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『秘密の花園』
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『秘密の花園』
緑濃い峠の上に建てられた、その大きな屋敷には、小さな花園がありました。
カタカナの『ロ』の字型をした建て屋の、中庭に、それは存在しています。
家人以外は、決して、見る事を許されない場所――
やがて、それは都市伝説と化していき、誰が呼ぶともなく――
『秘密の花園』
――と、人口に膾炙することとなるのです。
ある日、秘密の花園の噂を聞きつけた二人の人物が、面白半分に屋敷を訪れました。
夏が本番を迎える少し前の、蒸し暑い時期のことです。
しかも、もうすぐ西の空に陽が沈もうかという時刻でした。
にも拘わらず、屋敷の窓には、明かり一つ点いていません。
誰も…………住んでいないのでしょうか?
けれど、全ての窓は割れずに残っていますし、庭木も綺麗に刈り揃えられています。
暴走族によるスプレー缶による落書きも、見当たりませんでした。
無人の廃屋とは思えません。
誰かが管理していなければ、ここまで綺麗に保持されている筈が無いのですから。
もしかしたら、通いの管理人が居て、昼間の内に仕事を済ませているのかも知れない。
そう話し合って、彼らは懐中電灯を手に、車を降りました。
いわゆる、肝試し……と言うものでしょうか。
二人は、赤茶けて古びた鉄製の門を揺すってみました。
カシャンカシャン……キィキィ……。
耳障りな軋みが、徐々に減衰していき、夜の闇に溶けていきました。
その後は、しん、と静まり返り、物音ひとつ立ちません。
無言で佇む二人の息づかいが、やけに大きく聞こえるほどの静寂が、広がっていました。
ともあれ、防犯装置の類は、設置されていないみたいです。
二人は、なにか妙な気配を感じつつも、興味本位で柵をよじ登り始めました。
ここまで来て、手ぶらで帰るのも情けなかったのです。
意外に高い柵を乗り越えた時、二人の手と言わず衣服と言わず、
茶色い錆にまみれていました。
懐中電灯の頼りなげな光の中で、それは――乾いた血の滲みに見えます。
二人は渋面を浮かべて、足下の芝生に両手を擦り付け、
その後、衣服の汚れを払いました。
足音を忍ばせ、正面に見える重厚な扉に近付いて行く、二人。
今時、電子ブザーも無く、古びた紐が一本、下がっているのみでした。
合意の上、一人が試しに引いてみると、建物の中で歴史を感じさせる鐘の音が、
鳴り出したのです。
時代錯誤。そんな言葉が、二人の頭をよぎりました。
これだけ大きな音がすれば、誰か顔を覗かせるでしょう。誰かが居れば……の話ですが。
けれど、待てど暮らせど、屋敷の中からは何の反応も返ってきませんでした。
やはり、誰も居ない。
そう確信した二人は、左右に分かれて屋敷の周りを回ってみる事にしました。
もしかしたら、噂の『秘密の花園』に続く通路が、有るかも知れません。
眼鏡をかけた、やや背の低い青年は右回りで――
鳶色の髪を短く切り揃えた、左眼の泣きぼくろが特徴的な娘が、左回りで――
何事もなければ、二人はまた、屋敷の裏手で再会できる筈です。
さく……さく……さく……。
手入れの行き届いた芝生を踏みしだく音が、夜の静けさに呑み込まれていきます。
すぐ側まで森が迫っているせいでしょうか。
ひんやりした空気が、半袖シャツから突き出た肌を、粟立たせました。
勿論、鳥肌が立った理由は、肌寒さだけに留まらなかったのですけれど。
早く、彼女と合流して、帰るとしよう。
こんな事なら、車を方向転換させてから忍び込めば良かった。
取り留めない事を考えながら、彼は先に進んで行きます。
屋敷裏への曲がり角を折れると、向こうに懐中電灯の光が見えました。
どうやら彼女も、無事みたいです。
足早に歩いて合流した二人が、ホッと安堵の息を吐いたのも束の間、
屋敷の壁を照らしていた彼女が、ハッと息を呑みました。
それは――――確かに、存在していたのです。
人ひとりが、肩を窄めてやっと通れるかと言うほどの、狭く小さなアーチ。
それは、屋敷の床下を潜るような構造になっていました。
階段を降りて、また昇れば、中庭へと抜けられそうです。
彼女は躊躇いましたが、彼の方は乗り気でした。
ここまで来たなら、ひと目だけでも見て行かなければ損をする、とでも考えているかの様に。
彼は一人で、階段を下って行きます。
取り残された彼女も、心細くなって、彼の後を追いかけました。
途中途中で蜘蛛の巣に引っかかり、四苦八苦しながら狭い通路を抜けると、
不可思議な景色が広がっていました。
四方を屋敷の壁に遮られた、閉塞的な空間。
その真ん中に、色鮮やかな深紅の薔薇が咲き誇る、小さな花園が在ったのです。
儚げな月明かりが、薔薇の花に降り注いでいました。
青年と娘が、魅せられたように花園に歩み寄ると、薔薇の花々の中から、
不意に、誰かが起きあがりました。
誰も居ないと思っていただけに、青年と娘の驚きようは並々ならぬものでした。
でも――それは、相手の人も同じだったようです。
薔薇の花に囲まれ、月光に映し出されたその人は、栗色の髪を長く伸ばして、
丈の長い翠のドレスを纏った美しい女性でした。
よく見れば、瞳の色は緋翠。
青年が向けた懐中電灯の光を左腕で遮りながら、脅えと警戒心の入り交じった視線で、
突然の訪問者たちを見つめていました。
「何しに来たのですか?」
栗色の髪の乙女は、二人に、それだけを訊ねました。
彼女の強い語調に気圧されて、二人は口を噤んでしまいます。
まさか、遊び半分で忍び込んだなんて、言える筈もありません。
黙り込んだ彼らを、名も知らぬ薔薇の乙女は、鋭い眼光で威嚇しました。
「出て行けです。ここは、神聖な場所なのです。
お前たちが、みだりに立ち入って良い場所じゃねぇです」
神聖な場所――と言ったとき、彼女は右手で、何かを撫でる仕種をしました。
それは、彼女の腰くらいの高さの石碑でした。
侵入者の二人には、その石碑が墓標であると、すぐに見当が付きました。
きっと、彼女の大切な人が、眠っているのでしょう。
月明かりの元で、ひっそりと添い寝をしてあげるほど、大切で、特別な人が――
青年と娘は、自分たちの愚行を恥じました。
そして、死に分かたれても薄れない薔薇の乙女の一途な想いに、心を打たれました。
人は、どれだけ他人を深く愛せるのでしょうか。
どれほど強く、想い続けることが出来るのでしょうか。
彼と彼女には、まだ解りませんでした。
けれど、いつかは自分たちも、薔薇の乙女の様に、深く、強く……
お互いを愛せる様になりたいと願いました。
言葉を失った二人は、薔薇の乙女に頭を下げて謝意を示し、引き返しました。
そして、翌日の昼下がり――二人は、峠の屋敷を訪れました。
今度は、面白半分などではありません。昨夜の非礼を詫びるためです。
もしかしたら、また追い返されてしまうかも知れません。
でも、一言だけでも謝りたかったのです。
錆びた門構えは、昨夜よりも痛んでいるように見えました。
それに、屋敷の損壊具合も酷いものです。
窓は割られ、屋敷の扉にはスプレーによる落書きがされていました。
昨日の夜に来たのは、本当に、この屋敷だったっけ?
車の中から廃屋を眺めながら、二人は話し合い、頸を傾げました。
車を降りて、鉄の門に近付くと、押してもいないのに扉が開きました。
敷地内に生えている植物は、昨夜と同様に、手入れが行き届いています。
ひょっとして、二人が帰った後に訪れた誰かが、悪戯していったのかも知れません。
あの、薔薇の乙女は無事なのでしょうか?
二人は足早に屋敷の裏へ回り込みました。あの階段は……在ります。
昼間と言うこともあり、不気味さも感じないまま、二人は中庭へと抜けました。
鮮やかな深紅の薔薇で埋め尽くされた、秘密の花園は、もう存在しませんでした。
そこにあったのは、長く放置され続けたと思しい、荒れ果てた花壇だけ。
乾ききって、むき出しとなった土に囲まれて、墓標が立っています。
二人は墓標に近付いて、この下に眠っている人の名前を読もうとしました。
けれど、そこには、何も刻まれていなかったのです。
昨夜のあれは、夢だったのでしょうか?
そんな事は、有り得ません。
青年と娘は、確かに同じ物を見て、同じ言葉を聞いたのですから。
二人は、持参したお土産を墓標に供えて、この場を立ち去りました。
そして……もう二度と、訪れませんでした。
結局、二人は誰にも話しませんでした。
昨夜のことは、二人だけの秘密にしたのです。
それが、青年と娘の絆を強めてくれたのかどうかは、解りません。
でも、その後の二人は、確かに親密な関係になっていました。
そして、今日もまた、都市伝説は語り継がれていくのです。
『秘密の花園』の不思議な物語が……。
完
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最終更新:2006年05月27日 10:42