小林泰三講演会
(2008.12.7)


司会
本日は事前に募集した質問に、 先生 に答えていただくという形で進行させていただきます。それが終了次第、時間の経過を見て、会場の皆さんから質問を募集し、 先生 に答えていただくという形をとろうと思っております。

 それでは質問に入る前に、小林泰三先生より一言、頂戴したいと思います。では小林先生、お願いします。



先生
小林泰三です。今回、関西ミステリ連合の講演会に呼んでいただいて、私もそろそろ、ミステリ作家として認識され始めているのかな、と思っております。そもそも出身はホラー大賞ということで、基本的に世の中の人にはホラー作家と思われております。ただ私自身、あまりホラーに執着はないので、どちらかと言うとミステリ作家、SF作家と思ってもらえる方が嬉しいような気がしています。

 たとえばデビュー作の「玩具修理者」がホラー大賞の短篇賞を受賞したんですけども、読んでいただいたらわかると思うんですが、一応ホラーという体裁はとっていながら、SFやミステリの要素も入っております。玩具修理者自体がナノバイオテクノロジーシステムの一つの形態ということですね。また全体で一つの叙述トリックが入っています。まあそういうようにミステリとSFの要素を入れたた上に、ホラー大賞に出さないといけないので、一応ホラーのオブラートで包んで出したところ、幸運にも賞が取れてしまいまして、それ以降「お前はホラー作家や!」ということになってしまいました。普通にミステリとかSFを書いて持っていっても編集者に「ホラーと違う!」と怒られたりするので、また、ホラーの感じを出して持っていく、と。まあ注文も、「今度の雑誌の掲載お願いします」って言われて、どんな書き方が良いですかって言ったら、「まあ、内臓出てきたらそれで良いです」と言われたりします(笑)

内臓とか書きたくないんだけれども、とにかく内臓出てくる話を考えて、それにミステリなりSFなりの要素を付け加えて持っていくと。そういう努力の甲斐もあって、こういう講演会に呼んでもらえるところを見ると、最近はミステリ作家だと、ちょっとずつ認識されてきたのかなと、まあ安心しているところです。よろしくお願いします。



司会

ありがとうございました。それでは&bold(){先生}、おかけください。

 それでは、質問の方に移らせていただきます。まず、 先生 の作品の中には未来は決まっているというのをテーマにしているものがありますが、先生自身はそのことについてどうお考えになっているのでしょうか? お願いします。



先生

未来は確定しているかどうか、というお話なんですけれども、これは大変難しい問題です。SFなんかに時間ものがどんどん出てくるんですけれども、大きく二つの立場があるんですね。一つは、時間は改変できるというもの。過去に戻って歴史を変えてまた戻ってくると、歴史が変わってしまっているという立場。『バックトゥザフューチャー』とか、かなりのSF作品ではそういう立場になってます。もう一つの立場は、絶対に時間は変わらない。過去に戻って何をしようが、実は過去に戻って行ったことも歴史に組み込まれてしまっていて、そうすることによってまたもとの歴史そのままになってしまうという立場ですね。これは日本の作品で、最近だと上野樹里さんなどが出演されている『サマータイムマシンブルース』ですね。過去に戻って何をしても結局それがつじつまが合ってしまうという話でした。二つの立場があって、どっちも面白いんですけれども、作品によってはちょっとそのへんがこんがらがってしまって、二つの立場が混じってしまっているような作品も結構あります。超能力ものなんかそういうのが多いですね。超能力といっても色々あって、その超能力の中の一つとして、未来を予知する超能力者が出てくる。もう一方、タイムトラベル能力がある超能力者が出てくると非常に話がややこしくなってきて、どちらの立場をとっても何かおかしなことになってしまうんですね。

予知能力を持った人と、時間遡行能力持った人、両方出てくるSFとしては、日本だと筒井康隆さんの『七瀬ふたたび』ですね。最近の海外ドラマだと『HEROS』、なんかも未来を予知する超能力者と、過去に遡れる超能力者が出てきます。何でこれが矛盾するかというと、もし時間が改変できないという立場で考えますと、歴史が変えられないんだったら過去に戻っても仕方ないということですね。結局何か大きな災害が起きて過去に戻ってそれを防ごうとしても、結局起きてしまうということだったら、その時間を遡る超能力というものはまったく無駄になってしまいます。で今度は、じゃあ時間を改変できるとした場合は、予知能力がちょっと苦しいんですね。予知したけども、それが当たるかどうかわからんとなると、それって予知じゃなくて予想とか、予測とか、それに近いものですね。明日の天気は晴れるかもしれんし雨かもしれんけど、多分晴れるんちゃうかな、っていうのが予知能力かというと、そうじゃないわけですね。で、その二つの立場が一つのドラマに入ってしまうと非常に展開が難しいですね。予知能力の予知は、絶対じゃないといけないんだけれど、過去に戻って改変することは可能にしないと、ストーリーは繋がらない、っていう風になると、かなり変な設定になりますよね。未来は絶対に変えられないけれど過去はいくらでも変えられると。普通は逆ですね。過去は変えられないけれどまだ決まっていない未来はいくらでも変えられる、と考えるのが普通です。けれども、時間ものだと、そんな変な設定になったりしてしまったりするんで、それは脚本とか、作家の力で何とかごまかして書いていかないと仕方ないわけです。

まあそういう風に、いろんな考え方があるんで結論はでないんです。ただ、個人的には、歴史は、未来は変えられるとした方が楽しいんじゃないかなと、また希望が持てるんじゃないかなと思ってますんで、どっちかと言うと未来は変わるんじゃないかなと思ってるほうです。



司会

ありがとうございました。希望が持てました。

 それでは次の質問に。 先生 は京都にお住まいですが、作品の舞台を設定するに当たって京都の風景を参考にすることはありますか?



先生

 私は出身が京都市で、今も、京都市じゃないんですけれども京都府に住んでいます。ところがですね、私はほとんど取材をしないタイプの作家でして、ほとんど頭の中の空想で書いてしまうんです。ただいくつかの作品には、京都の風景というか生まれ育った近所の町とかが入ってくるものも、いくつかあります。最近のものですと、『異形コレクション 京都宵』というアンソロジーの中に「朱雀の池」という作品を書いたんですけれども、これは京都の南の方を舞台にした作品です。四神相応といって、京都は四つの神に守られている。東西南北に神様がいて、それが京都を守ってるという言葉があります。北には山があって、東には川があって、西には道があって、南には池があるというのが、風水の世界の中で良い地相やと言われてるんですけれども。北の山っていうのはどっちかというと船岡山が北の山に相当するだろうと、東の川は鴨川でしょうと、西の道は山陰道がそれに相当すると。ということで、南に池があるかという話なんですけれども、京都の南の方には、久御山町とかあのあたりには昔、大きな池があったんですね。巨椋池という池があって、その巨椋池が昭和十六年まであったんですけども、それが干拓されて農地になったんです。つまり、京都を守る四つの神様のうち一つがなくなった、というのをネタにして一本書いた話「朱雀の池」というのが、『異形コレクション』に載っています。

それと、これもまだ短篇集には入っていないんですけれども、『問題小説』に「百舌鳥魔先生のアトリエ」というのを書いたんですけれども、それは竹やぶの中に芸術家が住んでいるという話で、八幡のあたりの竹やぶをイメージして書いた作品ですね。あと、デビュー直後に、「五人目の告白」というのを書いてるんですけども、小学生の女の子がさまよい歩く町っていうのは、生まれ育った町そのままをイメージしたものです。まあ別にその場所じゃないと成立しないという話じゃないんですけれども、ある程度生まれ育った町のイメージが入り込んでいる場合があります。ただ、意図的に取材して京都の様子を取り込んだっていうのは今のところ、あまりないと思います。



司会

ありがとうございました。次の質問に移らせていただきます。

ミステリをテーマにした作品集『モザイク事件帳』ではこれまでの作品の登場人物が再登場して事件を解決していますが、これからもこういった作品を書かれるのでしょうか? お願いします。



先生

まあ、それはわからないということで(笑)

 たぶん彼らは他の作品にこれからも出てくると思います。愛着のあるキャラクターがいると、結構使いたくなってしまうところがありますので。登場させた時には、こいつをもう一回使おうという気持ちはまったくなかったんですけども、書いてるうちに愛着が湧いてきて、他の作品にも出したろ、と思うことがあります。そういうことから考えると、ああいうところに出てくる登場人物は結構愛着があるということなので、これから……探偵役かどうかわからない、犯人役かもしれないんですけれども、あるいは殺される役かもしれないんですけれども、まあ出てくる可能性はある、ということです。



司会

ありがとうございました。楽しみにしております。

 では次の質問です。 先生 にとっての短編の魅力、また長編の魅力といったものを、それぞれ教えてください。



先生

短篇と長篇、僕なんかは短篇が好きで、学生の頃とかは長篇を毛嫌いして短篇集ばっかり、色んな作家の短篇集ばっかり買って読んでいたんです。短篇の面白さと長篇の面白さはやっぱりちょっと違いまして、短篇はどうしてもそんなに、登場人物の性格なんかを深く掘り下げるのは難しい。枚数が限られていますから。まあ短篇というと五十枚ぐらいが平均ですね、もっと短い二十枚とか、長いと百枚くらい、ページ数にしたら、五、六十ページくらいですね。そんなに登場人物を、あまり深く掘り下げることはできない。では、短篇の何が面白いかというと、やはりアイディアですね。変哲のない短篇というのもあり得るんですけれども、やっぱり、何か一つアイディアがあって、「おお、こんなことが!」っていうアイディアストーリーですね。それがないと、やっぱり短篇は面白くないでしょう。

それに対して、長篇もアイディアは当然必要なんですけれども、アイディアだけで、一冊本を持たせようと思うと、かなり苦しいんですね。何がやっぱり必要かというと、物語、ストーリーテリングというものですね。わくわくして、これから先どうなるんやろう、と思わせるテクニック、それがやっぱり必要になってきます。中には、ワンアイディアだけで、だらだら引っ張っていく、特に事件は起こらないんだけれども、とりあえず何百ページか書いて、最後のページで「実は!」って書いておとす、という方法も、そういう作家さんもいるんですけれども、それはもう最後に何か面白いものがある、っていう期待感だけで読まないといけないので、かなり辛いですね。それで二百ページとか読んで、実はたいしたことないとかなると、詐欺に引っ掛かったみたいなもので。

小説じゃないんですけれども、映画なんかでありますよね。シャマラン監督の映画とか、『シックスセンス』は結構面白かったんですけど、その後の作品群ですね。これ何やねん、というのがあります。最近なんかオチすらないという映画も、よくあるみたいです。僕が見て一番、アカンな、って思ったのは『アンブレイカブル』。登場人物の行動が変なんですよね。最後のオチ、『シックスセンス』の場合は、最後のオチをばらさないように、上手く演出してる、というのはあるんですけれども、『アンブレイカブル』はあまりにも不自然で、こんなん自分が確かめたらええやん、っていうのを主人公はしないんですよね。ああちょっとネタバレになりますけども、主人公のブルース・ウィリスが『おまえはスーパーヒーローじゃないか』と、誰かに言われるわけです。その理由は大きな事故にあって、一人だけ怪我しなかったからと言うんですね。でも、自分が不死身かどうか確かめる方法なんてなんぼでもあるんですけども、主人公はずっと、二時間ずっと思い悩んでいるだけでそれを実行しないんですよね。それで、最後のオチが、このオチはどうかな、っていうオチだったんです。

まあそういうことがあると、やっぱり長篇っていうのは物語性なのかな、という風に思います。僕の場合、長篇・短篇両方書いてるんですけれども、やっぱり短篇の場合は、アイディアが非常に大事、長篇の場合は次々と読ませていく物語性が大事かな、と思ってます。短篇一本と長篇一本どっちが書くの楽か、っていうと当然短篇一本書く方が楽なんですけども、本を出すことを考えると、短篇集一冊と長篇一冊どっちがしんどいか、というと絶対短篇の方がしんどいんです。ただ長篇を書き上げるのは、精神的にかなり強くないと心が折れてしまうというところがあるので、まあどっちもどっちかなと思っております。



司会

ありがとうございます。小説を書いていて特に面白かったことや、何か今までとは違った考えや見方を思いついたりしたことはありますか? もしあるとすれば、それはどんなことでしょうか?



先生

僕の場合、さっき言ったアイディア、という話になるんですけれども、どっちかと言うと、常にそういうことを考えてますね。何か面白い考えや感じ方ないかな、新しい物の見方はないかなと、いつも考えてまして、そういうのがあると、それを小説にしていこうと、思ってます。だから小説を書いて、「あれ? こういう見方があるのか」ということはあまりなくて、逆に日常で面白い考え方や見方に気付いた時に、「あ、これをネタに小説を書かれへんかな」と思って、書いていくことが多いですね。そんな感じです(笑)


司会

ありがとうございました。それでは次の質問に移らせていただきます。

新作の予定などありましたら差し支えのない範囲で教えてください。また、以前、『海を見る人』インタビューだと思うんですけども、歴史小説にも挑戦したいと仰られていましたが、現在また新たに開拓したい分野などはありますでしょうか? お願いします。



先生

はい。これからの予定としましては、来年(2009年)の三月にホラー文庫を出す予定です。ただ、書き下ろし分がまだ書けていないので、それがちょっと不安材料ではあるんですけれども(笑)

 まあ、年内にあと百五十枚ほど書けば、三月には出るということらしいので、これは頑張りたいと思います。短篇集で、書き下ろし以外にも今までの各雑誌とかに出した分を、一冊にまとめた本です。それと来年出る本としては、『異形コレクション』を出してる光文社から、ホラー長篇が出る予定です。これはまだだいぶ先で、来年(2009年)十月とのことで、まあこれもそんなにゆっくりはしていられないんですけども、出る予定です。あと連載なんですけども、『SFマガジン』にハードSFスペースオペラを連載中で、ただ連載といっても、僕の場合毎月書いてるんじゃなくて、三ヶ月ごとなんですけども、冒険系のハードSF で、主人公たちが、未知の世界を……未知の世界というのは、「天獄と地国」という作品があるんですけども、その「天獄と地国」の舞台で巨大なロボットに乗って戦うという、何かよくわからない話なんですけれども、それを今連載中です。それとですね、東京創元社の『ミステリーズ!』という雑誌で、それもまた二号に一号くらいの割合で、ミステリの連載を始める予定です。これは全然ネタを考えていないんで、どうしようかな、と思ってるところなんですけれども。『モザイク事件帳』とはまたちょっと違った感じの連載にしようかな、という風に思ってます。



司会
ありがとうございました。来年も非常に楽しみな一年になると思います。

 それでは。先の『モザイク事件帳』や「玩具修理者」などもそうだと思うんですけれども、 先生 の作品には同じ名称の人物が登場することがありますが、これは名称だけでなくまったく同一の存在と考えてもよろしいのでしょうか?



先生

これは同一人物です。読んでいただくとわかると思うんですけれども、ちょっと設定的につじつまが合わないとか、キャラクターが変わってるんちゃうか、と思われることもあると思うんですけれども、それは理由があります。どういう理由かは、作品を読んでいただいて、考えていただいた方が良いと思います。



司会

ありがとうございました。

 『AΩ』における聖書の引用が、各部の冒頭にある聖書の引用がとても興味深かったです。 先生 は聖書という作品をどのように捉えられていますか?



先生

 「AΩ」という言葉自身が聖書の言葉で、神様が、「私はアルファでありオメガである」という言い方をしています。これは最初と最後という捉え方が一般的なんですけども、AΩという言葉がヘブライ語ではAとBにあたるというので、AでありBである、ということで全ての始まりが私である、という意味ともとれるとされていますけども、まあこれはどっちでも良いんですけども。AΩが面白い言葉であると思うのは、日本語にも「阿吽の呼吸」という言葉がありまして、阿吽ってのは何かと言うと、アっていう音とウンっていう音なんですけれども、これはサンスクリット語のアルファベットの、最初の文字と最後の文字で、アってのはアルファ、Aと同じですよね。ウンっていうのは、発音的には「ウン」じゃなくて、「オーム」に近いということがあって、オウム真理教のオウムもそれらしいんですけども、オームって言えば、「Ω」も単位としては「オーム」と読みますね。偶然ですけども、AΩと阿吽とは同じものを指してて面白いな、って思ってます。

ところで、聖書っていうのは、いつ書かれたかっていうと、キリストが書いたわけじゃないんですね。キリストが死んでから書かれたと。昔は、キリストが死んだ後弟子がすぐ書いたんちゃうか、って思われてたんですけども、そうじゃなくて、死んでからだいたい百年ぐらいの間に書かれたらしいと。今から百年前というと、1900年代の初めぐらい、明治時代の後半ですね。明治時代後半に死んだ人のことを今書いたら、それはかなり伝記というよりは小説に近いんじゃないかな、と。そんな感じがします。

世界に、キリスト以外にも偉人がいるわけですけども、例えば中国の孔子とか、ギリシャのソクラテスとか、彼らの場合は、死後すぐに書かれているんですね。孔子の場合の『論語』、これは孔子の言葉そのものを死後、すぐに弟子がまとめたものですね。ソクラテスの場合は、弟子の中にプラトンっていう偉い人がいまして、ソクラテスとプラトン、同格ぐらいに思うんですけども、一応ソクラテスがお師匠さんで、弟子がプラトン。ソクラテスは何も本を書いていないんですけれども、ソクラテスが死んだ後、プラトンがソクラテスを主人公にしていっぱい書いています。多分、かなりプラトンは自分で作って書いているとは思うんですけども、実際ソクラテスを直に知っている人たちが生きている時代に書かれた本ですから、あまり変なことも書けないだろうから、多分ほんまの、ソクラテスがかなり反映されていると思われます。孔子とかソクラテスの本を読むとわかるのは、彼らはあまり超能力とか使わないですね。普通のおじさんですよね。ええこといっぱい言うけども、別に魔法を使うわけでもなく、死人を生き返らせるわけでもなく、病気を治すわけでもない。ところが、死んでから時間が経ってくると、当然口伝えですよね、今でいうところの都市伝説化していくわけです。しゃべっていくうちにどんどん話が変わっていって、面白いように枝葉がついていくということがあったと思います。

そういうのを如実に示す例があります。いわゆる聖人っていうと、まず思いつくのが釈迦ですね。お釈迦さんは、紀元前の四百年とか五百年ぐらいになくなってます。釈迦の死後すぐに、弟子が集まって最初のお経書き始めたんですけども、それで終わりっていうわけじゃなくて、何度も、どんどん書かれていくわけです。例えば有名な、妙法蓮華経とかになると、死後五百年くらい経ってから書かれてるんです。当然もう、色合いが全然違うんですね。初期の頃に書かれた経というのはもうほとんど人間的なお釈迦さんが出てきて、何歳の時にどこに修行に行って、何歳になって、最終的には料理にあたって死にましたという話があって。その間に良いことをいっぱい言ってはった、ということですね。あまり神がかっていない、神話的な要素が、あんまりない。

 そもそもユダヤ教とか、イスラム教の場合は、神様が降りてきて「お前は救世主やから」という話になって、布教を始めるんですけども、仏教の場合は別に神様が降りてきたわけではなくて、釈迦という人が自分で考えて、人間とはどうすれば苦しみから逃れられるかと考えてできたのが仏教なので、原始仏教には、あまり神がかった要素はなかったんですけども、時間が経ってくると、どんどん魔法の要素とか神様とか悪魔とか出てきて。妙法蓮華経とかの時代になると、もう原型残ってないですね。どこの星の話やと。テレポーテーションとかも平気で使ってくるし、人間の心も読める。あと人造人間とかも出てくるし、世界間移動ですね。この世界があって、別の世界が、上にも下にも、東にも西にもいっぱい世界があって、それぞれの世界に太陽や月があるという別の太陽系の概念みたいなものがでてくる。壮大なSFみたいになってしまってるわけですね。誰か書いた人がいても、それが伝わっていくうちに、だんだん話が大きくなっていって広がっていくと、五百年も経つともう完全に原型留めない。釈迦という人がいたってぐらいは伝わってるんですけども、お釈迦さんがどんな人かは誰も覚えてなくて、スーパーヒーローや神様みたいな人やっていうイメージになっている。

例えば日本でも、卑弥呼の時代っていうのがありまして、卑弥呼の時代は全然良くわからないんです。日本の文献には卑弥呼載ってない、って話になるんです。でも、日本で残ってる歴史の文献っていうと日本書紀とか古事記になるんです。それが書かれたのは卑弥呼からだいたい五百年後なんですね。さっきの話によると、卑弥呼がいて、当時の人が記録していたとしても、五百年経ってしまうと完全に神話化してしまうだろうと。だから、天照大神という女神が出てくるんですけども、ひょっとするとそれが卑弥呼なのかもしれない。卑弥呼が人間としてどんな生活をしていたかっていうのは全然原型留めていないわけですよね。完全に神としての姿になっていると。それは意図的にしたわけではなくて、五百年も経つとそれは仕方ないことだと、僕はそういう風に思ってます。

話を戻して、キリストの場合は百年ぐらいなんで、完全に神話化はしていないわけですよね。ある程度原型を、人間としてのキリストの原型を留めていると。 ただまったくそのまま、事実を書けたかっていうと、キリストを知っている人はもうほとんどいないわけですから、ファンタジーが混じってきている。自由に空を飛んだり死人を生き返らせたりとか、魔法を使えるようになってるわけです。ところが、完全に神話化してないところもあって、最後は死刑です。人間に捕まって殺されたとなると、非常に矛盾点が出てくるわけですね。全知全能の神であるのに、そこらのローマの兵隊に捕まって死刑になったと。それは折り合いをつけないといけないんですね。神なのに、何で人間に殺されたかということに折り合いをつけるために、無理矢理いろんな理屈をこじつけるわけですね。一つは三位一体、あと贖罪説。キリストは何で死んだかというと、全人類の罪を背負って死んだと。三位一体っていうのは、キリストが神だとすると、キリストがいる間神様はどこにおってんって話になってしまうわけですね。例えばキリストの母親はマリアですけど、じゃあマリアがキリストを生む前は神様はいなかったという矛盾した話になってしまう。日本のような多神教の世界ならそれは矛盾でも何でもなくて、神様の子を生んだんや、っていう話なんですけども、キリスト教圏は何故か一神教なんで、一神教で神の子を産んだっていう話と矛盾なく整合させるのはかなり難しいので、三位一体であると。父と子は一体であると。父と子と聖霊ですね。非常にアクロバティックな論理で、無理があるお話を何とか整合性を持たせようとして頑張って作ったのがキリスト教の哲学なんです。そういう意味では突っ込みどころ満載なんで、ある意味特異な宗教、一番広まってしまっているんで特殊性に気付かないんですけども、一番特殊な宗教かなと。

 そういうところ、僕は聖書読んだときに、これおかしいなって思うところがあると、そこばかり拾い上げて一冊の話にできないかなって思ったんです。『AΩ』っていうのは、聖書の一節を入れるんですけども、我々の思うキリストっぽくないイメージ、復讐をしたりとか、非常に怒ったり、食べ物ないから怒ったとか、聖書にはそういうことをするキリストも描かれてるんですけども、そういうところを取り上げたんですね。実は、聖書ってもっとたくさんあるんですけども、昔ローマのカトリック教会がいくつかそのうち集めて、これだけが本物の聖書、それ以外は全部偽物ですって宣言したことがあるんです。偽物って呼ばれてる聖書の中にはもっとひどいキリストがいっぱい出てくるものもあるんです。キリストの幼少期の部分があって、ほとんど水木しげるの悪魔くんみたいな感じの子供で。何か変な子がいて、近所の人に苛められるとその苛めた子が死んでしまうという風な。悪魔くんというかオーメンに近いようなイメージで書かれてるんです。まあそれは正統なキリスト教からは排除されてるんですけどもそういう話も面白いので、これからもそういう系統の話は書いていこうかなと思ってます。



司会

 ありがとうございました。それでは次の質問です。

 ネットで『海を見る人』著者インタビューを拝見しました。その中で「SFは絵、ホラーは文体」という話が非常にわかりやすく面白かったです。そこで質問なのですが、このようにジャンルを一言で言い切る場合、 先生 にとってミステリとはどのような表現になりますでしょうか。



先生

 まず「SFは絵」だっていうのは、もう亡くなったんですけども野田昌宏さんっていう、作家であり翻訳家でありTVプロデューサーである方がおられたんですけども、「SFは絵」と。やっぱり絵なんですよね。SFっていうのは宇宙船なり宇宙怪獣なりの絵を見て、「わーすごいな!」っていうところから始まっていると。文章は当然、後から付いてくるというか、我々がSFは好きやなって思ったのも、イラストですね。今はほとんどイラストがないんですけども、ハヤカワ文庫なんか昔は、ほとんどの文庫にイラストがありました。表紙があって、開くと中に口絵があって、文章中にもイラストがたくさんあった。今だとライトノベルしかそういう方法は取らないんですけども、昔は普通の大人向けの本にもイラストはいっぱい入ってました。そのイラストがかっこいいんですよね、SFっていうのは。かっこいいイラストを見た人が本を買うようになって、SFを読むようになった、ということが大きいと思います。

 ホラーはやっぱり、ホラーも絵でもいいんですけども、やはり文体ですよね。単純に、「怪物がきた」っでなくて、どんなにそれが気持ち悪いか、グロテスクな怪物かということを書くだけで、ホラーになる。例えば、普通の、アパートに入りましたではなくて、もうアパートに近づくだけで物凄い不快感が出てくると。部屋に入ると、畳の染みが人の顔に見えるとか、カーテンが揺れて向こうに誰かいるように思うとか、トイレ開けるたびに何か変な臭いがするとか書けば、それだけでホラーですね。ホラーが文体っていうのは、結局同じような物語があってもそれをどう描写するかでホラーになるという話で。まあちょっと先ほどのSF は絵という話とは次元が違う話なんですけども。ホラーを成立させるのはやっぱり文体であろうということで、「ホラーは文体や」と前に僕は言ったんです。

 ミステリは何かというと、やっぱりミステリはアイディアでしょうね。トリックと言っても良いんですけども。広義のトリックです。読者を騙す、という意味でのトリック。社会派ミステリっていうのもあるんですけど、それは犯人が何故このような境遇に陥ってこのような犯罪を起こさないといけなかったかっていうのを、『砂の器』みたいに書くのもミステリだと思うんですけども、それは社会小説ですよね、大きな意味ではミステリなんですけども、それは別にミステリの要素があってもなくても良いと。最初から犯人はこいつやってわかってて、犯人の生い立ちを書くだけでも同じ効果があるわけです。、ミステリっていうのは犯人が誰かって当てるのがミステリの核なんですね。だからやっぱり、アイディアですね。こんなことが何故実現したのか、こういう状況下でこいつが犯人であるはずがないのに何故こいつが犯人であるのか、そういう思考のアイディアですね。こんなことが、こういう考え方、方法があるのか、っていう驚きがやっぱりミステリじゃないかという風に思います。

 ミステリとSFと、ホラーとファンタジーっていうのがあって、エンターテイメントの大きなジャンルなんですけども、倉阪鬼一郎さんっていうホラー作家がいて、エンターテイメントは四つの空間に区切れるという話をしてまして。切り口としては二つあると。一つは論理的であるか直感的であるかという切り口。あと舞台が現実であるか、架空であるかという切り口。架空の舞台であまり論理的じゃなく進むっていうのがファンタジー、架空の舞台で論理的に進むっていうのが SFだろうと。現実の世界で論理的に話が進むのがミステリ、現実の世界で非論理的に話が進むのがホラーだと。まあそれはかなり例外がいっぱいあるので、簡単にまとめることはできないんですけれども。ホラーSFって結構ありますけども、まあそれは切り口の違いですよね。ホラー、恐ろしい現象が起きてて、それを論理的にこれは細菌兵器やとか、宇宙人とかロボットがやってますと言ってしまえばSFになるんであって、それは妖怪とか例の仕業だとか言ってしまえばまあホラーになると。

 話を戻しますと、ミステリはやっぱりアイディア、トリックじゃないかなと思ってます。



司会

 ありがとうございました。それでは、次の質問です。

 ミステリなんですけれども、小林先生はミステリの分野の作品も発表されていますが、 先生 ご自身はどのようなはどのようなミステリがお好きでしょうか? また、これから書いてみたいミステリのテーマなどがありますか?



先生

 そうですね。叙述トリックが私好きなんですけども、何で好きかというと、小説でしか基本的には成立しない、映画とか漫画とかでも不可能じゃないんですけども、非常に難しいですよね。主人公の性別を描かない映画ってかなり難しい。例えば登場人物が男か女かわからないとか、年齢がわからない、という状況で描くのは難しい。暗がりばっかりにする方法とかもあるんですけど、それって不自然ですよね。「何でそんなことしてんねん」って思ってしまう。小説の場合は、情報量が限定されているので、書かなくて良いことは書かなくて良い。「コップ」って書いても「紙コップ」なのか「ガラスのコップ」なのかは別に書かなくて良いわけですね。ところが、映画なり漫画なりだとコップが紙かガラスかっていうのは描かざるを得ないわけですよね。そういうことを考えると、小説に限った手法ということで、やっぱり叙述トリックっていうのは結構面白いなと思います。叙述トリックじゃなくても、最後にどんでん返しがある、それがミステリの醍醐味かなと思ってます。短篇でも、最後の一行で全部今までの思い込みは逆だったんや、ていうのが醍醐味だと。自分自身でもそういうのを書いてみたいな、といつも思ってます。長篇でそれができたらすごいんですね。全五巻ぐらいの長篇小説で最後の瞬間に、今までの全部逆だった、っていうのがあったらそれはすごいんです。まあ不可能に近いわけですけども。それに近いことをなるべく書いていきたいな、と思っています。