どこかの道路を、大型バスが走っている。
 辺境なのか、車線の割には交通量が少ない。だがそれでも、そのバスは制限速度を守り、安全運転で走っていた。
 と、不意に前輪が弾けた。バランスを崩した二階建てバスは、大きくスピンしながら植木に突っ込んだ。
 金属の不協和音が、悲鳴を塗りつぶす。バスの床下から、白煙が噴き上がる。
 そこに、覆面の集団が現れた。
 彼らは例外なく銃で武装している。と、威嚇射撃もせず、いきなり窓を割ってバス内へ侵入した。
 激しくなる悲鳴と、散発的な銃声。
 男達は一分ほどで出てきた。
 ただし人数が増えている。
 襲撃者の何人かが、バスの乗客を背負っているからだ。被害者はいずれもスーツ姿の白人だが――角度が悪く、顔は見えない。
 画面がスタジオに切り替わった。
『……以上が、一分始終です』
 テレビの中で、アナウンサーは続けた。
『死亡者は、バスの運転手と乗客合わせて二名。行方不明者は四名。連れ去られたものと思われますが、その後の安否と、身元の確認はできていません。
また、未だに犯行声明は出されていません』
 だが、治安維持当局は『マグリブ解放戦線』の犯行と見ていること。
 現在早急なコンタクトと、連れ去られた乗客の安全確保を急いでいること。
 ニュースキャスターのそんな声を聞いていると、まるでどこか遠くの出来事のように聞こえるから、不思議なものだった。
 知らず、ため息が落ちる。 (悪い夢みたい……)
 映像の後半に出てきた、連れ去られた一人。身元不明で処理されたその女は、本名をフィオナ・イェネフェルトといった。
 狭苦しい部屋で、エアコンの無しの熱さに喘いでいる、この自分のことだ。

(笑えないわ)
 椅子に座ったまま、フィオナはもう一度嘆息した。
 『見張り』のテロリストは、ちらりと彼女の方を見たが、何も言わなかった。
 ニュースはまだ続いている。
『……中継のレイザーです。事件のあった現場は、今も厳重な警備が敷かれ、ものものしい雰囲気に包まれています。
ですが、検分の開始から四時間が経った今も、決定的な手がかりを見つけるには至っていません。
治安当局は、相当な練度を誇るテロリストと見ており、やはりマグリブ解放戦線が有力としていますが、最終的な断定は犯行声明の発表を待つことになりそうです』
 再び、カメラがスタジオに戻った。
 キャスターと専門家が、何やら議論を始める。地域情勢を専門に学んだフィオナにとっては、どちらも今更な意見だったが。
「……人質にとられたのは、私だけですか?」
 テレビを見つめながら、フィオナはそれとなく聞いた。
「黙っていろ、白人」
 やや訛りのある英語で、テロリストは応じた。
 フィオナは忍耐強く、
「……あのバスには、友達も乗っていたの。アナトリア人が、もう一人人質に混じっていないか、それだけでいいんです」
 フィオナの質問に、見張りは一瞬迷う仕草をした。脈はある。
 もう一度丁寧にお願いすると、渋々了承してくれた。
「……少なくとも、現地語以外を話すのは、おまえだけだった」
 それにフィオナは、「そう」と呟き、見張りへ礼を言った。
 一緒に旅行に来た、ハイスクール以来の友人だが――なんとか難を逃れてくれたらしい。
 その安堵に、テロリストは水を差した。

「くたばってなければな」
 折しも、テレビがバスのスピンする様を流しているところだった。テロップによれば、死亡者は三人に増えたらしい。
 フィオナは棒を呑んだような顔になって、力無く項垂れた。
 自分がここで死んだ場合、死亡者は四人になるのだろうか。
(ひどい話……)
 部屋のドアがノックされたのは、その時だった。
「誰だ」
 見張りが鋭く返す。
 すると、ドアの向こうから、低い声が漏れてきた。
「……英語かギリシャ語の話せる人間が要る、という話だったが」
 見張りは軽く頷き、入室を許可した。
 ドアが開いて、一人の男が入ってくる。
 オリーブ色の野戦服を着込んだ、長身の男だった。肩幅も広く、がっしりとしている。恐らく彼も兵士だろう。
 けれど――

(何、この人……)
 フィオナは眉をひそめていた。
 背格好は立派なのだが、鼻にひっかけたサングラスや、曖昧な笑みを湛えた口元などの、細かなポイントが一々鼻につく。
 簡単に言えば、胡散臭いのだ。
 荒々しい中にも、目標や組織に対しての真摯さ、誠実さを感じさせる、テロリスト達とはまた違うタイプだった。
 ひょっとしたら、内部の人間ではないのかもしれない。
「君がフィオナ・イェネフェルトか」
 男の声は、長く息を吐き出すように、低く掠れていた。
 フィオナがおずおず頷くと、男は部屋の端からパイプ椅子を引っ張ってきて、そこにどすんと腰掛けた。
 それからサングラスを外して、裸眼でこちらを見つめる。
 現れた素顔は、思ったよりも若かった。恐らく、二十代後半だろう。
「ギリシャ語は?」
 男はいきなり訊いた。
「……え?」
「ギリシャ語は話せるか。アナトリア出身ということだ、まさか母語が話せないとは言うまいね」
 無論、話せた。  だが、皮肉な物言いが癪に障る。
 その思考を読んだかのように、男は口だけで笑った。
「怒るな。……じゃあ、今からそちらに切り替えよう。君もそちらの方が話しやすいだろう」
 途端、見張りが慌てだした。
「ちょっと待ってくれ。それじゃ、我々には尋問内容が分からない」
「問題が? 後でちゃんと報告する。これも給料の内だからな」
 男の返答に、テロリストが押し黙った。彼はしばらくの間、フィオナと男を見比べていたが、やがて舌打ちして部屋の隅へ下がる。
 僅かな沈黙を挟んでから、男が口を開いた。
「……さて、イェネフェルトさん」
 既に英語ではなく、ギリシャ語に切り替わっていた。

「これから、俺はあんたを尋問する。素性の裏付けを取るためだ。嘘はNG、黙秘してもいいが、お勧めはしない。分かるね?」
 隅っこのテロリストが、拳銃のスライドを動かした。
 フィオナは、とりあえず頷いておくことにした。
「よし、まずは状況の確認といこう。
あなたはアレクサンドリアへ旅行中に、偶然このテロに出くわした。そして、運悪くそのまま人質にされてしまった」
「……はい」
「つまり、現地人ではない」
「そうです。アナトリアの出身です」
 だから、部外者として帰して欲しい。心の中でそう付け足したが、勿論そう上手くいくはずもなかった。
「ところで……イェネフェルトというのは……アナトリアの有名な技術者の名前だ。珍しい名字だと思うが、君の肉親かね」
 そう訊かれたとき、フィオナの瞳が揺れた。
「いえ、私は……」
 目を伏せ、言い渋った。
 アナトリアの英雄的技術者、イェネフェルト教授は有名だ。一人娘がいることも、詳しい者なら知っている。
 同姓の自分との接点は、追究されるだろうと思ってはいた。
 かといって――易々と肯定していいものだろうか。
 迷っている内に、男が肩をすくめた。
「話したくなければいい。意固地になられても面倒だ」
 それには、逆にフィオナの方が驚いた。
 人質の価値に関わる論点だ、もっと深入りされると身構えていたのだ。だというのに――この不真面目な様子はなんだろう。
 言葉は分からずとも、その態度は見張りにも伝わったらしい。
 テロリストは、剣呑な調子で尋ねた。

「……真面目にやってるんだろうな」
「心外だな。今も大真面目さ。なあ?」
 意見を求められ、フィオナは困惑した。
 見張りの口調が険悪さを増していく。
「……レイヴン、いい加減にしてくれ。あんたの腕は買ってるがな、ここでも遊んでるようならいい加減解雇するぞ」
 レイヴンは、その剣幕にも肩をすくめただけだった。
「ああ、分かってるよ」  見張りが舌打ちする。
 フィオナまでも顔をしかめた。
 いやな態度を取る男だと思った。


     *


 雲一つない大空を、歪な影が編隊を組んで進んでいた。
 輸送ヘリの群だ。
 そのそれぞれが、盾を携えたノーマルACや、鈍重なそうな逆脚MTを、底部に抱えている。ヘリの形も相まって、まるでエサを運ぶミツバチが、群を為しているようにも見えた。
 それがいたのは、そんな列の先頭だった。
 くちばしのように尖った胸部、すらりと細い脚部と腕部、平べったい頭部。両手には箱形のショットガンを携え、背中にレーダーを背負っている。
 全体的に秩序立った機能美に縁取られてはいるが――それでも、人型としてはかなり歪だった。
 また、この機体だけが輸送ヘリに頼らず自力飛行している。
 装甲に『レイレナード』社章を張り付けた、ネクスト以下13機はひっそりと目的地へ飛び続けた。


     *


「よし。終いだ」
 レイヴンの声で、尋問が終了した。
 フィオナはほっと息を吐き、全身の緊張を抜く。
 要所要所はきちんと伏せたし、過度に不審がられてもいない。我ながら善戦したと思う。
 もっとも―― (相手が不真面目だったせいもあるけど)
 思っていると、目の前で見張りのテロリストが、レイヴンから書類を回収していった。質問毎にペンが動いていたので、恐らくその書類にフィオナの会話内容が要約されているのだろう。
「気になるか」
 レイヴンが、不意に訊いた。
 不思議とすんなり応えられた。
「……あまり」
「何故」
「……理由は、別にないけど」
 フィオナとしては、早々に会話を終わらせたいがための返答だった。
 だがその台詞が、彼には珍しかったようだ。
「落ち着いてるな」
 面白い動物でも見つけたような声で、そう言った。
 一瞬、何のことだか分からず、きょとんとしてしまった。
「……そうかしら」
「ああ。存外に厚顔――いや失礼、神経が太い」
「……私?」
 そうさ、とレイヴンは請け負った。
 煙草に火を点けながら、

「ここはマグリブ解放戦線だ。あんたらへの憎しみはどの組織よりも強い。
そんな中で普通に喋ってるのは、人質じゃ君だけだよ。君が一番若いんだがね」
 そう言われると、確かにそうかも知れない。
 なにせ、ここは過激な武装勢力のアジトなのである。将来のことを思えば、どんどん無口になっていくだろう。
 だが――フィオナの場合は事情が異なっていた。
 試しに、自分の膝に視線を落としてみる。
 見慣れた膝だ。その上には、見慣れた手が置かれている。
 しかし、それが自分のものだとは思えなかった。
 膝や手だけではない。前に座るレイヴンも、部屋の隅のテロリストも、その左手が握る拳銃も、全てがどこか遠くのことのように思えるのだ。
 果たしてこれは、本当に現実なのだろうか。
 自分はあの大型バスの中で、夢の世界に紛れ込んでしまったのではないか。
 そんな現実逃避とも達観ともつかない、奇妙な浮遊感が先程から頭にもやをかけている。
(図太い、というんじゃなくて……)
 ただ単純に、『麻痺』しているのだろう。
 驚いたり恐がったりもするが、一々それらを深く考察できなくなっているのだ。
 自然と目線が下がる。
「……私は……」
「それでもだ」
 フィオナは思わず口をつぐんだ。
 正面を見る。
 一人の傭兵が、窓からの夕陽を背負っていた。
「それでも、あんたは自棄《やけ》になっていない」
 言葉の一つ一つが、不思議と胸に染みた。

「君には、そうあれるだけの『根本』がある。それは十分に価値があることだ」
 レイヴンは、そう締めくくった。
 表情は読めない。俯き気味であり、体の作る陰が、顔を暗く塗りつぶしているせいだ。
「……レイヴン?」
 そう尋ねると、彼はようやく顔をあげた。
 彼は――笑っていた。
 寂しげなくせに、どこか晴れがましい、そういう不思議な笑みだ。
「それはとても幸福なことだ。それだけ生きるのに裕福になれる」
 そこで、男の笑みが変質した。
 いや、表情だけではない。男が纏っていた雰囲気そのものが、がらりと変わった。
 ぎらついた眼差し。不遜な笑みを浮かべた口元。口端から除く犬歯が、さっきよりも大きく見える。
 猛獣の顔だった。それも、ひどい飢えに喘いでいる。
 色に見えそうな苛立ちが、男の周りに陽炎のように立ち上っているかのようだ。
「俺はな」
 レイヴンは、ぼそりと呟いた。
「そういうの全然分からなくなった」
 背筋に冷たいものが走った。
 だがそれでも、フィオナはレイヴンの瞳から目を逸らさなかった。
 彼の灰色の目の中では、どす黒い炎が猛然と燃焼している。
 全てを燃やし尽くし、後には何も残さないであろう炎だ。

「貴重な財産だ。大事にしたまえよ」
 フィオナは、おずおずと頷いた。
 頷くしか、できなかった。
 レイヴンは薄く笑って、灰皿で煙草の火をもみ消した。
 甲高いコール音がしたのは、その時だ。
「面倒だな。……誰だ?」
 レイヴンは、懐から無線機を出して、大儀そうに耳へ当てる。
 そのまましばらく、相手の話へ聞き入っているようだったが、
「……何?」
 ある時、剣呑に目を細めた。
「ネクスト? 何を言って――」
 雷が落ちたような轟音が、言葉の続きを塗りつぶした。


     *


『軍曹殿、初弾は命中しました』
『スナイパーキャノンの調子は万全です。いつでもいけます』
 部下からの報告を聞き、男は満足げに頷いた。
「上出来だ。だが次弾以降の発砲は禁止する」
『……今なら一斉射撃で施設を掃滅できますが』
 スピーカーからの声に、男は不快そうな顔をした。
 小馬鹿にしたため息を吐くと、通信対象を『全軍』から『副長機』へ変更する。
「それでもだ、副長」
 コクピットの中で、男は傲然と言い放った。
「考えてもみろ。相手の準備が整う前に、弾を降らせて終わらせる。しかも敵はノーマルばかり」
『……それが何か?』
「書類上の問題だ。俺は一騎当千の実力を見せなければならない。そういう報告書を書かなければ、いつまで経っても正規へ昇格できないからだ。
お前は、俺の出世をさらに半年遅らせるつもりか」
 要は、自分が活躍しないと恰好がつかないということだった。
 通信の向こうで、呆れたような声が漏れる。
『……そのために、わざわざ敵の準備を待つのですか?』
「安心しろ、出るのは俺だけでいい。おまえ達に危険はない」
『……軍曹、不用意なリスクは……』
 副長の言葉にも、男は鼻を鳴らしただけだった。

「リスク? 何の話だ」
 男は自信たっぷりに続けた。
「副長、俺が何だか言ってみろ」
『……グランツ・カウフマン軍曹です』 「違う」
 男――グランツの言葉に、副長は渋々従った。
『……ネクスト乗りです』
「リンクスと呼べ。いいから待つぞ。俺を信じろ」
 グランツは機体のPAを維持させつつ、正面のモニターを見つめた。
 数キロ離れたところで、石造りの城塞が、夕陽に赤く照らされていた。


     *


「ネクスト?」
 フィオナは声をあげた。
「ネクストって……あの?」
「PAを纏い、常識外の機動をし、圧倒的な火力を誇る、そのネクストだろうな」
 レイヴンは腕を組んで、険しい顔をしていた。
 先程とは打って変わったその態度が、危機を雄弁に物語っている。
「どうして……? 攻撃してきたんでしょ?」
 フィオナは椅子から立ち、窓へ近づこうとした。
 そこに太い腕が伸びる。  見張りのテロリストだった。
「椅子へ戻れ、女」
 がっしりと肩を掴まれ、フィオナは息を詰まらせた。
「自分の立場を忘れるな。行動の自由は、あくまでこちらに不利益がない場合に限る。
そういうルールだったが、もう忘れたか」
 フィオナは一瞬迷ったが、背後に撃鉄が起きる音を聞くと、やむなく椅子へ戻った。
 見張りの視線が外れるのを待ってから、そっと唇を噛む。
(どういうこと……?)
 何故攻撃されるのか。
 現地の人々が人質にとられているというのに、いったいどこの誰が攻撃命令を出したのだろう。
 しかも、ネクストまで動員されているという。
 状況がまるで読めない。
 一定密度を超えた疑問が、漠然とした不安となって、胸の奥に沈殿していく。

「俺としては」
 その心理を読んだかのように、レイヴンが口を開いた。
「理由は案外単純な気がするね」
「……単純?」
 レイヴンは薄く笑った。
「ニュース、見たかい」
 頷きを返した。
「じゃあ、君も違和感を感じただろう。答はその辺りにある」
 そのタイミングで、ドアが開いた。
 入ってきたのは数人の男達だ。全員野戦服を着込み、額には深い皺を刻んでいる。
「ここにいたか」
 一人が言った。
 レイヴンは怪訝そうに、
「どうした」
「すぐ格納庫に来い。いや、その前に……テレビだ」
 言われ、元々いた見張りが慌ててテレビを付けた。
 まだニュースをやっていた。
 だが――雰囲気が変わっている。キャスターもコメンテーターも、先程よりずっと深刻な表情をしているのだ。

『――以上が、犯行声明の内容です。繰り返します。
「我々マグリブ解放戦線は、生ぬるい交換条件など持ちかけない。
今回の件は我々の意思表示だ。我々なりの宣戦布告だ。
連れ去った者達は、全員惨たらしく殺害させてもらった。動画も同封してあるが、報道するかどうかはそちらで決めろ。
……これは始まりに過ぎない。この退廃した社会を変革し、立て直すために――」』
 そんな調子の声明が、一分ほど続いた。
 最後にキャスターが、声明には人質達の死体を映した映像が貼付されていたこと、あまりにも惨いため公開は差し控えること、などを付け足した。
 コメンテーターが口を開く。
 惨いことになった。この国の対テロ対策の不備が――
「随分過激な文章を送ったな」
 テレビを見ながら、レイヴンが呟いた。
 躍起になって反論したのは、テロリスト達だ。
「違う! これは我々の文章ではないんだっ」
「そもそも、人質は生きているだろうがっ」
 通常、犯行声明は事件の前に送られる。
 事件を起こした後だと、無関係の組織さえも――どういうわけか――自分たちがやったと名乗り出る。そういう恥知らずな文書の中に、本物の犯行声明が埋もれてしまわないための、当然の処置だった。
 だというのに先程のニュースでは、犯行声明は四時間経った今も出ていない、と言っていた。
 正直、フィオナもこの辺りは奇妙に思っていたのだ。立場上政治にも明るいので、尚更に。
 だが――
(犯行声明の……捏造っ?)
 ここまでとは想像もしなかった。
 それはテロリスト達も同じらしい。さすがに浮き足だってはいないが――どの顔にも、深刻な当惑と焦りが浮かんでいる。

「レイヴン! 早く格納庫へ行け!」
「見張りのお前も来いっ、MTが余ってるっ」
「人質は?」
「縛っとけっ。今すぐ出るぞ! 意地を見せろ!」
 そういった騒ぎを前に、レイヴンが口を開いた。
「……待て」
 湖水のような声が、部屋中に染みわたった。
 白熱しつつあった議論は、波が引くように静まる。
 レイヴンは続けた。
「落ち着け。慌てて出撃しても、何にもならないぞ」
「呑気なことを――」
「じゃあいいぞ。お前、ノーマルにでも乗って突撃してみるか」
 レイヴンは、男達を冷然と見上げた。
「格納庫へ行くのはいい。だがすぐに出撃するってのは反対だ。相手はネクストだ、ただ出撃するだけじゃ、結果は何も変わらない」
 的確な指摘に、テロリスト達が口を閉ざした。だが納得していないのは、引き結ばれた口元を見れば明らかだ。
「……では、どうするつもりだ。交渉でも持ちかけるつもりか」
 たっぷりと沈黙を置いて、一人が剣呑な声を出した。
 空気がピンと張りつめ、全員の視線はレイヴンに向かう。

「さてな」
 レイヴンは、背もたれへ体を預けた。
 ポケットから煙草を取りだし、ライターで火を点ける。
 二、三度煙をくゆらせてから、ようやく話を始めた。
「交渉の余地なし、てのには同意だ。ガレージから出してまともな機動させるだけで、億単位の金が動くバケモノだ。
あっちから攻撃してきた以上、半端な真似はしないだろう。念のため聞くが、降伏という選択肢は?」
「ない。戦うだけだ」
 一人が言うと、残りもはっきりと追従した。
 レイヴンの口元が、笑みの形に歪んだ。
「……じゃあ、必要なのは議論だ。格納庫に行く前に、全員集まって作戦会議をしよう」
「……情報関係は、すでに情報部がやっている」
 レイヴンはせせら笑った。
「それで、その分析を戦闘中に教えられるのか? それではだめだろう。
全員が作戦を理解して、準備して、でないと罠はまともに機能しない。泥縄の戦略じゃ、ないのと同じだよ。特にネクスト相手にはな」
「……だがな、敵は目の前だぞっ。そんな時間は……」
「分からないぞ」
 レイヴンは平然としていた。
「相手が本気なら、今頃勝負はついてる。
スナイパーキャノンが飛んできたんだろう? もろに射程内じゃないか。
だが、生きている。相手は何らかの理由で、こっちの出方を待っているんだ。
わざわざこんなことをしている以上、ほんの少しなら――雑把な戦術を立てるぐらいまでなら、怪しんで慎重でいてくれるかもな」
 一理ある見立てだった。
 しかし、そこには大事なものが足りない。
 フィオナは恐る恐る尋ねた。

「……それ、確証は?」
 レイヴンは即答した。
「ない……確率とは一割あればいい方かもな。
普通に警戒しているだけかもしれないし。あるいは、途中で痺れを切らすかも知れない」
 テロリスト達が眉をつり上げた。
 分かりやすく一歩前に出る者までいる。
 あまりの殺気に、フィオナは最初の戦死者はここで出るのではないか、とさえ思った。
(……まずい)
 いい加減、テロリスト達の我慢が限界だ。そろそろ伏せるべきだろうか。
 本気でそう思った頃、レイヴンの声がした。
「落ち着け。少なくとも、普通に出るだけじゃ駄目だ。
入念な作戦が要る。確証なんて贅沢言うな、生き残るなら、多少ギャンブルでもそっちに賭けるしかないだろう」
 少なくとも、レイヴンの声には気負いや迷いはなかった。
 彼にしてみれば、当たり前のことを、当たり前に口にしているだけなのだろう。
 だが、テロリスト達は認めなかった。
「御託を並べるんじゃない!」
 鋭い声が、部屋を一閃した。

「お前はレイヴンだろ! 一々雇い主の決定に……」
 言葉は尻窄みに消えていった。
 まるで、話す先から自信を吸い取られていくかのように。
「……待ってくれ」
 ぞくりとした。
 慌ててレイヴンへ向き直る。
 石ころを見るような、白けた表情がそこにあった。
「何か勘違いしてないか」
 テロリストは、何も答えなかった。いや、応えられないのかもしれない。
 代わりにフィオナが応じた。
「……勘違い?」
「こうなったら、もう撃って出て最期まで戦い抜く。そういう覚悟は立派だとは思うが……あなた、適材適所って知ってるか?」
 レイヴンが口元を歪める。
 だが目は笑っていない。今までで一番棘のある笑い方だった。
「目を覚ませ。まだそんな段階じゃないだろ。
まずはぎりぎりまで考える。そしてそれでもだめなら……そこで初めて突撃だ。
だがあんた達は、恐怖に負けて楽な道を選ぼうとしているように見える」
 沈黙が降りた。
 だがそれは肯定しているも同然だった。
「……命が賭かるんだ。せめて建設的にやろう」
 言いながら、レイヴンは灰皿で煙草の火を押しつぶした。

 結局、彼の意見が採用された。


     *


 二分が過ぎた。
 それはやがて五分になり、ついには十分となった。
『……軍曹』
 部下の一人が呼びかけた。
 グランツは唇を引き結び、無視することに務めた。
(何故出てこない……!)
 焦りが心中に渦巻く。
 だが意に反して、モニターに映る要塞から、駆動兵器が出てくる兆しはなかった。
 夕陽に照らされた城塞は、我関せずといった風情で、今も飄然と佇んでいる。
『……いいかげん、攻撃しましょうよ』
「黙れ」
 鋭く命じ、グランツはモニターを睨め付けた。
 そのままさらに三分が過ぎた。
 知らず、言葉が漏れる。
「畜生め……」
 誤算だ。
 当初の話では、もっとスムーズに行くはずだった。
 MT達を蹴散らすことで、自らの履歴書を彩るだけの、ただそれだけの依頼だったのだ。
(やはり、『誘拐』がでかかったか)
 もっとも、予定に変更はなかった。
 動くだけで環境を汚染し、ガレージから出すだけで膨大な金額を食いつぶす――ネクストはそういう兵器なのだ。

 そして、誘拐が起こったのはネクストが現地に到着した後である。
 今更予定を変更すれば、ネクストの移動にかかった全ての経費は無駄になってしまうのだ。
 レイレナードはそれを許さなかった。
 だがかといって、全く何も影響なし、というわけではない。
 過程はどうあれ、人質を見殺しにしたことには変わりないのだ。ならば素晴らしい戦果を挙げなければ、『上』は納得しないだろう。
 戦闘の長期化、それによる施設損壊や環境汚染など論外である。
(……それを考えると、こうして待っていることもまずい)
 グランツとて、それは分かっていた。
 だが、わざわざ敵の準備を待つのにも、切実な理由がある。
 欲しいのは軍功だ。
 ネクストのポテンシャルを出し切った、そういう報告書を書きたい。
 そうすれば、本社もこんな寄せ集めのパーツで構成された機体ではなく、正規のものを自分に貸与する気になるだろう。
 その時の恩恵はでかい。
 リスクを負う価値はあると踏み、わざわざ敵の準備を待った。
 だが――そもそも出てこないのでは話にならない。
「頭でも腐ってやがるのか」
 毒づき、グランツは周辺状況を確認した。
 と、観測システムが、思考に警告メッセージをねじ込んでくる。PAを展開しているせいで、周辺環境の汚染が進んでいるというのだ。
『まずいですよ』
「分かってる!」
 部下の言葉に、反射的に手がスティックへ伸びた。
 全ては、敵が出てこないせいだ。ならばいっそ『催促』してみるのはどうだろうか。
 だが――どこを撃とう。スナイパーキャノンでさえ大きく抉れた城壁だ。
 これ以上下手な場所を撃つと、穴が開いてしまうのではないか?

(面倒なことになりやがった)
 葛藤していると、要塞に動きがあった。
 正面の分厚いゲートが、ゆっくりと左右に開いていく。大きさ的に、どう見てもMTやノーマル用のゲートだった。
「来た」
 グランツの顔に、傲慢な笑みが弾けた。
「来たぞ、やっとだ! おまえ達邪魔するなよっ」
 部下にそう命じてから、機体を跳躍させた。
 鋼鉄の足が地面を蹴り、そこで得た勢いを背中のブースターが加速させる。
 引きつるようなGの中で、頭部カメラと連動した視界が、ゲートから出てくるMT達を捉えた。
「待たせた分は……高くつくぞ」
 言う間にQBを噴射、赤のネクストは猛然と獲物に襲いかかった。


     *


 MT達がミサイルやバズーカで、懸命に弾幕を張る。
 だがネクストは、左右へのQBで易々とそれらをいなし、逆に隊列の懐へ潜り込んだ。
 銃撃が途絶え、戦場は一瞬しんと静まり返る。
 嵐のような猛威が始まったのは、その直後だった。
 ネクストが、ショットガンで間近のMTを粉砕した。
 その破片がまだ落下している内に、ネクストは次の標的に接近、猛烈なタックルを見舞う。
 喰らったのは、肩幅のある重装MTだ。
 重量はMTに分がある。だが、ネクストの突進力は圧倒的だった。
 重装MTは易々と宙に浮き、そのまま仰向け落下、轟音と砂煙をまき散らす。
 ネクストが、そのMTの胸を踏みつけた。装甲が凄まじい悲鳴をあげて、内側へとへこむ。コクピットはぐしゃぐしゃだろう。
『畜生!』
 MT達は果敢に銃撃した。
 ネクストは避けようともしない。機体を包むPAは、そんな銃撃など容易く弾き飛ばしてゆく。
 と、次の瞬間、ネクストがショットガンを撃った。
 射撃というよりは、弾をばらまくといった感じの、無造作な動作。だがMT達はその弾一つ一つに、容易く引き裂かれていった。
 堅牢なはずの装甲だが、まるで段ボールのようだ。

「ひどい……」
 司令室の大モニターが映す、そういった悲惨な戦況。
 手錠を外され、そこのオペレータ用の席に座らされているフィオナだが――状況も忘れて、息を呑んでいた。
「これじゃ、いくら何でも……」
「彼らの心配はするな。我々は覚悟を決めたんだ」
 後ろのテロリストは、冷然と告げる。
 だが、それでフィオナの動揺が納まるはずもなかった。どう言い繕ったところで――今モニターの中でなぎ倒されているモノ、その中には残らず人間が入っているのだ。
(これじゃあ、虐殺……)
 手が震えた。
 そんなフィオナに、テロリストは嘆息したようだった。
「しっかりしてくれ。遺憾なことだが……最悪を想定した時、オペレーターとして機能するのはあんただけなんだ。働いて貰うぞ、アナトリア人」
「でも……」
「同情はやめろ。でなければ……」
 丁度その時、MTがネクストに引き倒された。
 ネクストのショットガンが、さらけ出された胸部を――コクピット部分を狙う。

「あんたも俺も、彼らの所へ行く」
 鈍い発砲音が轟いた。
 MTの胴体が粉々になる。衝撃で手足が跳ね上がり、大きく波打つようだったが、やがて静かになった。
 ネクストのラインアイが、その光景を陶然と眺めている。
 フィオナはどういうわけか――その『目』に意識を吸い取られるような心地がした。
(……死ぬ……?)
 すぅっと意識に靄《もや》がかかった。
 考えるな、そういうものなんだ、といういやにすっきりした『納得』が――誘拐された当初にも感じた、納得が遅れてやってくる。
「そう、ね……」
 この世の最も冷たい部分。日常をあざ笑う、悪魔的なユーモア。
 それらが放つ、圧倒的な説得力に、たかだか二十歳の小娘の現実感など容易く屈服してしまった。
 後に残るのは、かつてのような浮遊感、無関心――それに伴う平静さだ。

「それでいい」
 テロリストの声も、まるでガラス越しに聞こえてくるかのようだ。
「よろしく頼むぞ」
 フィオナは頷きを返した。
 それから、全細胞に緊張を命じる。
 自分は今からオペレーターの真似事をする。経験はない。が、やらなければならない。
 故郷へ――アナトリアへ帰るためには。
「……やります」
「よし。状況を開始しよう。
格納庫も、ネクスト用のコジマタンクを出せ。バルバロイの分がなくなっても構わん、全部だ」
 それらを聞きながらフィオナはボタンを押し、レイヴンへの通信回線を開く。
 平行して、頭を英語からギリシア語へと――アナトリアの言語へと切り替えた。


     *


 グランツはご機嫌だった。
 次元の違う戦闘力で、一方的に場を支配している。
 AMSシステムで機体と同調することで、その感触がこれ以上ないほどリアルに伝わってきた。
 この場においては明らかに自分が最強であり、他は全て取るに足らないものなのだ。
(たまらないな……!)
 思いつつ、ショットガンを発砲する。
 前にいた逆足MTが、ボロ切れのように吹き飛んだ。
 失笑が漏れる。
(まったく……)
 こいつらはどうしてこんなに脆いんだろう。
 もっと頑張れ。
 でなければ、そもそも俺の前に立つことがおこがましい。
「違いってやつだ」
 異変が起こったのは、そう傲然と言い放った時だった。
 突如、側頭部に鈍痛が走り、感覚の一分がかき乱される。機体トラブルだ。
 ECM障害、とシステムが告げてくる。

(ECM?)
 グランツは周囲に目を向けた。
 と、少し離れたところに中型のMTが停まっていた。その周囲には、円盤形の機材が散乱している。
 恐らくECM発生器だろう。
 それも、こっちのレーダーが完全に死んでいる辺り、相当な濃度のECMだ。
 グランツは剣呑に目を細めた。
「舐めた野郎だ」
 呟き、グランツはQBを噴射、ECMを出したMTへ襲いかかる。
 が、そこを鋭い衝撃が貫いた。
 PAでも殺しきれない。
 たまらず、ネクストは地面に縫い止められた。
『ご苦労様』
 衝撃に息を詰まらせるグランツに、そんな声が聞こえた。低く掠れた男の声だ。
『後はこっちが引き継ぐ』
 二発目が飛んできた。
 QBが発動する。が、擦過音が聞き取れるほどの、ぎりぎりの回避になった。
 MT用火器とは比べものにならない弾速だ。

(こいつは……!)
 グランツは、要塞の出入り口を見やる。
 思った通りだった。
 装甲をひたすら重ね合わせたような、武骨なフレーム。明らかにGA社の仕事だ。
 だが肩に構えたキャノンは、スナイパーキャノン――BFF社の製品だ。また右手のライフルはイクバール製、左手のブレードはローゼンタール製である。
 柔軟な組み替えの産物だ。
 MTにここまでの器用さはない。
「AC……」
 グランツは探るように言った。
「レイヴンか」
 相手は応えなかった。
 代わりにもう一発、スナイパーキャノンを撃ってきた。
 だが、さすがにもう読めた。
 グランツはQBで易々と回避すると、逆にショットガンを発砲した。
 MTなら一撃の距離だ。
 だが敵ACは、柔軟な関節機構を活かし、左右に機体を揺らめかせる。
 補正をずらされた散弾は、敵の周囲へ散っていった。
(これがあるから、ACは面倒だ)
 グランツは背中のブースターに火を入れた。
 同時に地面を蹴り、MT達を飛び越してACに迫る。
 その時の勢いは完璧だった。ノーマルの機動力ではとても逃げ切れない加速力だ。

 それが災いした。
 敵ACの肩口から、何かが発射される。
 円盤状の物体が六発。飛来するそれらに、ネクストは自分から突っ込んでいた。
「しまっ……」
 轟音。
 先程とは比べものにならない衝撃が、機体を揺さぶった。
 吸着地雷の直当て。
 堪らず地面に着地する。オートバランサーが脅威的な能力を発揮し、なんとか重心位置を調整した。
 だがそれで終わりではなかった。
 カメラと連動した視界が、黒煙の向こうに――銃器を構えて周りを取り囲む、MT達の姿を捉えた。
 QB、と瞬時に意識が飛ぶ。
 けれど――この不安定下でのQBは、システムが許可しなかった。
 結果、無数の鉄塊がコアを直撃した。
 ネクストが数メートルもずり下がる。
 転倒しないのが奇跡だった。
 だが凄まじい反動で、しばらくは動けそうにない。
(まずい……!)
 全細胞が逃げろと絶叫した。
 だがグランツがQBを命じるよりも、敵ACが加速、ブレードを振りかぶる方が早かった。
 左腕部から伸ばされる、真っ青な収束エネルギー、その輝きがカメラを埋め尽くし――すぐに通り過ぎていった。

「……は?」
 間抜けな声が漏れる。
 PAが防御効果を発揮した、とシステムが告げたのは五秒程経ってからだった。
 PAに邪魔され、刀身が装甲にまで届かなかったのだ、というところまで考えが行くのには、さらに十秒が必要だった。
 その頃には――敵ACはこちらに背を向け、要塞に向かってブーストダッシュしていた。
(なに?)
 怪訝に思ったのは一瞬だった。
 逃げているのだ、と理解した瞬間、胸に猛烈な感情が吹き荒れる。
 どうしてだか、その背中を追いたかった。
 いや、追わなければならない気がした。
 そうしないと、何かが終わってしまうかのような――そういう焦りを感じた。
 本来なら、一連の攻撃を全て受け止めたPAの頑強さを、誇るべきなのだが。
「……あの野郎」
 言葉が漏れた。
 はめられた。その一念が心中で荒れ狂う。
 ガリ、という妙な音がした。自分の奥歯が噛みしめられる音だった。
 ノーマルが要塞の中へ入った。その姿がどんどん小さくなっていく。
「殺してやるっ」
 背中で装甲がスライドした。中から出てくるのは、一対の巨大なブースターだ。
『軍曹! まさか追いかけるつもりですかっ』
 部下が悲鳴を上げた。
『怪しすぎます! いくらネクスト乗りとはいえ……』
「曹長」
 グランツは苛立たしげに言った。
「リンクスだ。二度と間違えるなっ」
 直後、OBが発動した。


     *


 レイヴンは二つのタイプに大別される。
 新しいタイプと、旧いタイプ。
 もっと言うなら、企業によって養成されたものと、そうでないものだ。
 かつて政府があった頃は、後者が大半だった。だが今となっては、後者はほとんど死に絶えている。戦場に立っているほとんどは、前者――養殖されたレイヴン達だ。
 理由は簡単だった。
 後者の時代――つまり、まだ国家が繁栄していた時代には、レイヴンになるのは至難の業だった。
 操作はまだ簡略化されておらず、搭乗者には並々ならぬ身体能力と、センスが要求された。
 また国家や宗教を全て捨て去り、一個の暴力装置になるということへの覚悟も要求される。
 そういうハードルを承知してさえ、わざわざAC乗りに志願してくるような連中だ。
 戦闘狂、快楽殺人者――とにかく、壊れた手合いが多い。
 そういう連中は国家解体戦争に率先して参加、勝手にばたばたと死んでいった。
 最後まで生き残っていたのは、比較的まっとうな感性を持つレイヴン――すなわち企業に養成された、『職業軍人』としてのレイヴンである。
 だが――そんな中に、時たまイレギュラーが現れる。
 誰よりも多くの戦場に飛び込んでおきながら、天才的なセンスと、冴えすぎる頭で、生き残ってしまう者がいる。
 フィオナは頭の片隅で、そんな内容の講義を思い出していた。

(……じゃあ)
 彼はどうなのだろう。
 レイヴンと『ギリシャ語で』連絡を取りながら、フィオナはぼんやりと思考した。
 先程話したときの、あの空っぽな口調と、炎のような瞳。
 あれはまさしく、どこかで壊れてしまった人間のそれではないだろうか。
 彼はひょっとすれば――年齢からは想像もできないほど、長く戦場に居座っているのではないだろうか。
(……いいか)
 が、フィオナは結局考えるのをやめた。
 今となっては知る術もない。ただ一つ確かなことがあるとすれば――
「……その角を、右へ」
 カメラが、要塞の通路を素早く曲がるノーマルの姿を捉えた。
 そのノーマルは曲がる直前に、素早く反転、右手のライフルでネクスト牽制。その後吸着地雷をばらまいて通路を塞ぐ。
 ネクストはOBで地雷原を突っ切ろうとした。試みとしては正しい。現に通過は一瞬であり、ネクストにダメージが入ったようにも見えなかった。
 だが、通路に爆風が満ちた。即席の目眩ましだ。
 ECMでレーダーが利かない状態では、効果は抜群だろう。ネクストは光学ロックであるから、ロックオンによる索敵もできない。
 その隙に、レイヴンは十分な距離を稼いでいる。
(――いい腕だわ。すごく)
 思っていると、横からテロリストが報告した。
「……やはり、聞かれてるな」
「聞かれてる?」
「通信傍受だ。暗号化してるが、それも突破されてるかもしれない。
次からもギリシャ語で頼むぞ」
 フィオナは一応頷いた。
 目的地は近い。これ以上の指示が――それも、自分ごときの道案内が必要とも思えなかったが。


     *


「畜生め」
 グランツは悪態をついた。
 要塞に突入してから、鬼ごっこをすること数分。状況は――まさかだが――膠着していると判断せざるをえなかった。
 彼のネクストは、機動力重視の構成だ。加えて、主武装のショットガンは近距離で絶大な攻撃力を発揮する。
 だからグランツは、速度差でノーマルを追いつめ、ショットガンでずたずたにする、ぐらいに考えていた。
 だが――施設は予想以上に複雑な構造をしていた。
 曲がり角が多く、射線が通らない。敵はそれを利用して巧みに銃撃を避け、ばかりか折りを見て反撃、極小だがダメージを負わせてくる。
 苛つくやり方だった。
 それでも敵の動きが分かれば、もう少しスマートにいけたのだろうが――こちらも巧くはいっていない。
 無線を傍受し、相手の動きを読もうにも、どうも向こう側はグランツの知らない言語で応答しているらしいのだ。
 グランツは英語、中国語、ロシア語、ペルシャ語を理解することができ、現地のテロリストの会話ぐらいなら――ペルシャ語のはずだ――聞き取れると踏んでいたのだが。
 これも予想外である。
 勿論グランツは、レイヴンとそのオペレーターが交わしている言語が、今や地方都市アナトリアでしか使われていない言語――『ギリシャ語』であることを知らない。

「報告書どころじゃねぇぞ……」
 呟いたとき、遠くの角を黒い影が横切った。
 反射的にブーストダッシュしていた。
 瞬時に距離を詰め、同じ角を曲がる。通路の先では、巨大なシャッターが口を開けていた。
 グランツは迷わず飛び込んだ。時間がなかったのだ。
 だが――飛び込んだ部屋にも、目標の姿はなかった。はずれである。
 焦りと苛立ちが一緒くたになって荒れ狂い、軽い頭痛さえ覚えた。
(ダメージは与えてる。後一押しなんだ、後一押し……!)
 グランツはそう自分に言い聞かせ、苦労して感情を飲み込んだ。
 重いため息を落として、ショットガンの弾倉を交換、改めて周辺を警戒する。
 と、そこでようやく、グランツはこの部屋が格納庫であることに気がついた。
 未起動のノーマルが幾つか、壁面の作業台に乗っている。実戦運用されているのだろう、どれも真新しい傷を負っていた。
 壁際には、コジマ粒子入りのタンクも見える。
 恐らく、マグリブ解放戦のリンクスは、こういう場所でネクストの補給を受けているのだろう。

(……いっそ、ここで暴れてやるか)
 名案に思えた。
 ECMのおかげで、敵の位置は分からない。だが、ここで暴れれば、慌てて飛んでくるだろう。なにせ、この場所には――猛毒のコジマ粒子がある。
 もっとも、評価の手前、タンクを破壊するわけにはいかない。だが敵にそんなことは分かるまい。きっと驚く。
 グランツは上唇を舐めた。
 適当なノーマルに狙いを定める。トリガーに指がかかる。
 格納庫の扉が、音を立てて閉まり始めたのはその時だった。
「なんだっ」
 言う合間にも、巨大なシャッターが次々と閉じられていく。
 まるで、獲物を取り込むかのように。
 グランツは言い知れない焦りに見舞われた。だが、もはや逃げるには遅すぎた。
 ズン、と重苦しい音を立てて、最後の防壁が閉じられる。
 グランツは愛機と共に、巨大な空間に閉じこめられてしまった。
(……どういうつもりだ?)
 その意味は、すぐに分かった。
 直後、照明が全て消えた。墨を垂らしたような、容赦のない暗闇が押し寄せる。
 暗視機能を持たないネクストにとっては、まさに己の腕さえ見えない状態だ。もちろん、敵の視認などできようはずもない。
 ネクストの操作系の根本を為すACSは、人間の五感の延長であり――それ故、人体の機能を大きく逸脱した能力は、持つことができないのだ。脳への負荷が甚大なことになる。
 そして人間の目に、『赤外線で闇夜を見通す』という能力はなかった。

(……これは、なかなか考えたな)
 グランツは、軽く驚いた。
 暗視スコープがない、というネクストがノーマルに劣る点を、敵が知っていたのは本気で意外だった。
 だが同時に、せせら笑ってもいた。
 敵はこの機会に闇討ちをするつもりだろうが――ACSは、そんなヤワなシステムではない。
 『赤外線スコープ』といった、人間に元々ない能力を付加することは難しいが――既にある能力を、強化することは可能なのである。
 この場合、機械を通して『光への感度』を上げてやればいい。
 グランツがそう命じると、数秒ほどで格納庫内の様子が、おぼろに浮かび上がってきた。テレビの『明度』を調節する要領だ。
 陰湿な笑みが浮かぶ。
(ざまあみやがれ)
 圧倒的なテクノロジー。これが、ネクストの持つ強さだった。
 グランツはその力で、ノーマルを返り討ちするべくスティックを握りしめたが――考え違いをしていたのは、彼の方だった。

『コジマ粒子 充填開始』

 突如、合成音が響きわたった。
 グランツは眉をひそめる。

『コジマ粒子 充填中』

 最初は、自機のコンピューターかと思った。
 だが、すぐに思い直した。
 これは格納庫内に直接響いている、『警告メッセージ』である。

『コジマ粒子 十分量 充填完了』

 グランツは、部屋にコジマタンクがあったことを思い出した。
 恐らく、それにコジマ粒子が注入されているのだろうが――理由は、見当もつかない。

『充填 尚も継続中』
『許容限界に近づいています 危険です』

 グランツの中で、強い不安が巻き起こった。
 何か悪いことが起こる、それを予感しつつも、具体的には把握できない――そういう歯がゆい不安だ。
 次第に、心臓が早鐘を打ち出す。嫌な汗が浮かんでくる。
 貯め込んだ優越感が、なし崩し的に消費されていった。

「いかんぞ……」
 気を揉んでいると、暗闇にくぐもった音が響いた。
 銃声だ。どういうわけか、敵はこの部屋に入ってきたらしい。
 だが――何を撃った。
 部屋の奥に、薄青の光が――コジマ粒子の発光が生まれたことで、ようやくグランツは理解した。
(コジマタンクか!)
 直後、閃光が炸裂した。
 視界が暴力的な白に染め上げられる。
「なんだ、こりゃあ!」
 グランツは絶叫した。
「見えねぇ!」
 コジマ粒子は大気を汚染するとき、発光を伴う。ネクストが燐光を纏ったりするのはそのせいだ。
 だが今回は粒子の濃度が桁違いだ。
 瞬間的な光量は太陽にも匹敵し、しかも今――『光への感度』は最大だ。カメラが潰れたのだ。

(くそっ! 何にも見えねぇ!)
 混乱するグランツだが、その耳が妙な音を捉えた。
 巨大な足音だ。
 金属の軋みを響かせながら、一歩、二歩、確実にこちらへ近づいてくる。
 喉がごくりと鳴った。
 動揺を沈める目的で、PAを――ネクスト特有の防御壁を確認する。
 だが、COMの宣告は無情だった。
(PA……消滅っ?)
 愕然とした。
 コジマタンクから漏れた粒子が、PAと干渉、これの効力を大幅減衰――ACSは事態をそう解説した。
 まずい、と思った。
 が、グランツは激しく動揺していた。
 敵のブレードが発動する。そのエネルギー収束音を、踏み込むブースターの音を察しても、反撃はおろか回避さえもできなかった。
「しまっ……」
 情けない声と、金属の悲鳴が重なる。
 だがグランツは生きていた。
 どうやら、本能的に頭部をかばっていたらしい。交差させた両腕が、敵が振り下ろした腕部を受け止めたのだ。
 その隙に叫んだ。
「曹長! 応答しろ! 大至急援護を――」
 返答はなかなかこなかった。
『……興ざめするようなことはやめてくれ』
 応じるのは、低い、だがどこか澄んだ男の声だった。
 通信障害、とシステムが宣告する。
『ここにいるのは、俺とお前……そんだけだよ』
 その時、信じがたいことが起こった。
 ネクストの腕部が――徐々に下がっていく。敵のパワーに押されているのだ。
 それと平行して、刀身も近づき――じりじりと頭頂部の装甲を焦がしていく。

(馬鹿な……!)
 愕然とするグランツだったが、これも当然のことだった。
 ノーマルは、ネクストよりも大きい。多くの部分を小型化し、かつ無駄を省いたネクストと異なり、旧式のパーツを多用しているせいだ。
 そのため挙動は鈍いし、そのくせPAも特殊装甲もないため防御も薄い。
 だが――とにかく『重い』。
 だからこそ、体重をかけた押し合いは、ノーマルの方が優位になる。
 強力な装備もない。堅牢な装甲もない。電子設備も粗末なものだ。
 けれど、車輌《ヴィークル》としての――原始的な意味での『パワー』ならば、ノーマルの方が強力なのである。
『それじゃ』
 やがて力強い腕部が、ネクストのガードをうち破った。


     *


 フィオナは、息を呑んだ。
 ブレードを振り下ろす巨体。それを真正面から受けて、切り倒されるもう一つの巨人。
 大型モニターの枠が、そのコントラストをまるで一幅の絵画のように切り取っている。
 綺麗だ、と思った。
 破滅的な光景のはずなのに、近寄りがたいほどの神々しさを感じる。
(……これが……)
 レイヴン。
 戦場を渡り歩く者。

『ここにいるのは、俺とお前……そんだけだよ』

 彼の放った言葉が、実感として飲み込めた。
 飲み込まれた言葉は、フィオナの胸深くへ落ち込み、そこで猛然と燃焼を開始する。
 生まれるのは――熱だ。
 触れるもの全てを焼き尽くすような、凄まじい熱を、体の芯に感じる。
 堪らず胸を押さえた。そうでもしないと、体が動き出してしまいそうだった。
(これが……!)
 思ったとき、甲高い電子音が響いた。
 フィオナははっと我に帰ると、慌ててパネルに注意を戻す。
 もっとも、すでにネクストは撃破した。目だった脅威はないはずだったが――
「……え?」
 フィオナの動きが止まった。
 その顔が困惑の色に染まっていく。
「これって……」
『……どうした?』
 彼女は応えに詰まった。
 観測システムが、ネクスト内のジェネレーターが、異常に加熱していると告げているのだ。
 妙だった。
 通常の場合、撃破された機体のジェネレーターは即座に活動を停止する。加熱などしない。
 そもそも爆発物や可燃物が使用されていないのだから。
 しかし――それは一般常識だ。
 専門家が見れば、ざらにあることなのかも知れない。容易に異変と認定してよいものだろうか。
 その迷いが仇となった。
 ネクスト技術は各社の生命線だ。
 レイレナードのような野心的な企業が、人質を見殺しにしてまで作戦を強行するような企業が、残骸とはいえネクストの素体を易々と明け渡すはずがなかったのだ。

「レイヴン、実は――」
 言葉はそこで途切れた。
 モニターの中で、閃光が炸裂する。一拍遅れて、画面が砂嵐になる。
 だがその変化を最後まで見届けた者は皆無だった。
 なぜなら、フィオナも、見張りのテロリストさえも、突き上げる衝撃に吹き飛ばされたからだ。
『くはは……』
 最後まで生き残っていたスピーカーは、レイヴンの声を流した。
 うすら寒くなるほどの、からからに渇いた笑い声。
 それもまた轟音に塗りつぶされ、誰かに届くことはなかったが。


     *


 どうやらネクストに爆発物が仕掛けられていたらしい。
 証拠隠滅としては最も手軽で、確実な手段だ。
 もっとも、本来ならば機体だけをばらばらにする程度の威力なのだろう。
 だが、今は周辺にコジマ粒子が満ちていた。爆発はその粒子と逐一反応し、凄まじい威力を発揮したようだ。
(だめだな)
 愛機の中で、レイヴンはそう判断した。
 体が動かない。全身の感覚が遠い。爆発で装甲が歪み、コジマ粒子がコクピットに侵入してきたのだ。
 汚染は皮膚全域に及んでいる。恐らくあと少しもすれば、それは芯にまで達し、自分の体は活動を停止するだろう。
 ゲームオーバーだ。
(年貢の納め時か……)
 実りは要らない。
 欲しかったのは充実だ。
 だから、彼は戦場に赴き、自らの命を燃焼させた。その時の光は、確かに彼にこびりついた『やるせなさ』を、振り払ってくれたように思う。
 だが、それももう終わりだった。
 それについては、怒りも、悲壮感も沸かない。
 あるとすれば――少しばかりの、疲労感だ。
(やれやれ)
 レイヴンは目を閉じ、永久の休息に向かった。


     *


 フィオナは、全身の痛みで目を覚ました。
 だが起きあがりたくなかった。ひどく眠い。疲れた体に、このまどろみは心地よすぎるらしかった。
(もう少し、だけ……)
 どうせ大学もないのだから。
 そう思ったところで、意識が一気に覚醒した。
 人質。ネクスト。爆発。大学どころではない。帰れないかもしれない。
 思考に蹴りが入った。
「そうだ」
 反射的に身を起こしていた。
 が、そこで面食らった。
 目を開けたはずなのに、周囲は真っ暗だったからだ。周りの様子はおろか、自分の手さえ見えない。
 洞窟の中のような完璧な暗闇だ。
 しばらく経って、真後ろに微かな光源を見つけなければ、きっと死んだと誤解していただろう。

(……建物が、崩れたのかしら)
 空恐ろしい考えを抱きつつ、フィオナはその光源を目指して歩いた。
 しばらく進むと、光が瓦礫の隙間から差し込む陽光だと分かった。
 さらに進むと、その隙間が人間一人くらいなら通れそうなものだと分かる。
 フィオナはその隙間を這い進み、一分ほどで外へ出た。
 暑かった。
 空は澄み渡り、太陽が高い。立っているだけで、じりじりと肌が焦げていくような感じがする。
 だが施設の惨状を目の当たりにしたとき、一斉に汗が引いた。
「……なに……これ」
 声が漏れる。
 そこにあったのは瓦礫だけだった。瓦礫が一面に敷き詰められ、大きな広場を成していた。
 その中央に、巨大な影が立っている。
 ノーマルの残骸だった。両腕は千切れ、残っているのはボロ切れのような装甲だけだ。
 フィオナは太陽の熱で我に返った。

(他に、助かった人は……)
 辺りを見回したが、誰もいなかった。
 もしや生き埋めを免れたのは自分だけか、とも思ったが、きっちりと部屋の形を残している区画も散見された。
 どうやら爆心地から離れた所は、倒壊を免れているらしい。
 改めて見ると、フィオナがいた場所はそれの一つのようだった。
 とすれば――他に誰かいてもいいように思える。
(……まずいかしら)
 フィオナは眉をひそめた。
 この場合の誰かとは、高角率でテロリストだからだ。
 加えて――爆発の規模が規模だ、コジマ粒子の大部分は破壊で消費されてしまっただろうが、それでもやはり周囲の汚染も心配だ。
 そういえば、他の人質達はどうしたのだろう。
 ネクスト以外の敵部隊は、姿が見えないが――撤収してしまったのだろうか。戻ってはこないだろうか。
 考えれば考えるほど、そうやって懸案事項が噴出した。どれから手をつけていいのか分からないほどだ。
 だから、だろうか。
 最終的に、彼女は正直な願望を実行していた。
 太陽に焼かれながら、真っ直ぐノーマルの残骸へと向かい、装甲の梯子をよじ登る。
 そして、躊躇うことなくコクピットハッチを開けた。
 中は暗かった。
 その陰の中で、男が一人、俯き気味に座っている。
 あのレイヴンだ。死んでいるのか、眠っているのかも判然としない。

「レイヴン」
 呼びかけたが、反応はなかった。
 生死が気にはなったが、それ以上にやるべきことがあった。
 フィオナは、男のポケットを探る。
 罪悪感がなかった。『そんなことより』、と本気で思っていた。
 無線機。ライト。携帯食料。
 次々と遺品が出てくる。それらに混じって――思った通りだ――携帯電話が出てきた。
 フィオナはその携帯電話に番号を打ち込んだ。祈りながら待つこと数秒、携帯電話が呼び出しを開始する。
 相手はすぐに出た。
『はい』
「ルーシュ、私よ」
 一緒に旅行に来ていた、ハイスクール来の友人はひどく驚いたようだった。
『フィオナっ?』
 たった一日――あるいはそれ以上かも知れないが――聞かなかっただけなのに、その声は妙に懐かしく聞こえた。
「そう。私」
『誘拐されたんじゃ……』
「それはもう終わったの」
 不思議なほど冷めた声が出てきた。

「ルーシュ、お願いがあるの。あなたの口から、この電話を現地の警察に知らせて。
そうすれば多分信用して動いてくれる。かけ直してきてもいいわ。
それとも……そっちでも、こっちがどうなったかはニュースになってる?」
『……え?』
「いえ、いいわ」
 そう言い、逃げるように電話を切ろうとした。
 そこを、心配そうな声が遮った。
『ひょっとして、もう大丈夫なの? 助かったの?』
「……うん」
『よかった……』
 その柔らかな声が、疲れた体に染みわたっていく。
 チクリと胸が痛んだ。だが、不思議と微笑が浮かんだ。

「うん、ありがとう」
 そう言って電話を切ろうとした。
 が、フィオナはそこで奇妙なことに気づいた。
 奥へ追いやった、レイヴンの体。その肩が――今上下しなかったか?
『フィオナ?』
 フィオナは応えなかった。
 ただじっと、何かを見定めるように、レイヴンを見つめている。
『……ねぇ』
 そこで、ようやく我に返った。
『どうしたの? 何かあった?』
「別に、そういうわけじゃないんだけど……」
 フィオナは口を濁した。
 否定したくとも否定しきれない。
 彼女は、この男を助けるよう動くべきか、それとも死を与えてやるべきか、本気で迷ったのだ。
 先程の戦いや、その前に見せた燃えるような目つき。
 彼は、この薄闇の中で息絶えるべきではないのか。
「ルーシュ、あのね……」
 だが、フィオナに実行するだけの義理も、勇気もなかった。
 結局彼女は、この場に重度のコジマ汚染患者がいることを、離れた友人に告げ、携帯を閉じる。
 遠くで鳥が鳴いていた。





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