その後、アリスの記憶には数年の空白が横たわっている。
少年期を過ごした町並みが一夜にして炎に包まれるという惨劇をどのように切り抜け、身寄りのない孤独の中をどのように生き延びたのか、42歳となる現在も依然として思い出せないのである。
気付けば彼はACに乗っており、ラナ・ニールセンというオペレータの指示の下に戦っていた。いつACの操縦訓練を受けたのか、どのようにレイヴンズ・ネストに登録したのか全く覚えておらず、その鍵を握る唯一の人間であるラナに関してもただ淡々と指示を告げる無表情な声を知るのみで、顔も名前も、素性に関することは何一つわからないし、知ろうともしなかった。
当時の彼にとって確かなものは事の元凶たるナインボールに対して抱いていた憎悪のみであり、レイヴンという立場はそれを追うのに都合が良かったので、置かれている状況を敢えて探求しようとは思わなかったのである。
そう、彼は自己ですら興味の対象ではなかった。だから曖昧な記憶を補完しようとしなかったし、いつの間にか抱いていたナインボールへの憎しみに疑問を抱くこともなかった。
人とは自己の成立をして初めて人として確認されるとは故人の言だ。その点で言えば、この時点でアリスは既に人間の資格を失っていたと言えるだろう。実際にラナを通してネストから送られてくる依頼は命の保証など全くない危険な任務ばかりで、そもそも人としての扱いなどされていなかったし、彼自身もそれを受け入れていた。
それが変わり始めたのは地球暦195年の夏だった。
この日を境に記憶は露になっており、うだるような暑さも、かつて栄華を誇ったクロームの本拠たるアイザック・シティの変わり果てた光景も、五体の受け取った全ての感覚をはっきりと思い出せる。それが、以前までの御伽噺に聞くような誰某と同じように思える曖昧な自己とあまりにかけ離れているので、アリスには自分が突如としてそこに出現したかのごとく思えた。
彼に与えられた任務は、アイザック・シティの郊外に新設された施設の調査である。長い企業間闘争の結果、クロームやムラクモと言った巨大企業は疲弊し、個々の企業が持つ権力は分散した。それを吸い上げ、再統合しつつあるのが秩序管理のために設立された新地球政府であり、現在企業が何らかの事業を立ち上げる、若しくは既存のそれを拡大する際には、政府への報告を義務付けられている。しかし、クロームのような歴史ある大企業はかつて実質的な地球の支配者であったプライドからか、あるいは単に社風が古いのか、独断の行動が目立つので、時折こうしてレイヴンを用いた調査という名目の威嚇が入るのであった。
この際、ACを投入するくらいなのだから平穏無事に済むことなど皆無で、実際には調査対象の違法行為はほぼ確認されており、戦闘に突入するのが常である。企業は証拠を持ち帰らせるまいと調査団の抹殺を目論見、政府側はそれを破れば相手を弾劾できることになる。逆に敗北すれば以後その違法行為は黙認する、というのが、現在の体制にてまかり通っているルールであった。
よって今回アリスが行う実質的な行動は、クローム施設が繰り出してくる防衛戦力の掃討となる。政府から派遣された調査員が施設に潜入している間は索敵領域の外で待機し、参戦の要請が入ったら戦闘開始だ。
アリスは自機のシステムを起動させたまま、じっとモニターを見つめて指示を待った。頭によぎるものは何もなく、言ってみれば眠っているのと相違ない。この時の彼は常時がこの状態で、戦闘への緊張も状況判断のための思考もない。命令されるままに働き戦いそして死ぬロボットに過ぎなかった。
だから数分後に戦場へと駆りだされて、AC三機という絶望的な戦力差を前にしても恐れることなく突貫し、迷うことなく従うのであった。
何度か明記しているようにアリスは決して特別な人間ではない。訓練を受けているとは言え、経験相応の技術しか持ち合わせていないし、機体もネストから支給される標準仕様機のパーツが随所に残った、ごく平凡な戦闘力のACに過ぎない。それがクロームの施設より飛び出してきた、三機ものレイヴンを相手に戦い抜ける道理などどこにもなかった。
アリスが生き延びるためにはミッションを放棄して、一目散に領域を離脱する他に残されておらず、それでも逃げ切れる可能性は乏しいだろう。しかしアリスは最も妥当な選択を取ろうとせず、標準仕様のライフルとミサイルを持って三機に攻撃を仕掛けた。それが意表を突いたのか敵陣営は戸惑いを見せ、うちの一機をブレードで切り捨てるという善戦を展開した。
しかし、敵も熟練の腕を持つレイヴンである。それぞれ四脚型の逆関節型の二機は、急造ながら息の合ったコンビネーションを見せ、アリスを追い詰めていった。そして逆関節ACの放った拡散型ミサイルをかわそうとして大きな挙動を取った隙に、四脚型のグレネードが撃ち込まれた。
右足が粉砕され、アリスのACはその場に崩れ落ちた。システムは生きているようで爆発こそ起こさないが、動くことも難しい様子で、戦闘の続行は不可能と思われた。通常ならばここで降伏を宣言して投降するのが定石であるが、アリスはせず、またそれを促すべきオペレーターも沈黙を保っていた。
それがいかに異様な態度であるか、クロームが雇い入れた二機が対応に迷い足を止めたことから明らかであろう。敵の行動からは生き延びようとする意志が感じられない。人が搭乗しているのではなく自動操縦型のACなのではないかと疑われるほどだ。
彼らは司令室に指示を仰ぎ、破壊の許可を得ることでようやく殲滅に踏み切ることができた。四脚型の方が再びグレネード砲の砲身を構え、アリスへと銃口を向ける。照準を合わせ、今にも発射しようというその瞬間に事態は大きく急変した。
「北部より正体不明機が接近中、警戒せよ!」
司令室から届いた報告を受けて、二人はひとまずアリスの処置を後回しにして、新たに現れたという不明機へと注意を向けた。状況から推測するに敵の援軍と考えるのが妥当なところだろう。ならば目の前の半壊した機体は利用価値が残されているかもしれない。
レーダーには二機のAC反応が示されていた。それは真っ直ぐにこちらへと接近しており、救援に駆けつけるつもりなのは明らかだった。
しかし、問題なのは司令部が敵を正体不明と称していたことだ。目の前のACは政府が送り込んだレイヴンのはず。では、それを助けようとする敵もまた政府の回し者ではないのか?
「敵ACの詳細を早く調べてくれ。対応に困る」
逆関節型のACに乗った方のレイヴンが問いかけた。司令部としても可能な限り迅速な対応を取ってはいるのだろうが、命懸けの戦場にて不明という要素は大変な不安を煽り、少しでも平静を保つために催促せずにはいられなかった。
それから数秒の間を置き、司令塔より報告が入った時にはもう敵の姿が肉眼で確認できる距離まで接近されていた。
「敵ACの詳細確認、一機は非アリーナ登録機コーラルスター。もう一機は…」
二機のACは共に一般的な二足中量型のACで、片方は白を基調として淡い桃色をアクセントにつけたカラーリングの機体だった。おそらくはこれがコーラルスターだろう。彼らがそう判断できたのは、もう片方のACがあまりに印象的な蒼を纏っており、あまりに有名なACであったためだ。
「ランカーAC、ブルーバードⅡだ」
見るも鮮やかな蒼に全身を彩られたACは、かのナインブレイカーことセッツ・ルークスカイの駆る機体に間違いなかった。
「保護目標を確認、既にやられているわ。助けましょう」
事務的な口調で告げるのはコーラルスターのパイロットことスミカ・ユーティライネンだ。彼女は女性であると共に、荒々しい気性の持ち主が多いレイヴンの中では目立つほど几帳面な性格で、実に珍しい人種であった。
「そう焦るなって。十分待ったって、とどめを刺されたりはしねぇよ」
対照的にくだけた口調なのはブルーバードの操縦手、その名はもはや語る必要もないセッツ・ルークスカイだ。彼は両手を頭の後ろで組み、両足で操縦桿を操作するという、気楽も極まる姿勢でACをクロームの領土へと入れた。
「どういうこと?」
事情を飲み込めないスミカに対し、セッツは演技がかった様子でいかにも面倒くさそうにため息を一つついた。それが癇に触ったのか、スミカは少々苛立った様子で返事を催促する。
「セッツ、あなたと言う人はいつもそうやって…」
「見たトコ戦闘不能、危険はない。急いで殺す必要もない。なら人質にでも使った方がオトクってもんさ」
セッツはそれを見計らったように彼女の言葉を遮ると、一息に事情を説明してしまった。そして突然の反応に絶句したスミカが我に帰るより早く、それまでのだらけた態度からは一変した機敏な動作で、背もたれに預けていた上半身を起こして操縦桿を握ると、コーラルスターを置き去りに前進を掛け敵陣へと突入する。
宣戦布告すらない急接近に泡を食ったのはスミカだけではなく、クローム側の二人も対応が遅れた。攻撃の許可を待っている余裕はなく、逆関節のACが、アリスの機動力を奪ったミサイルを撃ち込んで迎撃に臨む。しかしブルーバードは右手に構えたマシンガンを掃射すると、拡散状に広がり目標を包み込むはずの弾幕の一点に風穴を開けた。世界に数あるACの中でも屈指の機動力を誇る同機は、その穴に飛び込むと一瞬で敵機との距離を詰め、ブレードの一閃でこれを沈黙させた。
そして続けざまに四脚機の方向に機体を向けると、再びブーストを点火させて真っ直ぐに突っ込む。この時、わずかでも戦闘より交渉へと気持ちが残っていたことが、彼の命取りになった。いや、二の足を踏ませるよう戦意を殺ぐことが、そもそもセッツが急襲を仕掛けた目的であったのか。
「ま、待て! おま」
「うるさい黙れあーあー聞こえなーい!!」
それは降伏だったのか、交渉だったのか、脅迫だったのか。彼が二の句を告げるより先に、セッツは敵機に体当たりを仕掛けた。衝撃に腹を押されたか敵の言葉が途切れる。セッツは勢いをそのままにマシンガンの銃口を敵機の首元に押し付けて砲火を加えると、反動を利用して空中へと舞い上がり、煙を上げて崩壊寸前の機体に向けて、左肩に構えたエネルギーキャノンを発射する。轟音をあげて放たれた大出力のエネルギー弾は目標を頭上より貫き、爆炎と共にACの四本の脚が四方へと飛散した。
その所業やまさに電光石火。彼は十秒にも足らないわずかな時間で、二機のACを葬り去ってしまったのである。
「呆れた。非常識にも程があるわ」
遅れて到着したコーラルスターのスミカも困惑気味だった。セッツの無茶を目の当たりにするのは初めてではないが、いつまで経っても彼の行動だけは慣れることができなかった。
しかし当のセッツは涼しい顔で、
「今回の俺たちは誰の名前を背負っているわけでもない。奇襲、不意打ち、何やったって誇りの傷つく奴はいない。だったら手っ取り早く片付けるのが常識ってもんだろうが」
と、言ってのけた。
スミカは返す言葉がなかったのか、それとも返事をするのも馬鹿馬鹿しく思ったのか。セッツにはわからなかったが、ともあれ彼女は話題を変えることにしたらしい。
「さて、本命の彼だけど」
「任せる。交渉事は得意じゃないんだ」
考える素振りも見せずに切って捨てたセッツに苛立ちを覚えるが、これ以上文句を募らせても不毛とわかりきっているので、スミカはため息を一つついて気を鎮め、未だ沈黙を保っているアリスのACへと回線を繋いだ。
「アリス・シュルフ、聞こえますか? 私はスミカ・ユーティライネン、地下複合都市アンバークラウンにて活動するレイヴンです。繰り返します、聞こえますか?」
それがアリスの記憶に残っている、最も古い人の声となった。先述の通り、それ以前の彼は感覚が曖昧で、あらゆる音が「そう聞こえたらしい」という情報でしか処理されていなかったので、聴覚という形で保存されていなかったのである。
「アリス・シュルフ」
いつ以来だろうか。アリスは思う。
「応答ください。アリス・シュルフ」
こうして自分の名を呼んでくれる人と出会うのは、と。
いや、考えてみればそれもおかしな話だ。少なくともパートナーであり、オペレーターであるラナ・ニールセンは何度と知れず自分の名前を呼んでいた。しかし何故か彼女の声は耳に届かず、心に留まらず、記憶から抜け落ちてしまっている。
だから、こうしてしっかりとした声が胸に響いてくるのが本当に懐かしくて、何としても応えなければいけない気持ちで一杯になった。だから彼は痛む身体を起こして、半壊した機体のシステムを再起動させ、四苦八苦しながらも通信を繋ぐべく最善を尽くす。
それは、まさしく彼自身の存在を世界へと繋げる作業であった。そういう意味で言えば、彼ほどACと一体化して生きている者も稀であろう。
願いは天に通じたか、途切れたと思われたシステムは生き延びており、回線がコーラルスターと繋がった。
「こちら、アリス・シュルフ」
ああ、いつ以来だろうか。こうして自分から言葉を発するなど。
「ACが動きません。救援をお願いします」
アリスの声は少年のように高く薄かったが、声帯の奥を震わせて発せられるそれは確かに声変わりを終えた大人のものだった。