「P研」(2012/04/02 (月) 05:03:42) の最新版変更点
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私は何故ここにいるのか。時折疑問に思う。
仮にも、かつては人を助けるため、苦しみから解放するために医学を志したというのに。
今では人体実験を繰り返すだけのマッドサイエンティストではないか。
だが、それもすぐに考えるのをやめる。
私が生きていくにはここしかないのだから。
ここは「P研」と呼ばれている場所。
私と所長、そして本来ムラクモに勤務する非常勤の医療従事者八名の他、数名の警備員がいるだけの小さな施設。
「P」とは、強化人間、つまり、「プラス」の頭文字だ。
確か一応の正式名称は『ムラクモ特殊技術部・プラス開発研究所』だったはずだ。
もっとも、誰も正式名称など使わないし、書類すら碌に存在しない『裏』の研究所。
存在自体が機密事項なのだから、正式名称を呼ぶ人間がいないのも当然だ。
二年前、私は医療ミスで人を殺した。
手術にも慣れ、腕も認められ始めた頃だった。よく先輩に「スジがいい」とか「覚えがはやい」などと言われたものだ。
だが一度のミスでそれは終わった。医者として、それは大きすぎるミスだった。
結果として人を殺した以上、私はもう医者として生きていくことはできなかった。
ずっと昔から、ただ医学だけを学んできた私に、転職は難しかった。
そんな私に、ムラクモが声をかけた。
『今はまだ詳しく言えないが、人を助けることも出来る仕事だ。キミの実力は知っている。どうするかね?』
私の生きる道はここしかなかった。
結果、私は人体実験を繰り返すだけの存在になってしまった。
褒められた行為でもなく、誰もが幸せになれる訳でもなく。
自殺を考えたことなど何度もある。こんなことをして生き延びて、恥ずかしいと思ったこともある。
だが、それでもたまに、ひどく稀に、『かつて』のように人を助けることもできるのだ。
伸び悩んでいたレイヴンに実験が成功した時、彼はもう一度ACに乗れると大喜びし、私に何度も礼を言った。
レイヴンに憧れレイヴンを目指し、結果初心者の内に破産した男は、上位ランクまで駆け上った。
戦場での負傷で右半身がマヒした男は、右の手足を機械に置き換え、また自由に歩けるようになった。
だから私は今もここにいる。百人に一人、千人に一人でも、命以外も救うことができるのである以上は。
そういえば、所長は何故ここにいるのだろうか。
実験の初期段階の頃からずっと、数十年も前からこの研究を続けていると聞く。
所長も私と同じように、こんな仕事にもやりがいを感じているのだろうか。
しかし、所長はそんな風に見えない。
実験体が死んだ時、暴走した時、見事に願いをかなえることができた時。
どんな時でも、私ほど表情が強張ったり、嬉しそうにしたりはしない。
慣れてしまったのか、ただ無関心なのか、まるで何かを諦めてしまったような。他に何か理由があるのだろうか。
記録を書き終わったら、次の昼休憩のときに、聞いてみることにしよう。
「所長、一つ聞いてもよろしいですか?」
「何だ?」
昼の休憩。小さな食堂で、私は聞いた。所長は箸も止めず顔も上げずに返事をする。
「答えたくないことかもしれません。気分を害されるかもしれません。それでも一つ聞きたいんですが」
「構わんさ。キミが職務以外で質問するのも珍しい」
「所長は……どうしてP研で働きつづけていらっしゃるんですか?」
「ふふ……なるほど。確かにな。私もそんな風に考えたことがあった」
ニコリと笑うと、所長の口元の皺に沿うように並ぶ三つの小さなほくろが目に入る。
「僕は一応、僕なりに答えを出したつもりです。所長はどういう理由なのかと思いまして」
「キミの理由はわかっているよ。人を助けることができるから、だろう?」
「……わかるんですか?」
「キミはちゃんと実験体をヒトとして見ている。助ければ顔がほころぶ。死ねば歯を食いしばっている。立派だよ」
「僕には、そうすることしかできませんから」
「私は、何故、だろうな。きっと何もかも諦めてしまったのだろうな」
「諦める……というのは?」
「昔は私もいろいろ考えたのだよ。人体実験に直接関わって何人も死なせた時。
人を苦しませる為だけにメスを握っている時、誰かを助けても誰も称賛もしてくれない時。何故こんなことを、と」
「同じようなことを……考えました」
「だろうね。それでキミの質問に答えるが、私がここにいるのは生きているため、家族の為だ」
家族がいるとは聞いていた。聞きにくいことでもあったし、詳しく聞いたことはなかったが。
「だが、それはとっくの昔に無意味だと知ってしまった。今はただ惰性で生きているのかもしれない」
「家族の為に生きることが、無意味、ですか?」
「……休憩時間一杯まで話してもいいかね?少し長くなりそうだ」
「はい。問題ないです」
「ふぅ。そうだな、キミはここから脱走しようと考えたことはあるかね?
「頭では少し考えましたが……リスクが大きすぎると思って……」
「ま、失敗すれば殺されるだろうからな。懸命だよ。
……私は本気で考えた事がある。見取り図とにらめっこして、逃走経路を考えて、適切な時間帯や所要時間を計算した。
そして実際に研究所の外に出たんだ。だがそのまますぐに引き返した。出たことすら気付かれない程すぐに」
「実行はしなかった……ということですか」
「私がここから逃げようと思ったのは、理由と勝算があったからだ」
「勝算、ですか」
「そう。P研内部だけなら誰よりも詳しい自信がある。仮に成功しても失敗しても、見つかった時、
十何年も務めた私がここに戻って研究をすると言えば、ムラクモ側も簡単には手放したくはないはずだろう?」
仮に逃げても、逃げ切れても、ここに戻る?
二度とここに帰らないと言えば、その時点で命が危ないのは当然だ。頭の中が機密事項の塊なのだから。
だがすぐにここに戻れば、一時的に外に出たかったのだと言えば、機密さえ黙っていれば、軽めの処罰で済みそうだ。
「だから逃げ切れるかはともかく、生き残る自信はあった。それが私の勝算だった。
だが、それを実行する前に、知ってしまった。そして私は失ったのだよ。ここを出る理由を」
「理由というのは……家族の方に会いに行く、ですか?」
「そう、そのつもりだった。脱走して、家族に会って、一晩だけ過ごして、ここへ戻って謝罪する。
それが私の理想だった。だが、それは遅すぎた。私は無知だったのだ」
「キミに家族はいるのかね?」
「祖父母は僕が医者になる前に亡くなりました。両親は……ここに来てから連絡をとってません」
「ここには電話がないからな。寝食もこの小さな隔離施設、仕事も、娯楽も、この狭い施設が全てだ
すべては機密の為だ。今の我々なら電話一つでスクープになるかもしれんからな」
「それは、わかっているつもりです」
「では我々はいつ解放されるのだろう?」
「え?」
「仕事を辞めると言って退職届を出して、会社を出る。そんなことは可能か?」
「怪我や病気の場合、メスを持てない場合なら可能ではないでしょうか?」
「不可能だ」
「そんな……メスも持てないのに何を……」
「治る病気や怪我ならムラクモの病院で隔離され治療だ。治らないなら……」
「まさか……」
「そうだよ。頭が、いや、存在自体が機密の人間を、腕や足がない程度で外に放つ訳がない。殺されるさ」
「……正直、薄々わかってはいました。考えたくなかっただけで……」
「確証はないよ。ここを辞めた者も脱走したもののいないからね。私の先輩だった人間はここで死んだから、必要がない。
だが我々は知っている。ムラクモの『やり方』を。だからそうとしか考えられない」
「はい……納得できます」
「そして我々もだ。キミはきっと知らない。これ以上知りたいかね?」
「どういう意味……ですか?」
「知らないほうが幸せに、楽に生きられるかもしれないということだよ」
「……聞かせてください」
「……なら言おう。さっき言ったね?我々は『存在自体が機密』だと」
「はい。理解しています」
「我々が逃げ出そうとすれば消される。退職してもそれは同じ。ここから出ることがあれば、理由は関係なく消される」
「どうあがいても、ですか」
「……そうだと思っていられるキミはまだ少し幸せ者だ」
「どういう……?」
「私は、我々は、既に消されているのだよ」
「既に……?なんですって!?」
「私が脱走しなかった理由だよ。
私は外に出て、まず真っ先に電話をかけた。昔懐かしい公衆電話を使ってね。私の父と、妻と娘が暮らしている私の家に。
電話は繋がった。相手が受話器を取った瞬間、私は叫んだ。自分の名前と、妻の名を。
長い研究所の生活。断絶された暮らし。そこからついに家族の声を聞けるその瞬間に、涙を堪えながら、だ。
なんて返事が返ってきたと思うね?」
「……わかりません」
「『どちら様ですか?』だ。勿論それは妻では無かった。若い女の、怪訝な声だった。
私の家の番号に、私の家はなかった。家族は恐らく、すでに転居していたのだ。
私はすこし途方にくれた後、覚えている限りの番号にかけた。元々覚えている数も少なく、ほとんど繋がらなかったがな。
だが一か所だけ繋がった。昔、しばらくの間世話になった小さな病院だけが。
そして私はあえて偽名を名乗った。赤の他人に軽々と家族の名前を出すわけにもいかない。
昔私の治療を受け、私を探している患者を装った。何か私に関する情報はないものかと。蜘蛛の糸を掴む気持ちで。
すると今度はどうだ?『その方はずっと前に亡くなっておられます』だ。
そうだ。もうわかっただろう?私がこの研究所に入ったその時、世間一般での私は死んでいたのだ」
「……この隔離された施設でも新聞くらいは読ませてもらえる。
処分も面倒だから倉庫に溜めこんであるのを知っているか?私は当時それを知っていたから、私がここに入った頃を調べた。
小さな記事だった。私が死んだというその記事は。交通事故で死んだらしい。
そしてキミもだよ。キミが入ってしばらく、私は抜け目なくチェックしていた。
実はキミが死んだ記事は取ってある。こんな時が来るかもしれないと思ってな。キミは住宅街で通り魔に殺されているよ」
「そ……んな……」
「ここはそういう場所なのだ。私も知ったつもりでいたがね。だから初めに言っただろう?
『知らない方がいいかもしれない』と」
「それでも、それでも所長は、ここで仕事を続けていくんですか?」
「生きるためにはそれしかない。そう思っていたからね。最近ではそうも思えなくなってきた。
今私が死んでも、失うものはいつの間にか失ってしまっていた。生きる気力もない。
実はな、今ごろになって、また自殺を考えていたりしたのさ」
「所長……」
「やる気があるならキミだけでももうやっていけるだろう。
やっていけなくたって、困るのはムラクモの連中だ。私と、私に関わった人たちは誰も困らない。
おっと、もう休みも終わりか。そろそろ戻ろう。実験体の観察とデータの採取がある」
「所長、僕は……」
所長に死んでほしくありません。そう言いたかった。だが言えない。
既に死んでいる私たちが、こんな現実で生きている我々が、死を望むことの何がおかしいと言うのか。
私だって考えたのだ。だが『死ぬよりも生きている方が辛い』と考えると、もう死ぬしか道はないのだ。
そんな決意をした人間を、どうして止めることができるんだ。
「わかりました。すぐ……準備します」
―――三日が経った。
三日前、所長が自分たちはもう死んでいると、我々の存在は消されていると、自分は死ぬかもしれないと。
そう教えてくれてから、三日が経った今日。
所長が消えた。
いつ、どこに消えたのかは分からない。
だが所長はこの施設にはいなかった。万が一、体調不良や病気で倒れているなら、僕が助けるつもりだった。
だからこの施設中を探しまわった。たった数時間で、全ての部屋も通路も見ることができた。
所長はいなかった。
この施設の中でなら、所長以上に詳しい人間はいない。どこへでも隠れられるだろう。
次に詳しいのは間違いなくこの僕だ。そしてその僕が探しても見つからないのなら、所長は本気という訳だ。
事故や病気で倒れた訳ではなく、本気で隠れた、或いは……
この施設の外へ出たということだ。
「我々は引き続き所長の捜索を行います。今日はもうすぐ実験体の到着ですので、あなたは準備に当たって下さい。
人員は必要な分だけ用意します。それでは」
結局所長が見つからないまま、昼過ぎの実験の時間になってしまった。
非常勤の人数をいつもより増やせば、余程難しくない限り僕一人でも難なくこなせる。
だが、気にかかる。
所長はどこへ行ったのか?何をしにいったのか?どこかに隠れているのか?或いはもう、この世にはいないのか?
いくつか考えられることがあったが、自信はない。
元々所長は自分のことを好んで話すようなタイプではなかった。
そして僕も、必要以上に他人のプライベートに踏み込むようなことはしなかった。
今はその性格を、少しだけ後悔した。
実験はすぐに終わらせた。
長引かせるほど、気が散ってしまう気がしたからだ。
実験結果のノートに手早く結果を書き記しているその時、小さな異変に気付いた。
古い実験結果のノートが目に入ったのだ。
かつてのおぞましい失敗が詳細に記されているその本は、僕の小さなトラウマの一つだ。
だから僕はいつも目につかないように、奥の方に片付けたのだ。
このノートが目に付いたということは、誰かが目につくところに動かしたということだ。
そしてそんな事をする人間は、一人しかいない。
所長がやったのだ。
僕はそう確信した。非常勤の人間はこの部屋にすら近づかない、僕はあのノートをなるべく見たくない。
だから誰も触らない、忌々しいノート。中身が気になるが読みたくない。
文字を読まないようにパラパラとページをめくる。
すると、栞の様な小さな紙切れが落ちた。
『ノートを見て、このメッセージに最初に気付くのは恐らく君だろう。
短い付き合いでもない。私の意思、そして何がしたいかくらいは書き残すことにする。
この施設や環境はともかく、君との時間は楽しかった。感謝している。
『処刑台』の下を見てくれ。』
所長からのメッセージは、僕に当てられたものだった。
所長の意思、今何をしているのか、僕は知りたかった。書き残してくれたこと、感謝してくれたことは嬉しかった。
だが、これはほとんど『遺書』だ。ここに帰るつもりも、生きている保証もない。そんなメッセージだ。
内容がどんなものであれ、僕はもう全てを知る覚悟だった。
『処刑台』は、所長なりの暗号だった。
この施設に安楽死用の薬はあっても、殺人器具などあるはずがない。探して見つかるものでもない。
だが僕にはわかる。むしろ、僕と所長以外は決してわからないと思ったから、所長はこれをメッセージに入れたのだ。
『処刑台』は、すぐ隣の部屋にある。視界に入れない方が難しい。
実験中に被検体を載せる手術台。実験初期のころ、意図せず被検体をあらゆる手段で死なせたからだ。
僕が入ってからはほとんどなかったため、僕にはあまり馴染みのない呼び方ではあったが、所長は時折そう呼んだ。
『処刑台も随分錆び付いたものだな。最近は誰も殺せないのか?喜ばしいことだ』
『気を抜くなよ、そこは処刑台だ。いつでも刃を研いで待ってるんだからな』
『こんな光景は久しぶりだ。処刑台はまだ、機能しているということだ』
台の下を覗き込む。
何かが残されているはず。所長は電子機器は苦手だから、記憶ディスクなどではないだろうが。
三分ほど台を舐めるように見つめていると、ついにそれを見つけた。
小さな金属製の鍵がテープで張り付けてあった。僕も似たものを持っているから、どこの鍵かはすぐにわかった。
所長のデスク一番上、小さな鍵のかかった引き出し。そこの鍵だ。
引出しに鍵を刺し、回すと、抵抗なく開いた。
僕はこの鍵付きの引き出しに大したものはいれていない。入れるほどのものがなかったからだ。
所長のデスクにはなにが入っているのか、プライベートを覗くようで少し悪い気はしたが、もう些細なことだった。
中には目立つように真ん中の一番上に手帳があった。恐らくこれが僕宛てのメッセージだろう。
手に取ると、その下に写真があった。
今よりも遥かに若いが、所長であることがわかる。口元の皺に並ぶほくろもぼんやり見える。
笑顔の所長と、隣に若い女性、その腕の中に小さな子供。所長の娘だろう。
かつての家族の光景を見て、何か胸が熱くなった。
なぜ所長はこの写真を置いていったのだろう?持っていくべきではなかったのか?僕に見せるためなのか?
裏を見ると、新聞の切り抜きが貼ってあった。
『住宅街で通り魔殺人!!被害者は元医者……』
あの時所長が言っていた。僕が死んだ記事があった。もう二度と僕に会えない、だからこれを見せたのだろうか?
手帳を開く。最初のページからしばらくは、ギッシリ研究内容やスケジュールが書かれていた。
年度を見ると随分古い。この施設に入ったかその前かくらいだろう。昔の手帳のようだ
真ん中を過ぎたあたりで空白になり、最後の少し前のページに、真新しいと思われる文字列があった。
ノートに残したメッセージよりも短いその文字列が、所長の『意思』だった。
『未練も後悔もない。最後に家族に会いに行く。勝手で、我儘な私を怨んでくれ。今までありがとう』
所長の意思を知った僕は、いつもの仕事に戻った。
感謝こそすれ、怨む道理などどこにもなかった。
今までずっと、僕の不手際を処理してくれたり、効率よく作業する方法を教えてくれたり、面倒を見てくれた所長。
ここに入ってからは父親のように尊敬していた人がいなくなったことが、ただ寂しかったくらいだ。
所長は帰って来ないとわかったからこそ寂しかったし、逆に諦めもついた。
所長は命懸けで家族を探し、会いに行くのだろう。
見つからなければ死ぬ覚悟はあるだろうし、見つかったら、家族と共に過ごすだろう。
だから決してここには帰って来ないのだ。
僕は所長の力になりたかったけど、所長と違ってこの施設から脱出する方法を知らなかった。
迂闊に探しまわると足手まといになりそうだし、P研のメインが二人とも抜ければ、ムラクモの捜索も本気になるだろう。
僕がここに残ってしっかり実験を続けていれば、いつかムラクモも所長の捜索を諦めるのではないかと、淡い期待をしていた。
それに、僕には僕の意思がある。だから僕はここに残るし、この仕事を続けている。
千人の中の一人を救うために。
「所長、また新しい被検体が来るそうです」
『所長』。僕がそう呼ばれるようになって、随分経つが、未だにこの呼ばれ方は慣れない。
確かに僕はここの所長だし、名前で呼び合うような関係でもないのだが、僕には僕の『所長』がいるせいで、変な気分だ。
「ああ、聞いたよ、ありがとう。準備をしておいてくれ。いつもの時間に始めるから」
「はい!了解です」
僕の部下として新しく配属された研究員は、大きな声で元気よく返事をする。
この静かな施設では、うるさいくらいだ。
彼の気持ちは知っているが、元気がいい声のおかげで少しは明るい気分で仕事ができるというものだ。
本当はただの空元気で、この陰鬱で閉塞された施設にいると落ち込んでしまうから、いつも元気よく振舞っている。
それは彼自身が言っていたことだった。
今日も被検体の資料に目を通す。
『――交通事故で身体に多大な損傷を受け、四肢が麻痺。通常の医療では回復不可能と判断。
脳の中枢に施術し、四肢の機能を可能な限りを回復させることが目的。
顔面部の傷は事故後の施術によるもので、異常なし』
これは目的であり、建前。ここは医療施設ではないのだから、当然と言えばそうだが。
脳に働きかけることで、四肢の反応速度を上げ、レイヴンとしての能力を更に向上させるための実験をしたいのが本音。
要するに、結局は人体実験なのだが、いつものことだ。
被検体の気持ちなど一々考えていては精神が持たないが、それでも僕は僕の意思で考える。
せめて歩けるようになればいいが、と。
呻き声を上げる被検体を見下ろし、メスを取る。
麻酔は効いているのだ。痛みによる呻きではないだろう。
顔に整形手術の後があるが、事故による損傷を修復したのだろう。
研究員に、頭蓋骨を切除させる。彼はこの作業が苦手で、いつも顔を顰める。
気持ちはわかるが、脳への施術が多いこの施設では、慣れてもらわないと困るのだ。
「し、所長、終わった……終わりました」
「よしありがとう。では、始め……」
ふと違和感があった。この被検体に、何かを感じた。
いつもと同じ、どこの誰とも知らない不運な被検体のはずだった。
意識が残っている被検体は、僕を悪魔かマッドサイエンティストでも見るような恐怖した目で見つめる。
だが、この被検体は違った。僕を恐れていない。
今まさに頭蓋骨を開き、脳へと施術しようという作業と淡々とこなす僕に対して、恐怖を抱いていないというのは異常だ。
この被検体はむしろ優しい目をしていたのだ。
……僕は気付いてしまった。
この息子を見るような優しい視線を知っていた。
口元の皺に並ぶ小さな三つのほくろを知っていた。
この手術に恐怖を覚えず、見守ることができる僕以外の人間を知っていた。
……僕は気付いてしまったのだ。
彼がここに連れて来られたということ、それは即ち、機密は守られた。ということだったのだろう。
頭の中が、存在自体が機密だと言っていたのは彼自身だった。
顔に整形手術があったのは、僕への配慮、いや、対処と言うべきか。それは不完全だったが。
僕らの付き合いの長さを理解していなかったのだろう。
どれだけ僕らが顔を合わせ、会話し、実験を繰り返したのかを。彼らにとって、重要なのは結果だったから。
僕は知りたかった。
彼がここにいる理由ではない、彼の願いは叶ったのかどうか。ただそれだけを聞きたかった。
自分がどうなるか、彼は知っているから、だからこそ、その一問だけでも聞きたかった。
僅かな呻き声が僕を呼ぶ。彼が呻いているのは苦しみでも痛みでもないことに気付く。
喉に小さな手術痕がある。彼が『呻かされている』のは、ムラクモによる意図的なことだったのだ。
この『処刑台』に乗せられたほとんどの人間が、元の生活に戻れないことは知っている人だ。
自分がどうなるかわかっている。その上で全てを僕に委ねたのだ。意地の悪いことをする。
レイヴンでもなく、高名なMT乗りでもない彼は、ただの被検体の一つにしか過ぎないのだ。その末路はお互いに知っていた。
僕に出来ることは一つしかなかった。僕にはその一つしか浮かばなかった。
せめて彼が、願いを叶えた上でここにいることを願った。ただひたすらに願った。
僕は彼の耳元で小さく呟いた。あの日からずっと言えなかった、言いたかった一言を言った。
「今まで長い間、本当にありがとうございました」
僕は人生で二度目の、『大きな医療ミス』をすることを決めた―――。
― 終 ―
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