毒蛇山崎 @ ウィキ

削除コメント20090425

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2009-04-24 ■宇野弘蔵の「恐慌論」の哲学的意味について。
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tokkumeikibbou? 2009/04/25 01:22
「中央公論」5月号を購入して”特集・人間の顔をした資本主義はどこにある”における柄谷行人氏と西部邁氏との対談を読んだ。

タイトルは『徹底討議 ファンダメンタルな危機への処方箋 恐慌・国家・資本主義』である。

ここでまず、いくつかの言葉の意味について確認しておきたい。

■対談:向かい合って話し合うこと。また、ある事柄について二人で話し合うこと。
■討議:ある事柄について意見を述べ合うこと。
■議論:互いの意見を述べて論じ合うこと。
■論争:互いに言い争うこと
■論破:議論をして相手の説を破ること。


さてと、山崎さん。
あなたのブログの内容は中身のないものであり、やはりデマが紛れ込ませてあったということを書いてみたいと思います。

■「柄谷行人・西部邁対談」(「中央公論」5月号)を読む。
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20090421/1240276902


『やはり予想通りというか、意外にもというか、話は昨今の世界金融不況をめぐって展開するわけだが』

「ファンダメンタル(根本的)な危機への処方箋 恐慌・国家・資本主義」というタイトルなのだから普通は昨今の世界金融不況について(も)語られると想像する。特筆すべきことではない。


『よく考えてみれば、自称「保守思想家」の西部氏は、はたしてこういう原理論的、本質論的なマルクス論なり宇野弘蔵論なりを、日ごろから展開しているのだろうか、と考えてみると、元左翼活動家であり元経済学者であったにもかかわらず、まったくそんなことはなく、日ごろは愚にもつかない居酒屋談義レベルの床屋政談で、右翼・保守論客やネット右翼等を相手にお茶を濁しているだけであって、たまたま今回は、対談相手が、かねてからマルクスや宇野弘蔵に関して独自の論理を展開している柄谷行人氏だったということから、マルクスや宇野弘蔵に触れて、さも「一家言」ありそうな物言いで話しているだけで、現在の西部氏は、柄谷行人氏とは違って、本当は、こんなことは、何にも考えていないはずである。』

あなたが分析しているように、柄谷行人氏が「一貫して日本共産党とは違った立場の左翼であり、アナーキストとも自認する。」(出典:Wikipadia)人だったこと、西部邁氏自身が学生時代に東大自治会委員長・都学連副委員長・全学連中央執行委員として60年安保闘争に参加した左翼運動家であったことから、対談の切り口として両氏に共通する『マルクスの「資本論」』を持ってきただけのこと。また、その解釈について一般的なマルクス主義者とは異なる見解を示した『宇野弘蔵』について語り合っただけのこと。

それを「本当は、こんなことは、何にも考えていないはずである。」とは、侮蔑的意図を以ってわざわざ書いているとしか思えない


『対話の言葉の端々からもそれは推察できる。たとえば、話が、終始、柄谷行人氏のペースで進んでいることからも、柄谷氏のマルクスや宇野弘蔵に関する独自の分析や論理展開に反論するどころか、何回も同意していることからも、それは明らかであって、西部氏の頭脳は、ほとんど思考回転しておらず、いわゆる思考停止状態にあると言って間違いはない。西部邁氏は、完璧に柄谷行人氏に論破されているのだが、論破されていることにも気付かないほど、思考停止の病は進んでいると言わざるを得ない。しかるに、これが、現在の日本の代表的な保守・右翼思想家の現状であり実態なのだ。何故、保守・右翼思想家たちは、西部氏を筆頭に、こういう悲惨な思考停止事態に陥ってしまったのか。(続)』

両氏はこの対談で『マルクスの「資本論」』の解釈について議論も論争もしていない。タイトルは『徹底討議 ファンダメンタルな危機への処方箋 恐慌・国家・資本主義』である。

それを「西部氏は柄谷氏に論破されている」などとは、やはり侮蔑的意図を以ってわざわざ書いているとしか思えないし、印象操作ないしはデマゴギーとも言っていい。


■宇野弘蔵の「恐慌論」の哲学的意味について。
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20090424/1240527501

『柄谷氏は、経済学から文学へ転向したわけだが、マルクス、ないしはマルクス主義を捨てたわけではないし、学生時代に熟読したという宇野弘蔵のマルクス経済学を捨てたわけでもない。柄谷氏は、文芸評論家としてデビューしてからも、一貫してマルクすを追求しているが、そこへいくと、西部氏は、学生時代の左翼過激派のリーダーとしての体験を自慢するだけで、マルクス、ないしはマルクス主義と完全に決別し、無論のこと、宇野弘蔵のマルクス経済学とも決別している。つまり、柄谷氏がマルクス経済学や宇野弘蔵のマルクス経済学について、今でも真剣に考え続けてきたのに対して、おそらく西部氏は、マルクスやマルクス経済学、ないしは宇野弘蔵のマルクス経済学について、その思想的内容は記憶しているだろうが、ほとんど深く考えたことはない、と言っていい。どちらがまともな思想家のすることか、判断は微妙だが、僕は、柄谷氏の著作はまじめに読むが、時間の無駄だから西部氏の著作を、斜め読みすることはあっても、真剣に読むことはしない。』

重複するが、両氏はこの対談で『マルクスの「資本論」』の解釈について議論も論争もしていない。タイトルは『徹底討議 ファンダメンタルな危機への処方箋 恐慌・国家・資本主義』である。

マルクス研究歴を競っているものでもなければ、造詣の深さを自慢し合っている訳でもない

両氏は、現在の(やや行き詰った感のある)資本主義を再考するときに、『マルクスの「資本論」』を改めて読み、その解釈を深めると、社会主義とは異なる意味での共同体が重要になってくる(例えば農業などは地産地消という言葉があるように地域単位でやるほうがいい)ことに気付く・・・と、互いが異なる立場での思考から、ある面では近い考えを導き出したのだと、討議を進めることで確認し合っているだけだ。


『というわけで、柄谷氏の話には、思想的に読むに値する議論が多く、熟読する意義がある。』

ある意味で西部氏が、柄谷氏の『マルクスの「資本論」』に対する造詣の深さを、対談の中で引き出したとも考えられる。

また、西部氏の言う

「日本人が日本的経営なるものについていうところの勤労態度や勤労意欲といった価値観という文化的要素」

「(コミュニティ=ゲイマンシャフト=共同体について)価値観、規範感覚、習慣・習俗・行動様式も含めて、おおよそ共通しあう関係」

が大切だと感じている人間は、イデオロギーに囚われず、柄谷氏の意見を冷静に聞くことができると思う。


山崎さんのここから先の文章は、対談の内容を要約して書いてあるだけ。文章全体を通して、大して意味の無いことが書き連ねてあるだけだということがご理解いただけますか?

続きがあるみたいですが・・・色々な意味で期待しています。



この件に関する情報

437 :吾輩は名無しである:2009/04/25(土) 13:54:42
OK。また削除。


■宇野弘蔵の「恐慌論」の哲学的意味について。(投稿時現在)
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20090424/1240527501

■宇野弘蔵の「恐慌論」の哲学的意味について。(魚拓)
http://s01.megalodon.jp/2009-0425-0123-47/d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20090424/1240527501


文藝評論家★山崎行太郎★毒蛇日記part 10
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/book/1239674618/l50






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