アライアンスからあてがわれた部屋の中には、もう何も残ってはいない。
必要だと思ったものはヘヴンズレイの中に詰め込んだし、いらないものは検閲の末ダストシュートへ。
溜まりに溜まっていた私物を片っ端から排除してみれば、常々狭い狭いと言い続けていた部屋も意外と広いものであることがわかった。
ジャウザーは部屋を見回す。
何も無い殺風景な部屋になってしまったが、部屋にこもっていた残留思念のようなものから開放された様子はそれなりに見れるものだと思う。
たった数ヶ月しか住んでいない部屋だったが、多少の愛着は沸いている。手放すのが少し惜しい気はした。
これまでアライアンスの正義を盲信していたジャウザーだったが、一ヶ月前から始まったレイヴン狩りには抵抗を覚えている。
しかもアライアンスはむやみやたらと権力を行使するようになった。権力がダメなときは実力。
金と物量でもって、街の自治会レベルのものまで轢殺していく。
その姿は暴走とも取れた。
かっては秩序を守ることを優先していたアライアンスだったが、今となっては何がしたいのかもわからない。
バーテックスが現れたときにそれは始まり、バーテックスがなくなった後もそれは続いた。
一時的なものではない。
必要以上の圧制は世を荒れさせるものだとジャウザーは思っている。
ジャウザーは今のアライアンスが必要以上の圧制を敷いていると思った。
正義などどこにいもないと思う。ならば自分が正義になれば良いと思った。
数秒で自室との別れを済ましたジャウザーは自動ロックの扉を閉めると、自分の部屋のカードキーを真っ二つに折ってゴミ箱に放り投げた。
「もう行くのか?」
エヴァンジェが扉の脇に寄りかかっていた。
ジャウザーは自分がアライアンスを抜けることを、この隊長にだけ通してある。この人ならばらす筈は無いと思った。
そのときに隊長も抜けることをススめたが、やりのこしたことがあるの一点張りで断られて、代わりに用事を頼まれた。
「監視する衛星砲はS3番だ、監視しながら砂漠のど真ん中へ向かえ。ナビシステムはもうヘヴンズレイに転送してある」
エヴァンジェの意図は読めないが、間違ったことではないのだろう。ジャウザーの知る限り、エヴァンジェは男と男の約束をたがえるような人間ではないし、不意打ちをする人間でもない。
「明日、0600時に砂漠に向かえばいいんですね?」
「そうだ」
エヴァンジェが腕を組んだままでうなずく。うなずいてから、壁に預けたままの体を持ち上げる。安物のタイルがみしみしなって、消耗した蛍光灯がチカチカと点滅した。
彼は耳にはめた無線イヤホンの右を引っこ抜いてジャウザーに投げてよこす。
「聞いてみろ」
「?」
怪訝な表情だが、素直に言うことは聞く。ジャウザーはアライアンスを抜けてもエヴァンジェの部下のままである。
小さい声が聞こえる。
「――です。父上は邪魔だと言うんですよ。こんな面白いものを独り占めして」
聞こえたのはどのレイヴンにも嫌われていてジナイーダに狙われていて、一ヶ月前にそのジナイーダに殺されたモリカドルとよくつるんでいた研究員の声。
途中からなので状況はつかめなが、何か諍いを起こしているのだろうということぐらいはわかった。
カドルとつるむメガネがいさかいを起こす相手といえば、多分研究部の主任だろう。何でも二人は親子らしいが、その割りにずいぶんと仲がよくなかったと聞いたことがある。
「貴様のようなのにこの研究の価値がわかるものか! 主任はワシだ。部下には黙っていてもらおう!!」
多分、父のほうの声。ずいぶんとしわがれた声だったが、怒りだけは溢れかえっている。
「わかりますよ、父上が私を見くびってると言うことがね。振るい脳のクセにべらべらと、もう少し年寄りらしくしてればどうなんですか?」
対照的にずいぶんと温度の低い声。しかし、やはりそこのほうには怒りがこもっているようにジャウザーには思えた。
突然聞こえた音は、軽い金属と金属のぶつかり合う音。
カチャリ。
多分、銃を構えた。
「そろそろ眠るべきです。あなたは」
突き放した声に続いて、乾いた音が三回繰り返されたところで急に音がノイズまみれになった。
砂漠の砂嵐に似ている。一つだけでは何もできない断続的な音が群れを成して全てを蹂躙する。イナゴの群れにも似ている。
そんなイナゴに意識を食い尽くされそうになったとき、急にふっとイナゴは消え去った。そして、声
『……ザッ……ジ、…ないー……だ』
静かだったのは変で聞き覚えがあって、なおかつレイヴンたちに嫌われたレイヴンの声が聞こえたときだけで、すぐにイナゴが押し寄せてくる。
驚いて、顔を上げて目を見開いてエヴァンジェを見つめた。
ジャウザーは盗聴器を研究室に仕掛けていた事について何もいう気は無い。しかし、最後に聞こえた声はなんだったのか。幽霊でも出ると言うのか。
答えを求めて、すがるような瞳をエヴァンジェに向けても彼はニヤニヤ笑うだけ。
その笑いもいつしか消える。
「これは……一体……」
しばし見つめ合う。双方が同時に相手の目の色から感情を読もうとする。しかしそのことに成功したのはエヴァンジェだけ。
またエヴァンジェが笑った。
「嵐が来るかも知れんぞ」
写真に写った顔はなかなかの間抜け面。
こんな面では傭兵家業も勤まるまいと思っていたジナイーダだったが、実物を見てもっと驚いたことがある。
ノブレスとやらはどうやら写真写りが良い方らしい。少なくとも、八百屋だかなんだかわからない店の前においてあるベンチでボーっとする男はレイヴンには見えない。
緊張感の欠片も見えない。あんな顔ではウサギだって狩れやしないのだろう。
フードを被ったまま、人知れず嘆息する。
標的は四度も同じ人物と接触した後、その人物に引きずられてオペレーターと離れ離れになる。
その人物はいろいろな場所に標的を引っ張りまわし、至る所でガハハと笑う。
市場にも男の知り合いは多いらしく、いろいろな店の前で標的をほっぽらかして雑談をしている。今、またガハハと笑った。
男が標的を連れて回る場所には一つ一つが共通点を全く持っていない。ジナイーダには男は何が目的なのか見えない。
男がこれまでに接触した市場の人間の数は十五人。いずれも木彫りや焼き物を売っている店が大半。
店番はどいつもこいつも特徴のある外見をしていて、ジナイーダはその全てを心の中でガリ・ブタ・爪楊枝・チビ・ペンギン・ウナギ・犬・メガネ・オウム・出目金・カエル・サル・ツノ・アフロ・クレーターと全てに名前をつけた。標的を連れまわす男はもちろんハゲと名づける。
メールさえ使えれば尾行をする必要も無いのだが、今レイヴンである自分がメールを飛ばすのはまずい。絶対に電波で居場所を気付かれる。
大声で捕まえてくださいといっているようなものだ。
砂漠の日照りに肌が焼けていくのを感じて、フードを目深に被る。太陽も少しぐらい休めば良いのにと思う。年中無休でさぞかしお疲れのことだろう。
そんな事を考えているうちに、ハゲ達は天をつくように聳え立つ、街の高台の階段を上り始めた。
降りてくるまでにノブレスに接触出来ればいい、そう思ってさっき見つけた小物屋に行く事を思いつく。木彫りのワシが気になっている。
「どうだあ、いい眺めだろお」
ハゲが間延びした声で言う。その言葉どおりに雲さえつかめそうなほどに高い場所から見下ろす街は素晴らしい、の一言に尽きるだろう。
今まで、ハゲの友達を十五人紹介された。ガリ・ブタ・爪楊枝・チビ・ペンギン・ウナギ・犬・メガネ・オウム・出目金・カエル・サル・ツノ・アフロ・クレーターと、全てに心の中で名前をつけた。彼らの顔からは笑いが耐えることなく溢れ出していた。見習いたいと思った。
頭上には真っ青な空があって、綿菓子のように白くて柔らかそうで甘そうな雲、眼科には活気の塊みたいな街。その全てがとてつもないパワーを秘めていて、心の中に充満するモヤなんて三秒で吹き飛ばしてしまった。
力強い風が吹く。
大の字になってその風を全身で受け止めて、頭上の空をにらみつける。
「もう死んだっていいですね」
ハゲが鼻の頭を掻いて笑った。
もう一方の手で上からノブレスの頭を押さえつけてグシャグシャとなでる。
「悩みは消えたか?」
間髪いれずに
「はい」
間髪いれずに
「元気になったか」
間髪いれずに
「はい!」
間髪いれずに
「負けないか?」
間髪いれずに
「はい!!」
また風が凪ぐ。すがすがしい風が前髪をなでるがハゲの頭には髪は無いのだ。
ハゲのどでかい手のひらがノブレスのちっこい背中をぶったたいて、ノブレスは前につんのめる。
振り向いたときにはハゲは安物のTシャツの背を向けて遠ざかっていく。
ハゲの声は野太くって、距離を置いても風には負けない。
「お前がしっかりやんなきゃ俺のサイフがあぶねぇんだからな!」
そういってその背中は下り階段に消えていった。
吹き付ける風には砂が混じっている。その不純物には負けないで、澄んだ景色を量目に焼き付け、ポケットに突っ込んでいたワシの木彫りを取り出して天にかざした。
不自然なまでのリアルが青い空と強い風と黄金の太陽を身にまとって雄雄しく羽ばたいた。ワシの足の裏には『レイヴン御用達』の文字が彫ってある。
「おぉーい」
追い風にかき消されそうな、それでも精一杯な黄色い声が近づいてくる。知ってる声を振り返って、晴れやかな気持ちをそのまま返事にした。
「おぉーーーい!」
走りよってくる人影は叫んだノブレスを見て、きょとんとした様に一度立ち止まる。迷うような顔が見えたが、その色も満面の笑みに塗りつぶされていく。
「おぉぉーーーーーーーい!」
更に叫んで晴れやかな顔で走り出す。駆け寄ってくるシーラのメガネも髪も跳ねている。跳ねた髪を風が巻き上げてしならせて広がって、落ちていく。
彼女はノブレスの下に来たときにはもう息も絶え絶えでいる。何か言いたそうな顔をしていたが、結局何も言ってこなかった。
シーラはうれしく思う。ここ最近うじうじするばかりで笑い声のひとつも寄越さないノブレスが心から楽しそうな顔をしているのをうれしく思う。
だから、息も整ってないうちに笑い出して、つられてノブレスも笑い出す。
ひとしきり笑ってから、ハンカチーフで涙を拭った。
「行こう、まだ買い物終わってないんだから」
向ける笑顔が返事である。
とりあえずは進むために、引いては自分自身のために二人とも同じ速さで歩いた。
誰かが階段を上ってくる。
上ってくるのは女で、フードを目深に被っている。見ているだけでこっちまで熱くなってきそうなカッコウで、シーラに手首をつかまれて歩くノブレスは
擦れ違う直前に、さっき自分がガリからもらったのとおんなじワシを首からぶら下げていることに気付いた。
気付くの事態が難しい。けども、もっと速く気づくべきだったと後悔する。
ノブレスが立ち止まって、行き過ぎたシーラが手を引っ張って立ち止まって、立ち止まったノブリスを振り返るのと、フード女が振り返って、背後に銃を突きつけるのはヒトサンヨンヨンのことである。