システムの落ちたACのコックピットには一条の光も射し入らず、まどろみから覚めたアイラの目に飛び込むものはまた闇だった。開いた瞳が捉える闇と閉じた瞼の生み出す闇はどちらか深淵か、などと朦朧とした意識で考えたところで我に返り、哲学めいた問いがあんまりにらしくないのでおかしくなって、それで頭がすっきりしてきた。
自分の四肢すら見えない暗闇の中で手間取ることもなく補助灯のスイッチを入れる。慣れ親しんだコックピットの構造は既に体の一部と化しており、その気になれば目を閉じたままシステムを起動させられる彼女にとって、それは痒い背中を掻く程度の手間でしかなかった。
それにしてもらしくない、とアイラは思う。そもそも覚醒時と区別がつくほど深く寝入ることなど彼女にはない。一人になれば戦闘映像を流すかイメージトレーニングに入り、やがて夢を見るように思案にふけり且つ現を想うように眠りにつくのが、幼少時より染み付いたアイラ・ルークスカイの睡眠である。
「そっか」
呟いた。昨晩はハンドコンピュータをアリスに貸していたので、いつも子守唄代わりに流している戦闘映像を見ていなかった。当面はアリーナの予定も入っていなかったしミッションも詰めの段階に入っているのでACの整備もほぼ完了済みと、やることがなかったのでコーヒーの実験なんて静かな作業に没頭していたら、油断してそのまま熟睡してしまったのである。
ここまで思い出して溜息を一つ。現状の認識にこれだけ時間を要するなど、鈍った思考力には自己嫌悪の念を抱きそうになる。休むなんてロクなもんじゃない、と悪態をつくと頬を張って気合を入れ、とりあえずはそもそもの原因であるコンピュータを取り返すことにした。
ACのコックピットは一般的な建物の三階に相当する高さにあった。いかにレイヴンと言えど人間である限り落ちれば無傷で済むはずのない距離である。通常ACは高所用の通路が張り巡らされているガレージに格納するか、そうでない場合は移動式のリフトを用いて乗り降りするのだが、しかしアイラはそれを呼ぶのも面倒とばかりに、コックピットから足を踏み出し飛び出した。自殺行為に等しい暴挙であるが、彼女は空中で姿勢を立て直し、機体の随所に見られる突起部に手をかけて雲梯の要領で身体を支え、無事着地を成功させてしまう。
突然降って来た少女に、たまたま着地点で作業中だったスタッフ数名は仰天して腰を抜かした。彼らも彼女の荒業は度々目にしているのであるが、狂気の沙汰もここまで来ると慣れることなどできない。しかし当人は平然とした様子で「お疲れっ!」などと明るく肩を叩いて行くのだから、困惑は余計に深まるのである。
スタッフとすれ違う際に、アイラはスタッフの腕時計(工場作業者にアクセサリは厳禁なのだが、これまた現実では全く徹底されていないので順ずる)を横目で覗き込んで時刻を確認する。午前十時とアリスに急襲をかけるのに都合の良い時間帯だったので、眠気覚ましを兼ねて直接押しかけることに決めた。
本来ならば、まずは内線の置かれた詰め所に寄って所在を確認するのが賢い手順であるのだが、前日フェイから打ち合わせで顔を会わせたという話を聞いていたのでその必要はなく、ならば急襲を仕掛けるべきと彼女は判断した。その心は、相手に準備をさせる余裕を与えず自分のペースに引きずり込むという、戦闘とプライベートを問わず一貫させている主義に基き、それはもし留守だった場合は鍵をこじ開けて押し入り痕跡からプレッシャーを与える作戦を、この段階で企む徹底ぶりである。余談だがアイラのピッキングの腕前は一流で、針金一本あればチェーンロックすら焼き切ってしまう。もっとも彼女にその技術を仕込んだのは他でもないアリスであるので、これも因果応報と呼べる。のか?
そういう理由なので、アリスが時刻通りに執務室にいたことは主に会計担当者にとって幸運であった。アイラはずかずかと同室の前までやってくると、ノックもせずドアを開ける。室内には山と積まれた書類に目を通しているアリスの姿があった。彼は仕事を溜めるタイプではないし、部屋の片隅に置かれた時代遅れの印刷機がひっきりなしに動いているので、その手にある契約書や報告書諸々が新規の仕事であると窺える。
アリスは来訪者を確認すると、
「今日はまた張り切ってるね」
意味の薄い挨拶でワンクッションを置こうとしたが、
「スカイウォーカー返してよ」
アイラは簡潔極まりない形で用件を告げた。
ぶっきらぼうで直接的な要求にさすがのアリスも閉口するが、あんまりに単純で口を挟む余地がないことに気付く。彼女は明らかに意図してそうした物言いを選んでいた。
アリスは内心をアイラに読まれないよう表情に気をつけながら、足元に置いたアタッシュケースからノートブック大の黒いコンピュータを取り出した。
アイラはそれをひったくるように奪うとその場で起動させ、中身をチェックする。豪胆な振る舞いが目立つ中、こうした抜け目のなさを見せるのも彼女の美徳である。
知った通りのデータが入っていることを確認したところで、アイラはようやく表情と全身の緊張を緩めて会話を交わす姿勢を見せた。
「オーケー、確かにスカイウォーカーだった」
「信用ないんだな、僕は」
アリスは恨みがましい視線を向けるが、アイラはそれを贋作(フェイク)と見抜いていた。
「いい年したオッサンに皮肉られても悔しくないね」
話しながら人差し指一本にスカイウォーカーを乗せて支える絶妙なバランス感覚を披露する。
「子供の憎まれ口なんて可愛いものさ」
負けじとアリスも言い返す。このあたりは義理の親子だけあってよく似た会話の傾向を見せ、しばしじゃれ合いに近い嫌味の応酬が続いたが、やがてアリスは声色を変えると手元の書類から一枚を抜き出してアイラに渡した。
「ところで、次のミッションが決まったようだ」
彼に新規の仕事が舞い込んでいる時点で予想はついていたので、アイラは特に驚くこともなかったのだが、その内容に目を通すと「へえ」と思わず声を漏らした。
アリスの渡した一枚はフェイの送った報告書であり、エムロードの依頼を引き受けたことと、具体的なミッションの内容を決める期日が書かれていた。急を要する依頼だったので数日のうちに出撃が予測されるが、アイラは今朝のような例外を除いて二十四時間を通して戦闘に入る心構えが出来ているし、ACの準備も万端だったので、特に焦ることもなかった。しかし彼女が見た限り、昨日の段階でフェイの意向はジオ・マトリクスの依頼に傾いていたはずだった。エムロードの依頼を重視するように示唆したのは確かだが、それを彼がどう受け取り、どう判断してこの結論を導き出したのか、推理するには少々材料が足りない。
「よし」
ぴん、と報告書を指で弾き飛ばして彼女は宣言した。
「フェイのところ行ってくるわ。ミッションに文句はないから勝手に話進めておいて」
そしてアリスの手元にある内線電話を勝手に使い、フェイの居所を探り始める。
その積極的な様子にアリスは驚いた。スカイウォーカーという餌があったこの部屋は別として、アイラが義務を抜きに人を訪ねることは珍しく、彼の知る限りこのガレージに移ってからは初の出来事である。
「楽しそうだね」
と、アイラが反発するように思える言葉をかけても聞く耳を持たず。二度目の電話でフェイの所在が確認できたようで、「じゃ」とたった一言だけ残して飛び出して行った。その際、勢いが過ぎて閉めたドアが跳ね返りキイキイと音を立てたまま半開きの状態にされた。
アリスはそれを閉めなおそうと席を立ち、外に誰もいないことを注意深く確認しながらノブを引いた。パタン、と扉が閉まって部屋が密室になると、彼はにぃ、と唇の端を歪めた。それは文字通り人として歪んだ笑みであった。
事務員のオフィスに押し掛けたアイラを、フェイは来客用の一室へと案内した。用件はミッションに関することと容易に想像できたので、第三者の耳に入らないようにする配慮である。
社交辞令的に飲み物の要求を聞くと、アイラはどこからともなく缶コーヒーを取りだして暗にそれを制した。実に彼女らしい態度だったので、フェイは気配りを無碍にされたことに気分を害するでもなく、テーブル越しに向かい合う形で腰を下ろす。
「エムロードの依頼にしたんだってね」
すると訪問者は唐突に尋ねた。これも見慣れたアイラの言動であったので、フェイは心を乱すことなく、出来るだけ自分のペースを保つよう意識して話すことにした。
「どっちでも良いって言ったから。それともやっぱり問題あったのか?」
それでも弱気な姿勢が垣間見えるのは性格ゆえの愛嬌か。
「別に。ゴタゴタがあったけど、向こうから依頼が来たなら悪く思われているわけでもなし、ならレイヴンが断る道理もなし。正直どうでもいい」
防音加工のされた壁や、ワックスのてかりが効いている床、見慣れない室内を値踏みするように視線をきょろきょろと動かしながら、アイラは答えた。
今度はフェイも違和感を覚えた。シルフィでの歳に似合わない落ち着きに比べるとそわそわとせわしないし、相手にわかるよう自分の考えを整理して話すなどまるで別人のような態度だ。と、そう思ったところで気付いた。フェイはマイセン・シティを除けばガレージでしか彼女と顔を合わせたことがなく、ガレージやコックピットはアイラの自室のようなものである。すると、これがアイラ・ルークスカイの外面というものなのだろうか?
その落ち着きの無さが、真新しいものへの興味によるものなのか、レイヴンとしての危機感がさせるのかは彼には判断がつかないが、そわそわしているアイラはいつもよりも幼く見えて可愛らしく思えた。
しかし当人は自らの異変に気付いていないようで、淀みなくフェイに問いかける。
「ただエムロードの依頼を選ぶってのがどういうことなのかって、アンタがどれくらいわかっているのか聞きたくてさ。そのヘンどんなつもりだったの?」
この時、フェイの全身に走った感覚は驚愕と言って差し支えなかった。この女レイヴンは突飛な言動よりも単純な疑問文を口にする方がよほど珍しい。判断力が優れている故の弊害か、物を口にする時には既に結論が弾きだされており、断定と確認以外に話を切りださないのがアイラ流だ(過去の掲載分で質問はヴァッハフントに対する一回のみです)。
「あ、あー…」
フェイはいつもとは違った意味で意表を突かれたので、即答はできなかったが、そこは連日心身ともに鍛えられている成果なのか、何とか気を静めて説明する。
「今回はジオ社の気を引くのが目的だったわけで。そうすると最初に思いつくのは相手の依頼を完全にこなして優秀さをアピールするってことだよな」
間違ってないな? と目で訴えながらフェイは語る。アイラはテーブルに肘をついて指先に髪を巻きつけながらよそ見などしており、一見話を聞いていない様子であったが、知っての通り気持ちの矛先がどちらを向こうと情報を処理するのが彼女の特技である。フェイが言葉を途切れさせると、空いた片手で「続けて」と指示を送った。
「だけど、アピールなら逆にジオ社を叩いて味方にしないと危ないぞって脅すこともできるわけだ」
フェイがこちらの方法に思い至ったのは、アイラがジオ社を取りこむ目的を知りながら「エムロードを選ぶ」と告げたことによる。生粋のレイヴンである彼女は、公私を問わず理由なく依頼を無視しない。最も、恐ろしく低い基準の理由でそれを放棄するので、悪評を撒くのであるが。
「もちろん恨みを買って対立することになるかもしれないけど、それはジオ社に肩入れした場合の他社も同じことで、つまりはどっちでも変わりない、と」
彼女の「どちらでも良い」とは思考の放棄ではなく、文字通りどちらを選んでも変わらないという意味であった。
「だったら安全に行くか攻めるかの選択だ。これは俺には決められないから、お前の好きな方を選んだ」
フェイは文句あるかとばかりに意気込んでアイラと目を合わせた。語尾を強めてこれで話は終わりと主張したのは、ここで「なぜ?」と聞かれれば、答えに窮することが請け合いだったからだ。
『なぜ、アリスに確認を取らずアイラの主観を取り上げたのか?』
アイラは彼の心配性を熟知しているので、改めて意見を伺いに行くのが面倒だったという常套の嘘は見抜かれる。また判断の未熟さも知っているので、適当な合理的理屈を並べても薄っぺらい。
理由と言えば、これこそが理由とも言えた。つまりフェイ・ウーシャンはいくら頭を巡らせてもアイラに追いつかないと信じており、意識的にしろ無意識的にしろ彼女に屈服しているのである。
フェイが内心びくびくしながらアイラの返事を待つと、彼女ははぁ、とため息をついた。あからさまに呆れた様子だったのでフェイもむっとしたが、とりあえず悪意を持ったわけではなさそうなので安心したのも事実だった。
アイラは伏目がちにフェイから視線を外しつつ言った。
「可愛いって言えば可愛いか」
頭二つ小さい少女に文字通り小馬鹿にされて、ぐ、とフェイが唸る。悔しさを覚えたあたり、まだプライドは残っていたようだった。
「仕方ないだろ、まだ四ヶ月だぞ。十年以上もレイヴンやっている誰かとは年期が違うんだよ」
苦しみ紛れに投げかけるフェイの文句も、アイラはどこ吹く風で聞き流していた。明後日の方向を見ながら「ふーん」と呟いて、また一人の世界に入ってしまう。
しかし、今日のアイラはやはり「らしく」なかった。顔の方向こそ変えないが、目線だけちらりとフェイの方へ向け、こんなことを言ったのだ。
「じゃ、見てみれば」
「何を?」
目的語を問うと、彼女は答えた。
「私の全て」
そして黒いハンドコンピュータを取り出す。先程アリスから取り返したこの特殊ハードウェアこそ『スカイウォーカー』、シルフィと無線接続を行い、プラズマ・キャノンの照準を合わせ、アイラに戦闘映像という子守唄を聴かせていた、彼女の●●たる存在である。
アリスの孤独な笑いは止まらなかった。
アイラはチーム・ルークスカイの導き手という立場にある。それが事実であるか否かは問題ではない。企業の囲い込みから独立し、レイヴン主体の雇用形態と業務内容を取るというチームの性質上、彼女は独立の権利を持ち義務を負っているのである。
曰く、指導者は五つの才能を要求されるという。すなわち存在に気付かぬ者を気付かせる声、気付いた者を魅了する器量、魅了された内の賛同者を平伏させる知恵、同じく反対者を屈服させる力、そして関係を維持する格。
しかしアリスは五つの才では完全な指導者たりえないと考えている。アイラ・ルークスカイはその全てを備えながら、未だ彼の傀儡を脱していない。
彼女は硬い金属を叩くように力強く筋の通った声質を持ちながら意志を己の内に秘め、年齢不詳の美貌を誇るも磨かず、確固たる自我を保つが故に他者に介さず、天才と謳われる技量は依頼のほかに揮うことがない。そして、そもそもの維持すべき人間関係を持とうとしない。
ところがチーム・ルークスカイと共にあるようになってから、アイラの在り方は確実に変化している。それに気付いているのは幼年期より長く彼女を見守り続けているアリスただ一人だろう。少なくとも半年前までのアイラならば、シルフィに他人が乗ることなど許さないし、故に補助シートをつけるという発想も生まれない。スカイウォーカーが無くとも、その孤独に心を乱すなどあり得ない。
標本を集めてみれば、変化の本質はアイラの「隣人」にあると推測が立つ。きっかけとなった候補の最有力はもちろん新入りのフェイとなるが、それならばアリスは思わぬ拾い物をしたことになる。彼がチームの設立にあたり、コンコードに要求した人材は、「一般的な女性の好む端整な容姿を持ち」、「数日の徹夜に耐える体力を備え」、「レイヴンという稼業に疎い」人物である。アイラはレイヴンとして十分な自己マネージメント能力を備えているのでマネージャーなど名目上の存在に過ぎない。よって、このように緩慢とした要求となり、コンコードも自社の逸材を惜しんで、系列企業から適当な新人を引っ張り出すという二重派遣で事を済ませたのである。
ともあれ無害な、いや仮にその人間が毒を含んでいたとしても、彼女を完成させるならばそれはアリスの望むところであった。彼はアイラが企業、もしくは個人の道具で終わることを良しとしていない。アイラ・ルークスカイは伝説のレイヴンことセッツ・ルークスカイの娘であり後継者だ。
「そう」
彼女が傭兵(レイヴン)に甘んじるなど許されない。
「アリス・シュルフが許さない」
アイラ・ルークスカイが完成し宿命と向かい合う瞬間を迎え入れるため、アリスはチーム・ルークスカイを盤石の態勢に築き上げる。
そのために、まずはジオ社を取り込む次なる一手を。
アリスは再度ドアを開けてアイラが立ち去ったことを確認すると、デスクの引き出しから黒いコンピュータを取り出し、起動させた。それはアイラと彼自身にとって最も罪深い存在、「スカイウォーカー」の複製品であった。