話を聞かされては、眠れる筈がなかった。<br> <br>  「取り敢えず、朝食を済ませてから探そうよ」<br> <br> 蒼星石の提案で、三人は一緒に朝食を摂った。<br> 幽霊でも食べ物の味が解るのか、なんて無粋なことは訊かない。<br> だって、彼女は生きているのだから。<br> 思い出を大切にしながら、今も恋をし続けている乙女なのだから。<br> 夢も希望もなく自堕落な生活を思っている人々よりも、彼女の方が、よっぽど人間らしかった。<br> <br> <br> 食事を終えて外に出た三人は、広い庭を眺め回して、途方に暮れた。<br> この数日で雑草を刈ったりしたこともあって、庭園はとても広く感じられる。<br> いや、実際……広い。<br> 雪華綺晶が、いつまで経っても見付かられない筈だ。<br> <br>  「これは、確かに目印とか無いと探しきれないな」<br>  「ごめんなさい。私は、それすらも忘れてしまったのです」<br>  「目印かぁ…………ちょっと待ってよ」<br> <br> 意気消沈するジュンと雪華綺晶とは対照的に、蒼星石は庭の植物を眺め回した。<br> その視線が、一点で止まる。<br> <br>  「もしかしたら――」<br> <br> 独り言を呟いたかと思った途端、蒼星石は足早に、庭の一点へと歩いていった。<br> 訳が解らず、顔を見合わせるジュンと雪華綺晶。<br> 釈然としないまま蒼星石の後に付いていくと、彼女は小さな花の前で脚を止めた。<br> 長い茎の上に、白い花が載っている。あまり、見慣れない花だった。<br> <br>  「これは、なんて花なんだ? 初めて見るけど」<br>  「アンモビウムって花だよ、ジュン」<br>  「……私……」<br>  「花言葉は『不変の誓い』『永遠の悲しみ』なんだ」<br>  「あぁっ!!!」<br> <br> 蒼星石が言ったのと殆ど同時に、雪華綺晶は声を上げていた。<br> <br>  「思い出しましたわ! それよ……それですわ!」<br>  「ここね。解った……ちょっと待って」<br> <br> 蒼星石は両手でアンモビウムの花を掘り起こして移すと、その下を掘り返していった。<br> 暫くして、漆塗りの箱が出てきた。<br> 蒼星石が視線で確認すると、雪華綺晶は無言で頷いた。<br> <br> 慎重に、蓋を開ける。ふわり……と、過去の空気が匂った。<br> <br>  「それ全部、手紙か――」<br>  「どれも、ジュンの叔父さんが差出人みたいだね」<br> <br> 消印を見ると、およそ二十年前のものだった。<br> <br>  「ああ……ああ……これです。これを、探し続けていたのです」<br> <br> 雪華綺晶は、蒼星石に手渡された手紙の束を両手で抱き、涙を流した。<br> 二十年前に結ばれた『不変の誓い』を。<br> 二十年前、突然に訪れた『永遠の悲しみ』を。<br> そんな彼女を見詰めるジュンと蒼星石の目からも、涙が溢れていた。<br> <br> ひと頻り感情を溢れ出させた雪華綺晶は、徐に、手紙の束を蒼星石に手渡した。<br> <br>  「? これ……は?」<br>  「貴女が、処分して下さい」<br>  「ええっ?! でも、これは大切な思い出じゃないの?」<br>  「でも、それが私を、この世に縛り付けているのですわ。『不変の誓い』が。<br>   だから、貴女の鋏で断ち切って下さい。私の『永遠の悲しみ』を。お願い」<br> <br> 蒼星石に向けられた雪華綺晶の眼差しは、揺るぎない決意に満ち溢れていた。<br> これで、全てを終わらせる。その想いが漲っていた。<br> <br>  「……解ったよ。ボクで、その大役が務まるのならば」<br>  「見付けてくれたのは、貴女。貴女にしか、その役は務まりませんわ」<br> <br> ひとつ頷き、蒼星石は腰のホルダーから鋏を取り出した。<br> 分厚い封筒の束に、刃を当てる。<br> <br>  「じゃあ……行くよ」<br> <br> 蒼星石の言葉に、雪華綺晶は満足げに微笑みながら、こっくりと頷いた。<br> <br>   ――じゃきん!<br> <br> 一切の躊躇無く、封筒の束は両断された。<br> その途端、雪華綺晶の輪郭が、ふわりと揺れる。<br> 二十年間、彼女を繋ぎ止めていた呪縛が断ち切られた証だった。<br> <br>  「お別れですね、お二人さん。今まで、本当にありがとう」<br>  「雪華さん……こっちこそ、ありがとう。僕たちを、此処に呼んでくれて」<br>  「安心して、雪華さん。庭園は、ボクが必ず奇麗に整備するから」<br> <br> ジュンと蒼星石は、夏の日射しに消えゆく雪華綺晶を、笑顔で見送った。<br> そして彼女――雪華綺晶もまた、幸せそうな表情で二人を見詰め返した。<br> <br>  「それじゃあ、お幸せにね。お二人さん♪」<br> <br> 悪戯っぽいウインクを残して、雪華綺晶は過去の世界へと戻っていった。<br> <br>  「今度こそ、叔父さんと一緒になれると良いな」<br>  「きっと、なれるよ。きっとね」<br> <br> 蒼星石は涙を堪え切れずに、ジュンの胸に顔を埋めた。<br> 小刻みに震える彼女の身体を抱き締めながら、ジュンも泣き続けた。<br> <br> ――さようなら、雪華さん。<br> <br> <br> <br> <br> それから後、二人は夏休みの間中、ペンションの補修を続けた。<br> 蒼星石の尽力もあって、庭園は美しく変貌しつつある。<br> <br> 夏休み以降も、週末などに時間を作っては、二人で管理に来ている。<br> 苗から植えた植物は、奇麗に咲き誇っていた。<br> <br> 庭園の手入れをしていた彼女に、エプロンを着けたジュンが声を掛ける。<br> <br>  「おーい、蒼星石ぃ。昼飯、できたぞ~」<br>  「あ、はいは~い。いま行くよ、ジュン♪」<br>  「今日は、我ながら巧く出来たと思うんだけどな」<br>  「ふふっ……楽しみだなぁ」<br> <br> あの一件を通じて、今や二人の絆は、しっかりと繋がっている。<br> 傍目に見れば、仲睦まじい若夫婦に映っていることだろう。<br> <br> 実際、ジュンと蒼星石は将来を誓い合っていた。<br> 庭園の片隅に、二人で植えた紫色の花……センニチコウの前で。<br> <br> <br>   花言葉は『変わらない愛情を永遠に』<br> <br> <br> 二人が結婚し、産まれた娘に『雪華』と名付けたのは、また別のお話。<br>  <br>  <br></p> <hr> <p> <br> ジュンと蒼星石に支払われたバイト代は、お金よりも貴重なもの。<br>  <br>  </p> </div>

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