「腰を痛めました」
「は」

しゃんと伸びた背筋と、それにしなだれかかるように広がる癖のない長い黒髪。
照れくさいので口にはしないが、密かに私が気に入っている彼女の後姿。
それがどうしたことか、今日に限って猫背気味だ。気になって尋ねてみると、そんな答えが返ってきた。

彼女は私の専属オペレーターだ。とても優秀な才女で、デュアルフェイスの担当でもある。
仕事柄、というか契約上の事情によって、私はこの社に顔を出すことが多い。
トップランカー待遇と言うべきか、専用のオフィスまで備えられている。
私を除けば事務員が彼女一人というのも、少し寂しい気もするが。

これはそんなオフィスの、とある一幕である。

「こう、ダンボールを持ち上げた時に。びきっと」
「あー…なるほどな。ぎっくり腰?」
「いえ、そこまででは。そんなことになったら、会社にも来れませんから」

それもそうかと頷いて、ばつが悪そうに腰をさする彼女の顔を眺める。
見慣れたと言うのもどうかと思うが、例によって機嫌の悪そうな表情。ふてくされているようにも見える。
所在無くそのまま突っ立っていると、「あ」と言って顔を上げた彼女と目が合った。

「ジノーヴィー。今日は確か、依頼の予定などは入っていませんでしたよね?」
「ああ、その辺は君が管理している通りだが。緊急の依頼さえ入らなければな」

高級取りな反面、どうにもその日ぐらしな傾向の強い傭兵家業。
トップランカーと言えど、依頼が入らなければそこまでだ。干される心配がないのが幸いか。

さて彼女はというと、そんな私の肩書きを――

「宜しければ、仕事を手伝ってもらえないでしょうか」

おもむろにそこの窓から投げ捨てた。

「……」
「いえ、ですから、お暇ですよね? 私もこの有様なので」
「…ああ」

なるほど、そういう話か。確かにその様子では、ままならない仕事もあるかも知れんな…
いや待て。待ってくれ。そうじゃない、そういう話じゃないだろう。
肩書きにこだわる趣味はない。だが自負はある。そのトップランカーに事務仕事を手伝えと? 

「マジか」
「マジです」

らしくない下品な言葉が私の口をついて出た。
さすがに無茶を言ってると気付いたのか、彼女の言葉遣いも動揺を隠し切れていない。
そして言ってしまった以上、彼女は引くに引けない性格なのを私は知っている。

お互い引き攣った顔を見合わせる。睨み合いと言ってもいい。だが先に視線をそらしたのは私だった。

「私の勝ちですね」
「何がだ」

突っ込むが、しかしこの敗北感はなんなのだろう。
トップランカーに仕事を手伝わせる約束をさせ、あまつさえ敗北感さえ味あわさせるオペレーター。
暴君ここに極まれりである。

「…確認しておきたいのだが。手伝わないと不味いことになる、といった類かね?」
「書類仕事が少々と、力仕事が結構。片付けようとした矢先にやらかしたので、結構な量が残ってますね」
「ぬぅ…」

あえて利己的なことを言うなら、それで私のサポートが滞るのなら確かに問題だ。
勿論それだけじゃなく、彼女の容態も人並みに心配である。
…書類を書けというのは無理だが、力仕事ならまだ何とかなるだろう。

「仕方ない、手伝おう」

後々溜まった仕事を一気に片付けたら、また腰を痛めたという話では困る。
それに、撃ったり壊したり以外で私が役に立つ機会なんてそう無いことだ。
そういうことも、実はちょっと期待していたりする。ほんのちょっとだけ、だが。

背を向けて小さくガッツポーズしている彼女を横目に見ながら、私はそんなことを考えていた。
…単にあれを深く考えたくないだけかも知れない。


さて、どうしたものか。とりあえず置いてある事務用椅子にどっしりと腰掛ける。
車輪が回って、体が僅かに後退した。うーむ、馴染みがなくて落ち着かない。嫌いではないのだが。
私と彼女、向かい合うようにデスクに座る。私の方は普段使われていないらしく、引き出しの中は空だ。

「私はすぐに仕事に取り掛からなくていいのかね?」
「まずは書類の方を片付けたいので。そちらが終わりましたら、改めて説明します」

万年筆を手に、彼女は書類作業に取り掛かる。なるほど、まずは自分の仕事をやりたいということだろう。

落ち着いてから私をこき使った方が、不測の際にも手早く修正が効いて効率がいいという寸法だ。
ようするに私はこの辺に関しては素人であり、彼女の中では私が失敗するのも想定の範囲なのである。

「形無しだな」

一つぼやいて、背もたれに体重をかける。きぃと軋む音を耳元に感じながら、私は天井を見上げた。
本棚とダンボールと機材に囲まれた、たった二人だけのオフィス。
存外、居心地は悪くない。しかしこのままほったらかしにされたら寝てしまいそうだ。
行儀は悪いが椅子をおもちゃにして、軽く体を動かしてやる。ほれ、腰を捻ってストレッチでもしよう。

「…お」

コキコキと関節が鳴った。「おおおおお…」と親父臭い声を上げそうになって、慌てて口をつぐむ。
息を吐いて顔を戻すと、彼女の姿がデスクから消えていた。
はて? と思ったが、なんのことはない、椅子に座ったまま本棚に移動しただけだった。
用のある書類でも捜しているのだろう、ファイルを引っ張り出して右から左にめくっている。
気が済むとそれを戻し、また床を蹴ってデスクに戻ってくる。器用なものだ。

「……」
「なんですか?」
「いや、意外とものぐさなのだなと」
「失礼な。腰が痛いと言ってるではないですか」

心外だ、と言わんばかりのしかめっ面を見せてくれる。まぁ確かにそうなのだが。
ぴったりデスクの位置まで戻って来る精度の高さを見るに、どうもやり慣れている気がしなくもない。
普段からここは一人で回しているのだから、誰にも見られないという気の緩みもあるんじゃないだろうか。

「ほっ」

やはり暇なので、私も真似してみる。

とりあえず窓際まで。床を蹴って、がらがらと音を立てて転がる車輪に身を任せる。
力点が中央からズレていたらしく、背を向けて蹴った体は半回転して正面を向いてしまった。
運良くスピード調整ができていたようで、ちょうど窓の手前で椅子が止まる。
偶然だがパーフェクトである。

「……」

あ、これ面白いかも知れん。

目の前の窓に反射して映っているのは、なんだか大人気ない充実感で半笑いになっているトップランカー。
というか私である。
はっと我に返って振り向くと、同じく半笑いの視線。それもやや呆れ気味なのが。

「ジノーヴィー」
「…すまん」

あまり反省してる気はしない。
彼女もそれ以上なにも言うつもりはないのか、視線を戻して机に向き直った。
が、良く見ると頬がひくひくと動いていたりする。
むしろ喋ったら何か噴き出しそうなのでとっとと切り上げたといった様子だ。

なんだか急に恥ずかしくなってきたので、今度は彼女目掛けて椅子を蹴り出した。
狙うラインは彼女が座る椅子のやや後方。えぐるような角度で飛び込み、そのまま背もたれを引っ掴む。
「え」と一声だけ零した彼女を、そのまま適度な力加減と私自身の慣性で放り投げた。

「でいやー!」

ボーリングの要領である。
さすがに女性とはいえ人一人載せているだけあって、椅子はゆっくりと滑っていく。
よほどリアクションに困っているのか、それでも彼女は微動だにしない。万年筆も持ったままだ。

とうとう固まったまま、向こうの壁まで行ってしまった。ごん、と鈍い音と共にようやく止まる。

「……」
「……」

勢い余って何か取り返しのつかないことをやってしまったような気がしてならない。
ようやく冷静さを取り戻した頭で思い直す…って、そうだ彼女は腰を痛めてるんじゃないか。
元はと言えばそれでここに居るというのに、えらい忘れようである。

「…その、だな」

調子に乗りすぎましたごめんなさいと言おうとしたのだが。
彼女は振り向き、万年筆を胸のポケットに収めてから――

「竜○旋風脚!」
「ぐお!? 他社ネタを堂々と!」

さっきの倍の勢いで突っ込んで来た。
移動速度を維持したまま、回転速度を上げて蹴りに相乗させる高等テクである。

そのまま私達は仕事そっちのけで、小学生のようなドッグファイトを繰り広げるのであった。

年甲斐もなく展開されたオーバード・チェア略してOC戦は熾烈を極めた。


成り行きから逃げに徹さざるを得ない私もだんだんこれはこれで楽しくなっており、
思わず「ワハハハハハ、私を超えてみろ!」と叫ぼうとしたその時、
誤ってオフィスの扉から廊下に飛び出してしまい、向かいの階段から転げ落ちたところで終結を見た。

なんだなんだと騒音を聞きつけて他の部署から集まる社員達に、
「いやすまない、椅子を運んでいたら落としてしまってね」と答えながら
何事もなかったかのように階段を登る私の表情は、明らかに白々しかったと思われる。

精一杯の尊厳と見栄を顔に貼り付け、ふら付く足でオフィスに戻った私が今なにをしてるのかというと、
力仕事でもなんでもなく、彼女の椅子として床に肘と膝を打ち付けさせられていた。
…物理的に尻に敷かれている。

「…君はそういう趣味かね」
「いえ、いたってノーマルです」
「じゃあもうやめて欲しいんだが」
「すみません、今の私の顔はとても人に見せられるものじゃないので」
「…ああ」

つまり、必死で笑いを堪えている顔を見られたくないと。
さっきはまだ抑えられたが、今度はもう視線も合わせられないレベルで。
…まぁ、怒気を含んだ様子はない。ひとまずそれは良しとする。
だがこれではなんとなく割に合わないので、せめてものの抵抗を試みる。

「さて、視線を合わせたまま何かを叫んでいる私が
 凄い勢いで部屋を飛び出し階段の下に消えていくさまはどうだったかね」
「ぶふっ……くく……ふっ…」
「しかも椅子に乗ったまま回転運動しながら」
「ほっ、ほんとやめてください! ほんっとやめてください!」

肘掛けを左右交互に殴りつけるように、ボスボスと私の肩と腰を叩いてくる。
割と切実なようだが、この体格差ではマッサージも同然だ。
疲れたのか何度も深呼吸を繰り返し、それでも足りないようで再三せきをして仕切り直し、
ようやく彼女は喋り始めた。

「…あなたがこんなに茶目っ気のある人だとは思っていませんでした」
「まぁ、普段は肩書きに相応しい振る舞いを求められているからね」

威厳やら、風格やら。ようするにこの世界、舐められてはいかんのである。
求められるだけに限らず、自分からそういうのを必要とする場面も決して少なくない。
それは私自身の面子のためでもあり、大袈裟に言えば社会のためでもある。
腕っ節が強いだけで教養のない人間が王座についているのでは示しがつかないという風潮と方針。

それが悪いとは思わないし、むしろ正しいとすら言えるだろう。至極真っ当な話だ。
それでも。それでもどこかで、ガス抜きしたくなる時があるのである。
本当はきっと向いてないのだ。トップランカーなんてものには。

「なぁ」

やっと落ち着きを取り戻した彼女に声をかける。
書面に筆を走らせる音を途切れさせないまま、彼女は穏やかに応えた。

「はい?」
「好きだぞ」
「――――」

その場の勢いで言ってしまおう。
置いたのか取りこぼしたのか、デスクに万年筆が転がる音。
文字通り尻に敷かれた情けない姿だが、悪くないと思ってしまうのはキザが過ぎるだろうか。

「実際、こんな風に振舞える相手など、そう滅多にいないんだ」
「は、はぁ、それは、その、パートナー冥利に尽きるというか、恐縮で、えーと」
「とても貴重なことだ。仕事のパートナーとして以上に、君のことを思っている」
「あ、あの、ちょっと、ちょっと待ってください、心の準備が、ストッ…」
「いや、聞いてくれ」

そりゃ、私だって照れてるのだ。こんなことは学生の時に予習でもしておくんだった。
どんな風に言えば安っぽくならないのかと頭の片隅で考えつつ、
結局そんなことができるほどの語彙も経験もない。とどのつまり、私には直球を投げる他にないのだ。

目線が合うような場所にいる訳でもないのに、私はそっぽを向きながら呟いた。

「許してくれるのなら、これからもずっと私を支えてくれないか。大切な、友人として」

ガン、と予想もしていなかった派手な音がした。デスクに頭をぶつけたらしい。
万年筆が転がり落ちて、私の目の前をかすめて行った。

「な、何か気に障ったかね? すまない、こういうのは慣れてないんだ…」
「ジノーヴィー…」

机に伏せたままなのであろう、くぐもった声で私の名が呼ばれる。
泣いているようにも怒っているようにも聞こえるし、地獄の底から響いているような気もする。
不味い。非常に不味い。一世一代、掛け値なしの告白は、どうやら彼女の逆鱗に触れてしまったようだ。

それにしても何がいけなかったのだろう…ちょっと女々しかったか?
いやしかし、これは私の偽らざる気持ちだからして、あまり口だけというか見栄を張るのも…

「ちょっと前から言おうと思っていたんですが、あなた『天然』ですよね」


四つん這いになっていなければ頭を抱えていただろう私に、何かを諦めたような口調で彼女が話しかける。

「…いきなり何を言うのかね」
「それを直さない限り、あなたとはお友達になれません。
 いやむしろ、直したのなら尚更お友達ではやっていけません」

ひとまず怒鳴られなかったことに安堵しつつ、今度は意味深なことを言われて混乱してしまう。
え、と、なんだ? 直さないと友人にはなれないのに、直したら友人ではやっていけない? どういう…?

「な、なんでかね! 友達少ないってのは結構寂しいんだぞ! 実はちょっと気にしてるんだぞ!?」
「知ったこっちゃありません!
 寂しい思いをしてるのは私の方ですよこの朴念仁頂上決戦トップランカー!
 もう、ほんとに、今のは不問にしてあげますから、仕事が終わるまでちょっと黙っててください!」

声を裏返して叫ぶ彼女に気圧されて、
それから約一時間もの間、私はクレスト製の物言わぬ椅子と化していた。


「やっと終わりました…」
「…もう喋って良いかね」
「はい、結構です。お待たせしました」

喋るより先に、まずは溜息をついた。自分自身、別にお喋りな方だとは思っていないが、
姿勢を正す度にふくよかな感触を擦り付けられているのでは気も紛らわせられない。
微妙に汗ばんだ手を早く拭いたいと思いつつ、ともあれ次は何をするのか聞いてみることにした。

「じゃあ、とりあえず椅子まで運んで頂けませんか」

もはや文句も出ない。観念するしないではなく、飼い慣らされてしまっている。
腰掛ける彼女をゆらゆらと揺らしながら、そこら辺にとっ散らかっている椅子まで移動する。
彼女は首をぐりぐり回しながら、小さく唸り声を上げていた。釣られて少し重心を崩す。

「馬車馬のように働くとはいうが、まさか本当に馬のように働くとは思わなんだ」
「扱いづらさは馬というよりむしろ何かの未確認動物のようでしたよ」
「UMAかね」

それはウマじゃなくてユーマと読むんだ、知ってます、なんて軽口を叩き合いながら、
椅子に並んで背の位置を腰掛けられる高さにまで合わせてやる。
足を引いてスライドするように彼女が椅子に収まったのを確認してから、私も立ち上がった。

「少し休憩しますか?」
「いや、思ったより疲れてないな。それを言うなら君の方こそ」

四肢で体重が分散したみたいだ。軽く手と膝をはらうだけですぐに動けるようになった。
少なくとも肩車をするよりかは断然楽だろう。する機会があるとも思えんが。

「いえ、これから疲れるのはジノーヴィーの方ですし。私は結構です」

ふむ、そういうものか。
まぁ確かに書類はこれで全部片付いたのだから、ここから先彼女の仕事は指示が主になる。
よほど私が余計な仕事を増やさない限り、体力が持たないということはないだろう。
…そう思うとなんだか不安になってきた。本当に大丈夫だろうか。

「ではまず、そのダンボールから」


部屋の一角を指差される。見ると、何やら埃っぽいダンボールが置いてあった。
こうなると分かっていたのなら、軍手でも持ってくれば良かった。
いや、あるのなら彼女専用の椅子になっていた時から使っていたのだが。

「運ぶのかね? 開けるのかね?」
「ひとまずこちらに」

言われた通りにダンボールを持ち上げる。なるほど、これは重い。腰を痛める訳である。
カニ歩きになって彼女の元までダンボールを運ぶ。デスクに乗せようかとも考えたが、
床に放り出していたものをデスクに乗せるのもどうだろうと思い直して、足元に置いた。

「中には用紙が詰められています。幾つかは私のデスクに。残ったものはそちらの本棚の下段に」

ガムテープを引っぺがし、蓋を開ける。中には用紙の束がビニールに包装され、相当量収められていた。
幾つかを手に取って、彼女に渡す。この辺は適当でいいらしい。
十数冊ほどデスクの引き出しに入れたところで、後は本棚に入れるよう改めて指示された。
今度はダンボールを本棚までずるずると引きずってやる。ちっとも軽くなった気がしない。

「これはあれだな。引越し屋にでもなった気分だ」
「まだ気が早いですよ、ジノーヴィー」

本棚の下段。戸を開けると、中も二段作りになっていた。上段にはファイルが日付順に並べられ、
下段には私が今運んだ用紙と同じものが半分ほど積まれている。
空いた分に、私はまた用紙の束を足してやる。立てかけるのではなく、寝かせて重ねるみたいだ。

もうこれ以上は入らないというところまで詰め込んで、それでもダンボールは空にならなかった。
寂しそうにダンボールに取り残された何冊かの用紙の束は、
彼女のデスクにもう少し余裕を作ってやることで居場所を得た。これでやっと、空のダンボールが一つ。
そのままにしておいても仕方がないので、ホチキスを引き抜いて平らに潰した。

「…もしかして、これをずっと」
「ええ、やってもらいます」

気が早い、と言った彼女の言葉は本当だったようである。
それから先、私は延々とダンボールを開けては中身をしまい、そして本棚毎に片付ける作業を繰り返した。
間中、彼女が口を利いてくれたのは幸いだった。
どこの飯屋が上手い、まとまった時間を作って遊びに行きたい、金にうるさい友人がいる…
そんな普通の話をしながら、私達は時間を紛らわした。仕事をしている自覚など、半分もなかっただろう。

だからこそ、後になって思う。そのまま全て片付けば、どれだけ良かったことか。

「痛っ!」

突然の悲鳴に振り返る。腰を無理な方向にでも捻ったのかと思ったが、どうも様子が違う。
椅子に座ったまま、右足を軽く吊り上げ、手をその先に伸ばしていた。が、痛めた腰では届かない。
足の裏、靴の裏に何かあるらしい。じっと目を凝らして、すぐに顔から血の気が引いていった。

ホチキスが深々と突き刺さっていた。薄くないはずの靴底に頭半分も埋まっている。
画鋲や書類用のホチキスとは訳が違う。ダンボールを組み立てるための特大サイズだ。

「待て、動くなっ」

なんとか自力で抜こうとする彼女を慌てて止める。届かないのはもう分かっていることだ。
よしんば届いたとして、無理な方向から力を加えたのでは目も当てられない。傷口を広げるだけである。

「すみません、やってしまいました…」

痛みと失態から、苦々しい顔を作る。足元に畳んだダンボールが転がっていた。
また床を蹴って移動しようとしたのだろう。その拍子にこれを踏んづけたらしい。

不注意だった。だが、そこに放って置いた私にも非はある。

とにかく、これを抜かなくては。彼女に届かないのだから、私がやる他にない。
そうこうしている間にも、靴の中は出血を起こしているだろう。

「ラジオペンチはあるかね?」

指で引き抜くには握りの長さが足りない。ホチキスの針はがっちりと固定されている。
拳ほどの長さがあればそのまま掴めばいいのだが、これでは摘むのがやっとだ。

「いいえ、このオフィスでは用途がないので…」
「なら、ハサミはどうだ」
「それでしたら」

言って、少し離れたデスクを指差す。鉛筆立てが卓上に置かれていた。
シャーペン、ボールペン、油性マジック、定規に修正液…ハサミ。あった、これだ。
それを取って、刺さっているホチキスを刃で噛む。ラジオペンチの代用品だ。
切り飛ばさないよう力の入れ方に気をつけながら、針を引き抜いた。

「痛ぅ…」

異物が足から取り出された感触がどうにも気色悪いのか、もう一度彼女がうめく。
私はホチキスの針を見やった。したたる血に軽い眩暈を覚えたが、それよりも。

「…錆びてるな」

もしかしてこれは不味いんじゃないだろうか。うろ覚えだが、確か体に良くなかった気がする。
そうでないにせよ、消毒は必要だ。救急箱とか、そういうものは置いてないだろうか。
ホチキスの針をしっかりゴミ箱に捨ててから、それについて尋ねてみる。

「あっ…」
「どうした?」
「そうだった、無くなっていたんでした…」

参った。消毒剤を切らしていたのを失念していたらしい。
彼女らしくもないミスだが、やはりなんだかんだゴタゴタしていたので忘れていたのだろう。
だがいかんせんタイミングが悪すぎる。もし今から買いに行くとして、どのぐらいで帰って来れるか。

「……」
「…舐める、とか」
「……」
「……」

は?

「…ですから。な、なめ、舐める…とか」
「いやいやいやいやいやいや!」

それは、いや、それは、おかしいだろう。足を舐めるってなんの儀式だ。
確かに唾液に殺菌、抗菌の効用があるのは知ってるが、だからと言って、なぁ。
なんかこう、背徳感というか、世間様に顔向けできないというか、社会的地位が危ぶまれるというか。

「…いや、不味いだろう。大体、君はそれでいいのかね」
「私は…」

普通の発想じゃあない。人様に足を舐めさせるとはどんな了見か。
そういう趣味の人も探せば居るかも知れないが、少なくともそれは私じゃないし、彼女でもない、はず。
頼む。冷静になってくれ。今の一言は冗談だし、そんな性癖の持ち主ではない。そうだろう?

「私はその…ジ、ジノーヴィーさえ宜しければ」

なのになんでそういうずるい言い方をするかなぁ君は!

「そういうジノーヴィーこそ! どうなんですか!」
「私か!?」

切り返されるぐらいなら言うんじゃなかった。墓穴とはこのことか。
それでもいちおう真面目に考える。足の出血は現在進行形で悪化しているのだ。化膿してからでは遅い。
錆びたホチキスを思い出す。場所が場所だけに、歩くのも苦痛になるやも知れん。

「……き、君が。それで構わないのなら」

この最低野郎、と他人事なら罵っているところだった。


大前提。他言無用である。それが私達の間で取り決められたルールだった。
椅子に腰掛ける彼女の前にしゃがんで、小指を差し出す。指きりげんまん。
彼女は黙ってそれを見つめている。しばらくして、覚悟ができたのか、息を吸って小指を繋いで来た。

「……ゆっ」
「……」
「ゆーびきーりげーん……」
「……」
「無理です」
「いや、気持ちは分かるが」

ちなみに私は代わってやらない。足を…その、なんだ。
するのは私の方なのだ。これぐらいの譲歩は飲んでもらいたい。

照れが抜け切らないままに、彼女は続きを唱えた。出来る限りの早口で。

「ゆーびきった、と…これでいいですね」
「うむ。では、その…ふつつかもの、だが」
「…優しくしてくださいね」

怪しい会話をしてしまう。なんだこの雰囲気。
もしかしていつか彼女とそんな関係になる日が来るのかなぁ、いやまさかなぁ…などと考えつつ、
私は彼女の靴を脱がして床に置く。

予想できたことだが、靴の中は血で変色していた。じっと見ていてあまり気持ちのいいものではない。
とっととストッキングを脱がそうとして、はたと私は動きを止めた。

「……」
「どうしました、ジノーヴィー?」
「いや…」

つま先を見る。そのまま視線を上げていき、太もものところで止まる。いや、セクハラじゃなくてだな。
えーと、なんと言っただろうか。縁が腰まであるストッキング。
タイトスカートの向こうまで縁が行ってしまっている。これでは脱がすどころではない。

「…パンティーストッキング。パンストです」

私の視線に気付いた彼女が、露骨な仏頂面を作る。
…思わず赤面したくなるようなフルネームだ。決して口にはしまいと心に決めて、話を続ける。

「その…それなんだが。せめて腿の辺りまで下げられないかね?」

このままだと、私はスカートの中に手を突っ込んでストッキングをずり下ろさなければならない。
完全に犯罪だ。変質者トップランカー。そんな不名誉な称号はご免被る。

その意味を察したのだろう、彼女は腰を浮かようとして――

「……でき、ません」

そうなのだ。そもそも腰を痛めているのだからこんなことになっている。中腰にはなれない。
なれたとして、傷口も足の裏にある。片足立ちでは二進も三進もいかないだろう。

完全に手詰まりだった。考え込みながら、彼女の顔を覗き見る。さすがに戦々恐々といった様子である。
無理もない、スカートの中をまさぐられるかも知れないのだ。言ってる私が一番キツい。まさぐる側だし。

「…ハァ」

溜息を一つ。いよいよどうしようもなくなって、私は携帯端末を取り出した。

「あの、何を?」
「ああ、ちょっと。詳しい話は伏せておくから」

こういう時は第三者の意見を仰いだ方が、視野が広くて好ましい。
というのは嘘で、ようするに「私には無理だ、助けてくれ」という話である。
とてもじゃないが人には話せないこの状況を、いかにオブラートに包んで伝えるか考えながら、
私は回線が通じるのを待った。数少ない、親しい同業者だ。

「…もしもし、轟の? ああ、私だ。いや、折り入って相談があってな。そう。
 ちょっと聞きたいんだが、パンストというのはどうやって脱がせば良いのかね? あれ、切れた…」

電波状態でも悪いのだろうか。

「……」
「何かねその『このジノーヴィーは駄目だ』とでも言いたげな目は」
「…もし今後、何かの拍子にクレストが分裂したら、轟は二つ返事であなたの敵に回ると思います」
「ハハハ、そんなことが起こるはずないだろう」

上手い冗談だが、返す笑顔はすぐに萎んだ。頼みの綱が切られたのだ。
いい加減、覚悟を決めるべきなのかも知れない。煮詰まった空気に彼女も焦れ始めた。

「ああ、もう! やるんならとっととやってください! パンストの一枚も脱がせずに何が友達ですか!」
「え、最近の友達ってそういうことするのか!?」
「します!」
「嘘だ!」

絶対嘘だ。いや、知らないけどきっとそうだ。
っていうか、君はもしかしてさっきのをまだ根に持っているのか。

かかって来いと言わんばかりに、彼女が私を促す。

「…いまさら文句は言いません。どうぞ、お好きなように」


その信頼がちょっとだけこそばゆい。なまじやることが後ろめたいだけに。
しかしまぁここまで言わせといて、私の方がしりごみしているのでは少々立つ瀬がない。
意を決して、彼女の膝に手を置いた。化学繊維の感触と、ストッキング越しの肌の温もり。

変に力が入りそうだった。勤めて意識しないようにしながら、指をスカートの内に挿し込もうとする、のだが。

「すまん、もう一個だけ注文したい」
「まだ何か…」
「ベルトを緩めてくれ。手が入らないんだ」
「……」

何も言わず、ベルトとスカートのホックを外してくれた。
がちゃりと音を立てて置かれたベルトに心臓が跳ねる。正直、くらっと来た。
理由はどうあれ、目の前で女性が身に纏っているものを脱ぎ捨てているのだ。
それも遠巻きではなく、まさに目と鼻の先で。

背中にじっとりと汗の感触。堪らず、位置関係で言えば頭上にいる彼女の顔を仰ぎ見る。
つまらなそうに、極力つまらなそうに表情を抑えて、彼女の視線が返ってきた。

「…怒られた犬のような顔をしていますよ」

申し開きもない。いっそ、犬だったらどれだけ楽なことか。

「大丈夫ですよ。怒りませんから」

見かねたらしく、フォローを入れてくれた。言質という訳ではないが、思わずほっとしてしまう。
…では、いざ。ストッキングとスカートの隙間に、両手を差し込んだ。
更に、押し込む。彼女の腰の辺りまで手が届く。緊張で筋肉が強張る気配と、それでも柔らかい手応え。
どうにかなってしまいそうだった。だが、怪我をした彼女に下手をやらかすのは、何かに付け入るようで避けたかった。

縁らしきものに触れる。掴んで、降ろそうとする。

「…まさかストッキングの下まで掴んでないよな、私は?」
「……」

「…もしもし?」
「あ、え? あ、はい。大丈夫、です」

反応が鈍い。まぁ致し方ないと思う。とやかく言わずに、ストッキングを引いた。
大した抵抗もなく、するりと肌を滑り落ちていく。
ふと、肩に両手を置かれた。腰を少し持ち上げたいのだろう。手を引き続けると、合わせて彼女が腰を浮かす。
肩に乗る体重と力が強くなる。体の弧に添って、タイトスカートの下までストッキングを降ろした。
とりあえず、一段落。山の折り返しと言ったところか。

「……」

肩から手が離れる。彼女は眼鏡越しに、その触れた手をぼぅと見つめていた。

「だ、大丈夫かね? 何かさっきから様子がおかしいが…」
「い、いえ…続けてください…」

言ってもきっとやぶ蛇だったので言わなかったが、彼女の顔は猛烈に赤かった。
もう一つの言わなかった理由は、恐らく私も似たようなことになっているからだ。

それはともかく、どうしたものかと脱がしたストッキングを横目で見る。
正面から見るとなんだか凝視しているような絵面になるのでやめておいた。
まさか床に置く訳にもいかないし、かといってこういうものをデスクの上に乗せてしまうのもどうか。

「…あー」
「…い、いいです。床に置いてください。また履き直すものでもないですから」
「そ、そうか」

助け舟を出してもらったので、その通りにする。丸めて床に置いた。
生暖かいものが指に残っているような気がした。ばつが悪いので、一つ咳払いをする。

…続いて、彼女の右足を掴む。素足。血の通った人の体。暖かい。
足の指がぎゅっと強張った。これからまさかこれに口付けるかと思うと、頭がふらつくほど気が遠くなる。
多少、時間稼ぎをしたいという腹もあって、私は傷口の様子を見やった。

「…やる前に何かと時間を喰ったせいか、もう出血が収まりかけてるな」
「…多分、どっちかというと私の頭に血が上っているからでは…」
「いや、すまん、許してくれと言って許されるような事をしているのではないことは重々承知しているのだが…」
「そ、そういうことではなく…そっちの頭に血ではなく……ま、まぁ、いいです」

ほぼ出血自体は止まっていたし、大よその付着した血痕もストッキングに持っていかれていた。
それでも圧迫されて流れ出た血が、こびり付くように傷口から広がっている。
嫌だなぁと、素直に思った。例え怪我でも、仕事以外でこういうのは極力見たくない。

ふと我に返った。
この、少し彼女に対して過保護だったかも知れない私の行いは、そういうのが理由の根っこにあったのだろうか。

もう暫く、頭を巡らせていたかったが、また彼女を待たせても悪いと思ったので、無理やり考えを打ち切った。
ただ。彼女は私のパートナーだし、本当のところ、パートナーとして以上に想っている。
たった一人で、物置きのように狭くて、だけど広い、殺風景なこの部屋で、懸命に私のために働いてくれている。
その彼女を労わってやりたいという気持ちは本当だと、私は思っている。

そう自覚してしまえば、やっぱり勇気は必要だったが、自分を納得させるだけの動機にはなった。
もう一度だけ、彼女の顔を見る。手を頬にやって俯いていた彼女は、私と目を合わし、すぐに逸らした。
拒絶の言葉は出て来なかった。

「…あ」

口付けた。どこに視線を置いて良いのか分からなかったので、目を瞑って、舌の感触に集中することにした。
肌に穴の開いた痕。小さいが、この時ばかりは手に取るように分かった。

少し血を出してやりたいので、肌を軽く噛む。驚いたのか、くすぐったいのか、彼女の足がぴんと張った。

「きゅっ」

声が漏れた、とはこういうことを言うのだろう。まさに、喉の奥から絞り出すような声がした。
眼を開けて少し上を向くと、今度は手で頬ではなく顔全体を覆っていた。
が、指の隙間から私を見ている。また目が合う。隙間がぱっと閉じて、いやいやと首を振った。

…可愛い。

未だかつて見たことのないパートナーの様子を前に、なんだか気前が良くなってきた。
もう何度か、意地悪な刺激を与える。その都度、律儀に彼女はいじらしい反応を返す。
なんだかいつまでもやっていたくなってしまうが、最初の目的を思い出すとそうもいかない。
血を吸い出すと、頃合いを見計らって口を離した。途端、彼女が私の方に倒れ込んで来た。

「お、おおっ?」
「ジノーヴィー…」

感極まったような声。少し前、彼女が手を置いていた私の肩に、今度は頭を預けられた。
そのままぐったりと私に体重をかけて来たので、思わず受け止めてしまう。

「こ、これ、腰に悪いぞ」

もう少し気の効いたことでも言えば良かったのかも知れないが、気が動転してそんなことしか言えなかった。
…これは抱きつかれているのだろうか?
それともさっき椅子代わりにされていた時のように、顔を見られたくないのだろうか。
口元を雑に拭っていると、色んなものが混ざった声で、彼女が口を開いた。

「駄目。もう、駄目。無理。ジノーヴィーの馬鹿」
「ば、馬鹿とは何かね…」

「分かってない、全然分かってない…」
「……」

何か答えようとしたが、何を口にしても、凄く野暮になってしまうような気がした。
だが、彼女をして馬鹿とまで言われてしまうと、なんだか私が悪い事をしたんだな、という風には感じた。

「…すまん」
「馬鹿。馬鹿。トップランカーなんて嘘。ただの馬鹿」
「…すまなかった」
「…分かってない癖に」
「それも含めて、その、すまなかった」
「許してなんかあげません…」

一度、力なく胸を叩かれた。その手が首に回されて、控え目に私を捕らえる。
どうすることもできないまま、私はずっと平謝りするしかなかった。

外気は涼しかった。
あの後、作業に戻れるような空気でもなく、彼女の傷口に絆創膏を張っただけで切り上げることになった。
一連の大騒ぎは何故か私のせいにされ、お詫びに明日以降も引き続き彼女を手伝う羽目になった。
…確かに作業の遅れを取り戻すという名目の上では断れないのだが、どうも策謀めいたものを感じてならない。

ビルの外に出る。もう、夜だった。街灯と窓の明かりが路上を照らしている。
彼女は相変わらず腰の件でぎこちない歩き方をしているが、足の怪我自体は特に不便という程でもないらしい。
ただ、ストッキングを脱いだせいか、足が肌寒そうなのが少し気になった。

「…落ち着いたかね?」
「…まぁ」

いつもの不機嫌顔に戻った彼女。
良いと言えたものではないが、あまりさっきのような顔ばかりされても困るかも知れない。
ああなってしまうと、私はたじたじになってしまう他にないのだ。

振り返ると、人気。ビルの中で、まだ働いている人達。
ガラス越しにちらりと私のことを珍しそうな目で見る視線。すぐに視線はそらされ、また職務に戻っていく。
私としては、いいと言うことも、悪いと言うこともない。

「ジノーヴィー?」

彼女に呼ばれた。私の横で、どうかしたのかという顔をしている。

「……」

上を向くと、高層ビル群に囲まれているような気がした。
首を戻すと、見知らぬ通行人が目の前を通っていく。時間帯は遅いはずだが、まだまだ人の姿は多い。
無数の無関係な人生が、僅かに掠めては通り過ぎていく。
その中に、私と彼女がいる。繋がりを持って佇んでいる。
それが彼女にとって、あるいは私にとって凄く自然なことであるということが、なんだか嬉しかった。

「…なぁ」
「はい?」
「…飲みに行かないか?」

私は笑った。今日は、色々あった。
それでも、彼女といるのは楽しいと思えたのが、何よりの収穫だった。


「え、え」
「奢るぞ?」
「いいのですか?」
「ああ。今まで、なんだかんだとそういう機会はなかったからな」
「…パートナーとして?」
「…意地の悪いことを言わないでくれ。それで、どうする?」
「い、行きますっ」

歩き出し、人の流れに入っていく。高層ビル群が遠ざかっていく。

…こんな仕事に就いておいて。この歳にもなって。
私は恋をしたのかも知れない。

まぁ、当分は片思いだろう。


「…ジノーヴィー」
「うん?」
「実は、もしかしたら、その、私。酒癖、悪いかも知れません」
「そうか? いや、まぁ限度はあるだろうが、今日はああいう事があった訳だからな」
「はぁ」
「今日ぐらいはいいんじゃないか」
「そ、そうですか…では、あの、先に謝っておきたいのですが」
「ふむ」
「酒の勢いで鈍感とか朴念仁とか意気地なしとか根性なしとかヘタレとか言っても、忘れてくださいね?」
「…なぁ、やっぱり飲みに行くのやめないか」

その後きっちり飲み屋に連れ込まれた私は、説教という形で盛大にストレスのはけ口にされた。





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