キリマンジャロ東部地区。生命の源たる水の希薄なこの地域では、太陽の恵みを蓄えることができないがために、夜になると気温が氷点下に達する極寒の地獄へ化す。時刻は世界標準時間にして午前の三時。人の身では超えることのできない闇を跨いで、チーム・ルークスカイは今また新たな命の光を迎えようとしていた。
外界の厳しい気候などいざ知らず、鉄の城壁に覆われた地下基地内は平均にして摂氏22度。人に備わる体温調整の機能を鈍らせないよう24時間単位で気温の上下動が操作されているが、生命活動に支障をきたさない範疇の、快適と呼んで差し支えのない環境が保たれている。
デスクに腰を下ろしたまま両腕を枕代わりに眠りこけ一晩を越してしまったフェイが、風邪の一つも引かずに目を覚ますことができたのは、ひとえにこうした施設の優秀な環境管理機能による賜物と言えるだろう。
フェイはあくびを噛み殺して寝ぼけ気味の頭を回転させ始める。まずは自身を初め、周辺状況の確認からだ。口元のよだれ跡が示す通り、不自然な姿勢の割には深く寝入っていたようだ。上手く眠りの浅いタイミングで目覚めることができたのか意識は明確。頭の下敷きになっていた腕が痺れて麻痺しているもののじきに治るだろう。学生時代のようにトレーニングする時間が取れないが、毛布も被らずにこれだけ健康的な睡眠を取ることができるなら、まだまだ身体は頑丈なのかな、などと思ってみる。
着ているものは昨晩のままだ。上着を除いて営業用のスーツ姿、皺がついただろうしクリーニングに出す必要があるだろう。デスクの上には皮造りに似せた安物のカバンと、二十センチほどの黒く小さな箱が一つ。思い出すまでもない、アイラをして「私の全て」と語らせる特殊コンピュータ、スカイウォーカーだ。
アイラをして。そこでフェイは昨晩ベッドを占拠した侵入者の存在を思い出し、勢いよくそちらを振り返った。ベッドの上は、乱雑に丸められた毛布のほかは空っぽだった。
はて、と彼は首を捻る。アイラがここに訪れたのは、その全てであるスカイウォーカーを取り返しに来たのだと思っていたが、黒いコンピュータは目の前に置かれたままだ。目的がこれでないのならば、彼女は一体何を求めてやって来たのか。珍しく長話をしたのは覚えているのだが、思い当たる節は見られない。
「ま、いいか」
フェイは自分に言い聞かせて朝の身支度を整えることにした。とは言っても、この日彼にさしたる用事はない。後回しにしたミッションの事後処理の報告書を作るくらいで、だからこそ夜更かしもしたし(忙しくてもアイラに寝かせてもらえたかは疑問だが)スーツに皺も入れられたのである。
無理をおして空けた一日を、彼はスカイウォーカーの探索に注ぐつもりでいた。この特殊コンピュータは数十に及ぶ階層構造を取っており、その一つ一つにかけられたプロテクトを解除していかなければ記録に触れることさえ出来ない。しかも何を記憶媒体にしているのか、並の個人用コンピュータの百倍に相当する膨大な容量を誇り、その大半をブラックボックスとなっている深層が占めているのだ。自然と探究心がくすぐられるし、何しろモノは「アイラの全て」だ。半人前のパートナーにとって、何が何でも知らなければならない彼女の秘密がそこにある。
スーツを袋に収め、着替えを用意してからシャワーを浴びる。数分の後に頭をすっきりさせると、彼は食事も摂らないままスカイウォーカーを起動させ、プロテクトの解除に取り掛かった。
フェイ・ウーシャンは誓う。絶対にアイラ・ルークスカイの真実に届いてみせる。おそらくそれが、自分の出来る最大の仕事であり、何よりもきっと彼女の願っていることだから。
結論から述べてしまえば、この日フェイは求めていた真実を手に入れる。しかし、読者(あなた)方がそこへ到達するには、いささか蓄えるべき時が満ちていない。
読者方は知らなければならない。彼を。
時代と戦い続けた、「ナインブレイカー」セッツ・ルークスカイの物語を。
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「おめでとう、今日から君はレイヴンだ」
教官と称したド素人は、間抜けにもそんなことを口走ってやがった。何しろお役所のお役所仕事だ、マニュアルに記載された文章を今日も明日も明後日も、死ぬまで繰り返していればいいさ。
言われるまでもなく今日も俺はレイヴンだ。お前と同じように今日も明日も明後日も、そして昨日も一昨日も、生まれてから死ぬまで、きっと。
クロームに帰る頃にはネストから贈与されたACが届いているだろう。緑色に塗られた、標準仕様の地味な機体。廃棄が約束されている粗大ごみだ。
Raven Nameセッツ・ルークスカイはAC Nameブルーバードを駆ると決められている。16年前の今日、クロームの権威イェクス・ルークスカイの種に命が宿った瞬間から。
底冷えのする地下世界で人工太陽の夕日を浴びながら、誰もいない列車の中、俺は一人煙草に火をつけた。初めて吸った煙はえがらっぽくて思わず咳き込んでしまった。乗客がいなくて良かった。ほとんど火が通っていない吸殻を弾いて捨てると、靴底でこすりつけて火を消した。
何度も何度も、フィルターが破れて葉が粉々に散るまで、電車の床にこすりつけた。
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クローム社。「大破壊」以降の荒廃した地球を二分する、巨大企業の一つがセッツ・ルークスカイの故郷であり育ての親だ。
陽の光すら届かぬ地の深く、銃弾も通さない強化ガラスに覆われた無菌室にて、医師ではない白衣の男たちに見守られる中、彼は産声をあげた。アルミ製のアームに羊水から引き上げられ、身の回りは見知らぬ大人たちの手によって入れ替わり世話された。だからセッツに親と呼べる個人は存在せず、敢えてそれに相応しいものを与えるならば、クロームそのものを取り上げるほかに方法がない。
生後数ヶ月が経ち外気に耐える免疫がつくと、彼の身はACのコックピットへと移された。食事や排泄すら操縦席の中で行われ、戦闘映像を揺り篭に、破壊と爆発音を子守唄に代えた乳児期を過ごした。イェクス・ルークスカイは科学者でありながら、深層心理や人格といったオカルトめいた分野の狂信者で、実験体には無意識の形成までこだわった。だからセッツは物心のつく前からACを知り、戦闘を知り、操縦すら可能としていた。言語や表情、人間が人間として生きるための術と引き換えに。
セッツがコックピットを下り、自分の足で歩くようになったのは六歳の頃である。この時彼は世界の主な言語を習得し、人という生き物を、心の存在を理解した。もっとも、情緒に適した表情を選べるようになったのは、それから数年後の話だが。この時期になるとセッツのレイヴンとしての腕前は生半可なランカーを上回っており、練習用にこしらえたテスト生では相手にならないほどになっていた。
十歳を過ぎて身体が成熟してくると、肉体面の強化プログラムへ移行することになった。戦闘術を初めとしたノウハウの教授はもちろんのこと、連日血液の成分から筋肉の断面積まで精密極まる検査が行われ、戦闘能力という一点において完璧な栄養分を投与、薬物を利用して活動と休息の時間が調整された。結果、恵まれた体格に瞬発力と持久力を両立させた、傭兵として理想的な肉体が出来上がった。同時期にACの操縦練習は実践的な内容に移るのだが、この際には多額債務者を利用した搭乗者、いわば生贄を用意し、その殺害における生物的に避けられない嫌悪感を制御するといった、非人道的な訓練さえ行われ、セッツはそのことごとくで想定を上回る優秀な成績を残すのだった。
そして本人すら知らない、知ろうと思うことすらない、セッツ・ルークスカイ16歳の誕生日。肉体面の成熟を認めたイェクスたちは、究極のレイヴンとして完成した彼をネストの試験に送り出し、叩き出した圧倒的な成績が長年の研究に成功の二文字を告げると、それのもたらす実利と名声を夢見て狂喜乱舞するのであった。
レイヴン試験に合格し、レイヴンズ・ネストに所属してから一年。セッツは時代の風雲児として業界に名を轟かせるほどに成長した。何しろ任務達成率は百パーセント、潜入、襲撃、護衛とあらゆる内容を完璧にこなし、アリーナにおける決闘でも負け知らずと、窺える才気と実力は底が知れないのだ。話題にならない方がおかしなことで、事実もう一つの巨大勢力であるムラクモ・ミレニアムはセッツ・ルークスカイを危険人物と認定して度々刺客を送りつけてくるのだが、それすらも易々と撃退してしまうのである。現実にはクロームが万全のフォローを敷いているために実現する快進撃ではあるのだが、それでも若きエースの力に疑う余地などありえない。
しかし、歓喜する関係者たちとは裏腹にセッツの表情はいつの時でも優れなかった。ムラクモに肩入れする小さな企業を攻撃し、ついでにランカーACを一人始末した上で、クロームのレイヴンに与えられる個室…セッツが生まれて始めて手に入れた人間的な部屋、に帰宅したこの日も、彼は気の張った顔を崩さず、荷物を放り捨ててソファに寝転ぶと、眉間に皺を寄せたまま胸の底からこみ上げてくる謎の感覚に耐えていた。
「畜生」
相手のない誰かに毒づくと、戸棚から錠剤を取り出して水もなしに飲み込んだ。幼少の頃より常備し、服用を繰り返している抗不安剤である。セッツは論理的でない不快感を覚える度にこの薬を使用しているのだが、近年、特にレイヴンになってからだろう、その回数は増える一方で効果も薄くなっているように思える。
気休めにはなるだろうと言い聞かせて深呼吸を一つ。いつだったか幼少期に仕込まれた呼吸法で気分を落ち着けつつ、習慣でコンピュータを開いてメールのチェックに入る。それが失敗だったと気付いたのは、社交辞令以外の何物でもない依頼先からの謝礼の言葉と、この世で一番会いたくない人物からの賞賛を目にした時だった。
「くそったれ」
連中のにやにやとした醜悪な笑みが頭に浮かんで気持ち悪くなる。
「俺は、お前たちのために戦っているわけじゃねぇ!」
叫んで、叩きつけるように持ち運び式コンピュータの蓋を閉じた。そこで改めて確認する。さっきから感じている不快感の正体は、自分を利用している取り巻きに向けた苛立ちと憤慨だ。
17歳にもなれば肉体的に成熟を迎え、自分が何物なのか、社会の中でどのような位置にあり、どのように生きていくべきなのか分別のつく年頃だ。しかも幸か不幸か、彼はあまりに優秀だった。一般的な人生の何たるかを覚え、自らの環境を振り返れば、セッツ・ルークスカイという人間が何なのか、容易に想像できるだけの知識と思考能力を十分に身につけていたのだ。
混乱している頭を切り替えようと、50インチという大スクリーンに電源を入れて再生機器を動かすことにした。旧世代に保存された活動写真(映画のこと)が映し出され、その中では大げさなメイクをした役者たちが駆け回っていた。
セッツは古い映画の鑑賞が好きだった。十代の前半で常識を身につけるために教養の題材として与えられたのがきっかけで、レイヴンとして自由を得てから最初に求めたのが貴重なフィルム式の映像と巨大なスクリーンだ。特に物語仕立ての作品が好みで、客観的に考えれば陳腐な筋書きでも、その時だけは嫌な思いを忘れるほどに熱中してしまう。
今流れている作品も実に有り体な中世を題材にした騎士物語で、盗賊の親玉に過ぎなかった男が美しい姫に騎士として見初められ、手の甲に口付けをしながら忠誠を誓うという、作中の目玉と思われるシーンが流れていた。
男は真っ直ぐにお姫様の目を見つめながら言う。「貴女に我が剣と、心の全てを捧げます。永遠に」
そんな台詞に、セッツは憧れる。彼はあまりに優秀で、一度ACを駆れば悠々と依頼をこなし、施設を破壊し、目標を始末してしまう。それは単に生きるため、食い扶持を稼ぐため、そして喜ぶのは邪な欲望の持ち主だけだ。物語のように、愛する者のために戦うなど見果てぬ夢に過ぎない。
セッツは早送りなどせずにそのお話をしっかりと見届けた。終わってからも巻き戻して繰り返し何度も見続けた。舞台で踊る彼らが、いつか違う台詞を話し、違う動きをするのではないかと思ったのだ。だってそうだろう? コックピットに根をおろして、誰のためでも何のためでもなくただ漫然と戦い続ける自分と比べて、スクリーンの彼らはあんなに生き生きとしているじゃないか!
そう、彼はあまりに優秀だった。疲れ果て、孤独に潰されかかっていても、強く、完璧で、他人と、自分にすら気付かせないから、誰にも助けられず、やっと手に入れた自由に溺れてしまう。
彼はあまりに優秀だった。
彼はあまりに優秀すぎた。
どれほどの時間が流れただろうか。映画はとうに幕切れを迎えており、スクリーンには砂嵐が流れ耳障りなノイズを鳴らしていた。
セッツは首をうな垂れたまま動かなかった。眠ってはいない、しかし覚醒してもいない。それは死んではいないが生きてもいないことに類似していて、焦点のあわない視線を床に向けたまま、意味のない独り言をぶつぶつと呟いていた。
やがて、彼はその姿勢のまますっくと立ち上がった。鍛え上げられた体は、それだけで悲しいほどに力強さの感じられる動きを見せた。
そして再びコンピュータを開いた。セッツがどのような意図を持ってそうしたのかは知る由もない。ただ、彼は人間として育てられなかったレイヴンという生物であり、レイヴンは依頼の詳細を語るメッセージのチェックを欠かさない。
新着のメッセージが一件届いていた。送信主はレイヴンズ・ネスト、毎日のように到着する企業からの依頼を紹介する内容であったが、そこにはセッツの朦朧とした意識を呼び起こす、刺激的な案件が記されていた。
依頼主:ムラクモ・ミレニアム
目標:ACパーツの奪還、及び実行犯の撃破
報酬:45000c
緊急の依頼です。X月Y日、本社の有するAC専用パーツを保管した倉庫が何者かの襲撃に会い、品物を強奪されました。もちろん倉庫の一つで揺らぐほど当社の経営地盤は緩くありませんが、直接管理にあたっていた当社の子会社にとっては軽視出来る事態ではなく、どのような手段を持ってしても奪われた物資を取り戻す意向を見せています。
彼らを確実に救うために、本社は相場を上回る報酬を持って複数のレイヴンと依頼することを決めました。賊の居場所は突き止めていますので、協力して任務の達成に尽くしてください。
セッツは指でテーブルをとんとんと叩きながら、呆れた眼差しを文章に送っていた。文面を読む限りでは、ムラクモが襲撃を受けた日付は今日のもので、緊急の依頼というのは嘘ではなさそうだ。子会社が云々は眉唾な話ではあるが(ムラクモは体面を大切にする社風を持つ)、それなりの報酬が約束されているあたり、奪われた中に社外秘の物品でも含まれていたのかもしれない。
しかし、だ。彼はやれやれと言った具合にため息を一つついた。よりにもよってムラクモ・ミレニアムの依頼を紹介するとは呆れた話だ。
セッツがクロームに肩入れするレイヴンであることは周知の事実である。その事情まで知る者は少ないだろうが、先述の通り敵対組織が刺客を送り込んでくる程度には知られているのだ。その敵対組織の代表格に味方しては道理が立たないし、レイヴンとしての信用問題にも関わってくる。何よりも依頼自体がムラクモの罠であるという最悪の展開すら想像される。真っ当な思考能力を持ったレイヴンならば、まず引き受けない依頼と言えるだろう。長年、父親を初めとする科学者たちによって積み重ねられた教唆の結晶たるセッツの知識も、同じ結論を弾き出していた。
だが、いやだからこそ。
「はっ」
セッツは自嘲するような笑い声を上げて、暗唱できるほどに手馴れた依頼受理の定型文を送って返した。本人の意を汲むならば、返して「やった」と表現しようか。
ムラクモがどうした。企業の対立なんて知ったことか。あの、その名を見る度に憂鬱になるクロームからの、イェクス・ルークスカイの所属する組織からの依頼と比べれば敵対上等、喜んで引き受けてやる。例え罠でもねじ伏せれば良い。力が及ばなければ、あの白衣の野郎共が悲嘆にくれるだけの話だ。
「良い気味だ!」
彼は無意味と知りながらも大声をあげて、折り畳み式になっているコンピュータのカバーを力任せに叩きつけて閉じた。衝撃でカバーの止め具が折れてどこかに弾け飛んだ。
自棄とわかって選んだ選択肢。思い通りに、好きに振舞っているのも関わらず、どうしてこれほどに苛々するのか彼には理解できなかった。
酒に逃げたいってのはこういう気持ちなのか。大人が大人であることを忘れることの出来る魔法の薬、それに初めて憧れを抱いたセッツの部屋には、当然アルコールなど置いてあるはずもなく、薬をもう一錠飲んで眠りにつくことで、彼は成熟しきった能力とは裏腹に危うく脆い自我を守るのであった。
翌日、ムラクモの依頼承諾という報せを受けたクロームから無数の問い合わせを受けたが、セッツはことごとくを無視してブルーバードに飛び乗り、数週間ほど前に個人的に契約した非クローム系列の輸送会社を利用して、ミッションの地へと向かうのだった。
細かな打ち合わせは移動の時間を使って行われ、そこで彼は今回協力することになるレイヴンの名を聞かされた。その瞬間、自分の選択が間違っていなかったことを確信する。彼女が参戦するならばそれだけで魅力に溢れたミッションであり、万一騙されて命を奪われることになろうとも、納得せざるを得ない相手と言えるだろう。
彼女の名はロス・ヴァイセ。体力的なハンデを抱えた女性の身でありながら、全世界のレイヴンを統括するネスト本部のランキングにて二位に君臨する、最強のレイヴンの一角を担う大物である。
セッツは飛行機の中で誰にも見られないように拳を握り込んだ。まだ見ぬ英雄、その名前は彼の閉ざされた世界を切り開く期待をよせるに相応しい・・・!