アリスの窮地を救った二人のレイヴンは、共にクロームの領地を脱した後、彼にミッションの失敗を報告させ、自身も契約者との通信を行ってから、改めて自己紹介を始めた。
最初に語りかけてきたレイヴンは名をスミカ・ユーティライネンと言い、地下世界に散在する複合都市の一つ、アンバークラウンに所属する、いわゆる企業型レイヴンだ。やや癖のかかった茶色の長髪が豊かに膨れ上がり、傭兵とは縁の遠い包容力を感じさせる日系人らしい穏和な容姿の持ち主だが、ひどく華奢で一切の贅肉を纏わない体格は庇護欲よりも緊張感を抱かせた。レイヴンズ・ネストが権勢を誇っていた時代から敢えて企業の傘下に入っていた変り種だそうで、その独特で頑固な人生観を、内外を問わず全身から醸し出している。
そして、もう一人の男が蒼いACから降りて見せた風貌には、感情が希薄となっているアリスであれ唖然とせざるを得なかった。彼はテンガロンハットと言うのだろうか、地下世界では全く不要な広く巻きあがったつばの帽子を被り、牛革のウェスタンシャツを羽織る、しかもそこまでカウボーイスタイルを気取るならば足元は乗馬に適したつま先の長いブーツを履きそうなものだが、何故かそこだけスニーカーという奇天烈ないでたちで、誇らしげに語ろうとするのをスミカに諌められていた。
二人の、と言っても話していたのはもっぱらスミカ一人なのだが、説明によると彼らは反ネスト派と呼ばれるレイヴンズ・ネストに所属していないレイヴンたちの寄合に組するレイヴンで、ここ数年で急速に勢力を伸ばしているネストの背後関係を調査しているらしい。
特にスミカを含む一派は、およそ十年前を機に減少の一途を辿っていたはずのネストに所属するレイヴンが、ネストの活性化と共に再び増加を始めている点に注目し、彼らにコンタクトを取ることから始めているという。しかし弱体化したとはいえ、かつては世界全体を裏から操るほどの権勢を誇っていたネストのレイヴンに、反ネスト派の者が接近することは非常に大きな危険を伴う。相手が協力的であれば良いのだが、下手に警戒されてネスト側に動きを知られてしまうと、それを妨害しようという動きも出てくるし、実際に何人かレイヴンを差し向けられ命を落とした仲間もあった。
そのため一流に及ばない腕前しか持ち合わせておらず、ネストと対立した場合に身を守る術を持たないスミカは調査の実行部隊からは外されるはずであったのだが、持ち前のプライドからこれを嫌った彼女は、以前にとある事件で関係したセッツ・ルークスカイを引き込んで護衛につけることで任務の続行を勝ち取った。この上ない実力と誰よりも深いネストとの因縁を抱えながら、反ネスト派はもちろんどの組織にも肩入れしないことで知られているセッツの協力が交渉条件であっては、彼女の主張を受けざるを得なかったのである。
そして二人が最初に目をつけたのがアリス・シュルフである。彼を選んだことに深い理由はない。アルファベット順に並んでいたリストの上位に名前があったことと、強いて挙げるならば一年に及ばない短いキャリアにしては三十二という多すぎる出撃回数が目につくが、手当たり次第の第一手であるのが事実であった。
なお、ミッションの乱入はセッツの提案である。本人は手を貸すことで恩を売ると言っていたが、本当の目的はいずれ対立する場合に備えて新人レイヴンの腕の程を確認しておきたかったのだろうとスミカは睨んでいた。トップレイヴンらしからぬ軽い言動が目立つセッツではあるが、その実恐ろしく狡猾で計算高い本性を、長い付き合いで彼女は知っているのだ。
そう、彼女は知っていたのだが…
「ああ、こりゃもう駄目だ。手の施しようがねぇ」
一通りの自己紹介を終えた一同が、アリスのガレージへと彼を運ぶべくスミカの手配した輸送艦に乗り込んだのだが、その道中にて、右足を折る重症の保護対象且つ調査対象の手当てを彼女に一任して、自分は専らAC弄りに精を上げる姿を見ると、高い評価も改めたくなる。しかも例のウェスタンスタイルのまま。油で汚れても構わない程度の服なら、わざわざミッションに着てくるなと小一時間ほど(ry
そんなスミカの憤慨をよそに、三機の点検を続けていたセッツは、やがて満足がいったのかACから降りて手当てと一緒に問答を続けている二人の元に寄ってきた。
スミカが開口一番「貴方と言う人は~」と、説教モードに入ろうとするが、彼は両手につけていた軍手を放り投げてそれを制した。思わずそれを受け取ってしまったスミカは二の句が告げられず、何か言いたげに肩を震わせていたが、そのうち諦めて黙り込んでしまった。
一方、アリスはぽかんとして二人の様子を眺めていたが、真っ直ぐにこちらの目線を追っているセッツに気付いて、そちらに注目を向けた。相手もそれを待っていたようで、口元に笑みを浮かべると、
「アリスって言ったよな」
と話しかけてきた。
特に警戒する理由もないので、アリスは「はい」と素直に頷いた。もちろんセッツは彼の名前など確認するまでもなく知っている。これは相手に声を出させることで一方的な発言から対話へと持っていくためのきっかけ作りだ。
「ざっと見てきたけどな。幸いコアは無事だし、ほかも下取りに出せる程度の具合だが、脚部は新調するしかない。ミッションも失敗したことだし、これじゃあ大赤字だ」
セッツの告げる絶望的な状況に、アリスはうつむくほかなかった。先述の通り彼はネストから送られてくる依頼を難度を問わず引き受けてしまうので、小さくない損害を繰り返し、修理のために資金はほぼ底をついていた。この上、脚部パーツを新たに買い足すとなれば担当者、すなわちネストから資金を借り受けるより手はない。
そして、それは新人レイヴンにとって人生のベクトルが破滅へ向くことを意味する。負債を抱えるということは、詰まるところ本人の能力が自立する域まで達していないのだ。例え現状を凌いだとしても、何らかの対策を打たない限りは同じことを繰り返す。方法としては、ACを強化するか経験を積んで腕前を上げるかの二つしかないのだが、パーツを買い足す資金は既になく、ミッションに臨む度に借金は膨らんでいく悪循環だ。
どう答えれば良いか悩み黙り込むアリスに、スミカが何か言おうと口を開きかけるが、それはセッツに手で制された。セッツの視線は変わらずアリスへと向けられており、考えを持っているようなので、スミカも彼に従うことにする。不安なのは、眼差しこそ真摯そのもので信用が置けるのだが、口元がひくひくと何やら不穏な動きを見せていることか。
「そこでだな」
彼が思わせぶりに言葉を切ったのにつられ、アリスが顔を上げると、二人の視線が交錯した。
「どうしてもって言うなら、俺が何とかしてやるぜ」
アリスの持つガレージとは、個人の設備を敷く資金を持たない新人レイヴンにネストから与えられる共同施設である。アイザック・シティより南西の方向、輸送艦で数時間の距離に設置されたそれは、それなりに大きな規模で、二十機ほどのACを収容する能力を持っていた。とは言え実質稼動しているのはその六割程度であり、空いたスペースは機体の換装や、外部のレイヴンが一時的にACを収容するために用いている。セッツとスミカの二人も、借入金を支払いそこにそれぞれの機体を収めることにした。
ACの収納作業はガレージの管理を受け持っている業者(ネストからの委託)に任せて、二人はアリスの下に一旦集まることにした。ガレージにはそれぞれACの使用者が待機するための個室が付属されている。テーブルと椅子が申し訳程度に置かれている他には電化製品の一つもない質素な部屋であるが、彼のような新人には生活費を確保できず、そこで雨風を凌いでいる者も珍しくない。
アリスとスミカは個室でテーブル越しに向かい合って腰を下ろした。スミカが途中で見つけた無料自販機で購入した紙コップ入りの緑茶を差し出したので、アリスは恐縮しながらそれを受け取る。ちなみにこうした気配りに慣れているが故の業なのか、彼女はセッツの帽子を小脇に抱えながら二人分の紙コップを手にしても全く危なげなくここまで持ち込む、抜群のバランス感覚を披露していた。
なお、セッツはこの場に同席していない。道中の輸送機にて彼が口にしたのは、武装追加の提案であった。ほぼ標準装備の機体に不満を覚えたらしく、曰く「素人がこんな装備で勝てるわけがない」らしい。こうなるとセッツの決断は恐ろしく早い。ここ数年、密な関係を続けている新興勢力プログテックに連絡すると、モニターの役割を兼ねる条件で新型のパーツを格安にて即決購入し、直接アリスのガレージへ搬入させると、到着するや否や自ら工具を握って換装に取り掛かったのである。
「ごめんなさい、慌しくて。彼は見ての通りの性格だから」
ACに搭乗する時の決まり事にしているのだろう、後ろで長い髪を結っていたゴムのバンドを解くと、質感のある髪がさらに膨れ上がって宙を舞った。ウェーブのかかった質は一見優雅ではあるが、本人にしてみればあちこちで絡まるのを邪魔に思っているようで、しきりに手櫛で梳いている。
「初めて会った時はそうでもなかったのだけれど、段々と遠慮がなくなってきたと言うか、コツを覚えてきたと言うか、子供のように騒ぐようになってきたの。でもレイヴンとしては本当に優秀だから、その点は信用していいわ」
だから余計に手がつけられない、と付け加えるスミカに、アリスは頷く。言われるまでもなく、彼はセッツの直情的な行動に見え隠れする、合理的で計算高い一面を見抜いていた。それは移動時間を利用したパーツの輸送であり、スミカとの作業分担であり、先の戦闘にて見せた手際の良さであり、おそらくはこうした機械的なまでに効率を重視した思考こそ彼の本質で、それを強引に推し進めるから、周りからは真実とは真逆の我が侭な言動に映るのだろう。
あるいは敢えて傍若無人に振舞うことで、自分の正体を隠しているのか。そう考えるとセッツ・ルークスカイとは彼を知る者、例えば目の前で嘆息するスミカ・ユーティライネンが想定している以上に狡猾な人物なのかもしれない。
アリスは興味が沸いたので尋ねてみることにした。なお、これが数年ぶりに見せる彼の欲求となったが、本人が自覚していないので、この点については言及しないでおく。
「ナインブレイカー、なんですよね?」
熱いお茶をすすりながらさり気なく聞いてみると、本題を切り出すきっかけを窺っていたスミカは、良いとっかかりを見つけたとばかりに食いついた。
「ええ。とてもそうは見えないけれど、彼は間違いなく初代ナインブレイカー、セッツ・ルークスカイよ。レイヴンズ・ネスト創立以来、ずっとトップに君臨していたハスラーワンを超えた初のレイヴン。クロームとムラクモが衰退を始めたのも、少なからず彼の存在が影響しているとか」
そこまではアリスも知っている話であった。それを聞かせたのは誰であったか、強大すぎる力を持つが故に世界の勢力図を裏から操っているとまで噂されたレイヴン、ハスラーワン。二大企業が衰退を始め混沌たる世態が生まれたのは彼が敗れ、表舞台から姿を消したためとさえ言われている。
以来アリーナランキングのトップに立つ者は、かのACから名を取り、畏敬の念を込めてナインブレイカーと呼ばれるようになった。その最初の一人が他でもない、現在アリスのACを弄っているセッツ・ルークスカイなのである。
しかしアリスに取って問題なのはナインブレイカーという肩書きそのものではなく、それがどのような経緯をして彼にもたらされたのか、という一点であった。
「それであの人は、どうやってナインボールを、その、抜いたのでしょうか?」
慎重に言葉を選びながら、答えのわかりきっている質問をぶつける。
アリーナランキングが入れ替わる要因は大きくわけて二つ。一つは獲得した賞金額、依頼の達成率、それぞれのミッションに割り振られた難度とその成果など、ネストが定める数十の項目を総合して弾き出されるポイントにおいて上回ること。もう一つは、直接上位ランカーと相対してこれを打ち破る、つまり殺害をもってランキングから消去してしまうことだ。
しかし後者の可能性は考えられない。一年前、アリスは家族と故郷をナインボールによって焼き払われた。火の粉に彩られた真紅の町並みに佇む、暗く赤い機影は今でも一枚の絵として脳裏に焼きついている。ハスラーワンが健在であることは明白であり、セッツが頂点に立ったのは、何らかの理由でそれがランキングから姿を晦ませたタイミングに、たまたま便乗したに過ぎないのだろう。前提が間違っていない限り、それは論理的に考えて明白なのだ。
以上を踏まえた上で、スミカはただ、
「貴方の過去は調査済みです。だから貴方の考えている通りで間違いないでしょう。もっとも確かなことを知りたければ、本人に聞いてみる他にないでしょうけど」
と肯定するだけに留めた。彼女とて長い付き合いの中、この話題は何度も追求したし、今回もアリスの資料と絡めて質問を投げかけたのだが、その度にセッツお得意の軽口ではぐらかされ、未だに事実は確認できていないのである。
アリスは視線をテーブルの上に落とし、何やら考える素振りを見せた。スミカは彼が何を思っているのか気になったが、話を続けるつもりはないように見えたので、頭を切り替えて自分から切り出すことにした。
「本題に入ってもいいかしら?」
空っぽになった紙コップを置いてスミカが言うと、アリスははっと顔を上げてから真っ直ぐにこちらを見つめる彼女の視線から逃れるように、「はい」と言って再び頷いた。
スミカは小さく微笑みを返すと、両手を膝の上に置いて姿勢を正し、輸送機の中で交わしていた問答の続きを始めた。
アリスはこの時に彼女と話した内容をほとんど記憶していない。しかし、それは二人と出会う前のように人間として欠落していたがための記憶損失ではなく、先ほど言っていたナインブレイカーについてセッツに問い質すための方法が頭から離れず、単に集中できていなかっただけの話である。
二人の話が終わった頃には、日が沈んで夜が降りてきていた。蛍光灯が点いたのはどれほど前になるか、煌々とした明かりがガレージ全体を照らしている。
レイヴンへの依頼は昼夜を問わず届けられるが、その境目となるのがこの時間帯で、午前中に出払ったACの帰還とこれよりミッションに入るACの出撃が重なり、共同施設全体が騒々しい活気に包まれるのである。
ギアの回転音に、重量感のある金属がこすれあう地響きにも似た振動、そしてこの場で生活を営む人々の喧騒が交錯する世界を通り抜け、スミカはアリスのACが保管されているドックまでやって来た。先ほどまで外部パーツの搬入口に近い、換装用のそれに移動させられていたのだが、作業が終わったので定位置へと戻されたのであった。
ACは相変わらず標準機と変わらない緑色一色に塗られた味気のない外見を取っていたが、右足を初め破損箇所は完全に修復されており、その左肩には見たこともない形状のミサイルポッドが装着されていた。あれがセッツの言う「モニター役を受ける代わりに買い付けた」新型兵器なのだろう。白金色に輝く砲塔は緑色の機体に映え、確かに他とは違う存在感を放っていた。
それにしても、同業ながら素晴らしい手際の良さとスミカは感心する。ユニット単位でパーツを交換するだけとは言え、数トン数十トンに及ぶ機械をクレーンで上げ下ろしするのだ。場所の確保から機材の扱いといったかかる手間は言うに及ばず、通常なら丸一日を通しても作業を終えるだけでようやくだろう。それをわずか数時間で、しかも思いつきのように決めたパーツの新装を、慣れない他人のACに他所の施設を用いて、一つの手違いも起こさずスムーズに完了させてしまうのだから、セッツ・ルークスカイという人間が持つポテンシャルの高さには本当に恐れ入る。
ここのガレージでは搭乗に檻状のテーブルリフトを使うらしく、ACを固定するため四隅に建てられた鉄塔のうち二箇所に設置されていた。その内の一つはテーブルが高くACの肩部まで上げられており、スミカが目をやると、セッツがそこでACにしがみつきながら仕事を続けていた。
スミカはテーブルを下ろしてリフトに乗り込み、きちんとシャッターを閉めてからセッツのいる肩部へと昇っていった。リフトが停止して二人が同じ高さに立った時にはセッツも彼女に気付いており、左手に握ったレーザートーチの電源を切ると、軽やかにリフトへと舞い戻って、
「よう、話はもう終わったのか?」
と事も無げに、陽気な様子で言った。
本当にいつも通りの口調だったので、スミカは思わず嘆息する。足を滑らせれば命の保証もない高所での作業を、それをまるで財布から落とした10円玉を拾う程度にしか思っていないのだ。命綱をつけるよう咎めることを忘れたとしても、彼女を責めることは出来ないだろう。
「聞きたいことは大体聞きだせた。新人だからかしら、こちらの素性もすんなり信用してくれたみたいだし、思ったより簡単に聞き出せたわ」
「ふーん、それで?」
言葉面でこそ聞き返すが、セッツは明らかに興味が無さそうで3m四方ほどの小さなリフトの中でうろうろと動き回り、ガレージ全体を見渡していた。その様子にスミカはまた不機嫌になりかけるも、仕事が優先と一通り報告することに決め、左手に持ったビジネスバッグからメモ帳を取り出した。作りこそしっかりしているが飾り気の一切ないデザインのバッグも、携帯型のコンピュータではなく時代錯誤なメモ帳を使うところも、随所に彼女の実用一点張りというか武骨な気質がにじみ出ている。
「彼の生い立ちやレイヴンになった経緯については、私たちが調べた内容と相違なし。ナインボールの巻き添えにあって家族を失い、復讐のためにネストに出向いた。今の時代では珍しくもない話ね」
「へえ」
セッツは檻の天井にぶら下がって前後に体を揺すりながら生返事を返す。
「出撃数は今日の一件で三十三、うち成功率は四十パーセント。生きているのが不思議なほどの数字だけど、それだけネストのフォローが行き届いているということかしら」
「そうかな」
「加えてラナ・ニールセンという専属のオペレータがついているという話よ。彼が特別とは考えにくいから、新人にそれぞれ担当をつけているとしたら、ずいぶんと贅沢な話ね。よほどネストには人材が集まっているのか、そうなるとネスト自体のスタッフからあたってみる手も…」
「そーかもしれないねー」
「セッツ!」
とうとうスミカも声を荒げて怒り出した。
「少しは真剣に取り組んでくれる!? 貴方に依頼したのは護衛だけとはいえ、ネストが絡むとなれば他人事ではないでしょう!」
火を噴く勢いのスミカだが、セッツは涼しい顔でぶらんぶらんと天井からぶら下がったままで聞き流していた。やがて飽きたのか溜息を一つつくと、反動をつけて前方へ身を投げ出し、スミカの眼前…わずか数cmの隙間しかない位置に着地する。
急に顔を近づけられて、それまで激しく言い募っていたスミカも言葉を失った。セッツはにっ、としてやったりという顔をしてから、彼女をなだめるようにゆっくりとした口調でこう言った。
「なあ、スミカ」
スミカは答えない。セッツはリフトの外、先ほどまで自分がいたACの肩部を指差して、
「ちょっとあそこ見てきな。面白いことがわかるぜ」
と指示する。
スミカは憮然とした表情で気が進まないようであったが、言っても無駄と諦めたのか、彼の意図にまだ期待を持っているのか、素直に従い、
「わかったわよ。じゃあ、その軍手を貸してくれる?」
と、手のひらを差し出した。
そこに、セッツは待ってましたとばかりに食いついた。
「どうしてコイツがいるんだ?」
「はあ!?」
軍手を指先で摘んでひらひらさせながら、彼は意地悪く尋ねた。
「どうしてって当たり前じゃない! 汚れるし、チップ(金属片のこと)で指を切ることもあるし、何より汗をつけたら錆びるでしょう? 外装なら塗りなおせばいいけど、軸が錆びたらもう使い物にならない」
「ご名答。そんなことレイヴンじゃなくても機械を弄る奴なら当たり前のことだよな」
平然とそう答えて、彼は再びACの肩に飛び乗った。不安定な足場にも関わらず、くるりと身を回転させて呆然としているスミカの方に向き直り、
「ただ、アリスは知らなかったようだぜ」
勿体ぶった言い回しで、種明かしを始める。
「気付いたのは輸送艦の中だが、このAC、事もあろうにジョイント(関節)の軸受けに指紋がついていやがった。一番繊細な箇所だぞ? 俺たちなら絶対に素手じゃ触らない」
セッツは「でもよ」と付け加える。
「それって誰に教わったことだ?」
スミカは答えられない。あまりに当然のことで、誰かに教えてもらった記憶など残っていないのだ。
「もちろんこんな事をいちいち指摘する奴はいねぇ。見りゃ一発でわかることだからな。俺もお前もそうだったはずだ」
見ればわかる。そしてアリスはわからなかった。それはつまり、
「アリスはACの整備を見たことがない、と言いたいの?」
「ついでに言えば見られたこともないってことだな。これっておかしな話だろ? アイツは、どうやってACの操縦や整備方法を覚えたんだ」
「彼の話では、新人時代の教官も専属のオペレータが兼任していたと」
「だったら」
セッツは断言した。
「そのラナ・ニールセンって女が怪しいってことだろ」
セッツはPieceMakerと銘打った煙草をくわえながら、ACの肩に胡坐をかいて座り込み、説明を始めた。なお、潤滑油の塗られた機械連結部に引火すれば火達磨を免れないのでスミカが慌てて諌めたのだが、彼は大笑いしながらそれを自分の手の甲に押し当てて「禁煙パイポだ」と言い放った。ちなみに煙草をくわえるスタイルは好きだが、煙たいのが嫌いで愛用しているらしい。
「匂うのはよ。候補生時代からの長い付き合いだってぇのに、アリスを通して伝わってくるソイツの人間が想像できないってことだ。一言に教官ったって、具体的にどんな教育をしたのか全然伝わってこないだろ」
「それは…」
スミカは口ごもる。彼の指摘は耳に痛かった。彼女は新人教育という単語だけで満足してしまい、その中身にまで触れようとしなかったのだ。かつての自分も同じ新人時代を過ごしたが故に、同じ教育を受けたのだろうという思い込みに陥ったわけだが、仕事に不備があったことに変わりはない。
「見ろよ、この機体」
セッツは右手を大げさに振って、足元のACを指示する。
「装備も標準、塗装もそのまま、ついでに名前もついていない。兵装にはソイツの人間性が宿るんだ。本当に調査通りナインボールの復讐が目的なら強くなるために火力を上げるし、金が足りないならエネルギー兵器に換えて弾薬費を節約する。名を馳せるためにカラーを変える。ところがコイツからはそういう人間臭さが全く見えてこないんだよ。こんな機体、意思を持った人間の乗るものじゃないぜ。本人がやり方を知らないとしても、周りが乗せちゃいけないんだ。これもラナ・ニールセンって奴が気持ち悪い理由だな」
スミカはリフトの扉に体を預けて話に聞き入っている。セッツの説く話は強引ながらも息遣いが聞こえてくるように生々しく生きており、同じレイヴンである彼女には共感できる部分が少なくなかった。
「で、調べてみたんだよ」
そう言って彼がポケットから取り出したのは黒いハンドコンピュータ。元々はACを遠隔操作するために作られ、後にセッツ自身の手で凶悪なハッキングツールに生まれ変わった、あの「スカイウォーカー」である。
「アリスと、そのラナ・ニールセンが直接顔を合わせたと思われる記録はない。やり取りは全部通信、教育もマニュアルの配布と自主報告に基づく成果型の訓練だけだ。これなら軍手の件も納得出来るだろ? 素手で触るったってすぐに問題が起きるわけじゃないんだから、本人が気付かずに報告してしまえば、結果には差支えが出ない仕組みだ」
さらにセッツは続ける。
「ま、事実だけ見ればアリスがいい加減なだけって可能性も高いんだが、アイツに限ってそれはないだろう。手の届く範囲のボルトは、やらなくても良いところまで全部自分で締めなおしてワッシャの忘れもないし、気持ち悪いくらいマニュアル通り丁寧に仕上げていた。むしろ、ラナ・ニールセンの教えを必死でトレースしているって考えた方が自然だろうな」
スミカが言葉を失ったのは彼の諜報能力に驚いたためだけにあらず。彼女はスカイウォーカーの秘密を知らないが、セッツが個人の度を過ぎた情報網を備えていることは、これまでの経験から知っている。そう、彼の能力の高さなど今更考えるべきことではない。ショックを受けたのは、気の赴くままに動いているように見える裏で、自分よりもはるかに効率的に調査を進め多くの推理を働かせていたことを、見抜けなかった不甲斐無さである。他人の長所を羨むことさえないが、自身と比較して悲観的に考えてしまうことが彼女の欠点と言えた。
「ではセッツ」
スミカは論理的な思考を崩さないよう、冷静を保ってセッツに問いかけた。第一者として考察する力で及ばないならば、第三者として彼の言の是非を判断することで協力をする。精神的に芳しくなくても、常に最善を尽くすのが彼女の長所と言えた。
「ラナ・ニールセンがネストの裏に暗躍している影の正体だと? それはさすがに話が飛躍しすぎじゃない?」
彼の意向をそのまま汲み取るならば、随所に見え隠れするアリスの不自然さの元凶がラナ・ニールセンであり、さらにそれがネストの意図した結果であり、引いては彼女こそレイヴンズ・ネストの黒幕と言うことになるが、わずかなヒントでも欲しい状況とはいえ、いくら何でもそこまで想像を広げては暴論と評価せざるを得なかった。
だが、セッツは平然と頷いて見せる。
「少なくとも裏と何らかの繋がりがあると見て間違いないだろうな。確率はそうだな、八割以上ってところだ」
彼は言う。
「良いかスミカ、ネストのことを知りたければどんな小さいことでも構わない。人間らしくない点、人間としては不自然な点を探して追及しろ。こんなにわかりやすい形なら尚更だ」
それは一般論にするには偏りに過ぎた意見であったが、セッツの表情は自信に満ちており、聞き流すことがスミカにはどうしても出来なかった。
その後、二人は明日からの行動について簡潔に打ち合わせてから、それぞれ取った宿泊地に移動して解散となった。なお、スミカは自動車で数十分の距離にある町の宿泊施設、セッツは例によってブルーバードⅡで睡眠を取る。
結局、スミカは最後までどうしてセッツがそこまで非人間的な行動を気にするのか聞くことが出来ず、彼もまたそれを説明することはなかった。それが聞いてはならない禁句であることを、二人は長い付き合いから生まれた信頼から察したのだが、その以心伝心の正否は誰にも、永久にわからないことだろう。