新科学論議第3日(第2部)

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自然加速運動について[33]


 前巻では、均等運動において生じることに関して考察した。そこで本巻では、加速運動について論じねばならない。
 まず第一になすべきことは、自然によって用いられている加速運動に特によく一致する定義を探究し、説明することである。なぜなら、ある種の運動を勝手につくりあげ、それから導かれる性質について考察してもよいのだが(たとえば実際、ある人々は、自然はそのようなものを用いないにもかかわらず、ある種の運動から螺旋曲線やコンコイド曲線が生成すると考え、それらの性質を前提から見事に証明している)、自然は、ある種の加速を重い物体の落下に用いているのである。そこで、我々が加速運動について述べようとしている定義が自然加速運動の本質に一致することを期待して、重い物体の落下現象を観察することにした。長い間考察した末に、我々はついにそのこと〔我々の加速運動の定義と自然の用いる加速運動の本質とが一致すること〕を見出したと確信している。我々をそこへと導いたのは特に、我々が次々に証明した性質と、自然についての経験が感覚に示したこととが特によく対応し一致するように思われるということである。結局、自然加速運動の探究へと手をとるかのようにして我々を導いたのは、他のあらゆる作用において自然自身がつねになす仕方やきまりについての観察であった。自然はそれらをなすにあたり、第一の、最も単純で最も容易な手段を用いるのを常としている。実際、魚や鳥が本能によって用いている方法よりも単純で容易な方法で泳いだり飛んだりすることができるとは、誰も信じないと私は思う。
 それ故、高い所での静止から落下する石が次々に新しい速さの増加を獲得するということを検討するにあたり、この付加が最も単純で何よりも明白な比に従って生じると信じてはならない理由などあるだろうか。常に同じ仕方で付け加えられる場合以上に単純な付加も増加も存在しないことがわかるだろう。このことは、時間と運動の非常に大きな親近性〔affinitas〕を考えると容易に理解されよう。なぜなら、運動の均等性と一様性〔aequabilitas et uniformitas〕が時間と空間の均等性によって定義され理解されるように(実際我々は、等しい時間のうちに等しい距離を通過するときに均等運動と呼ぶのである)、単純な仕方でなされた速さの増加を時間の諸部分の同様の均等性によって理解することができるからである。すなわち、任意の等しい時間のうちに付け加わる速さの付加が等しい場合に、その運動は、一様かつ同一の仕方で連続的に加速されていると理解するのである。したがって、可動体が静止を離れて落下を始めた最初の瞬間から任意の等しい時間部分をとるならば、第一と第二の〔二つの〕時間部分において可動体が獲得した速さの度合〔celeritatis gradus〕は、第一の部分において獲得した度合の二倍となる。また三つの時間部分において獲得した度合は、第一の時間の度合の三倍であり、四つの時間部分では四倍になる。したがって(より明瞭に理解するために)、もし可動体が、第一の時間部分において獲得した速さの度合あるいはモメントゥム〔momentum〕に従ってその運動を続け、この度合でもって絶えず均等にその運動を維持するとするならば、この運動は、二つの時間部分において〔順次〕獲得した速さの度合でなされる運動よりも二倍遅いだろう。このように我々が、速さの増強〔intentio〕が時間の増大〔extensio〕に従って生じるということを認めるとしたところで、正しい理法〔recta ratio〕から外れるとは決して思われない。以上のことから、我々が論じようとしている運動の定義は次のように捉えることができる。均等加速運動あるいは一様加速運動とは、静止を離れると等しい時間のうちに等しい速さのモメントゥムが付け加わるものをいう。

  • ガリレオが「近代科学の父」と呼ばれるゆえんは、仮説実験的な研究手法の確立にあるわけですが、そのことについて前段で述べています。すなわち落下運動の観察を通して等加速度運動についての仮説を立て、実験的に確認したということです。「ぼくらはガリレオ」など、板倉さんもこれをヒントに膨大な著書を著してきたのでしょう。(Leon 1/4)
  • 後段では、落下運動とは一様加速運動とはどのような運動なのかについて、説得力のある語り口で述べています。(Leon 1/4)

サグレード[34]


 定義というものはすべて任意なものですから、この定義にしても、他のどの著者によって与えられた定義にしても、それに反対をすることは理に適っていないでしょう。しかしながら、このように抽象的に考えられ認められた定義が、自然落下する重い物体が行う種類の加速運動に適合し、現実のものとなっているかどうか疑っても、それは不当なことではないでしょう。そしてこの著者は、自分の定義した運動が、重い物体の自然運動であると我々に保証しているように思われますから、以下の命題とその証明に今後いっそう注意を集中できるように、私の心を乱しているある疑念をぜひ取り除いておきたいと思います。

サルヴィアーチィ[35]


 あなたとシンプリーチョさんが困難な点を提示してくれるのは結構なことです。その困難は恐らく、初めてこの論考を見たときに私も思いつき、著者自身と議論をして軽くしてもらったり、自分自身で考えて取り除いたりしたあの困難と同じものだろうと思います。

サグレード[36]


 私が思い描くところでは、落下する重い物体は、静止すなわち全ての速さを欠いた状態から出発し、運動を始め、運動の最初の瞬間からの時間が増加するその比に従って加速していくのです。たとえば脈が8搏打つ間に8の度合の速さを得ます。その途中、4つ目の脈を打つときには4の度合の速さを、2つ目のときには2の度合を、1つ目のときには1の度合を得ています。時間は無限に分割可能ですから、このことから以下のことが結論できます。すなわち、このような比〔時間を分割していくときの比〕に従って先行する速さは常に減少し続けるので、どんなに小さな度合の速さでも、言い換えればどんなに大きな度合の遅さでも、可動体が無限の遅さである静止から出発した後に到達しないようなものはないのです。したがって、もし脈を4つ打ったときに可動体が持っている速さの度合が、その速さを均等に保った場合には1時間に2ミーリオ(3308m)進むようなものであり、2つ目の脈を打った瞬間に持っていた速さの度合では1時間に1ミーリオ(1654m)進むものとするならば、可動体が静止から動き出した瞬間によりいっそう近いある瞬間には非常に遅い状態にあり、(このような遅さで運動を続けるならば)1ミーリオ(1654m)を1時間どころか、1日でも、1年でも、1000年でも通過できず、ただの1パルモ(0.30m)さえそれ以上の時間をかけても通過できないと言うことができるでしょう。この結論は、感覚が我々に、落下する重い物体はすぐに大きな速さを得ることを示している以上、我々が思い描いていることとは全く容易には一致しないと思います。

  • サグレード[34]の「ある疑念」についての説明と読んでいいのかな。運動を始めた物体が最初の瞬間からの時間の増加の比に従って加速するならば,物体が極めて大きな遅さで運動する瞬間があるはずだが,感覚的には落下する重い物体はすぐに大きな速さを得ているように思え矛盾している,というのでしょう。この答がサルヴィアーティ[37]の,「どんなに小さな時間の中にも無数に瞬間が存在するのですから,無数に減少する速さの度合いに対応するに足る瞬間が存在する」ですね。私たちにとっては,一様で連続的な加速は当たり前すぎることですが,シンプリーチョ[38]のような捉え方がアリストテレス流なのかな。(Leon 12/26)
  • ドレイクは、ガリレオはユークリッドによる比と比例の理論に厳密に則っており「整数だけ、整数の比だけを用いて研究した」と述べています。すでに実数概念(確立したデデキントは19世紀の人でしたね)を獲得している私たちとは違っている、ということでしょう。そう思うと、ややくどいと思われる連続的な加速についてのこのようなやりとりは避けて通れないことなのでしょう。(Leon 1/6)

サルヴィアーチィ[37]


 以上のことは、そのために当初私にも考察しなければならないことが生じた困難の一つですが、私はほどなくこの困難を取り除きました。そしてそれを取り除くことができたのは、現在あなた方に困難を引き起こしているのと同じその経験のおかげなのです。あなた方は、経験によれば、重い物体は静止から出発するとすぐにかなりの速さに達するように思われると言いますが、私はこの同じ経験が、どんなに落下物体が重くとも、その最初のインペトゥスは極めて緩慢であることを明らかにすると主張します。重い物体をたわみやすいものの上に置き、その物体が〔下のものに〕それ自身の重さだけで加えられる限りの圧迫を加えるとしましょう。この重い物体を1、2ブラッチョ(0.6,1.2m)だけ持ち上げ、そのものの上に落とすと、物体はその衝撃〔la percossa〕によって新たな圧迫を加えるでしょうが、それが先ほどそれ自身の重さだけで圧したときよりも大きなものになることは明らかです。そしてこの効果は、この落下物体が落下の間に得た速さと結びついて引き起こすものであり、それは、衝撃がより大きな高さから〔の落下によって〕なされるほど、すなわち衝撃を与える物体の速さが大きいほど大きくなるでしょう。それ故、落下する重い物体の速さがどれほどであるかは、衝撃の質と量から正確に推測できるでしょう。さて御二方、私にお答えください。槌を4ブラッチョ(2.4m)の高さから杭の上に落とすと、それは杭を地面に打ち込みますが、それをたとえば4ディート(0.24m)としましょう。2ブラッチョ(1.2m)の高さから落とすとするとずっと少ししか杭を打ち込まないでしょうし、1ブラッチョ(0.6m)や1パルモ(0.3m)の高さからだとなおさら少しになるでしょう。では最後に槌を1ディート(0.06m)だけ持ち上げて落としたとすると、衝撃なしに杭の上に置いた場合以上に何をするでしょうか。それがごくわずかであることはまちがいありません。またもし紙一枚分の厚さだけ持ち上げたとするならば、〔その衝撃の〕作用は全く感じられないでしょう。そして衝撃の効果は、衝撃を与える物体自身の速さによって定められるのですから、その作用が感じられないときには運動は極めて遅く、速さは非常に小さいことを誰が疑おうとするでしょうか。さて、一見したところではあることを示すように思われた経験が、さらによく考えてみるとそれとは反対のことを確信させてくれるということから、真理の力がいかに大きいかがわかるはずです。しかしこのような経験(それは疑いもなく極めて決定的なものですが)にまで遡らなくとも、論議だけでこのような真理に到達することが困難ではないように思います。重い石があり、空中で支えられて静止しているとします。支えをはずして石を自由にすると、石は空気よりも重いので落下していきますが、初めは遅く、それから連続的に加速される運動をします。そして速さは無限に増減可能なので、このような可動体が無限の遅さ(静止とはそのようなものですが)から出発して、4の度合の速さではなくむしろすぐに10の度合の速さになってしまうとか、2や、2分の1や、10分の1の度合の速さといった、要するに際限なく存在するいっそう小さな全ての速さになる前にこの4の度合の速さになってしまうというようなことを、いかなる理由によって私が納得するというのでしょうか。いいですか。静止の状態から落下する石の速さの度合の獲得は、押し進める力〔la virtu' impellente〕によって同じ高さまで押し上げられるときの速さの度合の減少ないし消失と同じ規則〔l'ordine〕に従って生じるということを、私に同意して認めることをあなた方も拒みはしないと思います。ですからもしそうならば〔すなわち静止から出発した落下物体が、たとえば1の度合の速さになる前に4の度合になるとするならば〕、上昇する石の速さが減少するときにその速さをすべて費やして、すべての度合を通過する前に静止の状態に到達しうるということは疑い得ないことになってしまうと思います。

シンプリーチョ[38]


 しかしもしさらに大きな遅さの度合が無限にあるならば、それらすべてを尽くすことは決してないでしょう。するとこのような上昇する重い物体は決して静止には到達せず、常に減速しながら無限に運動を続けるでしょうが、このようなことが起こるのは見られません。

  • 「アキレスと亀」のパラドックスですね。(yokkun 6/17)

サルヴィアーティ[39]


 シンプリーチョさん、そのようなことは、可動体がある時間の間各々の〔速さ〕の度合にとどまるとするならば、起こるかもしれません。しかし可動体は各々の度合を単に通過するだけで、ただの一瞬しかとどまらないのです。そしてどんなに小さな時間の中にも無数の瞬間が存在するのですから、無数にある減少する速さの度合に対応するに足る瞬間が存在するのです。さらに、そのような上昇する重い物体がいかなる時間においてもある同じ速さの度合を保ち続けないことは、次のようにして明らかになります。なぜなら、ある時間が指定され、その時間の最初と最後の瞬間に可動体が同じ速さの度合を持つとすれば、第一の瞬間から第二の瞬間まで可動体が進んだのと同じようにして、この第二の〔瞬間の〕速さの度合によって同じ距離だけ押し上げられるでしょう。そして同じ割合でもって第二の瞬間から第三の瞬間まで進み、結局無限に一様運動を続けるでしょう。

サグレード[40]


 この論議から、哲学者の間で論じられているある問題に関して、極めて適切な説明を引き出すことができるように思います。その問題とは、重い物体の自然運動の加速の原因は何なのかというものです。私が考えるには、投げ上げられた重い物体においては、その投げ手によって込められた力が絶えず減少していきます。この力は、〔物体の〕重さという反対の力を上回っている間は物体を押し上げるのですが、この両方の力が釣り合うとすぐに可動体はもはや上昇することをやめ、静止の状態へと移ります。この状態では、込められていたインペトゥスは決して消滅したのではなく、直前まで可動体の重さに勝って物体を押し上げていた、重さを超える〔インペトゥスの〕過剰分が消費されただけなのです。その後もこの外的なインペトゥスの減少は続くので、その結果重さの力が優勢になり始め、〔上昇のときと〕同じようにして落下が始まります。しかし込められた力の大部分がまだ可動体に残っており、抵抗をするために落下は遅いのです。だがこの込められた力は絶えず減少していくので、重さがこの力を超えるその比は常に増大し、それ故に運動の絶えざる加速が生じるのです。

  • 込められた力=インペトゥス理論ですね。何かとっても説得力のある魅力的な理論であるように思えます。これを始めると長くなりそうですが,力学史の上でも重要な位置を占めているように感じられますし,いろいろと議論の余地がありそうです。サグレードに語らせているところが微妙ですが,ガリレオは基本的にはこのインペトゥスの考えから離れてはいないのでしょうか?(yokkun 6/17)
  • うーん,難しくて私は何ともいえません。ただ,ここはサグレードのことば。サルヴィアーティ[45]がこの時期のガリレオの考えを示しているような気がしますが。(Leon 12/26)

シンプリーチョ[41]


 この考えは気が利いていますが、確固たるものというよりは巧妙なものです。というのは、たとえこの考えが決定的なものであるとしても、それは、外的な力の一部がまだ活発で残っている強制運動に続く自然運動にしか当てはまらないからなのです。このような外的な力が残っておらず、可動体がずっと以前から静止しているような状態から出発するときには、議論全体の力が失われてしまいます。

サグレード[42]


 私は、あなたが誤っており、あなたが行っている様々な場合の区別は余計なもの、言い換えれば無意味なものだと思います。そこで私にお答えください。投射体が100ブラッチョ(60m)あるいは200、4、1ブラッチョ(120,2.4,0.6m)だけ投げ上げられるように、投げ手から投射体に、あるときは大きな力が、またあるときは小さな力が込められることは可能でしょうか。

シンプリーチョ[43]


 疑いもなく可能です。

サグレード[44]


 また1ディート(0.06m)の高さしか可動体が上昇しないほどにわずかしか、重さの抵抗を超えないような力を込めることも可能でしょう。そして結局、投げ手の力が重さの抵抗とちょうど釣り合い、可動体が投げ上げられずに単に支えられているだけであるということも可能なのです。したがって、石を手で支えるときにあなたがしているのは、石を下へ引く石の重さの力とまさに同じだけの押し上げる力を石に込めることに他なりません。そしてあなたは、石を手で支えている間中、このあなたの力が石に込められた状態を保ち続けているのではありませんか。この力は、あなたが石を支えている長い時間の間に減少するでしょうか。それに、石の落下を妨げるために支えることがあなたの手によってなされようと、机によってなされようと、あるいは石をつるす綱によってなされようと何の違いがあるでしょう。たしかに何の違いもありません。ですからシンプリーチョさん、あなたは、石の落下に先立つ静止状態が長かろうと短かろうと瞬間的であろうと何らの違いも生ぜず、それ故石は常に、それを静止に保つのにちょうど十分なだけの、その重さに反対する力を受けて出発すると結論しなければなりません。

サルヴィアーティ[45]


 今は、自然運動の加速の原因の探究を始めるのに適したときではないと思います。この原因については、様々な学者が様々な見解を提出しています。ある者はそれを〔物体が世界の〕中心へ近づくことに帰し、ある者は物体が貫いていかねばならない媒質の残りの部分が順次減少することに、そしてある者は周囲の媒質の一種の後押し、すなわち媒質が物体の背後で一緒になって物体を押し、絶えず追い立てることに帰しています。こういった空想は、他の同様な空想とともに検討し、解決すべきでしょうが、そうしたところで得るものはわずかでしょう。今のところは、我々の著者が、物体の速さのモメントゥムが、静止から出発した後の経過時間の増大と極めて単純な比をなして増加するような、すなわち等しい時間のうちに等しい速さが付け加わるような加速運動(その加速の原因が何であれ)の幾つかの性質を探究し証明したいと思っていることを、我々が理解すれば、それで我々の著者にとっては十分なのです。そしてもし後で証明される様々なことが、自然に落下し加速される重い物体の運動において確証されることになれば、仮定されている定義はこのような重い物体の運動に対しても成り立ち、その加速が時間の増大と運動の継続に従って増大していくということが正しいと考えられるようになるでしょう。

  • 落下の根本原因について棚上げした言い訳めいた部分で,よく引用・検討されるところ。すでにケプラーが直感した天体間の引力などはもちろん検討の埒外。地動説擁護に相対性原理を用いたとされるガリレオにあっても,地上の落下と天体の運動とはつながらなかったようです。むしろ天体の運動は円に限定され,それを円運動の慣性として地上の物体の水平な慣性運動と結び付けています。もちろん,ここで落下運動の運動学に論点を引き戻したのは正解でしょう。(yokkun 6/17)

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最終更新:2009年01月06日 22:52