毒蛇山崎 @ ウィキ

削除コメント20090427

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2009-04-26 ■宇野弘蔵の「恐慌論」と「労働力商品化論」の哲学的意味について。
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tokumeikiboudesu 2009/04/26 17:28
宇野弘蔵の「恐慌論」と「労働力商品化論」の哲学的意味について。


『西部邁氏は、保守派に転向して以後も、学生時代を振り返って、ことあるごとに反日共系左翼組織、「ブント」の指導者の一人だったことを、要するにその輝ける左翼過激派体験を声高に吹聴するが、それによって、俺は左翼思想やマルクス主義哲学にも精通しているのだぞ、と読者や保守仲間を、なかば脅迫し恫喝しているつもりのようだが、しかし、彼が左翼思想やマルクス主義哲学に、本格的に言及したものはきわめて少ない。というよりも、僕の目にした範囲では、まったくゼロと言っていい。』

 西部氏が「左翼過激派体験を声高に吹聴する」ことによって「左翼思想やマルクス主義哲学にも精通しているのだぞ、と読者や保守仲間を、なかば脅迫し恫喝しているつもり」のようだ・・・と客観的に評価できる文献があれば、ぜひ教えてください。

 私は西部氏のことをよく知りません。西部氏が「今でこそ保守派の論客に括られているけれども、実は学生時代に60年安保闘争に参加した左翼過激派だったんです。」と半ば自嘲気味に告白しているような文章を過去に呼んだ記憶がありますが、それを以って読者や保守仲間を半ば脅迫し、恫喝しているとは感じられませんでした。

 むしろ、保守仲間が「西部さんは若い頃やんちゃだったんだよな!」と冗談交じりに言っているだけだと思いますが。


『同じくブントの指導者の一人だった「姫岡怜治(青木昌彦)」は、吉本隆明の「戦後思想の荒廃」という画期的な論文で、その左翼過激派時代のマルクス主義を理論的根拠にした状況分析の論文が紹介され、僕なども目にしたことがあり、また転向して以後も、近代経済学の分野で、日米を股にかけて活躍する経済理論家として知られているが、西部邁に関しては、左翼過激派時代のマルクス主義関係の「論文」なるものを見たことがないし、また転向以後にも、『ソシオ・エコノミクス』等、二、三の経済学関連の著書はあるものの、本格的な経済分析の論文を読んだことがない。』

 「論文」なるものを発表しないと、語ってはいけないのですか?

 だとしたら、あなたは一体何を語ることが出来ると言うのでしょうか?


『日米安保条約をめぐって闘わされた「60年安保闘争」といわれる学生運動なるものが終焉し、多くの学生たちが、それぞれ大学や日常に帰って行ったとき、西部邁もまた、裁判を抱えながらも、大学に戻り、大学院に進学、そして、「マルクス経済学」ではなく、なんと「近代経済学」、あるいは「理論経済学」なるものを専攻し、見事に体制側、権力側に寝返ったわけだが、その転向過程が、内面的に、いかなる思想的意味を持つのかを知ることはできない。学生時代は左翼過激派の指導者、卒業すれば体制・権力側を代弁・擁護する保守思想家…。それが西部邁氏の素顔であって、それ以外の何者でもない。まことに、機を見るに敏な、あるいは何処が日の当たる場所かを動物的勘で察知するかのような、うまい身の処し方というか、遊泳術である。大いに見習いたいところだが、僕はそういう調子のいい、世渡りのうまい人間を、昔から、尊敬することはできない。』

 思想というとのは「延々と考え続けること」。イデオロギーではありません。誤解の無いようにお願いします。

 経験と共に学び、その上で考え続けることによって、ある事柄を否定する時期もあるでしょうし、過去に否定した事柄を見直し再考することによって新たな発見をすることもあります。ある意味での温故知新です。

 人間関係も同じです。過去に論敵であったとしても、時と共に互いの真意が理解できるようになってくることもありますし、その逆も然りです。

 ただしその前提条件として、論ずる、もしくは批判する相手と共通のテーマに対して、自分自身が論考して意見を述べることが必要であり、マナーでしょう。あなたのように、それをせず、ただただ誹謗・中傷を行うのは卑劣です。多くの人から相手にされないのも当然の帰結です。


『さて、僕は、西部邁氏が、マルクスやマルクス主義、あるいはマルクス経済学の東大教授・宇野弘蔵について本格的に言及した文献を知らないが、少なくとも、今回の「中央公論」における柄谷行人との対談「恐慌、国家、資本主義」で、「西部邁とマルクス経済学」、あるいは「西部邁と宇野経済学」という問題点の一端を知ることが出来る。というわけで、西部氏が、マルクス経済学としての「宇野経済学」に関して語っているところを見ておくのも、今後のために無駄ではあるまい。』

 随分と大上段から物を言いますね。マルクス及び、マルクスの資本論や宇野弘蔵について、あなた自身の論考は述べないくせに。


『西部邁氏は、労働力商品についてそれ以上の分析や言及を避けて、そのまますぐに日本的な(?)「組織論」や「共同体」論という問題に論点を移動していく。』

 しつこいようですが、対談のタイトルは『徹底討議 ファンダメンタルな危機への処方箋 恐慌・国家・資本主義』、ついでに書くと、テーマは『特集・人間の顔をした資本主義はどこにある』です。

 マルクスと宇野弘蔵についての対談・討議ではありませんので、努々お忘れなく。


『そして西部邁氏は、~中略~ マルクスの『資本論』や宇野経済学の純粋な経済理論、あるいは現実離れした純粋な資本主義論や市場論、あるいは自由交換論、商品論と決別して行くわけだ。僕は、このことからも、西部邁氏が、それほど深くマルクス経済学や宇野経済学のことを考えていないことは明らかだと思う。では、何故、ここで西部邁氏が、マルクスや宇野弘蔵に言及したかと言うと、それはマルクスや宇野弘蔵のテキストを深く読み込み、それらを思考の原点に置いている柄谷行人氏の話に触発されたからであり、したがって西部邁氏に深いマルクスや宇野弘蔵に関する考察があるとは思えない。』

 だから、対談の切り口として両氏共に読んだことのある『マルクスの「資本論」』を持ってきただけのこと。それ以上でもそれ以下でもない。ちなみに「宇野弘蔵」を持ち出したのは柄谷氏。


『というわけで、二人の話は、特に西部邁氏の話は、早々と、純粋資本主義論としてのマルクス経済学や宇野経済学という原理論思考から遠く離れて、資本主義の危機・恐慌への対応策としての相互扶助組織である「協同組合」や日本的な「共同体」へ話題は移っていくのだが、やはりそれから先の共同体論や組織論の話は、誰でも画簡単に思いつきそうな話であって、僕には物足りない。』

 もしかして「自分が柄谷氏と対談すればもっと面白くなったのに!」とか思ってますか?「自分なら誰にも思いつかないような話ができる!」とでも?

 念のため書いておきますけど、あなたが対談相手だったら柄谷氏に一方的に迎合するか、持論を「どんな評価を受けるだろう・・・」と恐る恐る小声で言ってみる程度が限界でしょう。そもそも話の内容が中央公論の特集テーマから脱線してしまいそうですし、ミスキャストですよ。そんなの。


『そこで、それから先の「労働力商品」に関する分析や考察は柄谷行人氏に頼らざるを得ないというわけだ。では、「労働力商品」とは何か。資本主義経済システムにおいては、労働力としての人間労働(労働者)が、商品として扱われると言うことである。』

 ブログ読者の皆様。誤解の無いように”念のため”書いておきますが、「労働力としての人間労働(労働者)が、商品として扱われる」・・・この「商品」というのは決して「奴隷」や「農奴」のことではなく、「プロレタリア(賃労働者)=労働者であると同時に消費者」のことだと柄谷氏は発言しているので、決して差別的発言ではありませんよ!

 まったく・・・書かなくていいことについては無駄に文字数を費やすのに、省いたら誤解されてしまうことについては書かないのだから呆れます。


『ご承知のように、マルクスの『資本論』は、商品論から始まっているわけだが、その商品論なるものが複雑怪奇で、それ故に出鼻から難解だということで、多くの読者が『資本論』の読解作業を、この段階であきらめることが多いわけだが、しかし、ここにマルクス経済哲学の真髄があることは言うまでもない。』

 終わり?
 なるほど。続きは「中央公論」5月号を購入して読んでください!ってことですね!



文藝評論家★山崎行太郎★毒蛇日記part 10
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/book/1239674618/l50






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