新科学論議第1日前半

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  • コメント入力欄を作ってみました。書き込み情報,感想などどうぞ。 -- yokkun (2008-04-28 01:23:49)
  • ゴルフボールとピンポン玉の落下…私もやってみました(書き込み)。 -- yokkun (2008-05-01 20:31:48)
  • コーヒーブレイクに落下実験の写真をアップしました。 -- yokkun (2008-05-09 22:49:02)
  • 写真、見事に落下途中をとらえていますね。1.5mくらい落ちていますから落下後0.5sくらいですか、シャッターチャンスがばっちりでしたね。 -- Leon (2008-05-12 10:02:43)
  • 連写で何回か撮ったのですが,ようやくそれらしいものが撮れました。 -- yokkun (2008-05-12 15:19:05)
  • Leonさんの紹介されたドレイクの分析は納得できるものですね。他の著書を見ても,ガリレオは根源的な部分で論敵をコテンパンに叩きのめすのが常であるように見えます。 -- yokkun (2008-05-26 23:45:26)
  • yokkunさん、原書ダウンロードの貼り付けありがとうございます。こういうサービスもあるんですね。イタリア語読めないので、御利益を受けられないのが悔しい。 -- Leon (2008-05-27 14:30:29)
  • 第1部前半は、アリストテレスに対する反論で有名な部分ですが、今回読んでみて自らの落下法則を展開する後半の方がすばらしいなと感じます。第1部全体では何が書いてあるのか、つくづく読めないのが残念です。 -- Leon (2008-05-27 14:36:49)
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目次



サグレード[1]



物体の透入可能性を否定する点では、私も逍遙学派の哲学者たちと全く同じです。真空の否定に関しては、アリストテレスが真空に反対して行った証明についての評価とともに、サルヴィアーティさん、彼に対するあなたの反論をよく聞きたいと思います。シンプリーチョさんがかの哲学者〔アリストテレス〕の証明を詳細に説明してくださるでしょう。そしてサルヴィアーティさん、あなたがそれに返答してください。[1]

  • 「透入可能性」と「逍遙学派の哲学者たち」の意味が分かりません。(上浜4/12)
  • 透入可能性=penetrazione について
 英語では、penetration 貫通、浸透 penetrable 貫通・浸透できる
 不可入性、不可透入性=impenetrability の方がよく使われているようです。
 http://www.juen.ac.jp/scien/morikawa_base/atommoltheory.html によれば、
 「複数の物質は,同時刻,同一場所に存在しえないこと,これを物質の相互不可侵性,あるいはもっと簡単に,不可入性とよぶ。」(一般哲学用語としての説明)
 「逍遥学派」によれば、これと真空の否定はセットになっていて、物質どうしは重なり合うこともなければ、すきま=真空をつくることもないとされるのだと思います。(yokkun 4/15)
  • 「逍遥学派」=アリストテレス学派について
 http://www.takamatsu-u.ac.jp/library/06_gakunaisyupan/kiyo/no37/no37takano.pdf
 によれば、
 「アリストテレス(BC384-322)は晩年になって,アポロン・リケイオン神殿のかたわらに哲学の学校を建てた。学校の名は神殿にちなんでLykeionという。energia, symposion など多くの言葉とともに,この言葉は英,仏,独語にそれぞれ lyceum, lyc催e, Lyzeumとして残っている。アリストテレスは,Lykeionの回廊(Peripatos)を歩きながら講義をしたり思索にふけったので,この学派を逍遙学派(Peripatos, peripatecian)という。」とあります。(yokkun 4/15)
  • よく分かりました。(上浜4/15)

シンプリーチョ[2]


私が覚えている限りでは、アリストテレスが反論しているのは、真空がなければ運動は起こりえないと主張し、運動に不可欠なものとして真空を持ち出してきた古代のある人々に対してです。この見解に対してアリストテレスは、逆に(以下でわかるように)運動が起こることから、真空の存在が否定できることを証明しています。そこで彼は次のように議論を進めています。彼はまず二つの仮定をします。一つは同一の媒質中を運動する重さの異なる可動体に関するもので、もう一つは異なる媒質中を運動する同一の可動体に関するものです。第一の場合については、重さの異なる可動体は同一の媒質中を異なる速さで運動し、その速さ相互の比は重さ相互の比に等しいと仮定しています。したがって、たとえば他方より10倍重い可動体は10倍速く運動することになります。もう一つの仮定においては、異なる媒質中での同一の可動体の速さ相互の比は、媒質の濃密さあるいは比重相互の比の逆比であるとしています。それ故、たとえば水の濃密さが空気のそれよりも10倍大きいとするならば、空気中の速さは水中の速さよりも10倍大きくなると主張しています。そしてこの第二の仮定から、彼は次のようにして証明を導き出します。〔物質で〕充満した媒質がどんなに希薄であっても、真空の希薄さは媒質の〔有限な〕希薄さとは無限に隔たっていますから、すべての可動体は、〔物質で〕充満した任意の媒質中ではある〔有限な〕時間内にある〔有限な〕距離を運動するとしても、真空中では一瞬のうちに運動せねばならないでしょう。しかし一瞬のうちに運動を行うことは不可能です。したがって真空中の存在は運動のために不可能になります。[2]

  • 岩波科学映画「物はどのように落ちるか1」には以下のような説明が出てきます。
 アリストテレスは、地面に沿って動く物体の観察から、物体の速さは動かすものと動かされるものの関係で決まると捉え、(速さ)=定数*(動かす力)/(物体の重さ)と考えた。
 落下物体では動かすものを(物体の重さ)、動かされるものを(媒質の密度)と考え、(速さ)=定数*(物体の重さ)/(媒質の密度)とした。
 これによって、速さは重さに比例する、ということになるようです。(Leon4/13)

  • 岩波科学映画「物はどのように落ちるか1」をどこでご覧になった?(上浜4/15)
  • 仮説社で扱っているようですね。ほしいなあ・・・。(yokkun4/16)
  • 今度お出でのときご覧下さい。(Leon4/16)
  • 「真空の存在は運動のために不可能になる」に至るこの部分は「ぼくらはガリレオ」に載っていましたね。(Leon4/17)
  • 私も「ぼくらはガリレオ」を読み返してみました。この「ぼくらはガリレオ」は、この読書会にとって、よい参考書の一つですね。(上浜4/17)

サルヴィアーティ[3]


この議論は特定の立場の人に対するもののように思われます。すなわち、真空を運動にとって不可欠なものとして要請している人々に対するのものです。したがって、仮に私がその議論を決定的なものとして認め、さらに真空中では運動は起こらないことを認めたとしても、運動に関係なく絶対的なものとしてとらえられている真空の存在が否定されるわけではありません。しかしアリストテレスの証明がどれだけ有効であるかをより明らかにするために、〔真空の存在を認めた〕古代の人々がそのとき答えられたはずのことを考えてみましょう。するとアリストテレスの〔二つの〕仮定に対して反論し、両方とも否定することができるように私には思われるのです。第一の仮定については、アリストテレスは、一方が他方よりも10倍重い二つの石をたとえば100ブラッチョ(約60m)の高さから同じ瞬間に落下させると、大きい方が地面に着くときに他方は10ブラッチョ(約6m)も落下していないほどの両者の速さが違うということが本当かどうかを実験したことがないのではないかと、私は大いに疑問に思っています。[3]

シンプリーチョ[4]


しかし彼は〔自分自身で〕実験したことを明らかにしており、それは彼の言葉からわかります。なぜなら、彼は「より重い物体が・・・・・・するのを我々は見ている」と述べているのですから。この「見ている」という言葉は、このことについて実験をしたことを表しています。[4]

サグレード[5]


しかしシンプリーチョさん、私はこのことを試してみましたからあなたに請け合いますが、100リップラ(約34kg)や200リップラ(約68kg)あるいはそれ以上の重さの大砲の弾は、200ブラッチョ(約120m)の高さから落下したときでも、半リップラ(約170g)の重さのマスケット銃の弾よりただの1パルモ(約0.30m)さえも先にならないのです。[5]

  • 200あるいは400倍も重さの違うものを120mも落下させて30cmも違わない、というこの数字は果たして妥当なのでしょうか?(Leon4/13)

  • 直感ではまず妥当とは思えないですね。さすがに68kgや120mは無理としても、実際やってみたいものです。また、空気抵抗を理論的に計算したいところ。ひとまず宿題ですか。(yokkun4/16)

  • 授業開きで、ゴルフボール(46g)とピンポン玉(2.7g)を2mほどの高さから同時に落とす実験をやりました。実験前の予想では、アリストテレス派が84人、ガリレオ派が34人でした。(上浜4/17)

  • 私もならってやってみました。数はかぞえませんでしたが,どっちが速い?ときいたので,ガリレオ派はあまりいませんでした。教卓の上に立って3m近く落としました。ゴルフボールが少しだけ速く感じましたが,両手で同時落下させるとき重いほうが指のひっかかりがなくスムーズにスタートすることも影響しているように思いました。ちなみに,物理部の新入生をつかまえて3階の準備室のベランダから落としてみると,数十cm~1m程度差があるように感じました。これもまた落とすタイミングが難しく,精度のよい実験のためには同時落下に工夫の必要を感じました。(yokkun 5/1)

サルヴィアーティ[6]


他に実験をしなくても、同一の物質からなる可動体、つまりアリストテレスが述べている可動体の場合には、重い物体がそれより軽い他の物体よりも速く運動するということが正しくないことを、簡単で決定的な証明によってはっきりと示すことができます。そこでシンプリーチョさん、私にお答え下さい。各々の重い落下物体には自然本性によって定められたある速さがあり、それを速くしたり遅くしたりするためには強制力を用いるか、何らかの障害でそれを阻むしかないということをあなたは認めますか。[6]

シンプリーチョ[7]


同一の可動体が同一の媒質中で自然本性によって定められたある一定の速さを持ち、新たなインペトゥスが与えられなければ加速され得ず、また何らかの障害によって遅らせられるのでなければ減速され得ないということは、疑うことができません。[7]

  • [2]では言っていない「自然本性によって定められたある一定の速さをもつ」がここにあります。落体の運動は等速度運動だと述べています。(Leon4/18)
  • 落下が等速度運動でないことは,ガリレオは十分認識しているはずですから,ここは次のように読み取りたいと思うのですがどうでしょう。すなわち「一定の」は時間変化における一定ではなく,その「可動体」に固有のと読み取ってみたいのです。正確にいえば,同一時刻で比較した落体の速さ(落下距離?)は条件が同じ(同一の可動体で同一の媒質)であれば同じ(一定)ですよ・・・といっているのだと解釈したいです。私たちもよく「どんな物体も真空中では同じ速さで落ちる」といいますよね。ですから,ここの「加速」もまた時間的な速度変化のことではないと理解したいと思いますがどうですか?すると,[14]の「槍」がここでいうインペトゥスの比喩に当たると考えられます。(yokkun 4/18)
  • ちなみに原書には「ある一定の」にあたる単語はなく,"natura determinata velocita"とあるだけでした(p.63)。(yokkun 4/18)
  • 原著をふまえてのご指摘ありがとうございます。確かに「一定の」を等速度運動と読むのは勇み足かもしれません。しかし、前述の映画では、アリストテレスの2つの誤りとして、「速さが重さに比例」「だんだん速くなることの見落とし」があげられています。アリストテレスの運動論まではあたっていませんが。(Leon4/22)
  • このあたりの表現を見ると,明らかにガリレオは速さを「同時刻の落下距離」すなわち「早さ」としてのみ比較していますね。等加速度運動であることを認めた上においては,数学的に「平均の速さ」を比較することと同等です。「瞬間の速さ」すなわち微分速度の概念がどれほど自覚されていたか不明です。わかりやすさのために回避しているか,もしくは必要を感じていないのかも。そのへんは後の方でもう少しはっきりするのかもしれません。少なくとも速度概念を現在のような明瞭に限定された定義のもとには使用していない,ということを念頭において読んでみたらどうでしょうか?(yokkun 4/20)
  • 「プロジェクト物理」には、ガリレオは落体の速さが時間に比例すると仮定し、その平均の速さに時間を乗じて落下距離が時間の二乗に比例するの確認した、とあったかと思います。時間に比例する「速さ」となると、「瞬間の」速さに近いイメージがあるような気もしますが。いずれにしてもこれらは斜面の実験のあたりの話でしょう。斜面の実験に向けて、このあとどう話が展開していくのか待ち遠しいところです。(Leon4/22)

  • 今読み返してみると,上のLeonさんとの議論はちょっとすれちがっていたようでした。私が舌足らずだったのですが,「自然本性によって定められた」速さというサルヴィアーティの念押しは,シンプリーチョに落下は等速運動だとの誤謬を語らせたわけではなく,両者の共通の土台として同一物体なら同一の速さ(時間的に一定であるかどうかはここでは問わない)という落下の再現性を確認したのではないかと私は思ったのでした。これを認可しないと以下の矛盾へと追い込む前提がくずれますね。サルヴィアーティ(ガリレオ)は,物体が「自然本性によって定められた」速さをもつとの前提を否定する背理法をとっているわけではなく,この前提を両者共通の認識として確認した上で,「落下速度の比は重さの比」とする仮定を否定する背理法にもっていっているのではないでしょうか?(yokkun 4/27)
  • ここ数日探してみたのですがプロジェクト物理にも、アリストテレスが落下運動を等速度とみていた、という指摘は見あたりません。あらためて読み返してみると、yokkunさんのご指摘の通り[7]は単に[6]への同意です。新しいことを指摘しているわけではないと読むべきですね。「自然本性によって定められたある一定の速さ」は「ある量の速さ」とでも捉えればよいのでしょう。(Leon4/27)

サルヴィアーティ[8]


それでは明らかに、二つの可動体があり、両者の本来の速さが異なっている場合には、遅いものと速いものを結びあわせると、速いほうは遅い方によって部分的に減速され、遅い方は速いほうによって部分的に加速されることになります。あなたもこの見解に関しては私に同意するでしょうね。[8]

  • これが,背理法によって矛盾を引き起こす仮定=「複数の可動体において本来の速さは同一である…の否定」の部分でしょうか。(yokkun 4/27)

シンプリーチョ[9]


疑いなくそのようなことが起こるはずだと思います。[9]

サルヴィアーティ[10]


 しかしこのことが本当であり、そして大きい石がたとえば8の度合いの速さで、小さい石が4の度合いの速さで運動するということも本当であるならば、そこで両者を結び合わせると、一緒になったものは8の度合いよりも小さな速さで運動するでしょう。しかし二つの石を結び合わせると、8の度合いの速さで運動していた最初の石よりも大きな石になります。それ故、このよりいっそう大きな石が、それよりも小さな石よりも遅く運動することになります。これはあなたの仮定に反しています。これで、重い可動体が軽い可動体よりも速く運動すると仮定することから、私がどのようにして重いもののほうが遅く運動するという結論を出したかがおわかりになったでしょう。 [10]

  • ガリレオの思考実験の真骨頂ですね。アルキメデスのてこの原理や浮力の原理を彷彿とさせます。ガリレオは実験科学の先駆ともいわれ,確かに斜面上の落下など重要な実験もしていますが,むしろ思考実験を多用しており,論理的な証明でこと足れりとする弱点もあるような気がします(むろん,時計すらない時代的制約の中でできる実験が限られていることが要因です)。ところでこの思考実験,論理的には納得させられますが,力学的にはどうなのでしょう? 力の概念がもやーっとした中で何が先験的で自明な前提となっているか? その辺が気になっています。(yokkun 4/17)

  • 「プロジェクト物理」で初めて読んだとき、感動したのを覚えています。しかし今改めて読むと、シンプリーチョがはめられているような?気がするのは私だけですか。この論理の最初の布石は、シンプリーチョ[2]の二つの仮定でしょう。一つめの仮定の「落下速度の比は重さの比」に加えて、[7]でさらに「落下速度は質量で決まる等速運動だ」と発言させ(られ)ています。[9]で念押しされて、これらに対する反論です。(Leon4/18)
  • 次のように現代的(?)に解釈してみたのですが…(yokkun 4/27)
    • [公理1] 自由落下する物体の速さ(同時刻の瞬間の速さまたは同時間の平均の速さ)は,「自然本性」に関する関数である。 v=v(m) v:速さ,m:「自然本性」を表す物体の定数(ここでは質量をさすと考える)
    • [公理2] 物体A,Bの単独で運動する速さがAの方が大きいとすれば,両者が連結して運動するときBはAから力を受けて加速し,またAはその反作用を受けて減速するためにA+Bの総体は中間の速さで運動する。 v_A > v_B ⇒ v_A > v_(A+B) > v_B
    • [仮 定] 自由落下する物体の速さは,「自然本性」=質量に対する単調増加関数(または単調減少関数としても同じ)である。→「自由落下する物体の速さはその質量にかかわらず等しい」の否定([公理1]を前提とする) M > m ⇒ v(M) > v(m)
    • [公理2]により,v(M) > v(m) ⇒ v(M) > v(M+m) > v(m) しかるに,再び[仮定]により v(M+m) > v(M) でなければならない。これは矛盾である。
    • 背理法により「自由落下する物体の速さはその質量にかかわらず等しい」ことが証明された。
  • [公理1]→[6]、[公理2]→[8]、[仮定]以下の内容が[10]ですか、最後のオチは[16]と見ることもできますね。[6][8]の内容はシンプリーチョ[2]を念押ししたものであり、この時点で論争の敗北は運命づけられていますね。(Leon4/27)
  • 何度読んでもこの部分、ガリレオの攻撃的な姿勢を感じます。ドレイクは、ガリレオがなぜ自然哲学者たちに憎悪されたかとして以下のように書いています。「ガリレオがアリストテレスの所説と矛盾する事実を指摘するのであれば、哲学者たちもガリレオを許しただろうが、まるきり自己撞着に陥ることをガリレオが暴露するのは支持できなかった。ガリレオがやったことはそれであり、彼の議論によって、重さに比例した速度で物体が落下する宇宙に我々が生きていないというよりも、そもそもそういう宇宙が存在できないことが明らかにされた。物理法則がわれわれのものと異なっても、アリストテレスの法則から自己矛盾が出てきてはならなかった。つまり、法則が地上での実際の測定と単に合わないだけのことでなければならなかった。ガリレオがいかに議論を展開したか、なぜそれによってアリストテレスとその追随者たちが馬鹿に見えたか、を見るのは興味深いことである。」(Leon5/25)


シンプリーチョ[11]


私は混乱してしまいました。というのは、やはり私も、大きな石に小さな石を付け加えると、小さな石は大きな石に重さを付け加えると思いますが、しかし重さを付け加えることによって、速さを付け加えるかあるいは少なくとも速さを減らさないということが、どうして起こり得ないのかわからないのです。[11]

  • 役回りとはいえ、やんぬるかな!シンプリーチョ・・・(Leon4/18)

サルヴィアーティ[12]


シンプリーチョさん、あなたはここでもまた別の誤りを犯していますよ。小さい石が大きい石に重さを付け加えるというのは正しくないのですから。[12]

シンプリーチョ[13]


おや、私には全く理解できません。[13]

  • 遅く落ちようとする小さい石は、速く落ちようとする重い石にブレーキをかけることはあっても、重い石を加速することはできないはず、といわれているんだよ!ガンバレ!(Leon4/18)

サルヴィアーティ[14]


私があなたに、あなたがとらわれている多義性の誤りを気づかせれば、おわかりになるでしょう。そこでまず、運動している重い物体と静止している同一の物体とは区別せねばならないことに注意してください。天秤にかけた大きな石は、石をもう一つその上にのせると重さを増しますし、糸巻き棒一巻き分の麻くずを加えても、6オンチャ(約180g)なり10オンチャ(約300g)なりその麻くずの重さぶんだけ重くなります。しかし麻くずが結びつけられた石を高いところから自由に落下させると、運動中に麻くずが石の重さを増してその運動を速めるはずだと思いますか、それとも麻くずが部分的に石を押し止めるはたらきをしてその運動を遅くすると思いますか。我々は、重いものを背負ってそれが行おうとする運動に逆らおうとすると肩に重さを感じます。しかしその重いものが自然に落下するのと同じ速さでもしも我々が降りていくならば、一体どのようにして我々は上から圧迫され、重さを受けると思いますか。これは、あなたが追いかける速さと同じかあるいはそれより大きな速さであなたの前を駆けていく人を、槍で傷つけようとするようなものだと思いませんか。そこで自由な自然落下においては小さな石は大きな石に重みをかけず、その結果、静止の時のように大きな石の重さを増しはしないという結論になります。[14]

  • 「多義性」の意味が分かりません。(上浜4/17)
  • 原書p.64の"equiuoco"="equivoco"=「多義性の誤り」と訳しているようです。 英語の"equivocal"=「両方の意味にとれる,あいまいな」や,"equivocation"=「ことばのごまかし」に通じると思われます。推測ですが,ここではシンプリーチョが陥った,どちらも正しく思えるような混乱を表現しているのではないでしょうか?(yokkun 4/17)
  • ここの論理展開は,本質的に自由落下系の無重力を表現していますね。相対性原理にも関係する重要な観点が記述されていると思います。(yokkun 4/18)
  • 同感です。「重いものを背負って落下すると、肩に重さを感じない。」こういうことにガリレオは気づいていたんですね。[8]の反証です。これはやってみるとおもしろそうな実験ですね。[10]を発展させた発言ですが、槍のたとえがよくわかりません。(Leon4/18)
  • 「槍」は「圧迫」「重さ」「重み」と表現されている,現在われわれが明確に認識・定義している力に相当するものをたとえているのでしょう。正確には下の物体が上の物体から受ける抗力ということになるのでしょうか。それぞれ落下させたときにB(上)がA(下)の速さを上まわることがなければ,同時に落下させたときにBがAを押す(「槍」でつっつく)ことはできないだろうというわけですね。(yokkun 4/18)
  • 「投げる槍」を想像してしまいました。了解しました。(Leon4/18)

シンプリーチョ[15]


しかし大きな石を小さな石の上に置いたらどうなりますか。[15]

サルヴィアーティ[16]


 もし大きな石の運動のほうが速いならば、小さな石の重さを増すでしょう。ところでもし小さな石のほうが遅いならば、大きな石の速さを部分的に遅くし、その結果二つの石を一緒にしたものは、大きな石よりも大きいのにそれよりも遅く運動することになることがすでに結論されています。これはあなたの仮定に反しています。そこで大きな可動体も小さな可動体も、種に固有の重さ〔la gravita in spezie〕〔すなわち比重〕が同じであるならば、等しい速さで運動すると結論しましょう。〔Ⅷ, pp.105-109〕[16]

  • これは、「落体の速度は密度に比例する」とした有名なガリレオの誤りの部分でしょうか。(Leon4/22)
  • ひとまず,少なくとも密度の等しい物体は等しい速さで運動する…と条件を絞ったのだとも解釈できますね。いずれ真空中では密度が異なってもすべての物体が等しい速さを持つという結論に発展する土台をすえたとも考えられます。(yokkun 4/24)
  • 蛇足ですが、ここで「等しい速さ」はいうまでもなく「同じ速さ」の意味です。"pari velocita"=equal velocity(原書p.65)(yokkun 4/27)
  • ここで突然「種に固有の重さが同じであるならば」と言い始めたようですが、とりあえずこう言って、以下に続く比重の話題(後半)に誘導しているようです。(Leon4/27)

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最終更新:2008年06月13日 19:37