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『貴女のとりこ』 第三回」(2006/06/21 (水) 22:17:39) の最新版変更点

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<p><br>   『貴女のとりこ』 第三回<br> <br> <br> 屋敷を訪れたジュンと巴を出迎えたのは、薔薇水晶だった。<br> ジュンの顔を見るや、無邪気に笑顔を輝かせて、彼の腕にしがみつく。<br> <br> 「ごめんな、薔薇水晶。今日は、雪華綺晶に話があって来たんだ」<br> 「……聞いてるよ。お姉ちゃんは、巴ちゃんと二人で話がしたいんだって。<br>  ジュンは、私と一緒に、お話が終わるまで待っていようよぉ。ね?」<br> 「うん…………だけどなぁ」<br> <br> ジュンは女性に甘い。俗に言うフェミニスト。<br> それが彼の長所であり、また、短所でもある。<br> 優しすぎるから、女の子たちは誤解してしまうのだ。『私のこと、好きなのかな?』と。<br> <br> 巴は複雑な想いを胸に押し込めて、クスッと微笑み、ジュンに言った。<br> <br> 「遠慮しなくて良いよ、桜田くん。わたし、ちょっと話をしてくる。<br>  桜田くんは、薔薇しぃちゃんと待っていて」<br> 「あ、ああ。柏葉が、そう言うんなら」<br> 「あはっ! やったあ。ねえ、ジュン~。お茶にしよぉ?」<br> <br> はしゃぐ薔薇水晶と、困惑するジュンを応接室に残して、巴は雪華綺晶の部屋に向かった。<br> 以前、来たときに案内されたので、場所は知っている。<br> <br> (どうやって……切り出そうかしら)<br> <br> 二階へと続く階段を昇る足が、小刻みに震えた。<br> やっぱり、怖い。膝が、カクカクいっている。一歩、踏み出す度に、転んでしまいそう。<br> <br> でも、行かなければ。行って、言ってしまわなければ。<br> <br> 巴は気力を振り絞って、薄暗い階段を登り切った。<br> 無意識の内に、つい、足音を忍ばせて廊下を歩いてしまう。<br> <br> (しっかりしなきゃ……桜田くんが、待っててくれるんだから)<br> <br> 両腕を掻き抱いて、身体の芯から湧いてくる震えを、押し止めようとする巴。<br> もう、こんな事は終わらせなければならない。<br> 終わらせるためには、進まなければいけない。<br> <br> <br> <br> そして――<br> 巴は、雪華綺晶の部屋の扉を、目の前にして立った。<br> <br>  《 ☆きらきーのお部屋★ 》<br> <br> コミカルなドアプレートが、何故か、とてもグロテスクな物に見えた。<br> 巴は生唾を呑み込み、大きな深呼吸をひとつすると、震える手で扉をノックした。<br> <br> 「はぁい? どなたですの?」<br> 「あ……あの……柏葉ですけど」<br> 「あらぁ、柏葉さん。お待ちしていましたわ。さあ、お入りになって」<br> <br> 入室を促す返事。<br> どうする? 入るべきか……それとも、扉の前で用件だけ伝えて、立ち去ろうか。<br> 顔も合わせずに、一方的な通告をするなんて無礼だ。それは承知している。<br> <br> (だけど、わたし……面と向かったら、きっと何も言えなくなってしまう)<br> <br> やっぱり、扉越しに話をして帰ろう。そう結論を出して、巴は息を吸い込んだ。<br> <br> 「わたし、貴女のお部屋には入れない。だから、このままで話をするわ。<br>  きらきーさん、聞いて欲しいの」<br> <br> 室内から、返事は戻ってこない。しかし、巴は自らの想いを、吐露し続けた。<br> こういう事は、ハッキリ言わないと解ってもらえない。<br> そう、思っていたから。<br> 絶対に自分の気持ちを伝えると、覚悟してきたから。<br> <br> 「お願いだから、もうメールを送ってこないで。しつこく付きまとわないで。<br>  わたし……本当に、迷惑しているんです」<br> 「…………」<br> 「わたしは、貴女の人形じゃないの! いちいち、指図してこないで!<br>  ハッキリ言って、気持ち悪いんです」<br> <br> 話している内に感情が高ぶってきたらしく、巴の声が、徐々に大きくなっていく。<br> 扉の向こうは、相変わらずの無音――<br> <br> ――かと思いきや、微かな物音が、巴の耳に届いた。<br> それは、すすり泣く声。部屋の中で、雪華綺晶は声を殺して泣いていた。<br> 途端、巴の胸に、苦い罪悪感が溜まっていく。<br> 頭に血がのぼりすぎて、言い過ぎたかも知れない。<br> <br> いたたまれなくなって、巴が踵を返し、その場を後にしようとした時、<br> ドア越しに、雪華綺晶のか細い声が漏れてきた。<br> <br> 「……ごめんなさい。柏葉さん……ごめんなさい」<br> <br> 雪華綺晶は、ひたすらに謝り続けていた。<br> <br> 「――きらきーさん」<br> 「私の周りには、多くの知人友人が居ますわ。<br>  でも……柏葉さんほど、心を許せるお友達は居なかったのです。<br>  それで、私は、つい出過ぎた真似をしてしまって……迷惑をかけてしまった」<br> <br> 理由を知って、巴の怒りと嫌悪感が、僅かに和らいだ。<br> 誰だって、気心を許せる友達には、行きすぎた事をしてしまいがちだ。<br> <br> (わたしだって、気付かない間に、雛苺や桜田くんを不愉快にさせてるかも知れない)<br> <br> そう思ったら、一方的に雪華綺晶を悪と決めつける気持ちは薄れてしまった。<br> 巴は、いま一度、扉をノックして、彼女に話しかけた。<br> <br> 「あのね、きらきーさん。解ってくれたなら、それで良いの。<br>  もう、メールは送ってこないで。そして、普通のお友達に戻りましょう」<br> 「…………柏葉さん。本当に、宜しいのですか? 許して貰えるのですか?」<br> 「うん。友達として、これからも宜しくね」<br> <br> 土砂降りの雨の中で、雨宿りが出来る場所を見付けて安堵したような雪華綺晶の声に、<br> 巴は思わず頬を緩めて、静かに応じた。<br> 全てが円満に解決したことで、巴の全身から、一気に力が抜ける。<br> でも、へたり込んでいる暇はない。ジュンを待たせているのだから。<br> <br> 「それじゃあ、きらきーさん。わたし、もう行くから」<br> <br> 言って、向きを変え、階段へと歩き始めた巴の背後で、ドアノブの回る音がした。<br> 雪華綺晶が、泣き濡れた顔で見送ってくれようとしているのだと、巴は思った。<br> 普通なら、恥ずかしくて顔も見せられないだろうに。<br> 巴は、雪華綺晶の健気さに、胸が熱くなるのを感じた。<br> <br> (やはり、別れの挨拶くらい、顔を合わせてしよう)<br> <br> 折角、仲直りできたのに、初っ端からぎこちない態度を見せるのは避けたい。<br> 背後から小走りに近付いてくる彼女に、巴は、くるりと振り返った。<br> <br> 「きらき――!?」<br> <br> そこまで言いかけた途端、巴は口元に、ハンカチの様な物を押し当てられた。<br> 薬品の臭いが鼻を突く。<br> <br> ――クロロホルム。<br> <br> 嗅いではいけない。慌てて逃げようとした巴の身体を、雪華綺晶が抑え込む。<br> 華奢な体躯に似合わず、力が強い。廊下の壁に、背を押し付けられてしまった。<br> 子供の頃から剣道を続けてきた巴ですら、振り解けなかった。<br> <br> 「くふふふふふっ。逃がしてもらえるなんて、思ってないですよね……柏葉さぁん?」<br> 「っ!! ……!?」<br> <br> 雪華綺晶の瞳は、狂気に濡れ、妖しく輝いている。<br> 止めていた巴の息が、限界を超えようとしていた。<br> 口で呼吸しようにも、雪華綺晶の手が、しっかりと押さえているので、口が開かない。<br> <br> 巴の意志とは無関係に、酸素を求めた身体が、思いっ切り空気を吸い込んでいた。<br> ふぅ……っと、意識が遠退き、頭が痺れた。<br> それまで懸命に抗っていた巴の身体から、力が抜けていく。<br> 雪華綺晶は、巴が完全に意識を失うまで、しっかりと彼女を抑え付けていた。<br> <br> 獲物を捕らえた毒蛇が、毒の回るのを、じっと待ち続けている様に。<br> <br> 「あはははっ。やぁ~っと手に入れちゃったぁ。私だけの、お人形さん」<br> <br> 気を失った巴の頬を、ぺろりと舐めて、雪華綺晶は巴を抱き上げた。<br> そして、据え付けられた旧式のエレベーターに乗って、屋敷の地下室に降りた。<br> <br> 「ほぉ~ら。もうすぐ、貴女のためのお部屋に着きますからねぇ」<br> <br> 屋敷の地下は物置になっていて、普段でも人は立ち入らない。<br> そこには、何のために造られたのか分からない小部屋が、一つだけあった。<br> 内側からしか鍵の掛からない、不思議な部屋。<br> 外側からは、鉄扉を壊さない限り入ることが出来ない、怪しい部屋。<br> 電気やトイレまで据え付けられている事から察するに、<br> 先祖の誰かが、引きこもる為に作らせたのかも知れない。<br> <br> 独りになりたいとき、雪華綺晶は密かに、その部屋を利用していた。<br> その為、簡易ベッドや照明機材などを、家族にも悟られることなく運び込んでいた。<br> <br> 「は~い、到着。暫し、ここで休んでいて下さいな」<br> <br> 雪華綺晶は、簡易ベッドに巴を寝かせて、囁きかけた。<br> <br> 「ちょっと、雑用を済ませてきますわ。おとなしく眠っててね、柏葉さん」<br> <br> ここまでは、予定通り……いや、予定以上に、事は巧く運んでいる。<br> 今のところ、無駄な動きは一切ない。尻尾を掴まれるようなヘマも、していない筈だ。<br> 雪華綺晶はニタリとほくそ笑んで、エレベーターで二階に昇った。<br> <br> 足音を忍ばせ、執事や使用人、ジュンや薔薇水晶に見付からないように、玄関へ向かう。<br> 素早く、巴と自分の靴を回収して、来た道を戻る。<br> この時が最も見付かりやすいので、細心の注意を払っていたが、<br> 幸い、誰にも会わなかった。<br> <br> (あとは――)<br> <br> 自室に戻った雪華綺晶は、さっき急いで作った書き置きを、机の上に載せた。<br> 巴と一緒に出かけてくるが、夕飯までには戻るという内容の伝言である。<br> 女子高生二人が謎の失踪を遂げる狂言の、舞台装置だった。<br> <br> 回収してきた靴を持ち、エレベーターで階下に降りた雪華綺晶は、<br> エレベーター起動用のキーを抜き取り、動作不能にした。<br> 地下室には、このエレベーターを使わない限り、立ち入ることが出来ない。<br> これで、当分の間、彼女の邪魔をする者は訪れない筈だった。<br> <br> 雪華綺晶は、巴の待つ小部屋に入って、内側から施錠した。<br> 扉の鍵は、これひとつだけ。合い鍵なんて無い。<br> その鍵を洋式トイレに投げ捨てて、下水へと流した。<br> <br> 「くふふふふっ…………これで、もう出られない。私も、柏葉さんも」<br> <br> ここは、二人だけの楽園。汚らわしい俗世から、隔絶された世界。<br> 清楚な巴を、いつまでも美しく留めておくことが出来る、唯一の場所。<br> 妄想の虜となった雪華綺晶の瞳には、この薄暗く小汚い地下室が、天国として映っていた。<br> <br> <br>  ~つづく~<br></p>
<p><br>   『貴女のとりこ』 第三回<br> <br> <br> 屋敷を訪れたジュンと巴を出迎えたのは、薔薇水晶だった。<br> ジュンの顔を見るや、無邪気に笑顔を輝かせて、彼の腕にしがみつく。<br> <br> 「ごめんな、薔薇水晶。今日は、雪華綺晶に話があって来たんだ」<br> 「……聞いてるよ。お姉ちゃんは、巴ちゃんと二人で話がしたいんだって。<br>  ジュンは、私と一緒に、お話が終わるまで待っていようよぉ。ね?」<br> 「うん…………だけどなぁ」<br> <br> ジュンは女性に甘い。俗に言うフェミニスト。<br> それが彼の長所であり、また、短所でもある。<br> 優しすぎるから、女の子たちは誤解してしまうのだ。『私のこと、好きなのかな?』と。<br> <br> 巴は複雑な想いを胸に押し込めて、クスッと微笑み、ジュンに言った。<br> <br> 「遠慮しなくて良いよ、桜田くん。わたし、ちょっと話をしてくる。<br>  桜田くんは、薔薇しぃちゃんと待っていて」<br> 「あ、ああ。柏葉が、そう言うんなら」<br> 「あはっ! やったあ。ねえ、ジュン~。お茶にしよぉ?」<br> <br> はしゃぐ薔薇水晶と、困惑するジュンを応接室に残して、巴は雪華綺晶の部屋に向かった。<br> 以前、来たときに案内されたので、場所は知っている。<br> <br> (どうやって……切り出そうかしら)<br> <br> 二階へと続く階段を昇る足が、小刻みに震えた。<br> やっぱり、怖い。膝が、カクカクいっている。一歩、踏み出す度に、転んでしまいそう。<br> <br> でも、行かなければ。行って、言ってしまわなければ。<br> <br> 巴は気力を振り絞って、薄暗い階段を登り切った。<br> 無意識の内に、つい、足音を忍ばせて廊下を歩いてしまう。<br> <br> (しっかりしなきゃ……桜田くんが、待っててくれるんだから)<br> <br> 両腕を掻き抱いて、身体の芯から湧いてくる震えを、押し止めようとする巴。<br> もう、こんな事は終わらせなければならない。<br> 終わらせるためには、進まなければいけない。<br> <br> <br> <br> そして――<br> 巴は、雪華綺晶の部屋の扉を、目の前にして立った。<br> <br>  《 ☆きらきーのお部屋★ 》<br> <br> コミカルなドアプレートが、何故か、とてもグロテスクな物に見えた。<br> 巴は生唾を呑み込み、大きな深呼吸をひとつすると、震える手で扉をノックした。<br> <br> 「はぁい? どなたですの?」<br> 「あ……あの……柏葉ですけど」<br> 「あらぁ、柏葉さん。お待ちしていましたわ。さあ、お入りになって」<br> <br> 入室を促す返事。<br> どうする? 入るべきか……それとも、扉の前で用件だけ伝えて、立ち去ろうか。<br> 顔も合わせずに、一方的な通告をするなんて無礼だ。それは承知している。<br> <br> (だけど、わたし……面と向かったら、きっと何も言えなくなってしまう)<br> <br> やっぱり、扉越しに話をして帰ろう。そう結論を出して、巴は息を吸い込んだ。<br> <br> 「わたし、貴女のお部屋には入れない。だから、このままで話をするわ。<br>  きらきーさん、聞いて欲しいの」<br> <br> 室内から、返事は戻ってこない。しかし、巴は自らの想いを、吐露し続けた。<br> こういう事は、ハッキリ言わないと解ってもらえない。<br> そう、思っていたから。<br> 絶対に自分の気持ちを伝えると、覚悟してきたから。<br> <br> 「お願いだから、もうメールを送ってこないで。しつこく付きまとわないで。<br>  わたし……本当に、迷惑しているんです」<br> 「…………」<br> 「わたしは、貴女の人形じゃないの! いちいち、指図してこないで!<br>  ハッキリ言って、気持ち悪いんです」<br> <br> 話している内に感情が高ぶってきたらしく、巴の声が、徐々に大きくなっていく。<br> 扉の向こうは、相変わらずの無音――<br> <br> ――かと思いきや、微かな物音が、巴の耳に届いた。<br> それは、すすり泣く声。部屋の中で、雪華綺晶は声を殺して泣いていた。<br> 途端、巴の胸に、苦い罪悪感が溜まっていく。<br> 頭に血がのぼりすぎて、言い過ぎたかも知れない。<br> <br> いたたまれなくなって、巴が踵を返し、その場を後にしようとした時、<br> ドア越しに、雪華綺晶のか細い声が漏れてきた。<br> <br> 「……ごめんなさい。柏葉さん……ごめんなさい」<br> <br> 雪華綺晶は、ひたすらに謝り続けていた。<br> <br> 「――きらきーさん」<br> 「私の周りには、多くの知人友人が居ますわ。<br>  でも……柏葉さんほど、心を許せるお友達は居なかったのです。<br>  それで、私は、つい出過ぎた真似をしてしまって……迷惑をかけてしまった」<br> <br> 理由を知って、巴の怒りと嫌悪感が、僅かに和らいだ。<br> 誰だって、気心を許せる友達には、行きすぎた事をしてしまいがちだ。<br> <br> (わたしだって、気付かない間に、雛苺や桜田くんを不愉快にさせてるかも知れない)<br> <br> そう思ったら、一方的に雪華綺晶を悪と決めつける気持ちは薄れてしまった。<br> 巴は、いま一度、扉をノックして、彼女に話しかけた。<br> <br> 「あのね、きらきーさん。解ってくれたなら、それで良いの。<br>  もう、メールは送ってこないで。そして、普通のお友達に戻りましょう」<br> 「…………柏葉さん。本当に、宜しいのですか? 許して貰えるのですか?」<br> 「うん。友達として、これからも宜しくね」<br> <br> 土砂降りの雨の中で、雨宿りが出来る場所を見付けて安堵したような雪華綺晶の声に、<br> 巴は思わず頬を緩めて、静かに応じた。<br> 全てが円満に解決したことで、巴の全身から、一気に力が抜ける。<br> でも、へたり込んでいる暇はない。ジュンを待たせているのだから。<br> <br> 「それじゃあ、きらきーさん。わたし、もう行くから」<br> <br> 言って、向きを変え、階段へと歩き始めた巴の背後で、ドアノブの回る音がした。<br> 雪華綺晶が、泣き濡れた顔で見送ってくれようとしているのだと、巴は思った。<br> 普通なら、恥ずかしくて顔も見せられないだろうに。<br> 巴は、雪華綺晶の健気さに、胸が熱くなるのを感じた。<br> <br> (やはり、別れの挨拶くらい、顔を合わせてしよう)<br> <br> 折角、仲直りできたのに、初っ端からぎこちない態度を見せるのは避けたい。<br> 背後から小走りに近付いてくる彼女に、巴は、くるりと振り返った。<br> <br> 「きらき――!?」<br> <br> そこまで言いかけた途端、巴は口元に、ハンカチの様な物を押し当てられた。<br> 薬品の臭いが鼻を突く。<br> <br> ――クロロホルム。<br> <br> 嗅いではいけない。慌てて逃げようとした巴の身体を、雪華綺晶が抑え込む。<br> 華奢な体躯に似合わず、力が強い。廊下の壁に、背を押し付けられてしまった。<br> 子供の頃から剣道を続けてきた巴ですら、振り解けなかった。<br> <br> 「くふふふふふっ。逃がしてもらえるなんて、思ってないですよね……柏葉さぁん?」<br> 「っ!! ……!?」<br> <br> 雪華綺晶の瞳は、狂気に濡れ、妖しく輝いている。<br> 止めていた巴の息が、限界を超えようとしていた。<br> 口で呼吸しようにも、雪華綺晶の手が、しっかりと押さえているので、口が開かない。<br> <br> 巴の意志とは無関係に、酸素を求めた身体が、思いっ切り空気を吸い込んでいた。<br> ふぅ……っと、意識が遠退き、頭が痺れた。<br> それまで懸命に抗っていた巴の身体から、力が抜けていく。<br> 雪華綺晶は、巴が完全に意識を失うまで、しっかりと彼女を抑え付けていた。<br> <br> 獲物を捕らえた毒蛇が、毒の回るのを、じっと待ち続けている様に。<br> <br> 「あはははっ。やぁ~っと手に入れちゃったぁ。私だけの、お人形さん」<br> <br> 気を失った巴の頬を、ぺろりと舐めて、雪華綺晶は巴を抱き上げた。<br> そして、据え付けられた旧式のエレベーターに乗って、屋敷の地下室に降りた。<br> <br> 「ほぉ~ら。もうすぐ、貴女のためのお部屋に着きますからねぇ」<br> <br> 屋敷の地下は物置になっていて、普段でも人は立ち入らない。<br> そこには、何のために造られたのか分からない小部屋が、一つだけあった。<br> 内側からしか鍵の掛からない、不思議な部屋。<br> 外側からは、鉄扉を壊さない限り入ることが出来ない、怪しい部屋。<br> 電気やトイレまで据え付けられている事から察するに、<br> 先祖の誰かが、引きこもる為に作らせたのかも知れない。<br> <br> 独りになりたいとき、雪華綺晶は密かに、その部屋を利用していた。<br> その為、簡易ベッドや照明機材などを、家族にも悟られることなく運び込んでいた。<br> <br> 「は~い、到着。暫し、ここで休んでいて下さいな」<br> <br> 雪華綺晶は、簡易ベッドに巴を寝かせて、囁きかけた。<br> <br> 「ちょっと、雑用を済ませてきますわ。おとなしく眠っててね、柏葉さん」<br> <br> ここまでは、予定通り……いや、予定以上に、事は巧く運んでいる。<br> 今のところ、無駄な動きは一切ない。尻尾を掴まれるようなヘマも、していない筈だ。<br> 雪華綺晶はニタリとほくそ笑んで、エレベーターで二階に昇った。<br> <br> 足音を忍ばせ、執事や使用人、ジュンや薔薇水晶に見付からないように、玄関へ向かう。<br> 素早く、巴と自分の靴を回収して、来た道を戻る。<br> この時が最も見付かりやすいので、細心の注意を払っていたが、<br> 幸い、誰にも会わなかった。<br> <br> (あとは――)<br> <br> 自室に戻った雪華綺晶は、さっき急いで作った書き置きを、机の上に載せた。<br> 巴と一緒に出かけてくるが、夕飯までには戻るという内容の伝言である。<br> 女子高生二人が謎の失踪を遂げる狂言の、舞台装置だった。<br> <br> 回収してきた靴を持ち、エレベーターで階下に降りた雪華綺晶は、<br> エレベーター起動用のキーを抜き取り、動作不能にした。<br> 地下室には、このエレベーターを使わない限り、立ち入ることが出来ない。<br> これで、当分の間、彼女の邪魔をする者は訪れない筈だった。<br> <br> 雪華綺晶は、巴の待つ小部屋に入って、内側から施錠した。<br> 扉の鍵は、これひとつだけ。合い鍵なんて無い。<br> その鍵を洋式トイレに投げ捨てて、下水へと流した。<br> <br> 「くふふふふっ…………これで、もう出られない。私も、柏葉さんも」<br> <br> ここは、二人だけの楽園。汚らわしい俗世から、隔絶された世界。<br> 清楚な巴を、いつまでも美しく留めておくことが出来る、唯一の場所。<br> 妄想の虜となった雪華綺晶の瞳には、この薄暗く小汚い地下室が、天国として映っていた。<br> <br> <br>  ~第四回に続く~<br></p>

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