目覚めたアリスが最初に見たものは、白塗りの天井の中央で回転する換気扇のファンだった。続いて吸い込んでも鼻や喉に違和感を覚えない空気を心地よく思い、かすかに漂う花の香りに意識が行った。

 

 彼は病室のベッドに横たわっていた。セッツたちと出会う前の無茶をおしていた時代に何度も運び込まれたことがあるので、考えるまでもなく共同ガレージに備え付けられている医務室と把握できた。

 

 ベッドは二つしか置いておらず、昼と夜、そして休日を確保するために最低でも四人か五人必要な担当医も三人しか配備されていない、実に簡素な設備ではあるが、生傷の絶えない職業柄、利用者は非常に多い。もっとも収容人数の問題から、そうそう長居が許されるわけではないのだが。

 

 アリスは身を起こして周囲を見渡した。すると、足元で身を屈めてパイプ椅子など弄っている不審な人影が目に付いた。

 

「何やってるんですか・・・?」

 

 人影はグリスを片手に椅子を磨いていた。病室まで来て、ここまで無駄なのも珍しい仕事に没頭する奇人は、アリスの知る中では一人しかいない。セッツ・ルークスカイである。

 

 彼はアリスが目覚めたのを気配で感じ取っていたのか、そちらを振り向こうともせずに椅子磨きを続けながら口を開いた。

 

「ギシギシ音が鳴るのが気になったから、ブルーバードから油持ってきた。手入れくらいしろってんだ」

 

「そういう問題じゃ・・・いや、良いです」

 

 戦闘時における冷酷なまでに的確で迅速な判断を下す姿に比べ、日常における人間的過ぎて反対に人間味を感じさせないセッツの振る舞いを、アリスは見慣れていたので、咎めることはしなかった。

 

 聞くと、セッツは四時間ほどこの部屋に滞在していたらしい。四時間とは、ブリュンヒルデが墜落した衝撃でアリスが気を失っていた時間である。つまりセッツはアリスを倒したその足で彼を医務室まで運び、目が覚めるまで看病を続けたということだ。

 

「スミカに言われたんでね」

 

 と、例の煙の出ないパイプなど咥えながら嘯くが、それが照れ隠しの言い訳なのは明白である。普通、旧知の仲とは言え護衛と刺客として対峙し、命を奪い合う関係となった相手をわざわざ救い出し、面倒を見るような酔狂な人間などそうはいない。真っ当なレイヴンであるスミカならば尚更だ。

 

 そのような余裕を見せることが出来るのは余程の変わり者、具体的には一分であれ過去の諍いを忘れる刹那の快楽主義者か、殺し合いすら袂を分かつ理由にならない命のやり取りに手馴れた殺人者で、そうでなければ並のACでは問題にすらしない強者くらいのものだろう。

 

 そして、セッツはその全てに当てはまる。だから彼に限っては、これも何ら不思議な行動ではなく、彼自身の選択に他ならないのである。

 

「下手すりゃ明日までかかるかとも思ったがな、起きたなら話は早い。とっとと用件を済ませるぞ」

 

 そう言ってセッツは事後処理の説明に入った。

 

 まずブリュンヒルデはアリスが借り受けているガレージに返され修理中であること。破損は脚部と本体の一部に留まったので、大した費用はかからないし、ネストが斡旋した依頼の中で起きた事故なのでほとんどを保険で賄える。セッツ曰く、丸腰に近い装備で出てきたことが幸運だったらしく、目標に護衛がついていたことが誤算であったという証明となったし、もし本来の武装であればセッツも被害を最小に抑えるような手間をかけず、全力で落としにかかっていた。そうなれば修理費用は数倍に跳ね上がっていただろうし、第一にアリスに命の保証はなかっただろう。

 

 続いてプログテックとの契約について。事情が事情なので、同社とアリスの関係は修復不能なほどに決壊したと言って間違いない。ただし正式な形式に則った契約解除ではないため、違約金を初めとした裁判沙汰に発展する恐れはなく、後日代理人を立てた契約の破棄を改めて行うことになった。詳細についてはプログテック側が手配する話になっているので、アリスは後に承認の意を示すだけで良いと言う。なお、プログテック側は反ネストを貫いているだけあり、こうしたトラブルには慣れているようで、一方的な契約違反が原因であっても無茶な要求を突きつけるような意志は持っていないらしく、代理人も信用して良いとセッツは説明した。

 

「ありがとうございます。何から何まで」

 

 アリスはセッツの目を見据え、軽い笑みなど浮かべながら礼の言葉を口にした。それがあまりに純粋で真っ直ぐな様子だったので、セッツは軽く舌打ちなどしながら、頭を掻きつつ視線を逸らす。

 

「ま、元をただせば反ネスト派と契約させた俺の責任だからな。尻拭いくらいやってやら」

 

 セッツが珍しくよそよそしい態度を取ったのは、これがまさしく本心だったからだ。アリスがレイヴンとして自立できるよう世話を焼いたのは、義務でも義理でもなく、セッツ自身の気紛れに他ならない。本人がどう受け止めているのかはさておき、結果としてそれはアリスとネストの確執を招き、危うく裏切り者の烙印を押させてしまうところだった。

 

 嘘と裏切りがレイヴンの常とはいえ、それは独立した腕利きにのみ適用される理屈である。アリスのように未熟で、大きな力に依らなければ成立しない立場にある者が、不相応に大々的な契約破棄を行えば報復を受けて消されるか、生き延びたとしても孤立を招きやがて静かに葬られる。

 

 今回を例に挙げるならば、もしエラン・キュービス抹殺が成功していれば、彼に直接依頼を送る企業はなくなっていただろう。名の知られたレイヴンならばともかく、彼のように無名の立場では、企業は依頼を送る前に素性を調べ上げるのが常で、その折にこの一件は必ず明らかにされる。そして、それを覆す価値をアリスは持っていないので依頼は取り下げられる。悪評はそれを返上する機会すら奪うのだ。アリスに届く仕事はネストから斡旋される簡単な依頼のみとなり、彼はネストの傀儡として生涯を捧げることになるだろう。おそらくは、ネスト、そしてラナ・ニールセンの狙い通りに。

 

 そうなれば、アリスの最終目標であるナインボールの打倒は永遠に果たされなくなる。セッツを初め、ごく一部の反ネスト派のみが知るナインボールの正体を考えれば、ネストに操られている限り絶対にその背中を捉えることはあたわないのである。

 

 アリスの未来を示す気紛れが、未来そのものを摘み取ってしまうなど笑い話にもならない。これは間違いなくセッツの起こした過失なのだ。

 

「悪かったな」

 

 だから、セッツは謝った。その一言から、アリスがどれだけ真意を汲み取ってくれるかはわからない。だが、自由を与えておきながら最後に高みより突き落とすような真似は、彼に取って悪夢にも等しい忌事であり、拭いきれない罪悪感が謝罪をさせずにはいられなかった。

 

「構いません」

 

 アリスは笑った。

 

「セッツさんは、一番正しい判断をしたはずです」

 

 セッツは目線を逸らしたままふん、と重い息をついた。正しい判断とは、セッツがアリスに依頼の受諾を勧めておきながら、一方でプログテックと連絡を取り、エランの護衛を願い出たことだろう。ネストと仲違いする体力を持たず、悪名を背負う力を持たないアリスを救うには、第三者が任務を力ずくで阻止する他に方法はなかった。それは確かな事実であり、アリスは理解を示している。

 

 セッツの表情を曇らせたのは、アリスの少年そのものといった若々しい笑顔だ。あまりに邪気を感じさせない瞳には、セッツが危うく仕掛けそうになった罠を映していない。事実の裏に潜む闇に気付いていないのである。

 

 二人はそれからもしばらく話を続け、やがて都合の良いところで、

 

「じゃ、そろそろ行くわ。災難だったな」

 

 と、セッツは別れを切り出した。泊まりがけになる可能性も考慮していたし、急ぐ理由などなかったが、長居する理由もまた彼は持っていなかった。

 

 セッツはこれを機にアリスとの接触を断とうと考えていた。自分といる限りアリスは助力を仰いでくるし、セッツは答えてしまう。しかしアリスがナインボールを捉えることはないだろう。ソレと向き合うには、彼は非才の身であり力不足に過ぎる。無謀に希望を抱かせ続けるのは、死の宣告以上に残酷な行為だ。このまま放っておけば、今回は未遂に終わった悲劇が、それ以上の形を取っていずれアリスに降りかかる。

 

 押しかけられては困るのでガレージを移動しなければならないのは面倒だが、人付き合いを避けて拠点を移すのは彼にとって珍しいことではない。一生遊んで暮らせるだけの資金は持ち合わせているのだから、目立たないように生活していれば良いだけだ。もっとも、レイヴンを生涯の稼業と定めている彼に取って、注目を浴びない人生など縁の遠い話ではあるが。

 

「何か言い残しはあるか?」

 

 自ら磨き上げた椅子から立ち上がり、出入口の方へ足を進めながら、最後のつもりでセッツは尋ねた。先述の通り、彼はアリスの目に映っているものが今回の一件に限られていると踏んでいたので、返ってくる言葉もその範疇にあると推測していた。

 

「そうですね」

 

 だから、振り返ったセッツはぎょっとした。ベッドの上にいるアリスの笑顔は、それまでの子供っぽい表情から一変し、下唇を噛みながらその両端を吊り上げ、上目遣いでセッツを見つめる、直視すれば心の奥まで見透かされそうな、邪悪を感じさせる代物に変貌していたのだ。

 

「一つ、お願いしても良いでしょうか?」

 

 いや、直視しなくともその両目はセッツの心に浮かんだ罪悪感を捉えていた。

 

 アリスがセッツに頼み事の類を告げるのは、一年以上の付き合いでもこれが初めてである。それだけにセッツはにべなく断ることも出来ずに、内容を聞くことになった。アリスは、一度だけ使える「お願い」する機会を徹底的に温存し、まさに最後の別れとなるところだったこのタイミングで使用して見せたのだ。

 

 セッツはやれやれとばかりに元いた席へと戻り、アリスの話を聞くことにした。この新米とは長い付き合いになりそうだと、彼は一年が経った今、初めて思う。

 

 そして、満を持して本性を露にしたアリスは言った。

 

「セッツさん、貴方にナインボールを誘き出してもらいたい」

 

 

「どうやって知った?」

 

 アリスの頼みに回答する前に、セッツは一つ問いを発した。

 

 アリスの告げた願いは「ナインボールを誘き出す」である。「倒す」でも「探す」でもなく「誘き出す」、ここには明確な違いが生じる。彼は、セッツが囮として機能する理由を知っている、つまりはナインボールの目的を知っていると言ったのだ。

 

 だから、セッツの尋ねた「どうやって知った?」の目的語は、ナインボールの正体に他ならない。アリスは例の邪悪な眼差しでその意図を見抜き、的確に答えを返した。

 

「アンバークラウンです。とは言っても、ナインボールに関する事項はネストを初め、どの組織でもトップシークレットに属されているので、僕の立場で情報を仕入れることは出来ませんでした」

 

 アリスは眉間にぐっと力を込めてセッツを見つめ、「でも」と続けた。

 

「セッツさん、貴方は違います」

 

 そこでセッツは相手の言わんとしていることを察し、なるほどと頷いて相槌を打った。アリスは待望の瞬間がやってきた興奮に目を輝かせながら、力強く言葉を綴る。

 

「スミカさんは、以前にアンバークラウンが送った依頼で貴方と知り合ったと言っていました。さらに、彼女は僕と接触する前に僕の過去を調べていました。なら、同じように貴方と接触した際にも過去を調べているかもしれない。そしてナインブレイカーである貴方の過去には、ナインボールに関する情報が隠されているかもしれないと、僕は考えました」

 

 セッツは初めて目の当たりにする、真剣そのもののアリスを面白そうに眺めながら、先を促した。

 

「情報を取り出すのに苦労はありませんでした。ナインボールには絶対に手を出そうとしなかったデータバンクの人間も、セッツ・ルークスカイの情報なら、それもアンバークラウンが所蔵しているという限定された条件なら、多少のお金で簡単に引き受けてくれましたので。

 

「俺は、アイツと違って嗅ぎまわっている奴を始末したりしないからな」

 

「データには貴方の経歴が具に記されていました。そして貴方は確かにナインボールと戦い、破っていた!」

 

 興奮したアリスの耳には、セッツの声も届いていなかった。

 

「ナインボールが今でも活動している以上、貴方がアリーナの頂点に立ったのはどうということもない、トップが何らかの理由で退き繰り上がっただけと多くの人が考えています。しかし、事実はそうではない。ナインブレイカーは本当にナインボールを倒して頂点に駆け上がったんです。では、現在確認されているナインボールは何者なのか? ナインボールは複数いるということなのか? ここまで辿り着けば、あとは簡単な推理でした。その通り、ナインボールは複数存在する赤いACたちの総称です。矛盾を解消するには、そう考えるしかありません。では、アリーナの一位に君臨するほどの戦力を秘めた軍勢を、どこの誰が操っているというのか? 考えるまでもなくネストそのものです。これがどこかの個人や企業ならば、とうの昔に地下世界はそれに支配され統一国家と化していたでしょうから。一方、ネストは戦力を派遣することで世界のパワーバランスを保つ性格を持っています。ナインボールを有しても独裁へと繋がらない組織はここしかなく、ならばナインボールに与えられた任務とは、その仕事、秩序の管理を乱すイレギュラーを抹殺することと考えられます。そしてセッツさん、貴方はナインボールと戦う直前、クロームとムラクモの両陣営を衰退へと導き大深度戦争を終わらせるほどの存在感を放っていました!」

 

 一息にまくし立てたアリスの熱弁には、何年にも渡って彼が封じ込めてきた感情が宿っていた。それは例えるならば黒く泡立つ泥。熱く、澱んでいて、本人すら中身を見通せないほどに密度の濃い執念が詰まっている。

 

 セッツは彼の感情を身に浴びながら、己の見識の甘さを実感していた。非才などととんでもない、これほど救いがたく、手の施しようのない妄執に囚われながら、それをここまで隠し通すなど並の精神力で出来る偉業ではない。

 

「聞いていいか?」

 

 セッツは椅子の上であぐらをかきながら、軽い口調で言った。

 

「はい」

 

 アリスは据えた目のまま答える。その息は荒く、ぜぇぜぇと音を鳴らしていた。

 

「データバンクの人間が断っていたら、どうやってアンバークラウンから情報を仕入れるつもりだった?」

 

「エラン・キュービスに協力を求めるつもりでした。反ネスト派のプログテックならナインボールの情報収集には積極的に参加してくるでしょうし、あそこの情報技術者なら、アンバークラウン程度のセキュリティを破ることも造作ないでしょうから」

 

「そこまでして」

 

 セッツはそこで一拍の間を置いた。

 

「お前はナインボールを倒したいのか」

 

 アリスは答えた。

 

「それが僕の種です。腐れば僕は枯れます」

 

 端的ながらアリス・シュルフという人間が凝縮された回答からは、彼が何百回、何千回と気の遠くなるほどの自問を繰り返した末に辿り着いた結論であることが窺い知れた。

 

 ずっと、崩壊した自我から蘇った瞬間より間髪の暇もなく手繰り寄せてきた目的、その糸口を見つけたアリスは、全霊をかけてそれを追いかけ、ようやく捕まえるきっかけを得たのだろう。

 

 セッツには、その執念に馴染みがあった。希薄な自我を保つための拠り所を、死に物狂いで守り追い求めた感情は永久に胸の奥から離れない。そして、その記憶が蘇ってしまった今、セッツにアリスを拒める理由などどこにもない。

 

「良いだろ」

 

 セッツは目を閉じて、目の前で熱い眼差しを向けるかつての自分に向けて告げた。

 

「お前の好きにすればいいさ」

 

 すると、アリスの顔がぱあっと輝きを増していき、据えた眼が元の大きな瞳を取り戻した。邪悪な気配は影を潜め、アリスが従来備えていた、子供らしく純心な笑顔が蘇ってくる。

 

「ありがとうございます!」

 

 セッツは小さく微笑むと、アリスの頭をぽんと叩き、今度こそ部屋を去るべくぴかぴかに光る椅子から腰を上げた。

 

 アリスは、土壇場で救い主の手を掴み、執念に沈みつつあった己の身を救い出したのである。

 

 

 アリスの記録はいったんここで途切れる。セッツの協力を得たアリスが、どのようにナインボールに立ち向かい、どのような結末を迎えたのか、スカイウォーカーには残されていなかった。その必要がなかったためである。

 

 しかし、物語が断絶してしまっては次の段階へと進むことが出来ないので、ここでは最低限の結末を述べることにしたいと思う。

 

 セッツはアリスの要請の元に反ネスト派に協力し、その名を使ってレイヴンたちを集め、組織を増強した。やがてこれを討つようラナ・ニールセンよりアリスに指令が入ったが、彼は拒否したので、ネストはこれを除名して、制裁を加えるべく多くのレイヴンを差し向けた。

 

 アリスに味方するセッツ・ルークスカイと反ネスト派の勢力がこれを撃退すると、両陣営の対立は一気に表面化し、レイヴンを二つに裂く抗争へと発展する。ネスト=旧勢力と反ネスト=新興勢力の図式の元、争いは日増しに激化し、それを疎んだネストは反ネスト派の求心力となっているセッツ・ルークスカイ、そして全ての元凶であるアリス・シュルフの抹殺を決断する。

 

 かつての導き手にしてネストの駒、ラナ・ニールセンの詔勅に応じて決戦に赴いたアリスとセッツは、砂漠の果てに眠る工場にて、とうとうナインボールと対峙する。ナインボールの生産工場であったそこには無数のACが設備されており、ラナ・ニールセンとはそれを管理するコンピュータ、すなわちかつてセッツが破壊したネストコンピュータと同質の制御装置であった。

 

 二人は稼動している数機のナインボールと、コンピュータ本体を守る新型ナインボールを殲滅。アリスはラナ・ニールセンとの決着をつける。

 

 戦いに一応の結末を迎えたことで二人の協力体勢は解散されることになり、アリスは未だ世界の各地で確認されているナインボールの生き残りを駆るべく反ネスト派を渡り歩く傭兵となる。そしてセッツは俗世から距離を置き、時折気紛れに依頼を受けるだけの隠者へと身を隠していった。

 

 これが読者方も知る、ナインボールに全てを奪われた男を主役とする物語の終焉である。

 

 

 しかし、この物語にはもう一つの結末が存在する。

 

 それこそがスカイウォーカーの最深部に収められた最後の答え。公的な記録に残されることもなく、たった一人の後継者に伝えるべく存在する、封印された真実である。

 

 始まりはセッツとアリスが袂を分かって二年後。地球暦にして198年、セッツ・ルークスカイ30歳、アリス・シュルフ17歳の夏のことだった。

 

 先述の通り、ナインボールの生産が停止されたことが決め手となり、レイヴンズ・ネストは急速に勢力を失っていった。元よりネストと旧二大企業に昔の権勢を保つ力など残されておらず、随所にナインボールの力添えがあったからこそ、若く勢いのある反ネスト派と新興勢力に対抗出来ていたのである。戦力の供給が途絶えれば、衰退の一途を辿るのは道理であった。

 

 そんな中、ある無名の企業が突然ナインボールの急襲に会い、施設は全壊、従業員を皆殺しにされる事件が起こる。完全になりを潜めていたナインボールが、突如として起こした虐殺に、かつての反ネスト派に所属していた勢力は警戒を強め、アンバークラウンは例によってスミカ・ユーティライネンを通じてセッツ・ルークスカイを召集した。

 

 一方でアリスは未だネストに所属していたが、組織からはラナ・ニールセンを初めとしたネストの意志とも言うべき支配力は失われ完全に形骸化していたので、差し支えなく反ネスト派の一員として新たな騒動に参加していた。そしてセッツとスミカが動き始めたことを知ると、待ち望んでいたとばかりにこれと連絡を取り、合流を果たすのだが、異変はここで起こる。二年ぶりの再会を果たした三人を、白いACを駆る無名のレイヴンが急襲をかけたのである。

 

 この三人を忌み嫌うのはネストの意志を除いて他にない。アクシデントを予測していたセッツの提案で彼らはACを用意していたので、突然の敵襲にも対応できたのだが、二足型と四脚型を自在にシフトできる特殊AC「エクスペント」の独特なスタイルの前に翻弄され、アリスを拉致されてしまう。

 

 なお、異変とは襲撃そのものを指すのではない。セッツが指摘したように、それは十分に予測が可能な展開であった。事の背景にナインボールが絡んでいるのならば、黒幕は間違いなくネストに組する何者かであり、それが最も警戒しているのはまさしくこの三人だからだ。それが一同に揃うとなれば、何らかの動きを見せて然るべきで、セッツはそれを見越して敵を誘い出すべく敢えて会合を強行したのである。

 

 彼にとって予想外だったのは、敵がアリスを捕まえ撤退した点である。繰り返し記述しているように、アリスは先の事件における元凶ではあるが、決して特殊な人間ではない。彼を捕らえたところで何の利も生まれないのだ。異変とはこのことで、敵の目的を履き違えたセッツは対応を誤り、それをまんまと成功させてしまった。これにより目的にアリスの救出が加わることになり、戦いは次の舞台へと繋がっていく。

 

 

 第二戦の火蓋を切ったのは、ナインボールより送られた襲撃予告である。これがそもそも不自然で、秩序管理の妨げとなるイレギュラーを排除することを生業とするナインボールは、コンピュータを司令塔としているだけあって効率を何よりも優先する。よって彼が現れる場合は例外なく奇襲であり、わざわざ予告など送って敵の警戒を強める真似などするはずもないのだ。

 

 こうした「らしくなさ」に違和感を覚えたのは、ソレをよく知る数人だけだろう。ともあれ反ネスト派は団結してナインボール撃退の任につき、旧体制と新体制の最終決戦とも言うべき都市防衛線は始まった。

 

 戦いの結果だが、呆気なく反ネスト側の勝利に終わる。ネストが権勢を振るっていた時代より、影のトップレイヴンと言われたアンプルールを筆頭とする精鋭が誇る戦闘力は強大で、もはやナインボールの数機では太刀打ちできないレベルにまで成長していたのである。

 

 両陣営の実力差は巷では明らかにされていた予想であり、この戦果は何ら不自然のない当然の帰結であった。ただし、元より状況分析の専門家とも言えるネスト側がそれを認識していないはずもなく、早い話が仕掛ける必要のない負け戦を敢えて討って出てきたということになる。

 

 そしてこの異様、二度目となる「らしくなさ」に気付いたのは、ネストを最も良く知る一人の男だけだった。

 

 彼は上辺だけの決戦には興味を示さず、敵の真なる目的の調査に明け暮れていた。調査とは言っても手掛かりはあからさまなまでに示されている。一連の事件の中で、ナインボールの襲撃対象となった二件の企業の関連を調べれば、答えは自ずと浮かび上がってくることだろう。それがここまで判明しないと言うことは、何らかの隠蔽工作が行われているのだろうが、「スカイウォーカー」を持つ彼にはそんなもの障害にすらならない。易々と両企業のデータバンクに侵入を果たし、事の裏に潜む影に手を掛けた。

 

 だから彼は偽の戦いには参加せず、争いの混乱に乗じて封鎖されていた企業都市の一ブロックに入り込んで、その影を目指した。余談ではあるが、ここで「影」と記したのは的確な表現と言えるだろう。何故ならその名はファンタズマ(幻想)、かつてセッツとスミカを引き合わせるきっかけとなった、人間と機械を溶かし繋げる悪夢のシステムだったのだから。

 

 その一角の施設には、以前にセッツが破壊したファンタズマの本体が丸々保管されていた。それがどのようなルートを辿ってこの企業の手に渡ったのか、どれほどの規模で研究が行われているのか、彼がその気になればすぐに判明することだろうが、今の彼には全く興味のない話であった。

 

 彼、セッツ・ルークスカイが見据えているのは、それがネストの手に渡らないよう監視する義務と、そしてそれに手を伸ばす白い刺客より、アリスを取り戻す義理を果たすことだけである。

 

 強化ガラスに覆われたファンタズマの見守る中、ブルーバードⅡとエクスペントの再戦は繰り広げられた。

 

 

 詳しくは省略するが、この戦いはセッツの勝利に終わり、ファンタズマ…正確にはその内部に収められている人機融合システムは彼の手に渡った。

 

 これでネストの企みは潰えたわけであるのだが、本人を除く反ネスト派の者がそれを知るはずもないので、彼らはいつ来るも知れないナインボールの追撃に備えて軍備の拡張を続けた。この折に新設された軍事管理用の組織が後に大深度戦争の終結時に結成される新地球政府の母体となるわけだが、それはまだ先の話なのでここでは触れないことにする。

 

 見えない敵と空想の中で争い続け、人々が自由を削り取っていくのを尻目に、セッツは一人地上を放れ宇宙へと飛び立った。目指すは衛星軌道上を周回し、数十kmに及ぶ空前の大口径を地球へと向ける衛星砲ジャスティス。かつて地上を焼き払い、人々を地下世界へと追い遣った天災の具現である。

 

 大深度戦争の最盛期において、ムラクモ・ミレニアムがこれを利用して戦いの主導権を握ろうとした前歴があるので、現在ジャスティスは綿密な封印を施された上で廃棄されている。しかし人が施した封印など、その人を上回る技術を持ってすれば容易に解除が可能であり、またこのような大質量を人の手の届かない果てまで送ることなど不可能なので、力ある者にとっては事実上放置されているに過ぎないのであった。

 

 これに目をつけたのが、今や風前の灯火となったネストである。ムラクモが図ったように、ジャスティスは世界を二分する争いすら一瞬で鎮めてしまう力を持つ切り札だ。抑止力としてこれ以上のものはなく、管理のために生まれたネストに相応しい一品と言える。

 

 ただし、ネストが作られたのは他でもないジャスティスによって崩壊へ追い遣られた世界の再生のためである。故にネストを運営するコンピュータ、ネストの意志は決してこれに触れることが出来ないように組まれており、また他の者が触れないよう彼らが守護するので、大破壊は二度と繰り返されないように設定されているのだ。

 

 しかし、ここに論理の隙が生じる。機械はジャスティスに触れようとしても触れられず、人は触れることを許されない。一見、穴のないメカニズムであるが、これは機械と人が別種であることを前提とした理屈に過ぎない。

 

 そして人は、これを崩しうるシステムを生み出した。ファンタズマである。

 

 ファンタズマは機械と人を同化させる。その結果生まれる存在は機械でも人でもなく、且つ機械でもあり人でもある。つまり、ファンタズマにはネストに課せられた制約はかけられておらず、またネストが排除する対象にもならない。

 

 ネストはファンタズマを用いて制約から解き放たれた自らの分身を生み、それにジャスティスを操らせることで、再び地上の管理者に返り咲こうと目論んでいた。そのために残されたナインボールの総力を持ってファンタズマの残骸を探し出し奪取を図り、融合の対象としてアリス・シュルフを拉致したのである。

 

 同化の依り代にアリスを選んだことに深い意味はない。かつての勢力を取り戻すために執り行った無数の策の一つで、衰退のきっかけとなったセッツ・ルークスカイの存在を重視して彼を生み出した温床である幼子のコロニーを再現したことがあったが、その中で最も成長を遂げた者を取り上げたに過ぎなかった。

 

 気付くだろうか? ネストの選択はファンタズマを用いてアリスと融合しジャスティスを起動させること。そしてファンタズマは反ネスト派が独自に開発した知恵の結晶であり、アリスはクロームの打ち出した新型強化人間の真似事から生まれた存在、ジャスティスはムラクモの執念が決断を下した苦肉の策そのものである。言わば、全人類の英知の髄がそこには含まれていた。

 

 このような行動を選ぶネストはもはや管理コンピュータなどではない。絶え間なく人間を監視し、学習を続けたソレは、誰よりも何よりも人間らしく考え悩みもがく、ヒトという定義そのものである。

 

 

 ジャスティスの内部、口径の奥地に設置された制御システムに至る道には、設営の際に機械を通すためにACが歩き回るにも十分な面積が確保されており、中には戦闘をも可能にするだけの体積と強度を持つ一室すら備わっている。

 

 とは言え、廃棄された兵器には人一人いるはずもないので、システムは停止しているし作業用機械も営みを止めている。今、内部で蠢くものといえば、二機のACからのぼる灰色の煙くらいであった。

 

 ジャスティスに降り立ったセッツを待ち受けていたのは、見るも鮮やかな緋色に染まったACと、既に融合を果たしていたアリス・ファンタズマだった。本来の奪取こそ失敗に終わったが、刺客として差し向けたエクスペントのパイロットはデータのみをネストに転送し、解読に成功したネストは自らの手で人機融合を再現したのである。

 

 二度目となる二人の対峙は、避けることの出来ない最後の戦いの幕開けでもあった。

 

 そして、

 

「手間かけさせんなよ、ガキ共がよ」

 

 セッツの憎まれ口は誰に向けたものか、彼は紅いACと無数のコードで接続されていたアリスを引き剥がし、ブルーバードに移し替えた。ジャスティスの内部には空気が満たされているが、念のために持ってきた宇宙服が邪魔で乗せにくかったのでそれを投げ捨てると、無重力の中、放っておけばふわふわとどこかに流れて行ってしまいそうなアリスの小柄な体を強引にコックピットへと押し込んだ。

 

 戦闘の衝撃で多少の痣ができているものの、アリスに外傷はほとんど見られない。ファンタズマの後遺症がどの程度残るかわからないが、それは地上で彼を出迎えることになる者たちに任せることにした。

 

 どの道、セッツが彼の行く末を見届けることはもう出来ないのだから。

 

 セッツは黒いハンドコンピュータ、「スカイウォーカー」をアリスの懐に載せると、動かないように両手でしっかりと抱えさせて固定した。そしてかろうじて生きているブルーバードのシステムを起動させ、自動操縦でシャトルへ帰還するよう命令を終えると、自らは外に出てハッチを閉めた。

 

 間もなくブルーバードは甲高いエンジン音を鳴らすと、緩やかにバーニアを点火させ、地上への帰路へつくのであった。

 

 

 セッツは半壊した紅いACに乗り込むと、それを操縦してジャスティスの更なる深部へと潜り込んだ。こちらの機体はブルーバード以上に傷ついていたが、歩く程度ならば問題はないようであった。

 

 そして辿り着いた最深部。眼前に広がるのは膨大な半導体で編まれた制御システムの巨体であった。

 

 

『人は皆、何らかの制約を受けて生きている。そして各々が避けることのできない重圧から逃れようと高みを目指すのだ』

 

 

 ふと、昔に聞いた言葉がセッツの頭に浮かんだ。ここは天空の彼方、重力すら振り払ってようやく到達する領域だ。高みと言うならば、概念的にも物理的にも、これ以上の高みは存在しないだろう。

 

 紅いACには機械と直通している器が設置されていた。セッツは小指の先を歯で食いちぎると、流れ落ちた血をこの器に注ぎ込む。すると器は高速で回転し出し、血液の攪拌を始めた。これに電気信号を送り、血液からDNAパターン、生命の設計図を読み込むのである。

 

 数十分で解析を終えた(現実にはそんな事あり得ませんが)器、ファンタズマはセッツ・ルークスカイを母体として登録し、その基本骨子をシステムに転写する。言わばセッツの魂が紅いACに宿ったわけだ。

 

 もちろん情報体に過ぎない電気配列がこのままセッツになるわけではない。この状態のファンタズマは簡潔に表すならば肉を持たない受精卵、ここから人間へと昇華するには、現在の登録者を取り込んで、その変化…つまり成長パターンから、その人間の在り方をモデル化し、システムの思考回路に記録しなければならない。その結果、登録した人間と同じ記憶を有し、同じ思考を遂げる機械が生まれる。と、なれば、それは登録者と同一人物と呼んで差し支えないはずで、人間が機械に転生したとも言えるし、両者が融合したとも言える。これこそがファンタズマの機能である。

 

 セッツは手に入れたファンタズマの本体から、その本質を把握していた。そんな彼が、ジャスティスまで赴いて行うこととは…

 

 

『だが、どれだけ力をつけ、どれだけ味方を得て、高みへと駆け上がろうと心の空白が満たされることはなく、命の重みから逃れることもできない。頂点にて待つのは、力と立場に雁字搦めとされ、孤独の中自分一人では動くこともできない不自由な自由』

 

 

 アリスを縛り付けていたコードは、セッツの予想通りジャスティスの本体と接続できるようになっていた。ネストの目的はアリスを通じたジャスティスとの融合なのだから、当然の改造であった。

 

 セッツは安心の息をつく。もし、ネストが処理する前に到着していたら、自力でこの改造を施さなければいけないところだった。不可能なことではないし、そのための道具も持ってきていたが、ここに来て地道な手作業に入るのは骨が折れる。

 

 ともあれ準備が万端整っているのならば、後は実行するだけの話だ。問題など何もない。

 

 敢えて言うならば。

 

 

『がむしゃらに羽ばたきつづけた君は、もう』

 

「結局お前の言う通りだったな、ロス・ヴァイセ」

 

 

 過去について、これ以上を記す必要はないだろう。

 

 必要なのは現代にに繋がる記録と記憶のみ。未来は今を生きる者たちが語ってくれる。

 

 それは、旧き伝説が見守る天上の下に綴られる物語である。

 

 

 だから二度とジャスティスが使われることはない。





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