憧憬ライアニズム Epigram ◆gsq46R5/OE
守護る、という台詞とは裏腹の行動だった。
何故なら彼の剣の矛先は、もはや神威にすら向いていない。
裂帛の気合を以って振り上げた刀身で、銀髪の侍を両断しにかかる。
無論、一度は紅桜と打ち合い、勝利したことのある銀時だ。
たったの一撃で戦闘不能ということはなく、彼もまた、自らの剣でそれを受け止めてみせる。
しかしその顔に、苦いものが浮いているのもまた確かであった。
「相っ変わらず、食欲旺盛なことで……!」
悪態をつきながら、銀時が無毀なる湖光を大きく振るった。
こうなっては、もう自力で正気を取り戻すのは難しい。
紅桜を早急に破壊し、本部の体に根付いた電魄の影響を取り払う必要がある。
ただし、それで本部以蔵の命が助かるかと言われれば、銀時には断言できない。
彼は医者ではないのだから当たり前という話ではなく、傍目から見ても本部の状態は酷いのだ。
このまま戦い続けようが、紅桜を破壊して正気に戻そうが、未来は同じなのではないか。
そんな不吉な想像が頭を過ぎったとして、誰に責められようか。
彼の脇腹は歪に抉られて常に血を零しており、顔は鼻が折られ、出血で真っ赤に染まっている。
顔面への打撃で顔の骨や、下手をすれば額の骨にまで亀裂や損壊が及んでいてもおかしくない。
見えている肌の部分は内出血している箇所が多く、ドス黒く変色している場所まである。
服の上からでは確認できないが、内臓もそれは酷い有様だった。
潰れていないものの方が少ないような、知識のある人物が見たなら思わず顔を背けたくなるような状態が広がっている。
「ほら、言わんこっちゃない」
失笑して、本部を嘲るのは神威だ。
彼は言った。そんな妖刀(もの)に頼れば死ぬぞ、と。
本部は言った。気が狂っても、俺は全てを守護る、と。
その結果がこれだ。
本部以蔵は紅桜を結局は制御しきれず、搭載された人工知能によって自我を崩壊させた。
守護る、と言いながら、本来守護るべき対象であるはずの侍に刃を向ける姿は滑稽でさえある。
彼がどう足掻こうと、永くは保たない。理性の次は、命が、だ。
しかし、それは当然の結果だったのかもしれない。
彼が力を授かった相手は、人にあって人にあらぬ魔元帥ジル・ド・レイ。
悪魔マルチネというもう一つの顔を持つ、悪意の化身。
悪魔と取引をした人間が、その生涯を幸福に終えた試しはない。
「オオオオオオオオッッ」
斬撃を振り落とし、なおも銀時を潰さんとする本部。
ただ、彼の標的は、銀時一人に絞られた訳でもないようだった。
銀時が紅桜の重い剣戟を止めるや否や、本部は突然身を翻し、後ろの神威を薙ぎ払う。
それをガードした日傘の中棒に、遂に一筋の亀裂が入った。
威力が、また上がっている。今はもう、人斬り似蔵が振るった時のそれを完全に超えていた。
「っと」
只でさえ回避に慎重にならねばならなかった紅桜の攻撃が、より苛烈化している。
少なくとも乱戦の中で相手取りたくはない、ハリケーンか何かを思わせる猛威だった。
「も、本部、さん」
宇治松千夜。
本部がかつて、人の心を無くすなとそう言った少女の声は、羅刹と化した本部には届かない。
譫言のように守護る、守護ると口走りながら、妖しく光る刀を振り回すばかりだ。
「……どいつもこいつも、好き放題暴れやがって……」
呆れたように口にしつつ本部と剣閃を交わし合う銀時だったが、その背筋には冷や汗が流れていた。
端的に言って、状況が悪すぎる。
以前紅桜を破壊した時には、周りに仲間が居た。
仲間の助力があってこそ、自分は窮地を脱することが出来、紅桜の破壊に至ったのだ。
今、銀時が頼れるのはファバロのみ。
そのファバロだが、彼に接近戦へ混ざれというのは死ねと言っているのと同じようなものだ。
ビームサーベルを保有している話は聞いていたが、余程優れた実力者でもない限り、この乱戦に飛び込むのは無謀と言う他ない。
かと言ってミシンガンの銃撃も、理性を完全に飛ばしている本部には殆ど意味を成していないのが現状であった。
そして、何よりも都合が悪いのは……
「づ、ぐぉ――……ッ」
神威という、特大クラスの厄ネタがそこに混ざっていることだ。
本部との打ち合いの隙を縫って得物の間合いまで侵入を果たした神威が、銀時の腹のど真ん中に得物の強烈な刺突を喰らわせる。
本部の暴走という突然の事態すら、この男はまるで意に介している様子がない。
単なる享楽ではなく確固たる目的を見据え行動し始めた彼に、遊びと呼べるものは皆無。
――だが、彼の目下再優先の獲物と認定されているのはどうやら、銀時の方であるらしい。
神威は、警戒しているのだ。
銀時の中に垣間見えた、理解し難いものの存在を。
侍という不確定要素に溢れ過ぎた相手から先に排除して、事を有利に運ぼうとしている。
つまり時にこの戦場は、乱戦の体さえ崩壊させるのだ。
時に坂田銀時、本部以蔵、神威の戦いから、坂田銀時と本部以蔵、神威の戦いへと変わる。
それがあくまでも人間の体しか持たない銀時にとっては、最悪レベルに都合が悪い。
「俺が――守護らねばならんッッッ!!!」
口角泡を飛ばして叫び散らしながら、本部は狂ったように、いや真実狂って銀時に猛攻を仕掛ける。
受け止める腕がビリビリと、嫌な痺れを訴え始めているのが分かった。
神造兵装・無毀なる湖光は確かに紅桜以上の業物だが、武器が壊れないからと言って、永遠に防御を続けられる訳じゃない。
担い手の体が先に音を上げれば、どんなに優れた剣も刀もただの棒きれだ。
銀時は力強く無毀なる湖光の柄を握り締め、死ぬ気で妖刀の剣戟と相対し、僅かな隙を見つけて攻勢に移り――
「守護(まも)るなんて大層なこと抜かすなら、まずは手前の脳味噌守って見せろォォォォ!!!!」
力強く、雄々しく吼えた。
一際激しく火花が散り、銀髪の侍は突き進む。
羅刹さながらの鬼気迫る様相を呈し戦う本部に対し、その姿はさながら、白き夜叉のようだった。
ゆるやかに崩壊の進んでいく闘技場の中、少女達は動けずにいた。
絢瀬絵里も、宇治松千夜も、概ね平穏と言っていい日々を送ってきた人間である。
千夜の方は、特にそうだ。
絵里はスクールアイドルの活動をしてこそいたが、あくまでもそれは暴力の絡まない範疇での非日常だった。
煙草や酒をやらず、ドラッグなど以ての外の健全な身体と精神。
日だまりの中を生きる少女達にとって、目の前で繰り広げられる戦いは、あまりにも刺激が強すぎた。
――単にそう言うと、語弊がある。
少なくとも絵里は一度、本能字学園で似たような激戦を目にしたことがあった。
その場には神威も居り、彼がどのような戦いをするのかは、ある程度知っていた。
千夜だって、周りで大勢の人間が死んでいくのを間近で見せられ続けてきた身だ。
いいことでは間違いなくないだろうが、常人に比べて、こういった光景への耐性は付いていても何ら不思議ではない。
ならば自分達の置かれた状況の危険さをいち早く理解し、後のことを託して脱出しようと考えるのが普通だ。
なのに彼女達がそれを出来なかったのには、理由がある。
神威。
自分の妹をその手で貫き殺した、殺戮者。
彼が発露させ、今も全方位に放っている濃厚過ぎる殺意。
本能字学園の一件で見せていた、笑顔に乗せたものとはまた違う――覚悟を決めた者の殺意。
二人は、それにあてられてしまったのだ。
神威は宇宙海賊の一員であり、銀時と同等、下手をすればそれ以上の数の死線を潜っている。
殺した人数、倒した敵ならば、確実に彼よりも多い。
いわば、殺しと破壊のプロとでも言うべき男だ。
その彼が、本気で見せた殺意。
それは、少女達を恐怖で動けなくさせるには十分過ぎた。
千夜に至っては失禁までさせるほどの、効果があった。
神威は、女子供を殺さないという美学を持つ。
しかし今の彼に、そういうものは期待できないだろう。
仮に彼が銀時と本部を殺して生き残ったなら、その手は間違いなく、絵里と千夜に及ぶ。
漠然としたものではなく、確たる目的を得た殺しに、美学は要らない。
だから逃げなければと思っているのに、足が動かない。腰が抜けている。
(……情けない)
ぎり、と奥歯を軋ませたのは絵里だ。
自分は、また何も出来ずにいる。
この場を離れるという最善手すら、選べずにいる。
そんな自分の弱さが情けなくて情けなくて、絵里の中に自己嫌悪の情が吹き上がってくる。
今、自分に出来ることは――祈ること。
銀時の勝利を祈る以外に、何も出来ない。
ふと、隣の千夜に視線を向ける。
彼女も、同じような顔をしていた。
まるで自分を鏡に写したようだと、妙なことさえ思ってしまう。
「本部さん……どうして……」
本部以蔵。
絵里達は可能性の段階とはいえ、彼を危険人物なのではないかと疑った。
千夜の言動と、銀時と協力して戦う姿を見てすぐに勘違いだったと分かったが、今の本部はまさに、危険人物としか言いようのない有様だ。
不気味に触手を蠢かせて、何やら叫びながら刀を暴力的に振るっている。
――あの刀が、どうやら彼を変えてしまった元凶らしい。
俗に言うところの、妖刀というやつなのだろう。
漫画や映画、出来の悪い怪談以外でそんな言葉を使う時が来るとは思っていなかったが。
「……悲観しちゃダメよ、千夜ちゃん」
「でも……!」
「大丈夫。……銀さんを、信じよう」
坂田銀時は強い。
普段は頼りないが、やる時はやってくれる人だ。
彼ならば、この絶望的な状況をどうにか出来るかもしれない。
絵里達には信じられないような"もしも"を、実現させてくれるかもしれない。
今は、そう信じることしか出来なかった。
「絵里さん……っ!?」
突然のことだった。
千夜が目を見開いて、何かを言おうとした。
どうしたの、と続けたかった言葉は、声にならなかった。
「よけて――!!」
ぐぎっ。
鈍い音が、した。
「あッ……ぐ……ぅぅう…………ッ」
千夜の目の前で、絵里は肩を抑えて蹲る。
その傍らには、今しがた降り注いだ、瓦礫の塊が転がっていた。
崩落の始まった闘技場の中、今も緩やかにではあるが、天井だったものが落ちてきている。
絵里は運悪く、その一個に直撃してしまったのだ。
肩に命中した瓦礫は、彼女の命を奪いこそしなかったが、その華奢な肩を砕くには十分な重さを孕んでいた。
もしも頭や首に当たっていたなら、間違いなく絵里は死んでいただろう。
「えっ、絵里さん! 大丈夫ですか、すぐに手当てを……!!」
手当てを、と口で言うのは簡単だが、肩口の骨折は処置が難しい。
これが腕ならば、千夜も本や日常生活で得た知識でどうにか出来たろう。
しかし肩の骨折となると、不幸にも千夜には知識がなかった。
(ど、どうしよう……とりあえず患部を見て――)
「…………あれ……?」
意外にも。
その時、怪訝な声を出したのは、絵里の方だった。
「もしかして他にどこか……!?」
「ううん……違うわ。痛みが……少しずつだけど、和らいでいくような」
不思議に思った絵里は自分の制服を捲り、患部と布地が擦れる痛みに顔を顰めながら、自分の痛めた傷を確認する。
すると確かに痛ましく内出血しており、肌の表面は衝撃で皮が剥けていた。
しかしその皮が、よく見ると少しずつ、少しずつ再生している。
少しずつと言っても、自然回復のそれに比べれば何倍、下手をすれば何十倍の速度だ。
絵里はそんな特異体質になった覚えはなかったが、思えば、心当たりはある。
思い返すのは、此処に来る間のことだ。
電車の中で盛大にすっ転び、頭にたんこぶを作ってしまった自分。
なのにそのたんこぶは気付くと既に消えており、形跡すら残ってはいなかった。
銀時に言われなければ、そもそも怪我をしたことにすら気付かなかったろう。
この現象に、関係がないとは思えない。
絵里は慌てて自分の所持している黄金の鞘を、地面に置いてみる。
すると途端に、傷口の治癒は止まった。
再び手に取ると、また回復が始まる。
「すごい……」
千夜が月並みな感想しか吐けなかったのも、無理はない。
この調子で回復が進んでいけば、恐らく完全治癒に十分と要すまい。
……これがあれば、きっと助けられる命がある。
絵里は、そう確信した。
この戦いで銀時がどれだけ負傷して戻ってきても、これさえあれば、彼を癒やすことが出来る。
自分にも、できることが、ある!
果てがないように見えた絶望の中で、拾い上げた一抹の希望。
絵里はそれを抱いて、再び戦場に目を移す。
表情が凍った。
離れた戦場ではなく、すぐ近くに。
絵里と千夜の正面、二メートルもないような間合いに。
妖刀を携えた、羅刹が立っていた。
只でさえ廃墟じみた有様を晒している闘技場は、本部の狂乱以降更にその度合を増した。
どこがリングでどこが観客席なのか分からなくなったのは早い内で、今となってはだだっ広いホールのような外観になりつつある。
事情を知らない者が見たなら、何をどうしたら二本の剣と一個の生身でこんな惨状を作り出せるのかと、首を傾げたくもなるだろう。
一人の酔狂な男が作り上げた戦いの殿堂は変わり果て、そこに立つ者もグラップラーではない。
武器の使用が平然と横行したこの戦いをかの徳川老人が見たなら、どんな顔をしただろうか。
或いは唯一徒手で戦い続ける神威の勇猛ぶりに、惚れ込みでもしたかもしれない。
銀時、本部、神威が交わした攻め手の数は既に二百を超えていた。
そんな激戦の中ですら、致命傷を見事に躱しつつ立ち回る侍と夜兎は流石。
いつ朽ち果ててもおかしくない容体に更に傷を重ねて、それでも倒れることなく刃を振るい続ける守護者の様は狂気を感じさせる。
本部の戦い方は、銀時に言わせれば壮大な自滅だ。
暴れれば暴れるほど傷が開き、生命力が減っていくにつれて彼を蝕む電魄は猛る。
事実彼の衣服は血の池で泳いできたのかというほど赤く染まり、元の色が判別できないほどになっていた。
正気の彼が見せていた余裕や風格は、今やどこにもない。
その姿はやはり、坂田銀時がかつて戦った紅桜の使い手――岡田似蔵の暴走した姿に酷似していた。今の本部は、あの時の似蔵と同じ顔をしている。
彼に紅桜を渡した張本人がこの場に居たなら、大笑さえしたかもしれない。
自分の磨き上げた技は全て使えなくなり、守護者の意思すらも失い。
妖刀に搭載された仮初の知能に体を掌握されて、彼が嫌悪しただろう、守護者の対極の姿を晒すことを余儀なくされている。
「アンタ、それでいいのか……!」
銀時の説得など、届いている筈がない。
銀時は知っているのだ。この妖刀の恐ろしさを、一度は経験している。
非情に聞こえるかもしれないが、本部はもう駄目だろう。
紅桜を破壊したとして、この体で長生き出来るとはとても思えない――詰み、だ。
老いた体から放たれるとは思えない剛力を受け止めると、腕が比喩でも何でもなく軋む。
あまり長く競り合えば、剣越しに腕を圧し折られるのではないか。
冗談のような話。悪夢のような、話だった。
鍔迫り合いを続ける二人の隙を貰ったとばかりに、神威の凶手が双方を抉らんとする。
それはラリアットのような姿勢で叩き込むすれ違いざまの一撃だったが、大の男二人を紙風船のように吹き飛ばす打力を宿していた。
柔道家らしい見事な受け身から速やかに復帰した本部は、止めを刺さんと走り迫る神威に咆哮しながら刀を振り抜く。
その衝撃のみで神威の歩みは一瞬止まり、そこを見逃さぬと踏み込んだ銀時が一閃。
防御することまで織り込み済みの攻撃は、それを証明するように、止められた瞬間に神威の下顎を蹴り上げ、彼を吹き飛ばした。
標的を失った本部以蔵は銀時に対し突進――するが、その左目に、人体には不似合いなものが生えた。
「やっと当たりやがった……!!」
――それは、ファバロ・レオーネの放ったミシン針だった。
さしもの本部も、目を潰されるほどの痛みを与えられれば、理性がないとはいえ身動ぎの一つもする。
銀時は心の中でファバロに礼を述べながら、お得意の刺突を本部の右腕に叩き込むべく突き出す。
反応の追い付いた本部は紅桜で防ぐが大きく後退を強いられ、地面をその靴底で擦りながら数メートルほど逆戻りをする羽目となった。
今のは絶好の好機だった。にも関わらず狙いを外した自分に、銀時は苛立ちを禁じ得ない。
その苛立ちに冷水をぶっかけたのは、弾丸のような速度で空中からやって来た神威。
それに気付いて振り返った時には、紅桜のような反則技に頼っていない銀時では遅すぎた。
拙い、認識した刹那、アッパーカットの要領で着弾した拳が侍の体躯を大きく吹き飛ばした。
「――――ッッッ」
呻き声すら出てこない、強烈な衝撃だった。
神威とこうして本格的に矛を交えるのは始めてだったが、本部があれほどの重傷を負うのも頷ける。
たった一撃でこれなのだ。連打(ラッシュ)などされた日には、人間の貧弱な肉体程度、あっという間にボロ屑と化す。
それを避けるべく、ほぼ反射的に無毀なる湖光を頭の上へと構える銀時。
動作を完了するのと全く同じタイミングで、神威の踵が刀身を打ち据えていた。
神威が足を離すのを確認して再度剣を構えて、彼が打つ全ての拳を、足技を、壊れるということを知らない名剣で悉く凌いでいく。
「な……!?」
神威だけに気を取られている訳にもいかない。
視線を本部に一瞬移した瞬間、銀時は自分の目を疑った。
――本部以蔵が、宇治松千夜と絢瀬絵里の前に、立っているのだ。
あれほど自分達を斬ることに執着していたあの男が、今は此方に目もくれていない。
予想外の事態に直ぐに飛び出そうとする銀時だったが、それは失敗だった。
「余裕だね、この状況でよそ見なんて」
ガードの緩んだ隙間を的確に通過して、拳が銀時の頭を殴った。
瞼の裏に色とりどりの火花が散って、瓦礫で凸凹になった闘技場の床をごろごろと転がる。
その無様な姿ごと踏み潰さんと落ちてくる靴裏を刀身で止めることが出来たのは、殆ど偶然の産物と言っていい。
どうにか力づくでそれを押し返し、二、三度打ち合ってから、銀時は脇目も振らずに絵里達の方へと急ぐ。
坂田銀時は本部以蔵という男の人となりを、僅かな風聞でしか知らない。
実際に会うまでは危険人物の可能性すら抱いていたのだから、当然だろう。
彼の殺し合いにおける行動方針は、全ての参加者の守護。
挫折し、失敗し、土に塗れながらも、その根幹だけは変わっていない。
紅桜に飲まれた彼の中に残留したのは、よりにもよってその『平等性』だった。
守護るという概念すら理解できているか怪しい有様で、全ての守護を謳いながら全てを斬る。
かの人斬りよりも、余程辻斬りらしい在りようとなっているのは、この上ない皮肉であった。
「止まれ……!!」
本部が、ゆっくりとその刀を持ち上げる。
銀時の脳裏に、蘇る光景がある。
それはかつて、恩師をその手で斬った記憶。
あの時の自分の姿を、第三者の視点から見ているような錯覚が彼を支配する。
背後から追うのは、神威。
殺意に満ちた日傘が、烈しく大気を震わせながら押し迫る。
銀時は振り返りざまに、それを迎え撃つしかない。
無視するには、彼の攻撃はあまりにも剣呑過ぎるからだ。
「邪魔、すんじゃ……ねェェェェェェ!!!!」
しかし幸運の女神は、此処に来て銀時へ微笑んだ。
これまで酷使され続けてきた日傘の方に、遂に限界が訪れたのだ。
みしぃという音が聞こえた次の瞬間、強靭さを売りとする夜兎の日傘が、その半ばほどからへし折れて宙を舞う。
千載一遇の機を、銀時は今度は逃さなかった。
逆袈裟に振り上げた一閃で、神威の胴を斬る。
渾身の、入りだった。
目を見開いて、神威が仰向けに倒れ込む。
……倒した。そう言っていいと、銀時は判断する。
そして再び足を動かして、火急の現場へと全力で、走る。
既に、刃は上がっていた。
死神の鎌首は、擡げられていた。
「止め――」
◆
幽鬼のような顔色で、本部以蔵はそこにいた。
素人目にも分かる、ボロボロの状態。
小汚い男などと、今の彼に悪罵を叩く者はもはや誰も居まい。
狂気に取り憑かれ、妖刀を携え。
かつて守護ると誓ったものに刃を振り上げるその姿は、まさに異様なものだった。
こんな光景を笑い飛ばせる者が居るとしたら、そいつはきっと悪魔に違いない。
ざっ、と更に一歩を踏み出す。
既に刀を振り上げているのに、そんな行動を取る理由は一つだ。
すなわち、確実に仕留めるため。
絶対に紅桜の刃を通し、目の前の二人を斬(まも)るため。
一念鬼神に通ずの諺ではないが、まさしく彼は今、自分の掲げた信念に基づき狂していた。
絢瀬絵里も、宇治松千夜も。
どちらも、正真正銘ただのか弱い少女だ。
全て遠き理想郷、聖剣の鞘という反則級の物品を持っているとはいえ、首を刎ねられればそれまで。
狂気の妖刀、紅桜に取り憑かれた男が、この間合いで仕留め損ねるとは考え難い。
頼みの綱の銀時は、……まだ、遠い。
そして窮鼠が猫を噛む可能性も、ゼロだ。
絵里と千夜が全力でその体に縋り付いても、恐らくは無駄。
武道家として鍛え上げられた体を持つ本部にしてみれば、まさしく子鼠の抵抗に等しい。
軽々と振り払い、彼はそれからひとりずつ斬り伏せるだろう。
死の時間が数秒延びるだけでしかない。
千夜が所持しているベレッタ拳銃を抜き、それで本部の頭を撃ち抜きでもすれば話は違うかもしれないが、彼女にそれを要求するのは酷というもの。ただ一度、間接的に人の命を奪ったことがあるだけの少女に、恩人を平静を保って射殺するなど出来る訳がない。
あれこれ躊躇っている隙に、本部はやはり、二人を斬る筈だ。
「守護る……! 俺は……! すべてを……!!」
絵里は、千夜を引っ張ってどうにか逃げようとする。
それが叶っていないのは、本部に彼女達が恐怖しているからではない。
千夜が、動こうとしないからだ。
彼女はただ刀を振り上げ、狂った譫言を漏らす本部を涙すら流しながら見つめているだけ。
その理由は、絵里には分からない。
分かるはずもないのだ、本部と共に過ごした訳でもない彼女には。
千夜と本部は、長い時間共に行動してきた。
悲劇を共にし、挙句の果てには命すらも彼に救われた。
共通の話題などあるはずもない自分の話を黙って聞いてくれた、そのだけで、千夜は安心することが出来た。
随分久しぶりに、その心をリラックスさせることが出来たのだ。
「……もう、やめて」
絞り出すような言葉が、彼女の小さな口から漏れる。
「もう、やめてください。……これ以上、そんな姿で戦わないで」
これまでの戦いでボロボロになった、その体のことを言っているのではない。
自分の信念すらも忘れて、化け物のように刀を振るう、今の本部以蔵の姿のことを、千夜は指していた。
それはある意味で、彼に最も相応しい姿。
命の取捨選択をして人道を踏み外し、修羅道に入った鬼の成れの果てとして、おあつらえ向きの姿だった。
千夜も、彼が鬼になったことを知っている。何故なら本部が自分でそう言っていた。
俺の、鬼となった人間の、たった一つの望みだ。
その言葉を、千夜は忘れていない。
これはきっと、報いなのだろう。
人に生まれておきながら鬼になる禁忌を犯した守護者への、当然の報いなのだろう。
それでも、千夜は今の彼の姿を見たくなかった。
こんな顔をして、こんな姿で戦う本部以蔵を、見たくなかった。
「やめてよ、本部さん……もう、これ以上……!」
ぐおん。
本部は大きく紅桜を振りかぶる。
絵里は、もう駄目だと確信した。
思わず、反射的に体が目を瞑ってしまう。
目を開いた時にはきっと、千夜は本部に叩き切られている。
その姿を幻視して、絵里は震えた。
歯の根が合わない音を鳴らしながら、涙を流した。
千夜も、目を瞑る。
元々此処ぞという時には臆病な彼女だ。
格好良く目を開けたまま、啖呵を切るなんて出来やしない。
しかし千夜は、その口を動かしていた。
伝えるべきことがあると思ったから。
恩人に、仲間に、伝えねばならない『お願い』があると思ったから、彼女は止まらない。
「――――人間(ひと)の心を、失くさないで!!」
その言葉を聞いた途端。
振り下ろされていた刀身が、千夜の頭の数ミリメートル手前で停止した。
一瞬、闘技場の中に流れる時間が止まった。
えっ、と千夜、そして絵里の瞳が驚きに見開かれる。
妖刀に侵食され、自我を殆ど失っていた本部以蔵。
その彼が、千夜の頭を叩き斬る本当の寸前で、自ら刃を止めたのだ。
千夜は本部の顔を見る。彼は、苦しんだ顔をしていた。
自らの体を操らんとする意思と戦っているようにも見える。
本部以蔵は、命を選別した。
範馬刃牙という男を相手に、やってはならないことをした。
そうして鬼となった彼は、だからこそ、千夜には自分のようになるなと言ったつもりだった。
しかし当の千夜は、彼のことを鬼だなんて、思ってはいなかったのだ。
刃牙を殺した当初であれば、いざ知らず。
短いながらも暖かな時間を共にした今では、そんなことは露ほども思っていない。
鬼が、人を安心させるだろうか。
度重なる悲劇で摩耗していた心に、暖かさをくれるだろうか。
誰が何と言おうとそれは否だと、千夜はそう断言できる。
宇治松千夜の中では、本部以蔵は鬼でも羅刹でもない。
『人間(ひと)』だ。彼は、ひとなのだ。千夜の中では、今も。
そして少女の作った隙は、間に合うはずのなかった奇跡を、間に合わせる。
端からは銀色の軌跡が煌めいた程度の認識しか出来ないような、神速の斬撃。
銀髪の侍が、か弱い二人のもとへ到達していた。
「……ガキに此処まで言われてんだぞ、このクソホームレス野郎」
一撃目で、紅桜の刀身を上へ弾き上げる。
間髪入れず放つ二撃目が狙うのは、本部の首でも心臓でもない。
その身体に巣食う妖刀――『紅桜』そのもの!
「男なら……とっとと目ェ覚ませ」
再び、銀色が煌めいた。
一閃――紅桜の刀身に、亀裂が走る。
本部が目を見開いた。
銀時は歯を食い縛り、紅桜をそのまま砕かんと力を込める。
一秒に遠く満たない時間で行われる攻防は、しかし悪夢の終わりには成り得ない。
「ま……だ、だッッ!!」
本部の右腕と同化した異形の触手が、銀時の身体を絡め取ったのだ。
何としてでも刃を砕かせまいと、電魄の猛攻が彼を締め上げる。
骨の軋む感覚に銀時は呻くが、それでも彼の思考は一つ。
紅桜を砕くこと。
本部以蔵を、狂気から解放すること。
それだけのために、侍は全霊を尽くす。
だが、やはり足りない。
締め上げられ、拘束されている身では、如何に白夜叉といえどもやれることに限界がある。
「う……ぐ、ぐおおおおおおおおッッッ――!!!!」
咆哮するは、本部。
痛め付けている側の彼が、誰より大きく絶叫している。
亀裂を刻まれた紅桜が、その意思をこれまでにないほど大きく動かしている証拠だ。
しかし同時にその姿は、本部以蔵という人間の個我が、紅桜の狂気に抗っているようでもある。
「ち、が……う……!!」
そして事実、その通りだった。
羅刹の顔に、『鬼』が――いや。
『人間(もとべいぞう)』が、戻ってくる。
今まさに彼の中では、意思の鬩ぎ合いが起こっている真っ只中なのだろう。
「おれ、は……まも、る…………! 全ての、参加者を……!!」
「本部さん!!」
「この、もと、べの、守護は……こんな、ことじゃ、ねェ……!!」
本部は、打ち克ちつつある。
しかし悲しきかな、銀時を戒める触手の力が緩む気配はない。
どれだけ強い鋼の意志で戦おうが、身体の自由を奪い返せなくては意味がない。
このまま銀時が圧死すれば、神威が倒れている今、本部を止める者は何処にもいない。
そのことは、自我を取り戻しつつある本部にも分かった。
だから、なのか。
彼は一転、苦しみの感情を顔から消して、深く息を吐き、もう一度吸い込む。
そして、顔だけを千夜の方に向けた。
「……嬢ちゃん。嬢ちゃんは確か、ベレッタを持っていたな」
えっ。そんな気の抜けた声を千夜はこぼす。
確かに、千夜は支給品としてベレッタ92という銃を所持していた。
予備弾倉も残っている為、取り出しさえすればいつでも使うことが出来る状態だ。
だが、何故この状況で本部はそんなことを言うのだろう。
……とぼけることは、もはや出来なかった。千夜はそこまで、察しの悪い少女ではなかった。
理解してしまう。彼の言わんとすることを。
直感してしまう。自分のせねばならないことを。
「で、でもっ」
「一度しか言わねぇ……いや、言えねぇだろう。だから、よく聞いてくれ」
「もとべさ――」
千夜の悲痛な声を遮って、本部以蔵は言う。
「そいつで、俺を撃ってくれ」
出来ませんと、千夜は叫んだ。
泣きながらの、ほとんど吼えた、と言ってもいいような叫び。
だが本部は、自分の口にした懇願を撤回しない。
彼は頭の冴えた男だ。
だから最適解がすぐに分かった。
この場で、千夜と絵里と、銀時が生存する手段は一つ。
紅桜と一体化している本部以蔵自身を殺害する。
それ以外に、ない。
「心配しなくてもいい。俺ぁ、死ぬのは怖くねぇ……
それよりも俺が俺でなくなり、守護るべきものをぶった斬っちまう方がずっと怖ぇのさ」
「でも――」
「頼む。やってくれ、千夜の嬢ちゃん」
本部が死を怖くないと言ったのは、虚勢でも何でもない。
誰も彼もを守護り、生かそうと願った男にしてみれば、自分が自分でなくなり、無差別殺人を犯す辻斬りと化す方が余程恐ろしかった。
無念はある。悔恨もある。
それでも、此処を生き延びて更に醜態を晒すよりは、ずっと幸福な最期だ。
無念も悔恨も、少なくて済む。
だからやってくれと、本部は言う。
酷な頼みだと理解はしている。その上で、本部以蔵は少女に頼んでいる。
「う、あ、ううう」
泣きながら、千夜は自分の黒カードから、ベレッタ92を取り出した。
かつて人を撃った時の感覚が、嫌でも蘇ってくる。
無我夢中だったあの時よりも、ずっと銃は重い。
引き金は不動にすら思える。
これを引けと、本部は言う。
そして自分を撃てと、彼は言うのだ。
宇治松千夜に、願うのだ。
それ以外、この場を収める術はない。
「……やっぱり、わたし――!!」
「千夜ちゃん……!!」
その肩に手を置いたのは、絵里だ。
絵里は本部と千夜のことを、何も知らない。
正真正銘部外者と言っていい人物だが、それでも、分かることはある。
本部以蔵という男にとって一番幸福な終わりが、宇治松千夜に殺されることなのだ。
守護る、守護ると彼は狂いながらも口にしていた。
彼はきっと、守護者のまま死にたいはずだ。
千夜に、代わってとは言えなかった。
本部は、彼女に頼んだのだから。
ならばその生命を終わらせていいのは、千夜しかいない。
「……名前も知らねぇ嬢ちゃん。千夜のことは、頼んだぜ」
引き金に、指が掛かる。
息は荒く、視界は明滅を繰り返している。
震える肩を、絵里が抑えた。
狙いを定める。
――頭に。
漫画や小説の知識で、銃で狙うなら頭だということは知っていた。
「……ありがとよ」
引き金が、そうして引き切られる。
守護者は、守った者に。
鬼が助けた人の子に、撃ち殺されて生涯を終える。
発射された弾丸が本部以蔵の眉間を撃ち抜く最後の一瞬、本部以蔵が発した言葉。
「俺を人間と言ってくれて、ありがとう」
それは確かに、千夜の耳に届いた。
絵里の耳にも、銀時の耳にも。
笑顔を浮かべたまま、本部以蔵の脳漿が飛び散った。
紅桜の触手が緩み、銀時が解放される。
彼は裂帛の気合を込めた叫びをあげながら、紅桜を文字通り、叩き折った。
……彼の生き様は、確かに道化だったかもしれない。
しかしそれでも、本部以蔵が笑わせたのは悪魔だけじゃない。
宇治松千夜という一人の少女に、ほんの束の間でも笑顔を与えた。
それだけで、彼という道化が生きていたことには、きっと意味がある。
妖刀・紅桜――もとい。
対戦艦用機械機動兵器・紅桜――完全破壊。
『守護者』本部以蔵――――殉死。
【本部以蔵@グラップラー刃牙 死亡】
◆
「よっし……!」
響いた銃声。
ファバロ・レオーネもまた、その光景を見ていた。
宇治松千夜が持つ銃の口から黒いものが吐き出され、本部以蔵の頭から赤いものが散った。
銀時や神威の口ぶりから察するに、あの老人を凶行に駆り立てていたのは彼が振るっていた刀。
それが砕け散る瞬間も、ファバロはしかとその目で見た。
殆ど見ず知らずの他人である本部の死に様に、ファバロの心は大して動かない。
それ以上に、理性なく暴れ回る本部の脱落がありがたかった。
ファバロはお人好しだが、博愛主義者ではない。
彼にとって本部以蔵は妖刀に取り憑かれた狂戦士であり、それ以上でも以下でもないのだ。
当然そんなことを声高に宣おうものなら彼女らとの対立は避けられないだろうし、その辺りの分別は彼もしっかりつけているのだったが。
ファバロの場合、本部から特に離れた場所へ陣取っていたのが幸いした。
ミシンガン程度の威力では、ああやって目にでも当てない限り動きを止められない相手。
もしも突撃されていたら、間違いなく只では済まなかった筈だ。
そんな事情もあって、ファバロのこの戦いにおける位置は殆ど蚊帳の外と言っていい。
だが、それでいいのだ。
少なくともファバロはそう思っている。
これは別に、彼が自分の命が惜しいから、というわけではない。
……半分くらいは、確かにそういう理由もあるかもしれないが。
(マジに化け物同士の戦いだぜ、こんなのよ……
余計な出しゃばりで首突っ込んでおっ死ぬよりかは、こういう方が俺には合ってんだ)
ファバロが常日頃より行っている賞金稼ぎとは訳が違う。
彼の戦ってきた賞金首の中には厄介な力なり何なりを持つ者も当然居たが、強いとは言っても、所詮はたかが知れている。
一介の賞金稼ぎ風情が狩れた程度の相手だ、当然である。
神威のような本物の超人を相手取った経験はないし、悪魔と戦った時にだって、正攻法では結局勝利できなかった。
ファバロ・レオーネという男は、つまり賢いのだ。
良くも悪くも、割り切っている。
「――ま、あの神威とかいう化け物も倒したんだ。とりあえずこれで――」
或いは。
「あ?」
それが、いけなかったのかもしれない。
彼は、賢すぎた。
だから見つかってしまう。蚊帳の外とは言い換えれば、最も分かりやすい場所。
事態の渦中にこそないものの、逆に言えば、同じように事態の渦中にいない者からすれば、これほど目立つ者もない。
「ふざけッ――」
彼が『そのこと』に気付いた時、既に神威(バケモノ)は立ち上がり、蚊帳の外の賞金稼ぎを見つめていた。
剛、という音を聞く。
それが、ファバロの知覚した、最後の感覚だった。
緑子が、叫んでいる。
ファバロの名前を呼んでいる。
ファバロは、答えない。
その首は、あらぬ方向に曲がっていた。
灯火の消えたその瞳に写るは――『あの時』の神楽と同じ目をした、彼女の兄の笑顔。
【ファバロ・レオーネ@神撃のバハムート GENESIS 死亡】
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最終更新:2016年06月10日 12:18