「『貴女のとりこ』 第一回」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら
「『貴女のとりこ』 第一回」(2006/06/16 (金) 02:28:08) の最新版変更点
追加された行は緑色になります。
削除された行は赤色になります。
<p><br>
『貴女のとりこ』<br>
<br>
今年もまた、六月が訪れてしまいました――<br>
英語で言うところの、June。<br>
以前に付き合っていた男の人と、語感が似ているのは、何かの因果でしょうか。<br>
<br>
まあ…………それは、さておき。<br>
私には、毎年、六月が来ると思い出す事があるんです。<br>
<br>
<br>
それは――とてもとても悲しい思い出。<br>
そして――とてもとても恐ろしい記憶。<br>
<br>
本当は、あまり思い出したくないこと。<br>
本当は、誰にも話したくないこと。<br>
<br>
でも…………独りで抱えているには、余りにも重い記憶。<br>
重くて重くて、今にも足の上に落としてしまいそう。<br>
辛くて辛くて、つい皓々たる月に喋ってしまいそう。<br>
<br>
<br>
お願いです。人助けだと思って、私の話を聞いて貰えませんか?<br>
どんな悩みも、人に聞いて貰うだけで、少しは楽になると言いますから。<br>
<br>
え? 本当ですか?! 本当に、聞いて下さるんですね!?<br>
…………あぁ……良かったぁ。断られたら、どうしようかとハラハラしてました。<br>
<br>
ああ、どうぞ、おくつろぎになって下さい。少しばかり、長いお話ですので。<br>
今、お紅茶を煎れますね。今朝、上質の葉っぱが手に入ったんですよ。<br>
<br></p>
<hr>
<br>
少し、朝寝坊が過ぎてしまった、土曜日の朝。<br>
連日、低く垂れ込めていた雲が切れて、久しぶりに陽光が射し込んできた。<br>
かれこれ四日ぶりの、梅雨の晴れ間。<br>
自室の窓から、屋敷の広い庭を見下ろすと、庭木に着いた雨の滴が、きらきらと輝いていた。<br>
<br>
「ステキですわ。なんて美しいんでしょう」<br>
<br>
独りごちて、感嘆の溜息を吐いた娘の名は、雪華綺晶。<br>
訳あって、右眼に白薔薇を模した眼帯をしているけれど、<br>
それ以外は、どこにでも居そうな、至って普通の女の子。<br>
緩くウェーブのかかる長い髪も、なかなかに特徴的である。<br>
<br>
物腰は柔らかく、一挙一動の仕種も洗練されていて、言葉遣いも丁寧。<br>
これこそ非の打ち所がない深窓の令嬢と、誰もが思ってしまう娘だった。<br>
<br>
そんなお嬢様なら、近寄りがたい印象を醸し出していそうなものだが、<br>
彼女の場合は、ちょっと違う。<br>
気さくな性格が幸いしてか、男女を問わず沢山の友達が居た。<br>
一緒に遊ぶことも多々あったし、年頃の女の子なら誰でもそうするように、<br>
雑談に織り交ぜて、恋愛話を語り合ったりもした。<br>
<br>
でも……長所ばかりの人間など、居る筈がない。<br>
<br>
<br>
雪華綺晶は、ちょっとだけ独善的で、やや妄想癖がある娘だった。<br>
<br>
<br>
雨上がりの空気を吸い込んでみたくなって、雪華綺晶は少しだけ、窓を開けた。<br>
むわっ……と、湿気を含んだ風が、部屋の中に流れ込んでくる。<br>
濡れた土の匂いが、雪華綺晶の鼻腔をくすぐった。<br>
<br>
「んふ。いい薫りですわ」<br>
<br>
雪華綺晶は、人工的な香料よりも、自然の空気が好きだった。<br>
人間とて、野生動物の一種。自然を蔑ろにしては生きていけない。<br>
そんな、当たり前すぎて、つい忘れてしまいがちな物事の本質を、雪華綺晶はきちんと理解していた。<br>
<br>
暫し、雨上がりの清々しい空気を堪能して、そろそろ着替えようかと思った矢先、<br>
玄関の呼び鈴が、からんころん……と、古めかしい音を立てた。<br>
<br>
(土曜日の朝から、お客さま?)<br>
<br>
しかし、時計を見れば11時を過ぎている。<br>
自分の方がお寝坊さんなのだと気付いて、雪華綺晶は羞恥に頬を染めた。<br>
<br>
<br>
早々に着替えを済ませて、身支度を整えると、自室を出て階下に向かった。<br>
広い屋敷の中は、ひっそりと静まり返っている。<br>
客人は、もう帰ったのだろうか?<br>
<br>
「案外、宅急便の方だったのかも知れませんわね」<br>
<br>
これなら、ネグリジェのまま食堂に行っても良かったなあ、と考えつつ、<br>
応接室の前を横切ろうとした雪華綺晶は、話し声を耳にして我に返った。<br>
部屋を覗き込むと、妹、薔薇水晶が招いた友達、ジュンと巴が、ソファに座っていた。<br>
<br>
「おはよう、雪華綺晶」<br>
「お邪魔してます。きらきーさん」<br>
<br>
二人は、彼女の姿を認めて、軽く会釈する。<br>
雪華綺晶も優雅に頭を下げると、にこやかに挨拶を返して、応接室に踏み込んだ。<br>
<br>
「いらっしゃい。今日は、薔薇しぃちゃんに、お勉強を教えて下さるのですね?」<br>
「もお……違うよ、お姉ちゃん」<br>
「ふふっ。冗談ですわ」<br>
<br>
頬を膨らませる薔薇水晶に柔らかく微笑んで、雪華綺晶は応接室を後にしようと、踵を返した。<br>
彼女の背中に、巴が、口ごもりながら声を掛ける。<br>
<br>
「あ、あの……ごめんなさい。お手洗い、お借りしたいんだけど?」<br>
「それでしたら、こちらですわ」<br>
<br>
雪華綺晶に手招きされてソファを立った巴に、薔薇水晶がチラッと眼を向けた。<br>
妹はポーカーフェイス。<br>
けれど、雪華綺晶は、妹の目元に妖しい笑みが浮かんだのを見逃さなかった。<br>
<br>
――良かった。これで暫くは、ジュンと二人きりになれるね♪<br>
<br>
そんな心の声まで、聞こえる気がした。<br>
<br>
(薔薇しぃちゃんは、ジュンさんと仲良くしたいみたい。<br>
じゃあ、私が巴さんの相手をしてあげましょう)<br>
<br>
もう朝食という時間でもないし、折角だから、巴をお茶に誘ってみよう。<br>
そうすれば、三十分くらいはジュンと薔薇水晶の二人きりになれる。<br>
彼と彼女の仲が進展するかどうかは、二人の問題だ。<br>
<br>
(私は、お姉さんですもの。大切な妹のために、お膳立てをしてあげましょう)<br>
<br>
雪華綺晶は、巴を案内しながら、如何にして長く足止めするかを思案していた。<br>
そもそも、お茶に誘ったところで、賛成してくれるとは限らない。<br>
二人を待たせては悪いから、という理由で、やんわり断られる事も有り得た。<br>
<br>
<br>
何はともあれ、誘いもしない内から、仮定の仮定を繰り返しても意味がない。<br>
まずは行動あるのみ。当たって砕けても、薔薇水晶の運が無かったというだけのこと。<br>
<br>
「柏葉さん。こちらの洗面所の奥が、お手洗いになりますわ」<br>
「あ、ごめんなさい。お借りします」<br>
「帰り道に迷っては大変でしょうから、私は廊下で待っていますね」<br>
「ありがとう」<br>
<br>
ペコッと頭を下げる巴に、雪華綺晶は手を振って微笑み、見送った。<br>
洗面所の扉が閉ざされると、廊下の壁に凭れかかって、静かに待ち続ける。<br>
程なくして、扉の奥から微かに、巴の声が聞こえた。<br>
どうやら、呼んでいるみたいだ。<br>
雪華綺晶は、洗面所の扉を少しだけ開いて、巴に問い掛けた。<br>
<br>
「柏葉さん? どうかしましたか?」<br>
「あの……えっと…………ト、トイレットペーパーが……」<br>
「もしかして、切らしてました? ごめんなさいね」<br>
<br>
洗面所の戸棚からロール紙を取り出して、雪華綺晶はトイレの戸を、軽くノックした。<br>
僅かに開けられた隙間から、ロール紙を差し入れる。<br>
「すみません」と言って、受け取る巴。<br>
雪華綺晶は「こちらこそ、失礼しましたわ」と応じて、廊下に引き返した。<br>
<br>
用を足して廊下に出てきた巴は、ものの見事に赤面していた。<br>
まあ、当然だろう。花も恥じらう妙齢の乙女が、あんな目に遭ってしまっては。<br>
<br>
「なんだか、このまま戻るのも気まずそうですわね」<br>
「……ちょっとだけ」<br>
<br>
しかし、ものは考え様。これは、棚からぼた餅?<br>
期せずして、お茶に誘う口実が出来てしまった。<br>
気分転換にと言えば、巴も頑なに拒みはしないだろう。<br>
雪華綺晶は早速、これ幸いと、足止め作戦を実行に移した。<br>
如才なく、今しがた思い付いたように振る舞うのも忘れない。<br>
<br>
「でしたら、少しの間、私のお茶に付き合って頂けませんか?」<br>
「喜んで。取り敢えず、落ち着く時間が欲しいから」<br>
<br>
巴と、雪華綺晶――<br>
<br>
あるとあらゆる偶然が重ならなければ、決して噛み合うことのなかった運命の歯車が、<br>
今…………がちゃりと音を立てて、静かに回り始めた。<br>
そもそも、多くの偶然が一致する時点で、出会いは必然だったのかも知れない。<br>
<br>
食堂に着いた雪華綺晶は、巴に席を勧めると、執事を呼んで、<br>
紅茶とスコーンを持ってくるよう依頼した。<br>
<br>
スコーンとは、イギリスのスコットランド地方で伝統的に食べられている、<br>
クッキーに似たパン菓子である。<br>
イギリスでのアフタヌーンティーには、不可欠なお茶菓子だ。<br>
ナイフで二つに割って、ジャムやバターを付けて食べるのが一般的な食べ方で、<br>
時に、朝食の代わりに食されることもある。<br>
朝食を摂りそびれた雪華綺晶には、打って付けの食べ物だった。<br>
<br>
「恥ずかしながら、私……少し前に起きたばかりなのです。お腹が空いてしまって。<br>
柏葉さんも、よろしければ、お茶請けにどう?」<br>
「じゃあ、ひとつ。あ……おいしい。これ、自家製なの?」<br>
「ええ。作り方は、とっても簡単ですよ。必要な材料は――」<br>
<br>
――などなど、二人の雑談はスコーンのことから始まり、次第に膨らんでいった。<br>
無論、安易にプライベートな話題を振る真似はしない。<br>
親しき仲にも礼儀ありということは、十分に承知している。<br>
<br>
だから、話題は専ら、学校生活の事に終始した。<br>
クラスの同級生のこと、授業のこと、部活のこと、その他、諸々……。<br>
<br>
「私、美術部に所属して居るんですけど、雛苺さんったら――」<br>
「本当に? ふふふっ……雛苺らしいわ」<br>
<br>
和気藹々。二人だけのお茶会は、至って、穏やかな雰囲気で進んでいた。<br>
<br>
けれど、突然の疾風が、木の葉を散らすように、<br>
何気ない一言が、心の壁に風穴を穿つこともある。<br>
<br>
「そう言えば、柏葉さんは剣道部の主将を務めているんでしたね。<br>
そんな大役を仰せつかるからには、よっぽど頼られているのでしょうね。<br>
面倒見が良いとか、実力が一番だとか」<br>
<br>
雪華綺晶の放った一言は、まさに、巴の心の脆い部分を突き崩す楔となった。<br>
やおら、表情を硬くして、口ごもる巴。<br>
雪華綺晶もまた、何か拙いことを言ってしまったのかと、続く言葉を呑み込んだ。<br>
<br>
暫しの間が開いて、いよいよ重い空気に耐えかねた雪華綺晶が話を切り出そうとした矢先、<br>
巴が言葉を紡ぎ始めた。<br>
<br>
「わたし…………本当は、面倒見なんて良くないのよ。だけど、ダメね。<br>
人の目とか、期待とか、そんな事ばかり気にしてしまって、言いたいことが、<br>
何も言えなくなってしまう。頼まれると、断れないのよ」<br>
「……柏葉さん」<br>
「わたしは、自分では何も変えられない。周囲の期待を裏切るのが怖くて、自分を偽るだけ」<br>
<br>
伏し目がちに、本音を呟く巴の様子に、雪華綺晶の心がざわめいた。<br>
この娘は、なんて律儀で、健気なんだろう。<br>
周囲の人間たちなんて、所詮は身勝手な生き物にすぎない。<br>
そんな連中の言うことなんて気にしなければ良いのに、私心を捨てて、公に尽くすなんて。<br>
<br>
自己犠牲の精神は尊ぶべきことだけれど、利己主義の罷り通る現代に於いては、<br>
愚かしくもある。<br>
<br>
(こんなにも純粋な娘が不幸になるのは、理不尽です。見るに堪えませんわ)<br>
<br>
最初は、薔薇水晶のお手伝いといった、軽い気持ちだった。<br>
けれども、話をする内に、巴の健気さ、一途さに心を惹かれていって――<br>
<br>
気付けば、護ってあげたい気持ちが、胸一杯に広がっていた。<br>
<br>
(周囲の者達が、貴女を生贄の羊にしようと企むなら、<br>
私は壁となって立ちはだかり、貴女を護りましょう。<br>
反吐が出そうな思惑に、清純な貴女が汚されてしまわない様に)<br>
<br>
<br>
<br>
週が開けた月曜日から、雪華綺晶は、巴の元を足繁く訪れるようになった。<br>
クラスが違うにも拘わらず、休み時間になると、ふらりと現れる。<br>
そして、巴と談笑した帰りがけに、それとなく周囲の生徒達を鋭い視線で牽制していった。<br>
<br>
(柏葉さんを貶め、彼女の心を傷付ける者は、誰であろうと容赦しませんわ)<br>
<br>
巴を気遣う想いが、日に日に強まっていく。<br>
世間の汚れに染まらないように……。巴の純粋さを護るために……。<br>
<br>
その想いは、やがて独善性と妄想癖によって、歪んだ感情へと昇華していく。<br>
<br>
(彼女は、いつまでも高潔な存在であるべきですわ。<br>
気高くて、気品に満ちた乙女……素晴らしいわ。ゾクゾクするほど美しいです)<br>
<br>
巴を清潔な存在に保ち続けるためなら、あらゆる努力を惜しまない。<br>
そう考えるようになる迄に、大した時間は必要なかった。<br>
<br>
<br>
<br>
~第二回に続く~<br>